支配するもの、されるもの
だめだ、届かない。
一瞬でもそう思ってしまったことを恥じる。
しかし、恥じたからと言って、限界まで伸ばした指先と彼女との距離が縮まるわけではなかった。
知らぬうちに、背中の痛みなど忘れてしまっていた。ただただ彼女を助けたかった。ようやく笑顔を見せてくれた彼女の縋るような顔を守りたかった。
シュウヤは届かないはずの距離を埋めるように、手を伸ばした。
頭の中に、問いかけが発生する。
「届きますか?」
シュウヤ自身が発した問いではない。かといって、他人が頭の外から訊いてきた言葉でもない。
音の存在しない、感覚的な、そして抽象的な、YESかNOだけの簡単な質問だ。
「届く」
シュウヤは迷いもせずに答えた。
その瞬間、一瞬だけ、シュウヤは世界を理解した。
次に来た感覚は、手が届いた、と言うものだった。
しかし、実際に目の前を見て、それは間違いだと気付く。
手は依然としてクルミの手前で空をかいていた。届いていたのは、シュウヤの翼だった。
途端に全身の感覚が戻ってくる。体中が雨に濡れて気持ち悪かった。そして何より、体力を使いすぎた時のように全身に倦怠感が広がり、吐き気がする。
しかし、クルミだけは、大きな黒い翼の中にしっかりと包み込んでいた。
「なんだ、これ……」
今更ながら、自分の背から広がる巨大な異物に目を剥く。冷静になって観察するのはこれが初めてのことだ。本当に、自分の背から生えている。しかし感覚は一切通っておらず、自分の手足と違ってどうやったら動くのか見当もつかない。さっきどうやって動かしたのかも忘れている。
これは……感染者の翼と同じものなのか?前みたいに消えてしまうなら、雨が止むまでクルミを守っていられるのか?
考えても仕方のない疑問がシュウヤの頭で渦巻く。無意識に知恵を借りようとしてちらりとアラタの方に目を向けると、中の見えない青い球体がシュールに佇んでいた。
隣に立つシロップは口をポカンと開けたままこちらを眺めているばかりだ。どうにも役には立たなそうなので、雨が止むまでは気合でどうにかすることにした。
結局、雨が止むまで翼は保った。雨が止むと同時に消えてしまったが。翼の下から出てきたクルミは茫然としていたが、もう時間が遅かったので無理矢理地下に帰らせた。
シュウヤは複雑な気分だった。クルミはもう、地上に来ようとは思わないかもしれない。
「そんなこと無いんじゃないかな」
アラタは自信なさげに言った。
シュウヤはクルミのことを思い出す。彼女がまともな生活をしていないであろうことは、彼女のまるで盗賊のような服装と憂いを帯びた雰囲気ですぐに分かった。
黒い瞳と髪はそのままなのに、表情も物腰も昔の溌溂さを失い、真っ直ぐな睫毛が闇色の影を落としていた。
彼女は傷ついている。
クルミの生きている姿を見れば満足するはずだったのに、新しい問題が頭をもたげてきていた。それに加えて、彼が頭を抱えざるを得ない出来事がもう一つ起こった。
「西、いく」
地下への扉の近くに夜を越すためのキャンプを作っているとき、シロップがすっくと立ち上がった。
シュウヤとアラタはぽかんとしてシロップを見上げる。
「……え、今?」
シロップは当然とでも言うように頷くと二人を見下ろして右手を上げた。
「世話になった!じゃーね!」
「いやいや待て待て!」
そのまま立ち去ろうとするシロップの腕を掴むと、彼女は迷惑そうな顔をして振り向いた。
「なんだよおー」
「それはこっちの台詞だって!どうしたんだ突然?」
シロップはちらりとシュウヤの背後に目を動かした。なにか目に見えないものを見ているような仕草だった。そして、珍しく静かな口調で言う。
「羽化しないと」
シロップの言葉にシュウヤは肩をすくめた。
