事件編(3)
「……ここはどこだ」
硬い床で彼は目を覚ました。
周りを見ると病気をこじらせているのか苦しそうに呻く患者や、真っ赤に染まった包帯で身体をぐるぐる巻きにされた兵士たちが横たわっている。
前線の診療所、或いはそういう名目の死体置き場か。軍医らしき者の姿が見えないから、恐らく後者だろう。ぐんとあふれる死臭に彼は吐き気をもよおし、何とか立ち上がってふらりとその場を離れた。
廃墟同然の建物から出て、草が踏み分けられている獣道を呆然と歩いて行く。
「おい、そこのお前!」
ふいに声がかけられた。殺気と緊張に満ちた声だ、前線の兵士はみんなこんな声をだす。そちらの方を見ると、案の定兵士が二人、彼の方へ歩いてきていた。
──よりによって敵兵だった。
「ここで何をしている」
「俺は放浪者だ、家が無いからすることもなくうろついている」
そんな言葉が咄嗟に出た。故郷を焼かれて戦場を彷徨う人間は多い。できればそんな危険なところに居たくはない、だがそれほど、この世界は広くないのだ。もはや、戦場でない場所など故郷をおいて他には無い。
「ふん、そうか」
兵士は納得したようにそう呟くと、唐突に剣を抜いた。その鈍く光る刃を見るや、彼は咄嗟に右腕で庇う。鋭い痛みが腕に一閃走り、彼は悲鳴を上げた。
血が噴出す腕を抑えてよろめき、背中が木にぶつける。そこに畳み掛けるように、彼の血で濡れた剣を掲げて兵士が詰め寄ってきた。
「有り金を出せ。食料もだ。そうすれば二度は勘弁してやる」
「か、金……」
彼は必死で衣服のポケットを探ったが、塵しか入っていない。
「……無い」
すると、兵士は残念そうな素振りを見せず、ごく当然のように、
「そうか……時間の無駄だったようだ、おやすみ」
にべもなく言って、何の躊躇いもなくその剣を振りかぶり──彼に突き刺す寸前でその手は止まった。代わりにその兵士の左胸から真っ赤に血で濡れた刀身が突き出てきた。
「なっ──」
もう一人の兵士が叫んだが、次の瞬間には首筋から血を吹き出して倒れこんだ。
二人の人間が目の前で斬殺された。その事実を整理し終わった時、彼のはようやく誰かが自分のことを助けたのだということに気がついた。
「無事か?」
その人物は剣を死体から引き抜きながら訊ねた。彼はがくがくと頷く。
「私は連合国軍三十二分隊隊長のギューダーという者だ。貴様、故郷を焼かれて逃げ延びた人物に見える」
「その通り、だ……」
腕の痛みを必死でこらえながら、何とか返事をする。ギューターと名乗った者は、周囲を見渡しながら訊ねる。
「ゆくアテはあるのか?」
「な、無い」
「なら、私の分隊に加われ。戦力は一人でも多い方がいい。──大義の為に戦え」
故郷を追われ身一つで放浪する者を、戦場でスカウトすることはもはや当たり前のように行われていた。それは戦争が長引き、もはや新兵を訓練する暇どころか募る時間すら無いことを示している。
「……分かった」
彼はほとんど二つ返事で了承して、その行軍に加わった。
彼の所属した部隊は前線への援軍だった。彼にはほとんど戦闘経験など無かったが、周りにも同じような仲間が多く居た。そういう人材を前線へ送る必要があるほど、戦争は長期化し国は疲弊していたのだ。
戦争というものは劇的でもなんでもない。早送りでもしているかのように事態が進んでいく。誰かが倒れた、どこかに爆弾が落ちた、どこから敵が来る、どこの分隊が全滅した、どこの拠点を奪取された。
最初は自分が人を殺すなどとは信じられなかった。
何故だか正当化されて大義名分化された殺人を、彼は必死で泣きながらやった。そうでないと、仲間が死んでしまう。しかし、自分が殺めているのは自分とほぼ同型の動物だ。剣を刺した感触は紛れもない事実なのに、そこに伴う痛みが全くない。これほど苦しいものはなかった。痛みがあった方が数倍楽だ。上官は、いつか慣れる、と言ったが、何人殺しても全く慣れることなどなかった。
彼はさっさと死んでしまったほうが良かったのかもしれない。
だが、何故か彼は生き延びた。
部隊が彼以外全滅という事態も多々あったので、彼は部隊を転々としていった。そうしていつまでも、延々と心臓に刃を立て続けた。黙々と、涙を散らしながら嗚咽を漏らしながら、時折狂いながら。
