星空と海
「おい冗談だろ、鍵を盗ってきた?『窓』のとこの鍵か?笑えねえ……」
そう言いながらも、シュウヤは顔を引きつらせて笑った。ヒロキはむっとしたように目を細めると、ズボンの後ろポケットに手を突っ込んだ。
「どうだ、本物だろ?」
ヒロキは得意げに言った。チャリッと音を立てて彼の手の中で揺れるそれは、小さくて重そうな、銅色の古びた鍵だ。シュウヤの周りに立っていた少年たちがざわざわと動揺する。
「オレの父ちゃんが持ってるやつと、おんなじだ……」
誰かがそう呟くと、ヒロキは余計に得意げになった。
「返してきた方がいいよ。叱られちゃうよ」
そう言いながらヒロキに近づくのは、さっきまで後ろのほうで転んだ少年の様子を見ていたクルミだ。決然とした態度を取ってはいるが、黒い瞳はいつもの活発な光をひそめて、どこか不安げに見える。
「なんだよ、見つからなきゃいいだろ。地上に行ってみたくねえのかよ」
ヒロキは全くひるむ様子を見せず、屁理屈を言う時のように唇を突き出した。
地上、という言葉に少年たちは再びざわめいた。生まれてこの方暗い地下に閉じ込められて、年頃の少年が地上に夢を抱かないはずがない。ヒロキの一言が、彼らのちっぽけな胸に宿る壮大な冒険心を大いにかき立てていた。
「ぼく、行ってみたい」
最初に手を挙げたのは、ちびで普段は大人しい少年だった。
「オレも!」
「行くぞヒロキ!」
彼に先を越されるとは思ってもみなかった他の少年たちは、競うように手を挙げた。
「オレも行く!」
「ちょ、シュウヤ?」
当然のように高々と手を掲げたシュウヤを、クルミがパッと振り向いた。突然味方に裏切られたような顔をしている。
「なんだよ、クルミも手挙げろよ」
「なに言ってるのシュウヤ、地上だよ?みんなを止めないと。なにが起こるか――」
「え、クルミ行かねーの?」
クルミの隣に立っていた少年が不満げに声を上げる。クルミは言葉に詰まった。
シュウヤはその様子を見て何か思いついたらしく、ニヤニヤ笑いながらその少年の肩に手を置いて、言った。
「クルミは怖いんだってさー」
「え!?」
クルミは困惑してシュウヤを見る。
「そーなの?」
「おう、地上が怖いんだって。臆病だよなー、これだから女はさー」
「ちが、私そんなこと、」
クルミが何か言おうとしたところで、ヒロキの近くに立っていた少年が声を上げた。
「なー、地上に行くって、鉄の壁だけじゃなくて『窓』を開ける鍵もいるんだろ?それはどーすんだよ」
「よく訊いた!それはな、これから取りに行く!」
一瞬静かになった少年たちが、次の瞬間にはさっきよりも沸き立った。彼らの良心は、待ち受ける冒険への期待で麻痺してしまっていた。クルミが泣きそうな顔できょろきょろと周りを見回す。
「みんな、やめようよ……」
しかし、今度は誰も彼女の言葉なんて聞いていなかった。
「太陽は昼しか出てないんだろ?だったら、夜なら誰も日光浴に来ないはずだ!」
ヒロキのその考えで、少年たちは夜に家を抜け出して役所に忍び込むことにした。シュウヤは、馬鹿だと思っていたヒロキがこういうところで頭が回るので内心意外に思っていた。
「ねえ早く戻ろうよ、見つかっちゃうよ?」
「……クルミ、お前もう家に戻れよ。地上に行かねえんだろ?」
シュウヤは、後ろで心細そうな声を出すクルミを振り返った。
シュウヤたちは今、役所前にある茂みの中にかたまって隠れていた。今頃、中に入っていった二人が鍵を探しているのだろう。
役所は東京地下街の北の端に位置していて、「窓」はここから少し歩いたところにある。役所の隣には地下水をろ過する施設がずっしりと佇んでいる。入り口前の看板に、「上を向いて歩こう!~天井からの落水による事故感染が多発しています~」と言う言葉と共にやたらとカラフルなイラストのついた、安っぽいポスターが貼ってあった。
クルミはシュウヤの言葉を聞いて困ったように眉を下げる。
「地上に行ったらどうなるか、シュウヤだってわかってるんでしょ?」
「父さんみたいなこと言うなよ。オレたちが死ぬと思ってんのか?」
「思ってるよ」
きっぱりとした物言いに、シュウヤはクルミをまじまじと見た。クルミは一瞬たじろいだが、唇を結んでシュウヤを見つめ返す。
「……勝手に怖がってろよ」
シュウヤはそれ以上彼女の目を見ていられず、ふいっと顔をそらした。