まだそれを言うのか。正直そう思った。この少女は出会った時から「羽化」をすると主張し続けている。感染さえしないシロップがどうやって「羽化」するのかは、訊いてもはぐらかされるだけだった。
「シロップ、お前がどうして『羽化』にこだわるのは訊いても無駄だろうけどよ……、今じゃないとだめなのか?今までは待っててくれただろ」
クルミのことがあるのにどうして今、というのもあった。
しかし、シロップはいつにもまして頑なに首を振る。
「や。今行く」
「一日だけでもか?せめてクルミに事情を話してから行かせてほしい」
「シュウヤは心配しなくていい。シロップ一人で行くから」
「え?」
今まで黙っていたアラタが声を上げた。
「一人で行く?無理だ、雨だってよく降るし、地上には助けてくれる人もいないんだよ」
「雨平気だもん。助けもいらないし、ご飯もいらない」
シュウヤは言葉に詰まった。そうではないかと思ってはいたが、改めて彼女自身の口から聞くと、事実と認めざるを得なくなる。
シロップは、どうやら食事を必要としなかった。
そして彼女の反論は、残っていた不安要素を取り払ってしまった。
「そうか……?」
自然、語調が弱くなる。きっとシロップは、さっきシュウヤが翼を出したのを見て焦っているのだろう。
「うん。じゃね」
シロップは買い物にでも行くような気軽さで言って背を向けた。
今まで一緒に旅をしてきた少女との、今生の別れになるかもしれないものは、こうしていともあっさりと終わってしまった。
シュウヤもアラタも、彼女を引きとめる言葉を持ち合わせてはいなかった。
シロップのいない男二人の夜は、とても静かなものだった。
建物も無かったのでアラタは防雨コートで過ごさざるを得なかった。機械翼に多少残っていた燃料も、さっきの防御形態で使い切ってしまったらしい。非常に寝苦しそうだ。
シュウヤもじっとしていると、シロップは一人で大丈夫か、追わなくて本当によかったのか、とか、クルミは今どうしているのか、とかが頭を埋め尽くして到底眠れそうになかった。
これは観念して朝まで起きていた方が寝ようとするよりも楽かもしれない、と思ったのだが、いつの間にか意識が遠ざかっていた。
気がつけば白い空間にいた。
立っている、と思ったのだが見下ろしても自分の体が見えない。空中に目だけがついているような感覚だ。
ふわり、と視界に金色の光が舞い込んできた。
それは緩やかにはっきりとした形になって、やがて見覚えのある人物の姿になった。
ふわふわと大きな、柔らかそうな金色の翼。流れるような、翼と同じ色の髪。白いワンピース。
一瞬、スーかと思ったが、目じりの上がった知的な瞳は彼女のものとは違っていた。
シュウヤは、どこで彼女に会ったのか思い出せなかった。
彼女はなにかを探しているようだった。白い空間を飛び回って、目をあちこちに動かしている。
その目がシュウヤをぴたりと捉えた、気がした。
というのも、彼女の目はすぐにそらされてまた何かを探し始めたからだ。
探しているのは自分だ、という確信が、シュウヤの中に芽生えた。
自分はここにいる、と声を上げようとしたところで、
「へくしっ!」
ぶるるっと身を震わせながら、シュウヤは身を起こす。水を含んだ前髪がべしょっと目にかかった。
気付けば雨が降っていて、寝袋から出ていた部分はびしょ濡れだった。
「……夢か……」
「何が?」
突然、目の前に青い大きな球体が現れた。
「うわっ!」
思わず声を上げてしまってから気が付く。ああこれ、機械翼の防御形態だ。
「なんだいその反応は。せっかく頑張って一人で燃料補給したっていうのにさ」
いくぶん機嫌を損ねたような声が球体の中から聞こえてくる。若干反響しているせいで、無駄にドラマチックだ。
「いや、寝起きだったもんだから……何やってんだ?」
シュウヤは球体の後ろ(?)に目をやって、首をかしげた。
