桜ドロップ1
キミの巡るこの環境。
キミはこの地に来て、本当に良かったのだろうか。
キミは本当に、喜んでいるのだろうか。
この地は、誰も何もキミに与えない。
この街は、キミに何も与えなかった。
それなら、俺がキミに与えようと思う。
俺の出来ること全てを。
わずかな事しかできないし、長い時間もしてあげることが出来ないと思うが、俺がキミに与えるよ。
キミが望んだ、誰もが普通に手に出来る微かな願い。
誰もしないから、俺がする。
その想いを胸に刻んだ。
二 桜ドロップ
「悪いな急に呼び出して」
蒼と砂那が事務所に顔を出すと、ベネディクトは砂那に対して、心の籠っていない謝りを入れる。
「いえ、今日は予定が有るわけでは無かったので」
砂那が首を振ると、ベネディクトは自分のデスクから立ち上がり、砂那に一枚のメモ用紙を渡した。
「今回は同業者からの、急な依頼でな」
「同業者?」
砂那のメモ用紙を受け取ると、目線を少し鋭くさせた。そんな彼女にべネディクトは誤解を解く。
「別にややこしい依頼では無い。知り合いの神父が《憑き物》に手こずっているらしい」
「神父さんですか?」
「腕のある神父だが、彼は根っからの拝み屋でな、憑き物には向いていない」
その台詞で砂那は納得したように頷いた。
一般的には、囲い師や結び師のような祓い屋も、神職の拝み屋も、霊を相手することに変わりは無いので、同じようにとらえられるが、業界の中では大きく違う。
砂那たちの囲い師は、霊を祓うことに特化し、強制的に霊を元ある世界に送り返している。それに対して拝み屋は、お経や、祈祷書の言葉、祀りごとを使い、霊をなだめたり成仏させている。言わば、霊にお願いをしたり、楽しくさせてあげて還ってもらっているのだ。
しかし、悪意のある憑き物関係は、お願いしても還ろうとしないので祓い屋の出番となる。
「私と蒼は、別件が有るので動けないから………」
「私と行くことになってるの」
今まで真っ赤なソファーに腰かけていた静香は、立ち上がるとベネディクトの台詞を遮って、胸を張った。
「………とっ、言うことだ。静香はその神父と面識もある。解らない事は聞いてくれたらいい」
砂那は頷くと静香に顔を向けた。
「お願いね、静香」
「まぁ、私は魔法も使えるし囲いも張れるから、砂那は横で見てるだけでもいいよ」
静香は鼻息を荒くして、得意げにそう言う。
ベネディクトから砂那の付き添いを頼まれたことを、教育係を頼まれたと勘違いしているのであろう。砂那の実力を知った後も同じセリフが言えるのかと、デネディクと苦笑いのように口の片隅を上げた。
「心配は無いと思うが、相手は憑き物だ。相手にも自分にも気をつけろよ」
「大丈夫です。憑き物は何度か相手してます」
「頼もしい台詞だ。それと現場までだが………私のピナレロはビンディングペダルだから乗りにくいな」
ビンディングペダルとは、シューズとペダルを固定して、ペダルに力の伝達を良くするものだが、専用のシューズを履かないと、普通の靴なら滑って乗りにくい。
「蒼、悪いが砂那にビアンキを貸してやってくれないか」
「かまいませんよ」
蒼のロードバイクは、元々はベネディクトから無償で受け継いだものだ。それに、彼にはバイクもある。
「蒼の自転車ですか?」
「お兄ちゃんの自転車を貸すの?」
砂那は嬉しそうに目を輝かせ、静香は不服の様に目を細めた。
砂那は奈良で、蒼がそのロードバイクで軽々と坂道を登って行くのを見ている。あれを見てから、自分も一度、その自転車に乗ってみたかった。
「砂那は、まだこっちに足がないだろう。それに乗って現場まで行ってくれ」
「乗れるかな?」
嬉しそうにしている砂那を、静香は「うぅ―――っ」と、うねり声をあげながら、うらやましそうに見ていた。