死ぬ寸前の人間は、誰もが助けを乞うていた。誰もが絶望を顔面に貼り付けて、狂ったように手を伸ばしては地面に骸を落とす。誰だってそうだった。
何度も何度も何度も何度も、何百人もの死に際を、彼は目の当たりにしていった。
もう、その死顔は瞼の裏に張り付いて、取れない。
「……」
粋人は我に返った。頭全体が燃えるように熱い。心臓が壊れたポンプのようにばくばくと鳴り、呼吸がかつて無いほどに乱れていた。──何だったんだろうか、今のは。
「やっと戻ったか!」
雹の叫び声。
「ほんと? はああ、疲れたあ」
アメリーのそんな疲弊の窺える言葉とともに、身体がふっと楽になる。しかし、長距離を全力疾走した後のような感覚に、粋人は仰向けでただ荒い息を垂れ流すだけで動くことができなかった。視界に飛び込んできた掛け時計は、もう朝の八時を過ぎたところを指していた。
「お前の寝相は歴代最悪だ」
雹は粋人の顔を覗きこんできて言った。「アメリーを連れてきておいて正解だった」
「ホントだよ、もう!」
アメリーは同意の声を上げて、ペットボトルのスポーツ飲料を口に流し込む。
「えっと……、僕、なんか、しました?」
粋人は乱れる息に乗せてほそぼそと訊ねると、雹は粋人の脇から退き椅子に深く腰掛けながら答えた。
「一部の人間は、記憶を取り戻すとその凄惨さに発狂するんだ。全くそういう世界に無縁な、平和な世界に生きてきた人間だと尚更な。お前に限った話じゃないがな、でもお前は特に酷かった」
「だからその見張り役は毎回、雹ちゃんだった訳なんだけど……、私が居て良かったよホント」
タオルでばたばた風を起こして顔に浴びながら、アメリーが言う。
「……あれが、『記憶』、ですか」
粋人は今見た、夢にしてはあまりにも生々しすぎる光景を思い浮かべ、肌を粟立たせながら訊く。
「ああ、そうだ。いわば前世のようなものだな」
「……ど、どういうわけなんですか。な、何故僕はあんな場所に……」
「あれは全く別の世界だ」
雹は語り慣れた昔話をするかのように、
「今、私達がいる世界とは、全く違う空間、時間軸に存在するパラレルワールドとでも言うものか。我々は『大陸』とか言ってはちっぽけな島を取り合って、戦争をずっと続けていた、連合国軍と帝国軍に別れてな。双方の文明は大体ヨーロッパ中世ほどのものだったが──、異常なことにもうあの時点で核爆弾のようなものが存在していた」
「核……」
彼の脳裏に記憶の光景がフラッシュバックする。彼の故郷が焼かれた時に見た、あの雲は核爆弾の煙だったのか──。
「大陸中は汚染され尽くし、もう人が住めない環境になってしまった。そんな時に、連合国軍の科学者が発見したんだ、『この世界』をな。──皮肉なことにバーターが人間に与えた能力によってだがな」
「バーター……」
「記憶にあっただろう。お前もそいつと何かを対価にして契約したはずだ。ここの住民は、全員あいつと契約を交しているからこそ、ここに居る。……『大陸』の人間たちは必死で違う世界軸に移動しようとして研究に研究を重ね、そして実現したからこそ私達はここに居る。分かったか?」
「やっと、わかりました」
粋人はようやく落ち着いてきて、半身を起こした。「やっと納得が行きましたよ。雹さんが積極的なのも……こんな『記憶』を消したいからなんですよね。──『男だった時代』っていうのは、この『記憶』の中での雹さんのこと、ですね」
「……ああ」
雹は何かを思い出すように、目を伏せて言った。だがすぐに視線を上げ、粋人の方に向ける。
「それで、お前は自分の能力について思い出したか?」
「……そういえば。えっと、全く……」
「……全く? 覚えてないのか?」
「ええー! 私はそれを楽しみに、発狂する粋人を抑えこんでたのに!」
アメリーが声を上げた。粋人は慌てて記憶をひっくり返し、それについてのヒントを探そうと思ったが、全く心当たりがない。というか、それについての記憶が丸まる抜けているのだ。知りようがない。
粋人は何だかひどく申し訳ない気分になってきた。
「す、すいません……」
「気にするな。実は、ここで答え合わせをしようと思っていたのだが、私にひとつ、仮説がある」
それも予想の範疇だと言うかのように、雹は泰然としていた。
「仮説、ですか……」