そこには赤いバケツがいくつもいくつも、足跡のように並んでいたのだ。
アラタは、ああ、と納得したような声を上げた。球体の中では頷いているのではないだろうか。
「いやね、昨日の夜あまりにも寝苦しかったから、予備の分まで雨水をためておこうと思ってさ。どうせしばらくはここにいるつもりなんだろう?」
アラタはそう言うとまたバケツを並べる作業を再開した。理由は納得だが、その量はいささか多いような気もする。
アラタはこう言うが、シュウヤはまだ迷っていた。今からでもシロップの後を追うべきなのではないだろうか。
「心配しなくても、あの子ならうまくやるさ」
アラタが心でも読んだようなことを言う。まあ、彼の言う通りかもしれない。
シュウヤは寝袋から這い出して軽く伸びをした。
「ちょっと歩いてくる」
「え、そう?風邪ひかないでねー」
アラタからは気の抜けた返事が返ってきた。
歩いているうちも雨は降り続けていた。
件の紙によると、朝と夕方に降る大粒の雨はストーム級というものに分類されるらしい。
明日も来ていいかと聞いたクルミの顔を思い出して入口を離れて大丈夫だったのかとふと心配になるが、雨が降っている間は彼女も出てこようとは思わないだろう。
入口の板は外れているので、雨が降っていれば階段が下の方まで濡れてわかる。
それもクルミが地上に出て来ようと思えば、の話だが。
雨のせいで背中がひどく痛むが、それもちょうどいいと思った。痛みの分、考え過ぎずに済む。
気付けば、野宿した場所からかなり離れてしまっていた。
この辺りはもう荒野と言った方が近いようなありさまで、建物どころか草さえもまばらにしか生えていない。
――シャラシャラ……。
雨の音に混じって、神社の鈴のような不思議な音が聞こえてきた。
シュウヤは何も考えぬままそちらに足を向けていた。
音に近付くにつれ、その正体がわかってきた。
「……」
シュウヤは無言でその音源を見下ろした。
それは、黒い鎖だった。
荒野にはあまりにも似合わない人の手を感じさせるそれは、一定の間隔で立った腰ほどの高さの柱の間をつないでいて、どうやらその内側への侵入を拒むものらしかった。しかし忠告以上の用は為しておらず、少し足を持ち上げれば簡単に跨げそうだ。
鎖の、柱と柱のちょうど真ん中あたりには一言だけ「ナイトメア級発生区域」と書かれた白い札がかかっていた。
「ナイトメア級」
シュウヤはぽつりと呟く。それも紙に書いてあった。破格の威力と突発性を持つまさしく悪夢のような雨だが、発生する場所が決まっているので普通に生活している分には気にする必要がない。
つまり、ここがそうなのか。
黒い鎖が、雨に当たるたびにシャラシャラと音を立てる。
これは本来、恐怖の対象なのかもしれない。この黒い鎖を超えれば、そこに待っているのは等しく死だ。
しかしシュウヤはこれを恐れることができなかった。それは単純にシュウヤが雨の影響を受けないからだけではない。この鎖の向こうに行けと、自分の中の何かが主張しているような気がしたのだ。
夢の中にいるような気分で鎖を眺めていたシュウヤはそれを跨ごうとして、ふっと冷静になる。
これを跨いで大丈夫か?何か不都合はないか?
それは今まで何も考えずに行動していた故の反動のような思考だったが、考えてみても不思議なほどに不都合が無かった。
思い出してみれば、いつもそうだ。「世界のすべてをこの目に収める」という目的で旅をしてはいるが、その目的はシュウヤのような少年が旅を続けるには具体性に欠きすぎていたのだ。
なのにいつも迷いなく歩を進めた。まるで誰かに引っ張られるように。
それなら、その正体を見つけ出すまで引っ張られてやろう。
シュウヤは、全く気負いのない足取りで、黒い鎖を乗り越えた。