「にゃ」
少年たちの肩がびくりと震える。ガサガサと茂みが揺れて、入って来たものを見ると全員がほっとため息をついた。
「クロか……」
茂みに入ってきた黒猫は我関せずといった様子でおもむろに顔を洗い始めた。
「もしかしてクロも行きたいんじゃないのか?」
誰かがそう言った。少年たちの視線を集めたクロは、まるで人の言葉がわかっているようににゃあと一声鳴いた。
「連れてってやろうぜ」
「えー……」
「いいじゃん」
少年たちが黒猫を前に話し合う。
「あったぞー」
その時、茂みの外から、ひそひそ声が聞こえた。中に入っていた二人の少年が帰って来たのだ。シュウヤが茂みから顔を出すと、少年の一人が手に持った鍵を自慢げにちゃらちゃらと振った。
ヒロキが鉄の門に鍵を差し込む後ろで、シュウヤたちはそわそわしながらそれを眺めていた。クロは当然のように足元について来ている。シュウヤは興奮しきった顔で、さっき役所に入り込んだ少年に話しかけた。
「スゲーなお前、あの鍵どうやって取ってきたんだよ?」
「それがさ、あの鍵、所長の机の中にあったんだ」
少年も話したくてたまらなかったようで、興奮冷めやらぬといった調子で続ける。
「でさ、所長がトイレに行った時に急いで入って取ってきたんだ」
「開いたぞ」
ヒロキの押し殺した声で、少年たちのテンションはピークに達した。
全員がぞろぞろと門を通り抜ける。シュウヤはちらりとクルミを振り向いた。彼女はうつむいて、さっきから一言も発さなくなっていた。
「じゃ、『窓』開けるぞ」
すっかり旗振り役が板についてきたヒロキがそう言ったので、シュウヤの注意はそちらに戻った。
ヒロキは誰かが持って来た梯子の上で作業していたが、今度は鉄の門を開けた時と同じようにはいかないようだった。鍵穴が錆びていて鍵が思うように入らないのだ。長いあいだ、おそらくは作られてから一度も開けられていないのだろう。苦戦しているヒロキを見ながら、シュウヤはちらりちらりと鉄の門の入り口を確認する。幸い、門番はどこかに行っているようだし、誰かが来る気配もない。シュウヤはそれを確認すると、今度は「窓」に目を向けた。来るときはいつも昼間なので「窓」からは青い空が見えるものだとばかり思っていたが、今は真っ暗で何も見えない。夜の空を見るのはこれが初めてだ。
くん、と何かに引っ張られる感触がして、シュウヤは振り向いた。後ろにいたのはうつむいたままのクルミだった。シュウヤのシャツの裾をつまんでいる。
「……」
クルミは何も言わずにシュウヤを見上げた。シュウヤは、彼女の身長が自分よりも低いことに初めて気が付いた。背が低いだけじゃなかった。線が細くて、ずっと頼りない。小動物のように震える瞳が頼りなさを際立たせている。
「なんだよ」
シュウヤは彼女に目を合わせず、むすっとしたまま言った。本当は、クルミがあまりにも反対ばかりするので若干拗ねているところもあった。
シュウヤとクルミは物心ついた時からずっと一緒にいた。クルミはいつもシュウヤの後をついてまわったし、そんな彼女を守ってやろうなんて思ったりもした。彼女がこんなに表立ってシュウヤを止めようとするのは初めてのことだったのだ。
「何がそんなに気に食わねえんだよ」
シュウヤの低い声に、クルミは少し怯えたように目を逸らした。それからおずおずと目を上げ、消え入りそうな声で言った。
「……シュウヤに、死んでほしくない」
シュウヤは一瞬何を言ったらいいのか分からなくてたじろいだが、ためらいつつも両手を彼女の肩にポンと置いた。彼女の正直な気持ちを聞いた途端、さっきまでのもやもやとした気分はあっさりと消え去っていた。
「……なあ、大丈夫だって。そんなにタイミング悪く雨なんて降らないよ。そんなことよりさ、ほら」
シュウヤは「窓」を指さした。クルミの視線が緩くそちらに移る。
「夜の空って黒いんだぜ。知ってたか?クルミだって地上に行ってみたいって言ってただろ?なら行こう。今なんだ。もうこんなチャンス無いかも知れないんだよ」
「でも……」
「オレだってお前と外を見たい」
クルミの目が瞬いた。頬がほんのりと赤くなる。彼女は視線をさまよわせてまたうつむいてしまった。
「おい?」
「……うん、わかった」
クルミはささやくように言った。
ガチャンッ!!
