水希《魂まで結べる結び師》1
黒いホーネットが葛西橋を走り抜け、葛西橋通りを東に向かっていた。
日が暮れてもネオンに照らされた、彩にあふれた街を背にする。
黒いフルフェイスのヘルメットの頭を下げ、風の抵抗を減らす本気な走り方で彼は進んでいく。
その後ろには、赤いジェットヘルを被った少女が、ロングコートをなびかせながら、前の少年にしがみついていた。
『蒼、急いでくれ!』
そんなベネディクトの台詞が頭に残る。
蒼は今一度、アクセルを握り直す。
「砂那、しっかり掴まってろよ!」
「わかった!」
二人は千葉を目指し、さらにスピードを上げた。
事の発端は三十分前に起こったのだった。
十分前。
街が暗闇に飲み込まれるころ、プルプルプルプルと電子音鳴り、事務所を出ていこうとしたベネディクトは、ひまわり色したロードバイクを再び壁に凭れさせた。
急いで電話に出ると、こちらが声を上げるより早く相手が声を上げる。
『もしもし、アルクイン拝み屋探偵事務所ですか?』
ベネディクトはその声に眉毛をしかめてから頬を掻いた。電話の主は絶対に電話を掛けてこない様な人物からだからだ。
「………どうしたんだ篠田? 依頼か? 依頼なら顔なじみのよしみだ、二割引きに負けてやるぞ」
冗談混じりにそう言ってから、ベネディクトは乾いた笑い声をあげる。相手は年齢こそ下なものの、囲い師の総本山に勤めている祓いのプロだ。同業者のベネディクトに依頼してくるとは無い。
『なら、それでお願いします』
簡単に答える篠田の台詞を、いきなり理解できない言葉を聞いた様に、ベネディクトはしばらく思考を落とした。しかし、直ぐに目を細めると真剣な顔に戻り、少しトーンを落とした声で尋ねた。
「―――それは、どう言う意味だ?」
『そのままの意味ですよ。―――アルクイン拝み屋探偵事務所に依頼を頼みたいんです』
「はぁ? お前が依頼だと? 何のつもりだ篠田。冗談なら後にしてくれないか、今は立て込んでいる!」
『こっちも冗談で言っている心算はないです』
篠田の真剣な声に、ベネディクトはもう一度目を細めた。
そもそも、こんな冗談を篠田はしない。
「依頼なんだな? 解った、言ってみろ」
一度だけ言葉に詰まってから、篠田は話し出した。
『急ぎの依頼です』
「今すぐか? だったら高くつくぞ」
『構いません。言い値で払います』
その台詞からして篠田は切羽詰まっているらしい。
ベネディクトは頷いた。
「なら、そこから二割は引いてやる、すぐに内容を言え」
五 水希《魂まで結べる結び師》
二十分前。
夏休みが近付いた土曜の夜、東伊豆での依頼の仕事終わりに、篠田は温泉につかった後の火照った体を夜風に当てていた。
依頼主は東伊豆では新しい方に入る旅館で、その旅館はたびたび出ると噂が出ていたらしい。
もっとも、座敷童子のようなものが出れば、ネットでも騒がれ、旅館としてのステータスも上がるだろうが、出て来るのは夜な夜な首を絞めて来るような、タチの悪い悪霊だ。
しかしこちらも、総本山から絲〈AAクラス〉が二人と、忽〈AAAクラス〉が一人、後はBクラスの篠田と翠の合計五人もの囲い師が来たのだ、いくら悪霊と言えど簡単な作業だった。だだ、この悪霊にそんな人数が必要かと言われれば、単純に考えてもいらないだろう。
ちなみに悪霊の正体は生き霊で、急に持ち場を離れた篠田が、ある客室の額縁の裏から、媒体となる髪の毛の束を見つけ出して来たが、他の囲い師からはサボっていたと批判を受けていた。
本人は相変わらず、何を言われても動じていなかったのだが、今回は表情だけが少し違った。
「まだそんな顔をしてる」
旅館の名前がプリントされた浴衣のまま、近くのガードパイプに腰かけ、海を眺めていた篠田は、チラッと同じ浴衣姿の翠を見たが、すぐに顔を戻した。
その表情は、なんだか戸惑ったようにも見える。
「そんなにこの依頼が嫌だったの? それとも、良心が痛むから?」
この依頼に、そんなに階級の高い囲い師も、人数もいらなかった。そして時間も。