「ああ。まず、対価についてだが、お前の言動を見て真っ先に覚える違和感が答えだろうと睨んでいる。お前が、バーターに差し出したのは、自分への執着心だろう」
自分への執着──とは、一体、何か。
そう問いかけようと口を開きかけた時、どこかで大きな音がした。粋人は驚いて身体をすくめる。あまりに物々しい音だったので、少ししてようやくドアを激しく叩く音と気づいた。
ノック音と粋人が理解した時、雹が何か異変を察知して椅子から腰を上げた時には、もうアメリーが既に玄関に駆け寄り扉を開け放っていた。
「ウォルトはいるか!」
マティアスの焦燥を孕んだ怒声が飛び込んできて、粋人はまた驚く。
それに対して、アメリーは至って冷静だった。
「いないけど、どうかしたの?」
「アイツの力が必要なんだが、どこにも居ないんだ! クッソ、こんな時にどこいったんだよ、アイツは!」
マティアスはそう叫び散らして駆けていった。
「……誰かに、何かあったのかな?」
雹とアメリーが廊下に出て行ったので、粋人もその後に続いた。誰かの部屋のドアの前で、桜葉とニノンが佇んでいる。その扉の前まで来ると、雹が表情を変えた。
「……この臭い……」
一切の油断が表情から消えるのを見て、粋人は本当に良からぬことが起こっていることを察する。
問題が発生しているのは、ラニエロの部屋のようだった。
「いくらノックしても反応がない」
桜葉が英語で吐き捨てるように言った。普段は落ち着いていている彼だが、今はかなり動揺しているように見え、言葉遣いが荒くなっている。
「鍵が締まってるの? マスターキーは?」
アメリーが顔に緊張を浮かべて訊ねた。桜葉は鍵束を見せながら答える。
「使ったがどうやら、内側からカンヌキがかかってるらしい、壊すしかない」
「だから今、マティアスがウォルトを探しに行ってるんだけど……何処に行っちゃったんだろう」
ニノンが困り切った顔で言う。どうやらウォルトの馬鹿力でこの扉を破ろうというつもりらしい。確かに、この状況ではそれが一番手っ取り早いだろう。
ウォルトが駆けつけるまでの間、桜葉と雹とで幾度も体当たりを繰り返してみたが、扉はびくともしなかった。もともと外開きの扉なので、尚更開きにくい。何度もそうこうしているうちに、あの独特な金属がぶつかり合う音が聞こえてきた。
「コイツ、研究室のあるフロアにいやがった、道理で見つからないハズだ! 早くこのクソ扉をぶち壊してくれ!」
連れてきたマティアスが怒鳴る。ウォルトはひとつ大きく頷くと、思い切りその扉を蹴っ飛ばした。すると、扉は凄まじい音を立てて破壊されて、部屋の内部が覗けるようになる。
が、まず飛び込んできたのは視覚的な情報よりも、嗅覚的な情報からだった。
部屋の中からあふれる死臭の奥には、血の海の中にうつ伏せて倒れているラニエロの姿があった。
「ラニエロ・マッサーロの死亡を確認した」
雹は椅子に腰をかけながら言った。
事務的な椅子と長机、そして前方にホワイトボードが二つ並べられた会議室には、ニンギアルの住民が並んで座り、それぞれ沈痛な面持ちを浮かべている。
ラニエロ、が死んだ。つまりこの外部へと脱出しようが無い施設で死者が出た。この事態を収集するには、まず全員で情報を共有して話し合わなければならない。
雹が前に出て取り仕切ってるのは、此の中では最も冷静だ、という桜葉の言葉によってだった。本来なら桜葉が出てくるのだろうが、血の気の引いた顔を見る限りそれは難しいと雹も思い、引き受けた。
雹は話を続ける。
「私とセイディとで簡単な検死はしたが、専門家ではないからな、正確とは言いかねるが目安にはなるだろう」
「……死因はたぶん、鋭い刃物で刺されたことによる失血死。死亡推定時刻とか……分かんないけど、そんな経ってないはずよ。今日の午前零時から六時の間ってところなのは間違いないわ」
セイディは至って冷静に報告をした。彼女は自分をメディックだと言った。その治癒能力は恐らく、その『大陸』での戦争時代でも遺憾なく発揮されていたのだろう。となると、彼女は恐らく膨大な数の怪我人、そして手遅れになった死者たちを見てきたことになる。──そう考えると、これほどの落ち着きぶりは、この状況的には助かるのだが、運命的な皮肉を感じる。
