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雨の感染者  作者: 遠藤蓮霧
19/44

クルミ

 クルミは、動くことも声を出すことも忘れてしまっていた。

 家に帰ってきたら、見知らぬ少年がランじいと話していた。

 しかし彼の横顔を見た途端、それが見知った少年だということに気が付いたのだ。

 見知った、という言い方は間違っているかもしれない。とにかく、クルミは彼のことをこの五年間、一時も忘れたことは無かった。

「クルミ?」

 はっ、と我に返る。

 少年……シュウヤは、クルミを心配そうに見ていた。

 成長して顔は多少変わっているが、雰囲気はほとんど変わっていない。

 ――どうして、ここに。

「落としたぞ」

 シュウヤが差し出したリンゴを慌てて受け取る。気付かないうちに落としてしまったようだ。

 気が付くと同時に、ぶわっと恥ずかしくなった。

 見られたくない、見られたくない。

 こんな……盗んできたもので生活している姿なんて。

「自分で拾う」

 他にも散らばったリンゴを拾おうとするシュウヤをつい、押しのけた。

 シュウヤが不思議そうな顔をする。

 ……ああ、私って最悪だ。

 クルミはシュウヤに目も向けられないままリンゴを拾い集め、立ち上がった。

「なぜまだここにいる!」

 ランじい以外の全員が、近くで遊んでいた子供たちを含めびくっと飛び上がった。

 クルミは目を上げてぎょっとする。

 背の高い女性がマスクを取り出してつけながらこちらに歩いてくる。市長だ。

 クルミはリンゴを背中側に隠して縮こまった。

 クルミはこの女性が苦手だった。

 それに今は、さっき畑から盗んできたばかりの物を持っている。

 シュウヤは、突然挙動不審になったクルミを見て何かを察したのか、わずかに動いて彼女を自分の背中に隠した。

 歩いてきた市長は、シュウヤに鋭い目線を向けた。

「あなたに訊いているのよ、感染者。出ていきなさいと言ったはず」

 感染者、という言葉に、周りにいた人たちがざわめいた。

 近くにいた人たちはじりじりと後ずさっていく。

 返事をしないシュウヤに市長はしびれを切らして、ランじいをギンと睨みつけた。

「あなた、彼をここから追い出しなさい。命令よ」

「……承知した」

 ランじいは低い声でそう言うと、シュウヤの腕をぐいっと引っ張った。

 こう見えて、ランじいのモットーは「長い物には巻かれろ」だ。きっとあの階段のところへ連れて行くのだろう、とクルミは思った。

 シュウヤはランじいに連れて行かれる寸前、小声でクルミに告げた。

「……隙を見て、地上に出てきてくれるか?」


 もちろん、地上に行くことを迷いはしなかった。

 しかし問題はどうやって、だ。

 五年前にここに来た時に知ったのだが、ここ、上海地下市には「窓」がない。日光が足りないせいで病気になる人もいるが、それでも誰も「窓」を作ろうとは言いださなかった。

 単純に彼らが「窓」と言うものを思いつかなかっただけかも知れないが、ここに住んでいるとどうしてももう一つの理由に行きつく。

 ここの人たちは、雨の病は感染うつると信じているのだ。

 五年前のクルミのような子供を追い出そうとはしなかったが、あの後唯一の入り口は厳重に閉じられ、誰も地上との行き来が出来なくなった。

 問題はそこにある。いくら行きたくても地上に行く方法が見つからない。

 しかし、シュウヤがここにいるということは何らかの方法で入ってきたということだ。

「……よし」

 クルミは小さくつぶやくと、立ち上がった。

 まず、家の中を見回してなにか使えそうなものがないか探す。

 ここには元々ランじいが一人で住んでいた。

 地下で唯一クルミが地上から来たということを気にしなかったランじいが、五年前からここに住まわせてくれているのだ。

 ランじいは刃物職人だ。家の中には小さなハサミから日本刀のようなものまでずらりと並んでいる。

 こんな不自由な所でよくここまでの材料を手に入れられたものだ、と感心するが、それもやはり長いものに巻かれに行ってうまく生きてきた結果なのだろう。

