始まりの終わりに
本作には、書籍1~5巻及びアニメ版ログ・ホライズン等のネタバレが含まれています。また、一部書籍6~7巻の内容を連想させる文章、原作キャラクターの内面に関わる独自解釈等が含まれます。ご了承ください。
『シロ様を誘いにきたんです。わたしのところへきてくださいませんか?』
『いずれ貴女が理由を探すときのために、敵でいることにします』
黒衣の〈西の納言〉と白衣の〈東の外記〉。
〈白面の微笑〉と〈腹ぐろ眼鏡〉。
対極の二人は、太極を描きながら交じり合うことはなかった。
天秤はどちらかに振れることなく均衡を保ち、祭りは終わりを告げ。
それはそのまま、〈大災害〉を経たこの世界の、始まりが終わったことを意味していた。
◇ ◇ ◇
シロエは、〈ダザネックの魔法の鞄〉の中身を確認すると、口紐を固く結んだ。
数日前までは書類だらけの部屋も、今はがらんとした空間となっていた。
緊急の要件は全て片付け、そうでないものは〈三日月同盟〉のヘンリエッタや、〈第8商店街〉のカラシン、〈西風の旅団〉のナズナに任せている。
こんなに部屋を広く感じたのは転居初日以来だな、とシロエはぼんやり自室を見回した。
どうせ帰ってくる頃にはまた、書類の山と海が出来上がっているのだろうけれど、少なくとも旅立ちの日くらいはすっきりとしておきたい。彼のささやかなこだわりだった。
そう。シロエは、アキバを出る。
この街の外で動く様々な思惑が火を噴く前に、すべきことがあるからだ。
〈円卓会議〉、そしてシロエ個人の持つ多くの「耳」が、この世界に響き始める不協和を捉えている。
たとえば、ミナミの巨大ギルド、〈Plant hwyaden〉。
天秤祭に仕掛けられた、処理飽和攻撃から、かのギルドがヤマト西方の〈大地人〉統治組織、〈神聖皇国ウェストランデ〉に強い影響力を持っていることが明らかになった。
また、そのギルドマスター、濡羽は、シロエ自身が開発した〈契約術式〉同様、〈エルダー・テイル〉がゲームであった頃には存在しなかった、新たな魔法を使用してみせ、あまつさえ現実世界への帰還の方法の可能性さえ示唆してきた。
彼女の脇には、旧知の人間が立っているとも聞く。
秧鶏。カズ彦。KR。〈放蕩者の茶会〉で共に時を過ごした、いずれも、一筋縄でいかない者ばかり。彼らが濡羽に協力しているのであれば、東西の関係を取り巻く事態は当初の想定以上に混沌としかねない。
次に、世界の変容。
〈大災害〉後、〈冒険者〉たちの生活が安定し、状況の観測が可能になったからこそ明らかになってきた変化は、断片が積み重なり、一つの方向性を示そうとしている。
そして、正体不明の、第三の指し手。
〈大地人〉〈冒険者〉とは異なるもの。
〈供贄一族〉や〈大地人〉の賢者が語る「大陸からやってきた天の災い」「典範に弓引くもの」。
まだ世界は動く。動き続ける。
そのために、たとえ不合理と言われようとも、しなければならないことがある。
そう。これからシロエがしようとすることは、不合理なことだ。
だから、シロエは自分一人で旅に出ると決めた。少なくとも〈記録の地平線〉の仲間は巻き込まないと決めた。巻き込むのは、事を為す上で最低限必要な〈大地人〉の賢者、一人だけ。
自分はこれからすることがせざるをえないことだと考えている。だが、後にどう評価が転がるかはわからない。ならば、汚名を仲間たちに着せるわけにはいかない。
双子と五十鈴、ルンデルハウスら年少組は、先ほど泊りがけの冒険へと出発した。
冒険斡旋所に根回しをして、この時期に適当な依頼を彼らに回したのだ。もちろん、年少組たちはそんなことを知る由もないだろうが。
あとは、残る仲間たちに後を託していくのみ。
本来であれば事前に伝えるべきだったのだろうが、後ろめたさと忙しさを言い訳に、結局直前になってしまった。
自分の不義理と人付き合いの下手さに辟易としながら、シロエは部屋のドアを開けた。
と。
「おはようございます、シロエさん」
目の前に立っていたのは、栗毛の少女。〈記録の地平線〉最年少の〈神祇官〉、ミノリだった。
