魔法使いと物理学3
皆んなが見えなくなってから、砂那は雨花に尋ねる。
「それで、おまじないの石仏群に行く前に聞きたいんだけど、あの建物が何なのか知らない?」
砂那は後ろを向くと、庭園に入る前から気になっていた川向にある大きな建物を指差した。その建物は背が高いので、ここからでも見える。
その問いかけに雨花は不思議と顔を曇らせた。
そんな離れた建物に、何か意味があるのだろうか。
「あれは病院だったかな? はっきり覚えてないけど」
「………病院か」
今度は顔を戻すと、釣り目の鋭い瞳を池の畔に続く道に向けてた。
「だったら、もしかしてだけど、この庭園を越えたずっとこっちの方向に、お寺か教会の様なものは無い?」
砂那は今見ている方向を指差す。しかし、庭園の中で方向が解らないのか、雨花はしばらく考えてから曖昧に頷いた。
「霊巌寺さんかな? 私はその横の幼稚園に行ってたから、多分そうだと思うけど、これで何かわかるの?」
不審がる雨花に対して、砂那は「まーね」と曖昧に頷きながらスマホを取り出すと、方位磁石のアプリを開き、やっと今までの謎が解けた。
「なるほどね。方向からいって、さっきの病院からそのお寺まで、この庭園の鬼門と裏鬼門で繋がっているわ。病院で亡くなった人が、そこを通りその霊巌寺さんまで行っているの。要するにここは霊が通りやすい道、霊道に成ってるのよ」
空気の澱みも少ないこんなにも綺麗な庭園に、なぜ霊が居るのか、そして池の畔で急に増えたのかは解った。しかも、そんな霊に呼ばれてか、悪霊が混ざっているのだろう。
「へー、方向だけでそんなことも解るんだ。でも、魔法は使わないのね」
魔法が見たくてこの場に残ったのか、雨花は少しがっかりとしている。さきほどは否定できなかったが、そろそろ誤解を解いておいた方がよさそうだ。
「期待を裏切るようで悪いけど、わたしは魔法使いじゃない、囲い師なの」
「囲い師?」
雨花は魔法使いは知っているのに、日本では魔法使いより知名度のある囲い師は知らないようである。
「そうよ。日本では悪霊を祓うのは、魔法使いより囲い師と言ったような祓い屋が多いわ」
「そうなの? まぁ、どっちでも同じか」
同じではないと思うのだが、雨花は納得した様に頷いた。
「そう言えば、魔法使いの話は聞いたって言ってたけど、それって誰から聞いたの?」
「パパよ。パパが学生時代に家庭教師をしていて、その教え子が魔法使いだったらしいの」
「魔法使いの家庭教師って、あなたのお父さんも魔法使いなの?」
砂那の驚きに、少し面倒くさそうに雨花が答える。
「そんな訳ないでしょ、素粒子物理学の学者よ」
「素粒子物理学って何?」
「簡単に言えば物理よ」
「へーっ、物理の学者なの。あれ? でも、魔法よ。物理と魔法って全く正反対じゃない」
その答えを聞いて、半ばあきれたように雨花が言う。
「魔法使いは物理を勉強しないの?」
「あっ、そっか、そうだよね」
考えてみれば魔法使いも人である。もちろん中には蒼のような学生もいて、学校の授業には物理や化学もあるだろう。
「それに、そもそも《そこ》なのよ」
「そこ?」
今までへの字口だった雨花の口元が上がり、表情が明るく変わっていき、ドンドン饒舌になっていく。
なんとなくだが、砂那にはこちらの表情の方が、本来の彼女の姿に思えた。
「魔法と物理が正反対って考えてる人が多いけど、どうしてそう思うのかな? 少し考えればそんな訳がないって解るのに」
そこで、言葉を切って砂那と視線を合わせる。心なしかその目は輝いていた。砂那はなんとなく彼女の迫力に押される。
「そっ、そうなの?」
「物理は自然界の現象とその性質を、色々な方法で理解する教科なの。その自然界の現象とは目の前で起こる現象のことよ。要するに、力学であろうが、魔法であろうが、霊を祓うことであろうが、それは等しく自然界の現象なわけよ。だから、正反対じゃない。――――覚えておいて、物理の中に魔法が有るの」
砂那は口を開けた、間の抜けた顔のまま雨花を眺めていた。
明るい表情や、得意げな顔は彼女に合っているとは解るのだが、話の内容は半分も解らなかった。だから「あっ、うん」と曖昧な回答しかできなかった。
「だけど、魔法を見たことがない私は、それにはまだ確信が持てない。だから、それを検証したくて魔法を見たかったの」
雨花が何をしたいか解らないが、見たいだけなら着いてくればお祓いは見れるだろう。砂那はコートからダガーを取出し、それにお札を刺した。
「難しいことは解らないけど、ここからは悪霊を祓いながら行くから、離れず着いて来てね――――出てきて、我が式守神、八禍津刀比売」