階級の高い囲い師たちが、時間を伸ばそうとダラダラと仕事をして、それを見かねた篠田がすぐに解決したのだ。しかし、他の囲い師は、あーでもない、こーでもないと、ダラダラと意見を言ってさらに時間を延ばし、彼らの目的の通りに時間が遅くなったので、旅館がご厚意で部屋を用意してくれたのだ。もちろん、豪華な食事つきで料金は取らないらしい。
「………それも有るな」
「………うそつき」
翠は篠田に並び、同じく海を見ながらつぶやいた。
しばらくでも一緒に居たから解る。
この人は囲いには自信が有るくせに、自分の事を過小評価する癖が有る。要するに褒められ下手なのだ。
「『やっと認めてもらった』で、良いんじゃない? 今までの功績が実ったんだよ」
確かに篠田は意地悪をするところはあるが、仕事に手を抜いたところを見たことがない。それに嫌われている本当の理由は、恐れられているからである。
いつ篠田と順位を交代しなければならないかと、篠田に近い階級な人ほど、彼を恐れている。しかし、それは上層部も解っているはずだ。
篠田はそんな願望的な翠の意見に首を振った。
「上高井が思っている以上に、俺は上に嫌われているよ」
そう言って苦笑いする。
だから本来は、こんな観光地で、簡単に祓えて、ゆっくりと旅行気分を味わえる、皆んなが行きたがる楽な仕事は、嫌われている自分には回ってこないはずだ。
なのに回ってきた。そこが、篠田には腑に落ちない点だ。
「なにか、裏がありそうで怖い」
「考えすぎだと思うよ。それより、せっかくこんな観光地まで来たし、悩んでこんな所に座ってるより、この辺りを散策しない?」
そう言って翠は微笑む。
ほかの囲い師たちは宴会を始めてしまい、酒の飲めない二人が残ったのだ。旅館でテレビを見ているのも勿体ない。
「旅館の人に聞いたんだけど、近くに射的場とスマートボールが有るらしいわよ」
そう言って道を指差し、篠田の浴衣の肩をを引っ張る。
篠田は少しだけ微笑んだ。
確かに上層部に裏が有ったところで、Bクラスの篠田にとって大きな損失は無いだろう。それに今考えても埒が明かない。
「そう言や、射的はやったこと無かったな」
「私も射的はやったことは無いけど、スマートボールなら得意よ。奈良に居た頃は、昔から縁日にスマートボール屋さんが来てたから。教えましょうか?」
「縁日にスマートボールって、なんだよそれ?」
そう笑ったところで、篠田のスマートフォンが鳴った。
篠田は画面を見てから、素早く電話に出る。
「もしもし、水希か? どうした?」
『………これ企んだのって、あんた?』
「はぁ? 企んだ? 何の事だ?」
一呼吸だけ間が空き、電話越しに水希はため息を吐いた。
『………だったら、安部か。………話に乗った私も悪いんだけど、少なからずあんたも加わってるんだから、桂に何かあった時はあんたも殺すから』
「何の事………って、おい! 水希!」
相当頭に来てるのか、話の途中で水希からの電話が一方的に切られる。篠田は直ぐに掛け直すが、電話が鳴るものの彼女は出てくれない。
「何だってんだ? 安部が何かしてるのか?」
篠田はそう言ってスマートフォンの時刻に目をやってから、嫌な予感が頭を過った。
現在は夜の九時半だ。今から東伊豆を出て東京に帰るとしても、途中で電車が無くなってしまうだろう。
やはり、嵌められたかも知れない。
篠田は急いで安部に電話を掛ける。
翠は篠田の邪魔にならないように、一歩離れて、ガードパイプに腰かけ、顔を海の方に向けたまま、耳を傾けていた。
阿部はなかなか電話に出ず、二分ほどしぶとく掛け続けると、観念したのかやっと電話に出た。
『………なんだ篠田?』
「安部さん、いま何をしている?」
篠田は冷静を装い、低くした声で尋ねた。
『はぁ? 何の事だ?』
安部はわざとらしく白を切る。そのわざとらしい声に篠田は確信する。
「まさか――――佐倉に居るんじゃ無いだろうな?」
篠田の追求に、年下に弱みを見せたくはない阿部はあっさりと認めた。
『………あぁ、そうだ。それがどうかしたのか? 俺がどこに居ようが、お前に関係ねーだろ!』
「関係有るだろ、何を勝手なことをしている。その式守神は、まだ駄目だ! もっと抑え込んで、霊力を弱めてからでないと、条件を出してくるぞ!」