しばし前に、彼女たち年少組は冒険へと出発したと記憶している。それがどうして、ここにいるのか。
「トウヤたちには先に行ってもらいました。後から追いつくからって。その……一言伝えておきたくて」
「なんだい?」
「シロエさんも、お気をつけてくださいね。あと、きちんと、自分を守ってください。シロエさん、自分のことは雑なんですから」
ミノリの言葉に、シロエは返事が出てこなかった。
この少女は、理解しているのだ。シロエが、何も言わずに、大きな企てに挑もうとしている事実を。
その上で、彼女はそのことに文句も言わず、ただ、自分の持ち場を守ったまま、自分に助言さえしてくれた。
よくできた、できすぎた少女だと思う。
なんとか笑顔を取り繕って、シロエはミノリに手を振った。
「気をつける。ミノリも、きちんと自分を守るように。ミノリの方こそ、自分の負担に鈍感なところがあるからね」
「そりゃあ、シロエさんの弟子ですから」
ほがらかに笑う彼女の表情に、ほんの少しだけ肩から力が抜ける。
こんな自分を、それでも信用してくれる後進がいる。
隣に立つ者たちの信頼とはまた違う温もりが、四肢に力を与えてくれるようだった。
「今、微笑ましい、とか思いませんでした?」
「ぇ……まあ」
「帰ってくるころには、頼もしい、って思ってもらえるように、頑張ります」
ミノリは、賢い。この少女は、主観や己の希望、欲望など、状況を分析する上でノイズとなる人として当然の感情を、極力排除して思考を展開することができる。
それは、シロエ自身が諦観の中、人間らしさの内から安くない代償を払って手にしたものだが、彼女はまだ、幼い真っ直ぐな想いを捨てずにその特性を育てている。
その奇跡のような成長は、おそらくはトウヤの存在によるものだと、シロエは想像していた。
一本気で打算のない彼が隣にいることで、ミノリは人の感情を厭うべきものと思わずにすんでいる。
その上で、彼を支えるためという理由をもって、感情と距離を離す術を身につけることができる。
もしも己の感情の暴発に彼女自身が懊悩しても、トウヤの何気ない一言がその闇を払うだろう。
トウヤがミノリをひっぱりまわしているようにも見えるが、実のところ、トウヤという錨が、ミノリという速すぎる船の迷走を留めているのだ。
「楽しみにしているよ。そっちは、任せた」
「はいっ!」
ミノリは勢いよく頷くときびすを返し、振り向くこともなく走り去っていった。
その瞬発力も、信頼も、熱情も、シロエには眩しすぎるものばかりだ。
彼女の駆けていった後をなぞるように、廊下を歩む。
「……アカツキ、いるね?」
階段を下り、ギルドホームを貫く大樹の根に差し掛かったところで、シロエは呟いた。
応えるように、小柄な黒の少女が脇に現れる。
心なしか翳ったその表情に、シロエは頭を下げる。
「ごめん。相談もなしに」
「別に、それは気にしていない」
どう聞いても、何かを気にしているとしか思えない低い声で、アカツキは否定した。
天秤祭から、アカツキはこうした不機嫌な様子を見せることが増えた。以前よりも、話しかけてくることが少なくなったような気もする。
ケーキバイキングの後には少し友人として距離が縮んだと思ったのだが、何か機嫌を損ねることをしたのかもしれないとシロエは分析していた。
アカツキは力量を認め合い、互いに信頼できる得がたい友だ。できることならわだかまりは解消したかったが、今はすべきことが多すぎる。
「今日から僕は、アキバを離れる。やるべきことがある」
「何を用意すればいい?」
「アカツキには、アキバを守って欲しい」
沈黙。アカツキは寡黙だが、決断すべきときには果断だ。そんな彼女にしては珍しい間だった。
シロエにとって意外だったのは、彼女が理由を聞いたり、反論してきたりといった反応を即座に示さなかったことだ。
アカツキはロールプレイヤーとして、そして、彼女に〈外観再決定ポーション〉を渡した礼として、シロエに付き従い、その身を守ることこそを己の役目としている。