砂那の背中の後ろには、女性の顔と胸を持つ八本腕の鬼が現れる。
式守神は霊力が高いので雨花にも見えたのか、彼女は目を大きく広げると、砂那の式守神を凝視していた。
「これは何?」
「わたしの式守神よ。まぁ、簡単に言うと守護神みたいなもの」
「………触っていい?」
先に進もうとした砂那は戸惑ったまま足を止める。今まで式守神を見たいと言う者は居たが、触りたいと言ってくる者などいなかった。雨花といると、どうもペースが乱れる。
砂那は尋ねるように八禍津刀比売を見た。怒りを露わせる様な八禍津刀比売の表情が、心なしか呆れたように感じた。
「触れ無いと思うけど、八禍津刀比売は神様だからね。失礼の無いようにね」
雨花は頷くと、八禍津刀比売の露わになった、形が良い豊満な胸を両手で持ち上げる様な動作をする。
失礼の無いようにと言ったのに、いきなりそれかと砂那は思ったが、その言葉は口には出さず雨花を見ていた。彼女は今まで以上に真剣な表情をしていたからだ。
もちろん八禍津刀比売は霊体なので、胸は持ち上がることなく、雨花の手は八禍津刀比売の中に入る。
「冷たくない、微かに暖かく感じる? これは、運動エネルギーがあるからかな?」
それから手を戻すと、八禍津刀比売に対して丁寧に頭を下げた。
「ありがとうございました」
「………じゃ、行くけど構わない?」
雨花は頷き、二人は池の畔をおまじないの石仏群へと向かった。
蒼の黒いホーネットが、東京メトロの葛西駅を通り過ぎ、環七通りを左に曲がった。
そこから旧江戸川の堤防に近くで停め、もう一度スマートフォンの地図アプリで住所を確認する。
左手には大きなマンションが建っている。
砂那の父親は、総本山でも五本の指にはいる様な実力者で、もちろんそれなりの金額を貰っているだろう。だから、その大きなマンションだと思ったのだが、どうやら違うらしい。地図が示す場所は右方向を指していた。
右方面は一軒家が多く、小さなマンションしか無い。
「………」
嫌な予感が頭を過るが、勘違いだと頭を振る。
そして、地図に従いその場所までやってきて、蒼は単車から降りヘルメットを脱ぐと、呆然と立ち尽くした。
家族で暮らすには、余りにも小さな建物。
アプリの情報が古く、この辺りの地図が変化して、近くの一軒家が目的の場所なのかとも考えたが、目の前の建物には、ベネディクトから渡されたメモと同じ名前が書かれていた。
蒼は、絶望を感じたように少しだけ空を仰いだ。
信じられなかった。
ここまで拒絶する必要は有るのだろうか。
こんなのものは外観からでも解る。だって、蒼も良く似たところで暮らしていから。
建物は奥に向かって扉が並んでおり、その扉から扉の間隔が狭い。その間隔の狭さから考えると、ワンルームマンションで間違い無いであろう。家族で暮らす場所では無い。
蒼はその建物の集合ポストから、メモに載っているのと同じ部屋番号を探した。
そこにはあまり上手では無い文字で、見たくはない名前が付けられていた。
折坂 砂那。
蒼はその名前に左手を当て、ゆっくり目を閉じる。
彼女は実力を認められ、東京に呼ばれた思っていた。しかし、現実は違ったのだろうか。
蒼はその部屋番号の前まで行って、インターホンのチャイムを押した。
ピィンポォン。
間の長い、少し抜けた音を立てて呼び鈴が鳴る。
しばらく待つが、その部屋の住人は出てきてくれない。寝ているかもしれないと蒼は再びチャイムを押した。
ピィンポォン。
しかし、二度目の呼び鈴にも、その人物は出て来てくれなかった。
深い眠りについているのか、もしくは熱で出れないような状況になっているのか。蒼は苛立ちと心配で思わずドアノブを回した。
ガチァ。
「………」
田舎暮らしの風習なのか、こんな都会では考えられない、鍵の掛かっていないドアが開いた。
「すいません、折坂 砂那さんのお宅ですか? 未国 蒼です」
蒼はドアを開け中に声をかけるが内部からの返答はなく、部屋の中は無人のように空気は動いていない。
そこで、建物の入り口付近に足音が聞こえて、勝手にドアを開けた蒼は、怪しまれることを免れるために、部屋に入っていった。
砂那は八つ囲いで悪霊を祓い、離れた場所では八禍津刀比売が悪霊にその大きな諸刃の大剣を突き刺す。普通の霊は祓わず悪霊だけを相手しているのだが、道が狭くて囲いにくい。
雨花は砂那が悪霊を祓うのを真剣に見ては、ブツブツと独り言を呟いている。砂那にしては悪霊よりもこっちが不気味だ。
「………囲いについて何か解った?」
