サンデリー・ベノム
ベノム侯爵様の訓練発言で戦時令は終わったかにみえたが、その余波はベノム全土に広がっていた。
『戦時令発令!ドラゴンクラスの魔物がベノムに向けて南下中!各人の裁量で対処せよ!ハンベル・ベノム』
この簡素な命令書が十通、行先は言わずと知れたデスリーテンの名を引き継ぐ領主たち。
伝令馬が彼等の元に疾走していった。
馬がつぶれそうになれば馬番屋で交換し、人が限界となると乗り手さえも変わった。
休息出来るのは大河を渡る時だけだ。馬もろとも渡し船に乗るが、雪どけ水が、船足を遅らせる。眠る事は出来ないが、干し肉をかじり水で流し込む時間はある。船を下りれば再び疾走あるのみだ。
領主街に近づくと警備の騎士がやって来る。伝令の証である長く白い鉢巻を見て並走しながら、「何事か?」と聞いてくる。
伝令は「緊急伝令!」と叫び、馬を走らせながら命令書を渡すと、次の街に向かって走り去る。
緊急時のみに許される方法に、受け取った騎士は驚いたもののすぐさま領主の元へと転進した。
「緊急伝令」「緊急」「緊急伝令」
その叫び声に門番も慌てて城門を開ける。
門をくぐった騎士は馬を飛び下り、勢いそのままに館の扉も突き抜け、領主の部屋に飛び込んだ。
「何事か?」
「緊急伝令にございます」
騒ぎに動じることなく静かに問う領主に、ひれ伏しながらも手を伸ばし命令書を差し出す。
それを受け取った領主は侯爵の紋が入った封印を確認して指で開封、すばやく目をとおす。
やがてゆっくりと顔を上げ、周囲の者達を見回すと重い声で告げた。
「戦時令が発令された。全兵力をもってベノムに向かう。歩兵は百を単位に後から来い。騎士は走りながら隊列を整えよ」
そして一つ息を吐くとカッと目を見開いた。
「馬をまわせー! ついて来れる者だけ儂に続けー!」
そう叫ぶやいなや勢いよく部屋を飛び出していった。
更には、「後は任せた!」と副官も続けば任された者こそ大変だ。
歩兵をまとめる騎士もいなければ、山脈から下りてくる魔物を迎える兵もいなくなる。文字通り大混乱となった。
この騒ぎに巻き込まれなかったのは侯爵の四人の息子たちくらいだろう。
彼等は百人の兵を連れ、別々のルートで山中深くに入り込んでいた。勿論、龍種討伐が目的だ。
ギジナール山脈全体から見ればほんの入り口に過ぎないが、魔物の巣窟であることに変わりはなく、連絡しに行くのも命がけだ。
しかも、肝心の兵がいない今帰って来るのをただ待つしかなく、そうこうしているうちに二通目の命令書と共に領主が返ってきたのだった。
命令書に振り回されて怒り狂う領主と、何かお考えがあるのではとなだめる副官。
そして、ベノム侯爵様だけが知りえた戦争の気配があったに違いないとの結論に至って、さらに騒ぎが増した。
とどめは、ベノムの大火を伝える伝令馬がベノムを出たばかりだということだろう。
ベノム侯爵領全体を混乱に巻き込んだ命令書だったが、これらの騒ぎとは比べ物にならないほどの被害を受けた所があった。
中心地ベノム、防護壁の南側にある街だ。
五番目の息子サンデリー・ベノムはここに住んでいた。
ベノム侯爵家では、防護壁の南に住む軟弱者で、継承権を放棄する事で平民女性と結婚した馬鹿な男と言われていた。
彼は幼少のころは体が弱く、それだけで父からは見放されていたし、四人の兄達の様に父親譲りの巨体でもなかった。
元々五男という気楽な立場だったこともあり、龍種討伐が継承の条件となった時は「これで側近も静かになる」と喜んだくらいだ。
そんな時に出会ったのが黒目黒髪の女性だった。
異国情緒あふれる彼女の魅力は見た目だけにとどまらず、物の見方や考え方が全く違っていた。
領民を豊かにすれば搾取する何倍もの収益になるとか、浮浪者を食べ物で雇って直営の農地を作るなど、突飛な発想がポンポンと出てくるのだ。
そして、彼女との結婚を決めた言葉があった。
「魔導師様は大陸を統一できるほどの武の人だけど、王様じゃなかった。将軍侯爵といっても所詮は武の人なんだから、貴方が王様になればいいのよ」
あっけらかんと言われて思わず吹き出し、そのまま大笑いをしてしまった。
まったくもってそのとおりだったからだ。
このベノムでなら、という条件は付くが、領主という肩書はなくとも実質的な支配者にはなれる。
領主様には武の人として魔物を押さえてもらい、自分は王として民を導けばいい。
無論簡単な事ではないだろう。
だが、これなら十分に可能性はあるし、彼女の知恵があればそう難しい事でもないように思えてくるから不思議だ。