 巻かれることさえできず犯罪に手を染めたクルミとは大違いだ。

 クルミは並んでいる中では短めの刀を手に取った。脇差、という奴だろう。

 それをベルトに挟んで、ふとクルミは今の自分の格好に気が付いた。

「あっちゃあ……」

 顔を手で覆う。

 物を盗むなら身軽な服装に越したことは無い。その理論によって今のクルミは最高に合理的な……これ以上露出度の上がらないであろうギリギリの服装をしていた。

 持っている中で一番普通っぽいミニスカートのワンピースにそそくさと着替え、クルミは今度こそ家を出た。


 できるだけ人目に付かない場所を通って階段を目指す。

 シュウヤが入れたのだから、何か方法があるだろう。見つからなかったら着いてから考える、というのがクルミの作戦だった。

 どうにかなる。今までだって行き当たりばったりで生きてきたのだ。

 人目に付かない場所を通るのは地上に行くから、というのも大きな理由の一つだが、普段からそうしているから、というのが大きかった。

 盗みの常習犯であるクルミは、商店街でも顔を覚えられていわゆるブラックリストに名前を連ねていた。

 五年前とはずいぶん変わってしまったものだ、とクルミは密かに自嘲する。

 いつの間にか、地上に行く方法を探す今の自分を五年前のあの日、不安を抱えてシュウヤたちの後を追っていた自分に重ねていた。

 ……あの日、シュウヤは「羽化」した。

 クルミは思いを寄せていた彼の後を追うような気分で自ら海に落ちることを選んだ。

 しかし、クルミは忘れていたのだ。あの崖にあった看板が、あの下が港になっているとはっきりと示していたことを。

 クルミは海には落ちず、代わりに港に泊めてあった一艘の船に奇跡的に落ちて、そのまま沖へ流された。

 その後のことは記憶がはっきりとしていないのだが……天使に助けられた、ような気がするのだ。

 ただの夢かも知れないが、とにかく、次に気が付いた時にはあの階段で人に囲まれていた。

 そこまで思い出したところで、クルミは階段の前についた。

 黒々と続く先の見えない階段は、五年前から変わらず足のすくむような威圧感を放っている。

 クルミは家から持って来た脇差の鞘を握りしめた。

 こんな所で怯えていてどうする。シュウヤが生きていて、この上にいるのに。

 そう、生きている。生きていた。これも、天使がもたらした奇跡かも知れない。

 クルミはすうっと深く息を吸うと階段に足をかけた。

 ――カツッ、カツッ。

 自分の靴の音が階段の中に反響する。上海地下市は深く、その分階段も長い。もう後ろを振り向いても、町の様子は見えなかった。

「……あれ?」

 クルミは階段の途中で足を止める。

 なぜか、光が入って来ないはずの階段の上の方がわずかに明るくなっている。

 クルミは足を速めて階段を上った。

 最後の方は半ば走っていたように思う。一番上まで登り切ったクルミは、唖然として立ち止まった。

「なに、これ……」

 入口を塞いでいた分厚い鉄板が、ベコベコにひしゃげて放り出してあった。

 そして、一瞬遅れて地上の眩しさに目を細める。

 また地上に出てきたのだ。クルミは空を見上げて感極まりそうになるのをぐっと堪えた。

 ふと、視界の端に見える鮮やかな色に気が付いた。

 それは七色の巨大な橋のようだった。

「虹……初めて見た……」

「へえ、それはいい体験をしたね!」

「たいけんだね!」

 突然した聞き慣れない声に、クルミは反射的に脇差に手を伸ばしながら飛びずさった。

「ああごめんね、驚かせちゃって」

「もー、アラタのせいだぞー」

 そこには、わしゃわしゃと絡まった髪の年下らしき少年と、銀色の髪にピンクの瞳という変わった見た目の小さな女の子が立っていた。

「え……?誰?」

「アラタとシロップだよ」

 振り向くと、苦笑いを浮かべたシュウヤが歩いてくるところだった。

「ここまで大丈夫だったか?」

「う……うん、誰にも見つからなかった」

 一瞬言葉に詰まってしまったが、シュウヤは気にしていないようだった。