そんな雨花に、砂那は悪霊を囲いながら問いかけた。雨花は囲いがどう言う現象で起こっているのかが知りたいらしい。
「うん、多少ね。――――だけど、見ているだけじゃ、全てを理解できない」
そう言いながら、一時も砂那から目を離さない。
いつもやっている囲いなのだが、こんなにも凝視されては囲いにくい。早く終わらせようと、砂那は囲いのスピードをさらに上げていく。
そして、見える範囲の概ねの悪霊を祓ってから、石仏群にたどり着くと、賽銭を入れ両手を合わせて、千佳たちの願いをお祈りした。
雨花はその様子をつまらなそうに見ている。
「せっかくここまで来たのよ、雨花もお願いしたら?」
「私は神頼みはしないの。――――願いは自分で努力して手に入れるものって思ってるから」
それは立派な考えで砂那も賛成なのだが、小学生でその考えはどうかと思う。もっと夢を持ってもいい時期だろう。
お願いを終えた砂那は帰り道を向かう。悪霊はほぼ祓ったので、帰りは雨花に霊が憑かないかを注意するだけでいい。
「ねぇ、もし本当にそう思うのだったら、みんなの願いも叶えてあげたら」
「えっ、何を?」
「雨花あなた、小学校の先生と言い争いをしたわね。そこからでしょ、小学校に行ってないのは」
千佳が余計なことを砂那に伝えたらしい。雨花は唇を尖らせた。
「………先生とは考えが合わなかったのよ。でも、私が居なくて、みんなが上手く行っているなら良いじゃない? 言ったでしょ。一つの事だけに特化した、私の様な邪魔者が居ない方が上手く行くのよ」
そう淡々と答えていく雨花の顔は、先ほど同じへ文字口の表情だった。その表情は小学生の雨花には似合わない。それに、雨花はどこか無理矢理に理由をこじ付けているようにも感じた。
雨花は、教える前に知っていて、しかも、先生の知らない事も知っている。頭が良すぎて、やりにくい生徒なのだろう。
「それが、上手く行っていないみたいよ」
「えっ?」
「あなたは先生に『教室の空気が悪くなるから、もう小学校に来なくていい』って言われたでしょ。それから、あなたが来なくなって、生徒たちは皆で先生に抗議したみたいよ」
「………」
「みんなはあなたの事を、邪魔者って思っていなかったみたいね」
雨花は前を向いたまま下唇を噛んだ。
「それから、千佳さんはこう言っていたわ。あなたは頭が良いから、来年は中学を受験しちゃうだろうと。だから、あなたと共に居れるのは今年だけだから、修学旅行に行ったり、運動会したり、友達だった一緒の思い出が欲しいって」
「なっ、なによそれ」
「もう、彼女たちの願いが分かったでしょ? おまじないの石仏群にお願いを叶えてもらうのではなく、あなたが叶えてあげたら?」
雨花は下を向いたまま立ち止まり、蚊の鳴くような小さな声で尋ねた。
「………良いのかな? わっ、私が小学校に戻っても、本当にみんなは、迷惑じゃないのかな?」
「迷惑だったら、こんな怖い思いまでして、おまじないの石仏群に来ないわよ」
その言葉で納得したのか、雨花は顔を上げた。その表情は、目頭に涙をためていたが、いつものへ文字口ではなく、嬉しそうに笑っていた。
二人は柵を抜けると、自転車の元に戻ってくる。そして、雨花は心配そうにしている千佳たちの元に駆けていく。
その姿を見て、砂那は思った。
彼女たちの願いは叶った。だったら、この石仏群は案外本物なのかもしれない。それなら、自分の分の願いも言えば良かったと。
この東京での環境は、自分で勝手に諦めているだけで、本当は強く思えば変わるのかもしれない。話をすればちゃんと認めてくれるのかもしれない。
そんな自分の甘い考えに、思わず苦笑いする。
今は風邪を引いていて弱気に成って居るだけだ。そんな事は絶対にあり得ないし、わたしは独りでも大丈夫だ。
だけど、っと、彼女は思う。
――――いったい、どこまで力をつければ、わたしは足手まといに成らず、家族が一緒に暮らせる時が来るのだろうか。
それから、砂那はみんなから少し離れた場所で咳き込んだ。
今まで集中していて咳が止まっていたが、気を抜いたとたんにぶり返してきた。それに体を動かして汗ばんだのが悪かったのか、ここに来て寒さも出て来た。
その咳で砂那の存在を思い出したのか、雨花と話していた千佳たちは、砂那に近付くと頭を下げた。
あとは彼女たちの問題だ。
砂那は何度もお礼を言う千佳たちに手を振ると、風邪が悪化しないように早く帰ろうと自転車に乗り、最後に雨花を見た。
彼女はいい笑顔で砂那に手を振っていた。
もう大丈夫。
砂那は前を向いて走り出すが、いらぬ事を考えてしまった今は、自分の部屋に戻ることがたまらなく寂しいと思った。
そこで電話が鳴った。