「たしか砂那は、奈良でシティサイクルに乗ってたよな。あのタイプしか乗ったことがないか?」
蒼の問いかけに砂那は頷く。
ロードバイクと言うよりも、ギアの付いた自転車が初めてだ。
「だったら、簡単に説明だけしておく」
蒼はベネディクトのひまわり色したロードバイクの所まで行くと説明した。
「一番の違いは何と言ってもハンドルだ」
確かに、砂那が今まで乗ってきた自転車とは違い、曲がったハンドルになっている。今まで普通の自転車しか乗ってこなかった砂那は、正直に言ってこのハンドルでは使い勝手が悪そうに思った。
「慣れないうちはハンドルの真っ直ぐに成っている、フラットバーの部分を握った方が走りやすい。ただ、そこを握るとブレーキから手が遠くなるから気をつけろよ。慣れてきたらブラケットと言って、ブレーキの上を握ると、ブレーキもシフト操作もしやすくなる」
砂那は少しだけ顔を曇らせた。このハンドルに慣れるには、しばらく掛かりそうだ。
「ブレーキの後ろに付いているのがシフトレバーだ。ここで変速を変える」
ブレーキレバーを見ると、そのレバーの後ろにもレバーが有る。
「右は後ろの変速機、左は前の変速機になる」
「へっー、こんな所にあるんだ。便利になっているわね。でも、これ、思ったより操作が難しそう」
砂那は自分が思っていた以上の、操作のやり難さに顔をしかめた。
「要は慣れだが、今回の現場まで登りがないから、ギアは変えなくても問題は無いと思う」
蒼が色々と説明している後ろから、ベネディクトが「乗っていれば、いずれ慣れる」と身もふたもない結論をつける。
普段から蒼は、自転車はただの乗り物として、興味なさそうにしているが、本当は結構な自転車好きで、話し出したら止まらないのだ。
「とにかく、砂那と静香は現場に急いでくれ。静香、場所は解るな?」
「はい!」
「蒼は、ビアンキのサドルを下げてやってくれ」
砂那の身長を考えると、一番下まで椅子を下げないといけないだろう。
ベネディクトは自分も、靴を履きかえるためロッカーに向かった。
ビルを降りた三人は、自転車を止めてある場所に行き、蒼が自分のロードバイクのサドルを下げ、砂那に座るように指示する。
彼女は恐々と跨ったが、何とか片足は付くようだ。
「この自転車、すごく軽いね」
少し自転車を傾けた時に解ったのだろう。砂那はロードバイクの軽さに驚いている。
「片足が付くなら、何とかなるな」
その様子を見ていた静香は、自分の自転車にまたがり、ハンドルの上に凭れかかるように腕を置いたまま、呆れた声で砂那に言った。
「私のと交換しようか?」
砂那はそんな静香のオレンジ色した、小さな自転車を見て、率直な意見を言う。
「………子供用?」
「ミニベロよ! ミ、ニ、ベ、ロ! タイヤは小さいけど、ちゃんとギアだって付いてるんだからね! どうする、交換する?」
確かに砂那よりも静香の方が身長が高いから、交換した方が無難だろう。しかし、彼女にはロードバイクに、一度乗ってみたいと言う思いがあった。
「うん、ありがと。でも、こっちで頑張ってみる」
「それなら良いけど、こけないでね」
砂那と静香は、場所を確認してから、自転車に乗り走っていく。蒼は少しよろけがら走っていく、砂那の後姿を心配そうに眺めていた。
「主イエス・キリストを通して永遠の命に復活の確認し、特定なる希望をもち、我々は全能の神を称賛する。我々の兄弟と私たちの契約は、地面の彼の体へ。土は土に、灰は灰に、塵は塵に。主は彼を祝福し、彼を維持し、彼に輝き与え、喜びの顔で平和を作る。アーメン」
部屋の床には、衣類や物が散乱していて、壁は殴りつけた跡形や、刃物で切り刻んだ跡が有る。