全員が驚いて上を見た。「窓」が、上向きに口を開いていた。「窓」を押し上げているヒロキは余裕のない顔で少年たちを見下ろして頷いた。みんな、即座に頷き返した。
「にゃっ」
「あっ、クロ!?」
少年たちの後ろから飛び出した黒猫が、止める間もなく梯子を駆け上がり地上に飛び出した。ヒロキは呆気にとられた表情をしていたが、それで覚悟が決まったらしい。
「じゃ、行くぞ……」
周りの少年たちが一斉につばを飲み込むのが聞こえる。シュウヤの心臓はバクバクと大きく脈打っていた。
ヒロキは「窓」を限界まで持ち上げて、地上に一歩踏み出した。
シュウヤに続いてクルミが、一番最後に梯子を上った。二人は前を行った少年たちと同じように、その場で立ち尽くした。
「わぁ…………」
少年たちを包み込むように広がった夜空を、数えきれないほどの光の粒が流れ落ちてゆく。
流れ星だ、シュウヤはぼんやりとそう思った。こんなに美しいものだなんて思いもしなかった。まるで宇宙から降る雨のように輝くそれは止むことなく、黒い空に無数の軌跡を刻み込んでいた。
「あっ、あれ!」
一人の少年が指をさす。立ち並ぶ木々の向こう、星空の下の方が黒く切り取られたようなそれは、時たま星の光を反射してきらりとひらめいていた。
「あれ、海じゃないか?」
海、と言う言葉に少年たちは顔を輝かせて目を見合わせる。
「あっちだ!」
誰かの声を合図に、彼らは海の見える方向へばらばらと走った。
そう長く走らないうちに少年たちは林を抜け、足元まで波の迫る崖の上にたどり着いた。先頭を走っていた少年は息を切らして膝に手をついていた。いつの間にか先に着いていたらしいクロが彼の足元をちょろちょろしている。後から来た少年たちは感嘆のため息をついて、崖の上をうろうろと歩き回っている。
どうやら東京地下街は港町の下にあったようだ。崖の上、木の生えていない一角には崖を削って作られたのであろう階段があって、降り口に「この下 夕日港 駐車場・正面入り口はここから1キロ」と書かれた看板が立っていた。
「なあ、あれ、なんだ?」
一人の少年が声を上げた。彼の指差す先で、シュウヤはそれを目撃した。
それは金色の大きな翼をふわりふわりと羽ばたかせて、黒い海の上を飛んでいた。
「天使……?」
誰かが呟く。確かにその姿は、絵本に出てくる天の使いにそっくりだった。黒い波が、それの周りだけ金色に瞬いている。時間が止まったようだった。
「シュウヤ、あっち見に行こうよ!」
クルミが走って来て、目を輝かせながらシュウヤの手を引く。シュウヤははっと我に返る。少し離れたところにいた彼女には何も聞こえていなかったらしい。
「いや、あれ……」
「うん?」
クルミが海を見た時には、それは影も形も見えなくなっていた。
「何も無いけど……」
クルミが不思議そうに言う。周りを見回すと、他の少年たちは夢でも見ていたように目をぱちくりとさせて、ばらばらと散らばって行った。シュウヤは首をかしげつつ、彼女に手を引かれて崖のふちの方に行った。
二人はそっと崖の下を覗き込む。海に向かって強めの風が吹いていて、少し肌寒い。真下は暗すぎて見えないが、波の音は微かに聞こえてきた。それに、嗅ぎ慣れないにおいがする。二人は今確かに、海を見ているのだ。
「海だ……」
「うん、海だね」
「それに空だ」
「シュウヤ」
クルミはシュウヤの手をぎゅっと握った。柔らかくて、温かい。
「ありがとう。……やっぱり、ここに来てよかった」
クルミはシュウヤに向かって目を細めた。頬がほんのり赤くなっている。風に吹かれた黒い髪がさらりと揺れる。
……クルミが笑っている。幼いころからずっと一緒にいたのに、こんな笑顔を見るのは初めてだった。それだけで地上に出てきたかいがあったとさえ思った。
シュウヤの心臓が一つ、大きく高鳴る。
「ふぎゃっ」
突然聞こえてきた、何かに踏みつぶされるような声に驚いて、二人は同時に振り向いた。数人の少年たちが立ちすくんで、目を見開いたまま何かを見つめていた。
シュウヤは恐る恐るその視線の先に目を向ける。彼らの足元には、黒い毛の生えた塊が一つ転がっていた。
「なんだあれ」
言った直後に、シュウヤの背中に寒気が走った。……落ちているのは、クロだった。だらりと横たわって、微動だにしない。
「な、にが……」
次の瞬間、ほとんど爆風と言ってもいいほどのすさまじい風がシュウヤとクルミの体を崖の方に向かって煽った。