だから、今回一番、シロエの一人旅に反対するのは彼女であると身構えていたのだ。
だが。
「それは、必要なことなのだな。主君が一人で行くことも。私がアキバに残ることも」
「うん。そうだね。アカツキには、ここにいてほしい。〈記録の地平線〉はもちろんだけど、〈水楓の館〉を特に注意して、見ていてほしいんだ」
「……主命、承った。それで……」
アカツキは顔を上げ、そして左の手を緩く掲げた。
シロエの記憶に、ケーキバイキングの夜の出来事が浮かぶ。
額を緩く撫でるあの、謎のロールプレイを連想して、彼は少し膝を曲げた。
だが、アカツキの指はシロエの首元まで近づいたところで軌道を変え、彼女自身の前髪を横に払って、再び腰の短刀の柄に添えられた。
「……いや、なんでもない。武運を」
中腰になったシロエを残し、アカツキはその気配ごと部屋から消え去った。
やはり、唐突に告げたことに、気分を害されたのかもしれないと、シロエは反省する。
それでも、怒鳴りつけなかったのは、アカツキが大人である証拠だろう。
ともあれ、これで最大の難関は越えた。
あとは直継と、にゃん太に後を任せれば、心置きなく北へと向かうことができる。
「なんだよ。水臭い祭りだぜ。水道トラブル5,000G、トイレのトラブル8,000Gだぜ」
そして、勘のよい親友は、呼ぶまでもなくギルドホールの入口に立っていた。
「直継、しばらく街の外で動く。他言無用で頼むよ。後はお願」
「断る」
1秒で断られた。
魔王から仲間になれと勧誘された勇者ですら、もう少し話をきちんと聞くのではなかろうか。
「いや、アキバを」
「いやだ」
「っ、ミナミじゃ秧鶏たちが」
「それがどうした」
話にすらならない。言葉すら聴いてもらえない。これでは理屈で論破する以前の問題だ。
直継は口調こそ軽いが、決してわからずやではないはずだ。
改めて、シロエは親友の表情を確認する。直継に、いつもの微笑みはなかった。真っ直ぐ太い眉を吊り上げて、腹から響く声でシロエの反論を片端から迎撃している。
「なんで……」
「なんでもなんもあるか。ちみっこも本調子だったら、俺と同じことを言ってたと思うぜ。シロ、今日鏡みたか? ひどい顔祭りだぜ」
「……どんな顔?」
「手足に鉄球繋いで海水浴行こうって顔だよ。理想に溺れて自沈祭だ」
「地鎮祭ってのはあながち間違いじゃないんだけど……そういう意味じゃないよね」
直継は口を真一文字に結んで、腕組みをしている。
ただでさえ長身の彼がそうやって立ちはだかると、独特の威圧感がある。
なるほど、これで鎧と盾を構えれば、敵から見れば圧倒的な壁に見えることだろう。
彼がシロエに対して、こんな表情を見せることは多くなかった。しかし、皆無だったわけではない。
その数少ない事態の理由は、確か。
「……オーロラ遠征1回目だ」
ぶっきらぼうな直継の言葉に、シロエはそのときのことを思い出す。
〈エルダー・テイル〉がまだゲームで、〈放蕩者の茶会〉というプレイグループがまだ活動をしていた頃の記憶。
リーダー格のカナミの思いつきから始まった、海外サーバーへの遠征企画。
白夜とオーロラを見に、欧州サーバーへと遠征に向かう企画立案を、シロエは行った。
その準備は、入念な調査と用意、そしてスケジュール管理の下進められ、そして、その前日、シロエは不運にも、体調を崩した。
若干のだるさはあったものの、判断が鈍るほどの不調ではない。そう判断して、シロエはいつも通り仲間たちと作戦会議にいそしみ、そこで、直継が突然ログアウトをしたのだ。
三十分後、シロエ……城鐘恵のアパートへと、直継……葉瀬川直継が訪れた。
彼の自宅から恵の家へは、自転車で1時間はかかるはずだ。それを、彼は無理を押して全力疾走で駆けつけたらしい。
直継は恵の家へ上がりこむと、無理やりに彼の額に手を当て、そのまま無言で足払いをかけて彼を背負い、ベッドに放り投げて毛布をかけ、お湯を沸かして湯飲みに注いで梅干と鰹節を放り込んで恵に突きつけた。
ボイスチャットの声が変だった、と直継は言った。たったそれだけの理由で、彼は夜中にここまでやってきたというのだ。