条件を出すとは、タチの悪い神様や式守神は、こちらの要求の代わりに、見返りを求めてくるのである。ほとんどの場合は生け贄を差し出せと言った内容だ。
この佐倉にいる式守神も、傲慢でプライドが高くタチが悪い。だから、確実に見返りを求めてくるはずだ。
『この時期に来ても、終わったのは二人だけだ! とっとと進めちまえば良いんだよ! 篠田、俺はな、お前とは違ってな、トロトロやっている時間が無いんだ!』
「来年の二月には間に合うと言ったはずだ! 阿部さん、あんまり勝手なことをすると、その式守神を俺が祓っちまうぞ」
祓ってしまえば、彼らの遣ろうとしている事の日数は伸びる。それは安部にしては困る事だが、それでも強気に言い返した。
『東京に居ないのにどうやってだ? 心配しなくても、明日お前が帰るころには終わってる。これで三人目になりゃ早いだろ』
篠田が東京に居ない事と、今から帰れない事を知っている安部の台詞に確信した。
やはり、今回の仕事は仕組まれていたのだ。
そう、今回この仕事が回ってきたのは、篠田が東京に戻れないようにする為だったのだ。
安部の目的は、総本山の座主に成る事である。
《座主》とは総本山のトップ名称で、すなわち、囲い師達の頂点に立つことを意味する。
しかし、現在の総本山の上層部は実力者が多い。その中で安部には決定的な才能がなかった。
《マトリ》の折坂 善一郎の様に、囲いや戦闘の才能は無く、未国 康弘の様に、人事や取りまとめを行う才能が有るわけでもない。
だから、篠田の言った、究極の式守神に憑いて貰おうと考えたのだ。
その、究極の式守神は、現在の座主が憑いて貰ってる式守神、国之大忌貴神に匹敵する強さを持つらしい。それならば、霊力の足りない阿部でも、十分に皆に認められ、座主の座も近づく。
しかし、その究極の式守神を呼び出す方法が複雑で、それにはまず、六神の強力な式守神が必要らしいのだが、詳しい方法は篠田しか知らない。だから安部は篠田に対しては強気に出れないのだ。
「それでも、何とかして祓うぞ! 今すぐ止めろ!」
少し真剣になった篠田の声に、阿部は薄く唇を上げて答えた。
『それは、この式守神に言えよ!』
「―――まさか、囲いを切ったのか?」
『儀式は開始した。もう、後戻りはできねーよ!』
篠田は一度だけ歯ぎしりをしたが、『冷静になれ』と心の中で自分を戒める。
ここで怒ったら全ては水の泡だ。
「条件、だったら、条件は有っただろ! なんだったんだ!」
『さーな、俺は加わってないから、知らねーよ。お前も諦めて、四人目の事でも考えてな』
式守神は一人一体しか憑いてもれえない。だから、究極の式守神に憑いてもらう予定の阿部は、この式守神は無関係なのだ。
自分が起こしたことなのに、知らぬ存ぜぬの阿部に対して、篠田の怒りが頂点に達する。篠田は腹の底から低い声を出した。
「―――阿部、いい加減にしねーと、俺にも限界はある!」
『言葉を慎めよ篠田! てめーも俺を利用しないと、総本山の上層部の情報を探れないだろ、そう簡単に俺は切れねーよ!』
確かに阿部の言ったことは合っていた。どちらとも、自分の利益のために、今はお互いに切ることは出来ない。
篠田は阿部に聞こえるように、わざと大きなため息を吐いた。
「………解ったよ阿部さん。でもな―――この式守神だけは祓うからな!」
そうしないと、今回は確実に犠牲は出てしまう。
『………好きにしろ! しかし、長引いたらお前の所為だからな!』
そう言って、安部は最後の抵抗と一方的に電話を切る。やると言えばやる男だ。阿部にはそれが解っていた。
篠田はスマートフォンの画面を見たまま、しばらく動きを止めた。
翠は冷静にその姿を見守っていた。
話の内容からは、まだ篠田の求めているものが見えない。
「………ちっ!」
篠田は大きく舌打ちすると、ある所に電話を掛けた。
本来なら、絶対に掛けない所だ。
相手は五回の呼び出しで電話に出た。しかし、その回数ですら遅かったように、篠田はこちらから尋ねる。
「もしもし、アルクイン拝み屋探偵事務所ですか?」