「致命傷になったとおもわれる刺傷以外に外傷はない。傷口の角度と強さからして、自分で刺したとは思えない。これは殺人だ」
雹は頬杖をつき、もう片方の手の指を二本立てて言った。
「不可解な点が二つある。あの場に居合わせた者は分かるだろうが、カンヌキがドアの内側からかかっていた。これをレインに破ってもらったわけだが、中には死体だけだった。つまるところあの部屋は密室だったというわけだ。……そして、もう一つ、ラニエロ・マッサーロは防刃チョッキを着ていた」
「防刃チョッキ……ってことは、ラニエロは刺されることを見越していたってこと?」
アメリーが言った。雹が見るところでは、恐らくこの場で彼女が一番動揺していない。それはその常人離れした反射神経を得るために支払った対価が、悲しみを理解する心だからだ。アメリーが今、持ち合わせている負の感情は、恐怖──この中に居るであろう殺人犯に、自分も殺害されるのではないかという恐怖だけだろう。
それにしても、良い所をついてくる。雹はアメリーの発言に頷いて、
「恐らくそうだ。昨日、私は地下の倉庫でラニエロと遭遇したのだが、恐らくその時に持っていったんだろう。だが相手の力、或いは技術がそれ以上で、結局殺られてしまったと考えると一応筋が通るが」
「おい……、それでもアイツは未来予知を持ってたんだぞ。やっぱり無理だった、なんてことがあるわけないだろう」
マティアスが突っ込んできたが、それは全くもってその通りだ。もし、刺されて死ぬことが不可避なのであれば、誰かの部屋に庇護を求めても良かったはずだ。
そこへセイディが口を開いた。
「考えられるとすれば、『防刃ベストをラニエロが手にとった瞬間』には、殺される未来が無かった、ってことね。でも、何かが起こって来るべき未来が変わった」
「なるほどねえ、そう考えれば辻褄合うね」
アメリーが頷く。「チョッキについてはそのくらいで良いと思うけど……、あの密室はどうやって説明すれば良い?」
未来がねじ曲った「何か」が気になるが、密室についても気になるところだ。
「あのカンヌキは最初からついていたものではなく、ラニエロが独自に取り付けたものだ。あの扉は外開きだが備品庫にあるものは内開き用のものだったようで、半ば強引に付けたらしい。だが、今もちゃんと扉に残ってる、血まみれだがな」
雹がそう発言したのを最後に、その部屋に沈黙が落ちる。多くの人間が、鍵を開けても扉は開かなかったところ、桜葉と雹が体当たりをしても扉は動かなかったこと、そして最後にウォルトが扉を蹴破ったところを目撃している。
誰が見ても分かる密室という状態。誰も進んで触れようとはしないのも無理は無い。
しかし、少しすると痺れを切らしたようにマティアスが叫ぶように言った。
「密室なんてどうだっていいじゃねえか! 問題は、誰がアイツを殺ったかっていうことだろ!」
「だ、誰がって……この中にラニエロを殺す人なんて居ないよっ!」
部屋に緊張が走ると同時に、すぐニノンが反駁した。声は震えているし、目が赤くなっている。──雹にとって信じがたいことだが、ニノンはラニエロと仲は悪くなかった。彼が死んで、そのショックで泣きはらしたかしたのだろう。この場においては、至極真っ当な反応と言える。
予想外のところから反論が来たからか、マティアスは気まずそうに顔を歪めて言う。
「オレだってそう思いたいがよ、でもどう考えたって内部犯だろ。外部犯が入ってくる方法がまず存在しない」
「……で、でも……よくマティアスとウォルトが使ってる屋上みたいなトコから入ってこれるよ!」
「──それについてですが」
桜葉が口を開いた。「まず不可能です。外側は断崖絶壁で高さは相当有りますし、ヘリなどを用いて侵入しようとすれば警報が鳴ります。先ほど、チェックして来ましたが、警報が鳴らされた履歴も無力化された痕跡もありませんでした。正面玄関にあたるあのエレベーターも同様です」
「……でも、そんなわけないよ……」
ニノンはぐっと俯いて黙ってしまった。雹には今、彼女がどんな気分で居るのか分からない。できれば錯乱をしないでくれるとありがたいが。
部屋の中に重たい空気が流れる。雹はとりあえず話を進めるべく言った。
「この殺人はほぼ確実に内部犯の犯行、この中の誰かが犯人だ。そいつの真意は分からないが、また誰かが殺されたら困る。よって、我々は犯人探しをしなければならない、が──」