自分にこんな野心があった事にも驚いたが、必要のない侯爵の継承権と結婚権との交換に成功した時は笑いが止まらなかった。
そして、その成果は劇的に表れ、わずか五年でベノムの人口は一万人を超えたのだった。
「何を考えてやがる!くそおやじが!」
おとなしい彼が声を荒げるのは珍しい事だが、二通目の命令書はくしゃくしゃになっていた。
『戦時令の訓練は終了とする!本番に備え、問題点を洗い出し改善せよ!ハンベル・ベノム』
日が傾きかける時刻になって、ようやくこの命令書が届いたのだ。
ひ弱だった体も強制的に鍛え上げられたおかげで精悍さを身に付けたが、今は椅子に深く沈めていた。
侯爵の象徴として存在していた街にそびえるお城も、本人に興味がない為に住む事に問題はなかった。
だが今は、大きすぎる執務室にばかでかいテーブル。贅を凝らした細かい彫刻も無駄にしか見えない。
腹心の者達五人は椅子を持ち寄り、サンデリーの執務机周りに陣取ってちょうどいいぐらいだ。
彼等はデスリーテンの子や孫たち。サンデリーに仕える事からして家督とは縁の無い者ばかりだが、物心つくころにはすでにそばにいた。
そんな彼等も疲労の色が濃く、重苦しい雰囲気の執務室となっていた。
メイドが扉の外にいた。開けようとしたところで怒鳴り声が聞こえ、おもわず手が止まってしまったのだ。
同じベノムでも、ここのメイドは普通にエプロンドレスだし、剣も無い。
しかし、行かねばならないと気合を入れなおし、深呼吸を繰り返していると肩に手が置かれた。
振り返った先にいたのは黒目黒髪のサンデリー夫人だ。
「一緒にまいりましょう」
「は、はい」
優しく微笑む女神、このお方がいて下さるなら怖い物はない。彼女が引きつれてきたメイドより早く扉を開けた。
サンデリーの知恵袋、サユーリ姫のご登場だ。
ワゴンを押す手も軽く、サンデリー様の横まで来て紅茶をセットする。お茶菓子はサユーリ姫直伝のタルトだ。
「ご休憩にいたしませんか?」
サンデリー様をいたわるやさしい声、苦い顔に向けられたほほえみ、温かい手がその背に添えられる。
他の者からは見えない位置、見えても気にならない絶妙な位置だ。
サンデリー様が紅茶に手を伸ばし、皆がならう。
「疲れた時は甘い物が良いそうなので、少し甘めに仕上げてもらいました」
そう進められれば自然とタルトにも手が伸びる。
中に甘くした果実の粒が入っているのが特徴で、皆の表情が和らぐものの、サンデリー様が無言なので声は出さない。
「それでは、皆様ごきげんよう」
暫くその様子を見ていたサユーリ様が優雅なお辞儀を見せる。
「もう行くつもりか?」
不機嫌な声が返って来るが、行かないで欲しいという気持ちがまるわかりである。
「お邪魔なのでは?」
「お前の分もあるではないか」
サユーリ様の分はサンデリーの隣にちゃんと置いてある。
「よろしいのですか?」
「はなっからそのつもりだったのであろう」
「お見通しですか?」
「まったく、座れ」
「はい」
男性社会で女性が口を挟めば出しゃばりだと思われてしまう。
たとえ、親しい仲間内であったとしても、たとえ、どうしていいのか分からない手詰まりの状態であったとしても、それは変わらない。
ここにいて欲しいというのも本心なら、女に頼っていると思われたくないのも本心なのだ。
そのあたりを読み解き、相手を立てながらうまく誘導してゆくのが賢い貴婦人のやり方だ。
側近の五人も喜んでは失礼だと紅茶に目をやるが、ホッとした表情までは隠せない。
すでにサンデリー様の横に椅子を持って待機している、サユーリ様の座る動作に合わせて動かすだけだ。
そして、自分の出番はここまでと、そっと立ち去るメイドの表情はどこか誇らしげだった。
「これが来た、今頃だぞ」
投げつけられたクシャクシャの命令書。
そっと開き、何度も読み返す。
「解除されたのは昼前だ」
「戦時令が出たのもお昼前だったと思いましたが……」
「ああ、出てすぐに解除になったんだ。それが今だ」
「そうでしたか」
サユーリは命令書のしわを伸ばしているだけだが、その所作に魅かれるようにサンデリーが話し始めた。
「戦時令は口頭で伝えられたが、目と鼻の先だ。すぐに侯爵の元に駆けつけた。だが、言われたんだ。『お前なんぞの出る幕じゃない。領民を避難させておけ』とな」
「まあ」
大げさに驚いて見せるサユーリに気を良くしたのか、しかめっ面だったサンデリーの表情が戻った。
「まあ、親子と言えども配下には違いないからな、そこは素直に従うさ」
素直だったかどうかは別にして、それを五人の部下たちに告げたという。
