0-2:混乱と絶望
明らかな異常、というほど大袈裟なものではないのかもしれない。無遅刻無欠席というのは三年間継続できることの方が難しいのだから。今日はたまたま休んでしまった、そんなことも有り得るだろう。
しかし、こんな状況を前にして、それを偶然という言葉で片付けることはできない。
俺はすぐにスマホを手に取り、浩一に電話をかける。だが、やはりと言うべきか留守電に繋がるだけだった。感情のない無機質な音声に苛立ちながら、スマホをポケットに突っ込み席を立つ。
「まさか、浩一君も?」
美紀の顔色は既に真っ青になっていたが、まだ確定したわけじゃない。
「途中で何かあったのかもしれない。眠ったままなら親が学校に連絡してくるはずだ。ちょっとそこら辺探して……」
俺の言葉を遮るように扉が開かれた。
いつもの馬鹿みたいな挨拶をしながら入ってくる浩一。そんな姿を期待して振り向いたのだが、そこに現れた担任の顔色を見た瞬間、俺たちは全てを理解させられてしまった。
「月見里君が眠り病にかかったとの連絡がありました。今日だけで3人目とのことです。皆さんも、その……注意して下さいね。」
何に注意すればいいんだ、とは思ったが誰も何も言わない。どうにもならないのは皆同じだ。先生も混乱しているが、立場的にそれを見せるわけにもいかないだろう。
その後授業が始まったが、俺の頭にはまったくと言っていいほどに何も入ってこなかった。
俺はどうしたらいいんだ。浩一の家に行くか……。いや、行ったところでどうにもならないのはわかっている。医者でさえ対処ができないのだから。
でも行きたい。冷静さを欠き、思考が絡まってしまった俺は、何度も同じような自問自答を繰り返すばかりだった。
思考の渦に呑まれていた俺の意識が、誰かの悲鳴によって引き上げられる。
一瞬理解が及ばなかった。今のは……悲鳴か? ゆっくり顔を上げて周囲を見渡すと、教室の一角に人だかりができていた。おい待て、その席はーー
「潤賀さん!!」
クラスメイトの女子が発したその言葉を、そしてその声の温度を理解した瞬間、心臓が跳ね上がった。俺は椅子を蹴り飛ばす勢いで立ち上がり、人だかりへと駆け出した。
--確かに皆怯えていた。でもそれは自分の親しい誰かに被害が及ぶまで、いや、それを直視するまで認識がどこか薄いものなのだ。想像しなかったわけじゃない。でもどこかで他人事のように、まるで夢のように思っていたのだろう。今日この日までの俺も--
クラスメイトを押し退けてその姿を目にした時、何かが音を立てて崩れるような感覚に陥り、それに合わせるように俺も膝から崩れ落ちていた。
『学校では寝ないで。』
つい今朝方の話だ。それを言った本人が机に突っ伏していた。その様子から得られる答えは1つしかない。何が起きているのかまったくわからない、わかりたくもない。こんな事があってたまるか!
「嘘だろ? 俺を騙して遊んでいるならもう十分だよな? そろそろ起きろよ。」
こいつがそんな嘘をつかない事は理解している。それでもそんな可能性にすがる事しかできなかった俺は、拳を強く握り締め泣いていた。
その後、美紀は救急車で運ばれていった。いつまでもその場を動かない俺に担任が『今日はもう帰りなさい』と言うまで、どれくらいそこにいたのかはわからないが、少なくとも周囲にいたクラスメイトはもう見当たらない。
「帰るか……。」
言葉で切っ掛けを与えなければ動けない程に、俺は憔悴しきっていた。
ただ歩いていた。どこへ向かうのかも、これからどうするのかも、何も考えずに。どれくらい歩いたのか。見慣れない景色を眺め『ここはどこだろう?』と思うくらいには思考が戻ってきた頃、俺は足を止めて川の方へ目を向けた。
「あぁ。ここは昔、三人で遊んだ川か。」
それは果たして正解だったのか。確証はまるでなく、ただ川だというだけだったのかもしれない。だが、それと信じた俺は懐かしむように歩き出した。土手を降りて川を目の前にした時、そこには昔懐かしい景色が浮かんでいた。そこに美紀がいる。美紀……。
川に向かって歩き出そうとしたその時、誰かに肩を捕まれた。そのまま強引に振り向かされた俺はバランスを崩し、少しフラフラした後にその捕まれた肩から伸びる手を辿るように視線を送った。
「姉貴……。」
愛子みちる。
姉がそこにいた。全力で走ってきたのだろう。みちるは額に汗を浮かべ息を切らしている。私服に着替えている事から、帰宅して俺がいつまでも帰らない事に気付いて探しに来たと推測できる。
それにこの表情は学校での事も知っているという事だろう。どうやら心配させてしまったようだ。
「颯汰。あんた大丈夫? その……美紀ちゃんが……って聞いたから。」
思い出させる事に抵抗があるのだろう。遠慮がちに途切れ途切れ伝えてきた。
「あ、ああ。それと、浩一も今朝から来てないんだ。でも、俺は……大丈夫だ。心配いらない。」
明らかに下手くそだった。これでは心配するなという方が無理だ。更に顔色が悪くなったみちるは一度口を閉ざしかけたが、それでも確認するように問い掛ける。
「それは、やっぱり眠り病で?」
「ああ。朝、学校に連絡があってらしくて、俺は担任から聞いた。」
「そっか……。とりあえず帰ろう? あんたの好きなもの作ってあげるから少しでも元気だしなね。あまり大きな事は言えないけど、もしかしたら眠り病のことも何かわかるかもしれないし。」
みちるのその言葉に俺は目を丸くした。
「え? どういうこと? 誰が? どうやって?」
次々と溢れる疑問を押さえきれずに、俺はみちるの肩を掴んで揺する。
「落ち着いてってば! 私も人から聞いた話だし、長くなるから食べながら話すよ。どうせお昼も食べてないんでしょ? もう暗くなるし、ほら行くよ颯汰。」
子供を諭すようでちょっと引っ掛かったが、確かに辺りを見渡すと夕方からまた一段と暗くなり始めている。話すと言っている以上慌てても仕方ないと、俺はその場での追究を諦めることにした。
前を歩くみちるを眺める。やっぱり背が高いし、カッコいいし、頼りになる。そしていつも俺を励まし、慰め、時には叱ったりしてくれる。こんな人間に俺はなりたかったんだなとあらためて実感し、ほんの少しだけ頬が緩んだ。
「何が食べたいー?」
笑顔で振り返るみちる。
「姉貴の作ったプリンが食いたいな。」
甘いものは好きだが、男らしくいるためにと我慢していた。そんな俺だが、たまにはこんな日もいいかなと自分を納得させ微笑んだ。
「珍しいー。あんたがそんなこと言うなんて。よし! じゃあお姉ちゃんが久しぶりに腕によりをかけて……」
その言葉が最後まで紡がれる事はなかった……。
いや、みちるの声はもうーー
俺の耳には届いていなかった。