「外部からの捜査員は呼べません」
桜葉が固い口調で言った。「つまり、私達だけで犯人を見つけなければいけないんです」
「……何で?」
アメリーが神妙な面持ちで訊ねる。
「ここの存在はトップシークレットの中でも特に重要度が最高なんです。ここの存在を知っている人間はなるべく少なくなくてはならない。何故だかわかりますよね、あなた達の特異な能力の存在が漏れる所に漏れれば、あなた達の身が危うくなるんです」
「……そこで桜葉と少し話して決めたんだがな、私はアンドレイとスウェーデンへ行く」
雹は言った。「不死身の探偵を雇いにな」
「おいおい、聞いてないぞ、何の話だ」
会議室を出るなり、アンドレイが驚いた顔で食いついてきた。雹はうんざりとしながら答える。
「今は傭兵を拾いに行くために光学迷彩を開発してもらっているが、その前に動けない不死身の馬鹿野郎の居場所もわかってるって話をしただろ」
「ああ、身体の自由を差し出したっていう奴か」
「バーターが流石にそれは気の毒だと思ったんだろうな、条件付きで動けるような契約になったらしい。それは、誰かから何か依頼を承けることだ。その依頼を達成するまでの間は、自由に動けるようにする。──ただし、依頼人が不満と思って依頼を取り消しにすると、命が絶たれる」
「……なんというか、今の状況におあつらえられたような客人だな。というか、そんなことわかってるなら、もっと早くに連れてこれたんじゃないのか?」
もっともなことで、雹も当時はそう考えた。
「お前がニンギアルに合流する前に、一度行ったことがある。だが、断られた。もっと重大な依頼じゃないとついて行かない、と言っていてな。最重要機密級の依頼より重大な依頼なんざ存在しないと思ってるらしいが、最重要機密より更に上の依頼なら流石に受けるだろう──ちなみに、頭は相当キレる。相当、クセはあるがな」
「……期待しておこう」
アンドレイは勘弁したように言った。
「……ねえ」
背後から声をかけられたので振り返ると、ニノンが二人の傍に立っていた。その表情には、心中に渦巻いているであろうあらゆる不安が浮かんでいる。
「ここに居る人達がラニエロを殺したなんて……嘘、だよね?」
どういう心境で彼女がそう言っているのか雹には想像がつかない。
雹がなんと答えようかと逡巡している間に、アンドレイが諭すように言った。
「──なあ、ニノンさ、お前がそう思うのも無理は無いだろうが……、このことについては俺達に任せて、お前はお前のできることをするのが一番いい」
「できること……」
「ああ、例えば……、おい、アイツは平気なのか?」
アンドレイの声に雹がそちらの方を見ると、ぐったりとした粋人を支えて歩く桜葉の姿があった。
「桜葉、そいつはどうした」
「どうも遺体を見てしまって気持ち悪くなってしまったみたいで……」
そう言う桜葉の表情にはいつもは上手く隠せている疲れが滲み出ている。それを見た雹はニノンとアンドレイに向けて言った。
「桜葉の代わりに比佐志を部屋に連れていってくれ。私は桜葉と話がある」
「あぁ」「……うん」
二人は素直に頷いて、粋人の肩を持って彼の部屋へと向かっていった。その背中を見送りながら、雹は桜葉に訊く。
「桜葉、大丈夫か」
「何がですか?」
桜葉は本当に分かっていないのか、そう返してきた。相変わらず施設の管理が出来ていても、自分の管理については不十分な男だ。
「精神と体調に決まってる。ただでさえ、国家機密を単身で管理してる身なんだ。……今は私に任せてお前も休んでおけ」
「ああ……そんなこと……、いえ、どうも、すいません」
桜葉は自嘲めいた微笑を浮かべた。それからその黒い瞳をまっすぐ雹に向けて、
「それにしても、どうしてこここまで尽くしてくれるんです?」
「……忘れるな。私は自分を中心に動いている、この『記憶』を消すために今までも、今も動いているんだ。それが阻害されたら苛立ちもするし、手助けしてくれる人間のことを心配したりもする。それだけだ」
「……あなたらしいですね」
「……できるだけこちらも一日で戻って来られるようにする。なんとか気張れよ」
雹はそう言うと黒いローブを翻して、桜葉の元から歩き去った。