 アラタとシロップはここまで来る間に知り合った仲間らしい。

 驚いたことに、シュウヤたちはここまでほぼ歩きで来ていた。

 途中で車を拾ってみたり船を拾ってみたりしたらしいが、どうやって船を拾ったのかは聞いても教えてくれなかった。

 シュウヤは雨を受けても死なない体質、らしい。よくわからないが、生きているのだから他のことはあまり重要ではないと思う。

 クルミの方も大体のことは話した。自分が物を盗んでいたことは、言えなかった。

「じゃあそれも、その、ランじいが作ったのか?」

 ランじいのことを話しているとき、シュウヤがそう言って脇差を指さした。

「うん、借りてきた。本当は売り物なんだけど」

 言っていて少しばつが悪くなってきたが、三人ともふうん、というだけで特に気にも留めていないようだった。

 もしかして、三人とも地上で売り物をもらったりしているのだろうか。

「それは?」

 クルミが指をさすと、アラタというらしい少年は、これ?と言って自分の背負う黒い機械を指さした。

「空を飛べる機械だよ。……まあ、僕はなんていうか、修行中?っていうか、」

 最後の方はごにょごにょ言っていて聞こえなかったが、前半だけでクルミを興奮させるのに十分だった。

「空を飛ぶの?」

「使ってみる?」

 アラタが言うので、クルミは子供に戻ったようにぶんぶんと頷いた。

「水はいってんのー?」

 シロップという少女が脇からそれを覗き込む。

 水?何のことだろうか。

 アラタは機械についていたキャップのようなものをひねって開けた。

「シュウヤ、見てくれる?」

 そしてなぜかシュウヤに渡す。シュウヤは中を覗き込んで、首を振った。

「もう十分の一も残ってねえな」

「何が?」

 我慢しきれずに聞くと、シュウヤは何でもない事のように言った。

「雨水」

「え?」

「これの燃料だよ」

 地上には奇怪な物があるものだ。死の象徴である雨を利用してしまうなんて。

 とにかく、燃料の残りが少なかったのでアラタは残念そうにクルミに言った。

「ごめんね、補充しておくよ。明日も来られるかい?」

 クルミはシュウヤに目を向けた。

 明日も来ていいのか、という無言の質問はこれも無言の頷きで返された。

 クルミは舞い上がるような思いだった。夢でも見ているようだった。

 彼らがいつまでここにいるのか、いつ行ってしまうのか、という質問は今は飲み込んだ。


「……そろそろ暗くなってきたな」

 シュウヤが空に目を向けた。

 クルミは少し考えてから、ああ、と思い至る。地上では、空の明るさで時間がわかるんだった。

 ということは、もう地下に戻らなくてはならないのか。

 急に胃が鉛のように沈み込む。

 クルミはできるだけ笑顔を取り繕って明るい気持ちになろうとした。

 明日も地上に来る。明日も会えるんだ。

 しかし……そういう時に限って、あれは来る。

「あっ、ギブリぃ!」

 シロップの声に振り向くと、彼女はアラタの背負う黒い機械を指さしていた。

 さっきまで光っていなかったランプのようなものが、緑色に点滅している。

 クルミが、ギブリって何、と聞こうとすると、アラタの体が突如青い球体に覆われた。

「え?」

 クルミの体がギシッと固まった。

 この機械の機能の一つか?中のアラタは無事なのか?

 そんなことを考えていると、切羽詰まったようなシュウヤの声が聞こえてきた。

「クルミ!」

 振り向くと、シュウヤの顔が見えた。その顔が一瞬、痛みに歪む。

 それだけで理解した。

 シュウヤのこの顔を見るのは、二回目だ。初めて見たのは、あの崖で。クルミを助けようとしたシュウヤが、こんな顔をした。

 雨が降ってきたんだ。

 シュウヤは大きく手を伸ばした。しかしほんの少し遠い。クルミには届かない。

 ……今度こそ助からない。私は二度死ぬんだ。

 そう思った時、シュウヤの目が一瞬金の光を帯びた。

 次の瞬間、クルミの視界を、巨大な黒い翼が覆い尽くした。

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