サンデリーの視線を受けて彼等が話し出した。
「防護壁沿いの大街道は山脈から離れるわけではないので、近くの村に避難させようとしました。村は五つ、我々も五人ですから担当を決めて配下の百人に指示を出しました。ところが……」
「それを伝えた途端、街が大混乱になりました。村に逃げろと言ったのに反対方向に逃げる者や家の中に閉じこもる者、あちこちで喧嘩は始まるし、大変な騒ぎでした」
「それに乗じて浮浪者どもまで暴れ出し収拾がつかなくなりました。傭兵ギルドにも依頼を出しましたが、有力者は防護壁の向こうですし、力の無い者は我先にと逃げ出しているしまつです」
「退役兵の爺さんたちが助太刀に来てくれましたが、焼け石に水でした」
サユーリは口々に話す彼等をやさしく見つめ、大きくうなずきながら話を聞いている。
「しばらくしてからでした、依頼を知った傭兵たちが次々と来て、領民が減った事もあって何とか収束に向かったんです。ところが……」
「火の手が上がったんです。追い詰められた浮浪者どもがあちこちで火をつけたんです」
さすがは幼馴染たち、息もぴったりに話してくるが事態は深刻だった。
ベノムの家は木造だ。
しかも、寒さ対策で、丸太の上下を削り重ねる事で分厚い家の壁としている。多少の火なら表面を焦がすだけだが、いったん燃え上がると業火となり長く続く。
おまけに、芯まで熱くなった丸太は表面に水をかけただけではくすぶり続け、再び燃え上がってしまう。
一軒だけならまだしも、同時に複数の家が燃えればお手上げとなってしまうのだ。
防護壁の向こうからベノムの騎士達も駆けつけてきたが、既にどうしようもない状態になっていたという。
「そんなとき、誰かが呟いたんです。『なんで、騎士や傭兵がいるんだ?』ってね」
そして、サンデリーが話を締めくくった。
「傭兵たちが来た時点で戦時令は解除されていた。そんな事にも気が付かなかったんだ。そして、確認に行かせたら」
「これが来た、と」
「ああ、全く忌々しい」
サンデリーの顔がゆがむ。
早く分かったところで結果は同じだったかもしれない。だが、それでももっと早く気が付いていれば、もっと早く知らせが来ていたらと思ってしまう。
現に街は今も燃えている。
そして、明日には街が、一万人も住むベノムの街が消えるのだ。
サンデリーの怒りの裏側に虚しさと悲しみが見えた。
サユーリは何か言いかけたが止めた。それを言うのは今じゃないと思ったのだろう。
今はただ、サンデリーの腕をそっとさするだけだった。
これほどの騒ぎだというのに、のんびりと飯を食っている者達がいた。克とガレントだ。
日本では一日三食だったらしく、腹が減ってたまらんと言い出したのだ。
部屋が用意してあるというのだから、美人メイドが消えた扉を抜けて誰かに聞けばいいのだが、「あのメイドに会ったらどうすんだよ」などと言って入ろうとしなかったのだ。
会いたいのなら行けばいいのだが、そう言うガレントも入れないと言うのだから説得力がない。
それならばと、守備隊の宿舎にある食堂で飯となった。
無人でおかしいとは思ったが、「浮浪者が騒いだとかでみんな行ったよ」という食堂のおばさんの言葉で納得してしまったのだ。
大きな木の鉢に具だくさんのトロトロスープ、原形をとどめないパンや野菜、肉も見える。
木のヘラでかき込むように胃袋に入れる。熱くないのは早く食べる為か、薪がもったいないかだが、瞬く間に腹が膨れた。
「ふーっ、食った、食った」
お腹のあたりをさする克の横では、なんとなく付き合ったガレントも早い夕食を完食した。
ようやく人心地ついた二人の話題はもちろんユナというメイドの話だったが、ガレント自身がよく知らないので何も分からなかった。
これから大いに調査をする事でまとまり、次にカレンの話になった。
「結局、侯爵様が子供達を助けたって話だろ?」
「まあ、そういう事になるな」
「カレンも苦労したみたいだけど、話は難しいな」
「カレンは頭がいいからな」
「なるほど、そんな感じだ」
克の中でカレンは、頭のいいあねさんという位置づけらしい。
「ところでよ、魔法には水もあるんだな」
「そりゃそうさ。火を出すだけだと火事になっちまうだろ。火と水で一つなんだよ」
「なるほど。やっぱり兄弟の話は分かりやすいな」
「おう、分からない事は何でも聞けよ」
「頼りにしてるぜ、兄弟」
兄弟と呼ばれて喜ぶガレント、平和な食後のひと時を破ったのは噂のカレンだ。
「のんびり飯なんか食ってる場合か! ベノムが火事だ、来い!」