その部屋の中で、銀髪に、同じ色の口髭を蓄えた、四十代のフランス人神父、シャルル・ビュランは、ベッドの上で座る、ガムテープで両腕を拘束されている少女の前で、祈祷書を読み上げた。
先ほどから何十回と繰り返している行動である。
少女は髪の毛をバサバサに乱しながら、苦しそうに口を開けて、涎を垂らしたまま、うめき声をあげて神父を睨んでいた。
「あぁ―――ヴぅ!! 黙れ! 黙れ、黙れ黙れ黙れ、サレンダーモンキー!」
神父に向かって犬歯をむき出すと、差別用語で罵る。
以前から相談を受けて、カウンセリングをしていたのだが、根本的な解決が出来ず、彼女は暴れ出したのだ。
なんとか少女の母親と共に彼女を束縛して、お祓いを始めたのだ。神父は祈祷書を読み上げることで、少女の動きは止めたのが、祓うまでには至らない。しかし、この状態を維持しておけば、アルクイン拝み屋探偵事務所の人間が来たときに、祓いやすいだろう。
神父は祈祷書を閉じると、それに手を当てた。
「土は土に、灰は灰に、塵は塵に返し!」
神父のひときわ大きな声で、少女は苦しそうに前屈みになるが、そこで玄関のチャイムがなり、ほんの微かにだけ、神父の意識が彼女から外れた。
頭の片隅に、アルクイン拝み屋探偵事務所の人間が来たことが解ったためだ。少女の母親にはお祓いの手助けが来ると伝えてあるので、家に招き入れてくれるだろう。
その隙を少女は見逃さなかった。
ベッドの上で両腕を拘束され、前屈みになった状態から、神父向かって体当たりをする。普通の人間の脚力では無理な攻撃だ。
そこから、床の上に転がっていたカッターナイフを掴むと、今度は扉を開け廊下に走りでた。
「外に出してはいけない!」
一瞬の気のゆるみから、体当たりを受け、部屋で横たわったまま神父が大声で叫ぶ。しかし、少女の母親が神父の言われたとうり、来客を招き入れるために、玄関の扉を開けた時だった。
「どけろよ! メンスくせーんだよ、淫乱ババァ!」
少女は怯えた母親の首を持って後ろに倒し、砂那たちの目の前に現れる。
意味の解らない静香は固まったままだ。
そんな静香に、少女は拘束された両腕に持ったカッターナイフを振りかぶる。
とっさに、砂那は静香を横に押しのけた。
押された静香は尻餅をつき、壁に背中を打ち付ける。
「痛っ! ちょっと、砂那!」
静香は倒れたままの格好で、文句を言おうと砂那を見が、彼女はもうすでに、その少女を追いかけるため走っていた。
「何なのよ、もう!」
そして、立ち上がろうとして床に手を付いたとき、濡れたものを触った感触がして、手の平を確認する。
そこには赤い物が付いていた。
「………血?」
どうやら床に付いていた血を触ったみたいである。
静香は慌てて、自分の体を確認するが、痛いところは尻餅をついたお尻と背中ぐらいだ。
基本的に、ベネディクトは危険な仕事と解った時は、静香には回さない。今回も、シャルル神父が憑かれた少女を抑えているから、二人に行かせたのだが、手違いがあったのか。
そして、その神父が慌てて玄関にやってくると、まだ涙を流したまま怯えている、少女の母親にかけよる。
「奥さん、大丈夫ですか?」
「なんで、私だけがこんな目ばっかり遭うんですか!」
「落ち着いて、あなたが取り乱してはいけない。とにかく彼女を追います」
少女の母親を心配している神父に、静香は慌てて問いかけた。
「シャルル神父さん、何があったのです?」
「あぁ、アルクインの所の、静香ちゃんだね。今ここから出て行った子が憑かれている子なんだ。彼女は理性を失っている。早く止めないと車にでも轢かれたら大事になるし、誰かを傷つけるかも知れない。一緒に行って、止めてくれないか」
その言葉を聞き、静香は少し遅れて砂那の後を追った。