「ぐっ」
シュウヤは右手でクルミの手をぐっと握りしめ、左腕で顔をかばいながら飛ばされないように両足を踏みしめた。しかし、うまく踏ん張りがきかないうえに、着ている服が風をはらんでバタバタと揺れてシュウヤの体を崖に向かって引っ張る。
「ひゃ、」
「クルミ!?」
隣に目を向けた時には、クルミの体は斜めになって崖から転落するところだった。右手がぐんと引っ張られ、突然奈落の底に引きずり込まれるような感覚に陥った。
シュウヤは辛うじて崖から落ちずに済んだが、代わりにバンッと地面に叩き付けられた。叩き付けられた肋骨が痛む。目を開けると、真っ暗な海と、泣きそうなクルミの顔が目に飛び込んできた。右手はクルミとつないでいたことを思い出す。シュウヤは慌てて右手を更に強く握った。シュウヤは今、顔と、クルミを掴んだ右手だけを崖から出して、崖の上にうつぶせに倒れる形になっていた。
「は……離すなよ!」
シュウヤは無我夢中で叫んだ。クルミが涙目で頷いて両手でシュウヤの手にしがみついた。シュウヤの背中を激しい風が吹き抜けていく。
このままじゃ、クルミが落ちる。海にだってたくさん雨水が混じっているはずだ。落ちたらやはりただじゃ済まない。
「なんでこんな急に強い風が……。誰か!手伝ってくれ!」
「ぅあああああっ!!」
後ろからした叫び声に驚いて手を放しそうになった。直後、シュウヤの背中に衝撃が走った。
「っ、ぐあああっ!?」
「シュウヤ!?」
クルミの声が遠く聞こえる。背中と足を激しい痺れが駆け巡る。シュウヤは無理矢理頭を回して後ろを見た。崖の上にいた少年たちが次々に倒れていく。背中にそれぞれ一対の翼を広げて。痛みで視界が歪む。
「あ、め……」
「え、なに!?」
崖の下のクルミが叫んだ。さっきの風だ。風が、雨粒を運んで来たんだ。シュウヤは働かない頭でそう思った。
どうする。シュウヤは歯を食いしばりながら考える。自分だって死の直前に面しているのに、なぜか、今頭を駆け巡るのはクルミのことばかりだった。このまま手を離せば、クルミは海に落ちて、死んでしまう。シュウヤが先に死んだ場合も同じだ。だからといって今崖の上に引き上げたりしたら、今度は雨が彼女を襲うだろう。今クルミが無事なのはたまたま風向きが海に向かう方向で、崖が風と、それに吹かれてくる雨を遮ってくれているからだ。
「どうしたの、シュウヤ!?」
「ちゃんと掴まっ……ぐあああ!!」
背中の一部を、焼けるような痛みが襲った。心配そうだったクルミの顔が、恐怖に強張る。今の一瞬で、何が起こっているのかを完全に理解したようだった。
シュウヤは視線を少し後ろに向けた。黒と茶色の羽が、ふわりと目の端に移り込む。それが自分の背から生えているのだと気付くまで、少し時間がかかった。
「ああ……、オレ、死ぬんだ……」
「…………」
クルミは何も言わなかった。彼女の頬を涙がつっと伝う。
「……なに、泣いてんだよ」
シュウヤは崖の底に目を戻した。体は痛みで麻痺して感覚を失っていた。耳が、ばらばらという雨音をやけにはっきりと捉えている。
物心ついたときから、いつも一緒にいた。元気で、やんちゃで、優しくて、何かあるとクルミを守ってくれる。手を引いてくれる。
彼が笑うと、幸せになった。いつも背中を追いかけていた。地下での生活は、彼がいるだけで楽しいものになった。
地上にだって出てこられた。初めて見た星空と海は、今まで見たものの中で一番美しかった。きっとこれから、あれよりも綺麗なものを目にすることなんてないだろう。
……もう、十分だ。
クルミはシュウヤの顔を見上げた。こんな時でもクルミを助けようと必死になって、力の入らないはずの手でクルミを掴んでいる。クルミの両手の中で彼の右手はぶるぶると震え、力を入れすぎて指先が冷たくなっていた。
クルミの心は不思議に穏やかだった。彼女は手の力を抜いて、片方の手でシュウヤの右手の甲を撫でた。
――もういいの。あなたが守ろうとしてくれるだけで、私は……。
「ありがとう」
クルミは微笑みを浮かべて、片手を離した。彼女の体がぶらんと揺れる。
「クルミ……?」
シュウヤの焦点の合わなくなった目が、クルミの顔を捉えた。涙がもう一滴、彼女の目から零れ落ちる。
「……シュウヤ、だいすきだよ」
クルミの手が、シュウヤの右手を離れた。彼女がスローモーションのように崖の下に落ちていく。
シュウヤの意識がブツッと途切れた。