そのあと、体温計を脇にねじ込まれ、体温が39度ある事実を突きつけられて、翌日病院に付き添われてインフルエンザの診断を受けるまで、直継は仏頂面で恵の看病をし続けていたのだった。
結局、オーロラ遠征の1回目は延期となり、城鐘恵は一週間の安静を余儀なくされた。
あのときも、直継はこんな顔をしていた。
眉を吊り上げ、だが、こちらを責めるわけでなく、諦めるような、気遣うような、そんな表情。
「シロエち、ここは二人で行くといいですにゃあ」
二人の沈黙を割ったのは、穏やかな声の猫語だった。
エプロンをつけた〈猫人族〉にゃん太が、二階のキッチンから降りてきたのだ。
自分たちは思いのほか大きな声で言い争いをしていたらしいと、シロエは初めて気づく。
「我輩老人ながら、今度こそ家の縁側を守ろうという気概くらいはありますにゃあ。それとも、アカツキちと我輩だけでは、不安ですかにゃあ?」
「いえ、そんなことは」
「でしたら、直継っちを連れて行かない理由はありませんにゃ?」
理由はある。
シロエがこれからやろうとすることは、理解してもらいづらいことだ。
人は動機の生き物である。納得できる理由がない状態で労力を払わせることは大きなストレスだ。
そんなことを、この親友に強いるわけにはいかない。
「理由なんて、シロが必要だと思ってるからで十分だろ」
「……口に出てた?」
「顔に出すぎ。夏の子ども会の素人映画投影祭りだぜ」
「なにそれ」
「とにかく決まりだ。40秒で支度するからなっ。シロはそれまで色々反省文でも書いとくこと!」
直継はシロエの肩を叩くと、階段を駆け上っていった。
三階の彼の自室には、一昨日納品されたばかりという最新鋭の防具がしまってあるはずだ。おそらくはそれを装着しに行ったのだろう。
「……シロエち。直継っちに謝ったりしないことですにゃ」
「班長、そこは謝っておくように、って言うところじゃないんですか?」
「謝るのは悪いことをしたとき。迷惑をかけたとき。シロエちは正しくあろうとし過ぎ、迷惑をかけないようにし過ぎなのですにゃ」
「別に、そんな立派なことは考えてないですよ」
「そう。迷惑を全然かけないことは、逆に立派なことでないこともありますにゃ。頼ってほしい、心を開いてほしい、手伝わせてほしい。そう思う人だって、いないとも限りませんからにゃあ。……と、いやいや。年を取ると、お節介が増えていけませんにゃ。旅立つ二人にお弁当でも用意させてもらいますにゃあ」
にゃん太がキッチンへと戻り、シロエはギルドホールに取り残される。
シロエは手近な椅子に座り込んで天井を見上げた。
〈円卓会議〉を創設して、〈自由都市同盟イースタル〉と友誼を結んで。世間的にはそれらの立役者である〈腹ぐろ眼鏡〉は悪辣な知恵者ということになっているらしいが、現実はこんなものだと恥ずかしくなる。
友人に助けてということもできず、自分ひとりで抱え込んで、悩んで、回り道をして。
年ばかり重ねて、大学院まで進学もしたが、本質的には賢さなどとは無縁な子供だと思う。
リ=ガンはシロエのことを大魔術師だと言うが、そんな器ではとてもありえない。
しつこいほどに下準備をしておく気長さが自分にはあるだけ、というのがシロエの自身に対する評価だった。
目を閉じて、戻ってくる直継とにゃん太に何と伝えるべきか思考する。
謝るな、とにゃん太は言った。
直継は、迷惑をかけまいとしすぎるシロエにこそ苛立ったのだから、と。
ならば、口にすべき選択肢は、多くない。
「……ありがとう、か」
長い付き合いだが、改めて面と向かってそう言うことは多くなかった気がする。
言えるだろうか。言えないかもしれない。それでも、言おうとは努力することにしよう。
階段を下りてくる足音を聞きながら、シロエは口の中で、その言葉を繰り返した。
〈大災害〉という騒動でうやむやになってしまった親友への感謝に、きちんと決着をつけるために。
次の物語へと歩を進めるために、それはきっと必要なことであるはずだから。