事件編(2)
夕方になると、粋人の部屋は見違えるほどに変貌した。朝は開店前のモーテルさながらだった部屋が、客を待つホテルの一室のような様になっている。ベッドのシーツと壁紙を変えて、置く家具を増やしただけでここまで変わるものなのか、と粋人は感心する。
「えっと……、今日は手伝ってくれて本当にありがとう」
彼は手伝ってくれた四人に礼を言った。
「へへ、どういたしまして~」
「こっちもいい暇つぶしになった」
「……わ、わたしなんかで良ければいつでも……」
ニノンは嬉しそうに、マティアスは白い歯を見せて、菊蘭は下を向いて言った。ウォルトはただ立っているだけでうんともすんとも言わなかったが。
「あー、腹減ったなあ。オレ、先に夕飯食ってくるわ。ニノンも一緒にどうよ?」
マティアスがニノンを誘ったが、彼女はあまり空腹でないらしく首をふる。
「うーん、あたしはまだいいかなー」
「そうか。菊蘭はどうだ?」
くるりと首を回して菊蘭の方を向く。彼女は一瞬驚いたように身体をすくめたが、小さく口を開き、
「わ、わたし……何か食べたい……」
「おっし、じゃあ桜葉になんか作ってもらうか。ウォルトも行くだろ?」
マティアスの質問にウォルトは一回だけ頷く。粋人は今日初めて彼が意思表示をしたのを見た気がしたので、新鮮な光景だった。
「えっと、僕は荷解きをするから夕飯はあとで食べるよ」
「じゃあ、今日のところは解散ね」
ニノンの一言で、一同はぞろぞろと粋人の部屋から退室していった。
誰もいなくなった部屋で、粋人はさっさと荷解きを済ませると、ベッドに腰掛けてぼんやりとしていた。テレビも日本製の今出回っている中では一番新しいものを運び込んできたが、なんとなく見る気も起きない。腹もさして減っていないので、マティアス達に続くことも憚られた。
そういえば、昨晩ラニエロにもう一度会おうと言われたことを思い出した。もしかしたら、それがずっと引っかかっているのかもしれない。今日、彼と一度も会わなかったが、彼が行きそうな場所はどこだろうか。
ラウンジ。思いついた粋人はすぐに行動に移る。別段、盗る物も者も無さそうだが、なんとなく日常的な癖で施錠をしてからラウンジに向かった。
ラウンジにラニエロは居なかったが、セイディが扉に背を向けて椅子に座っていた。粋人の入室に彼女は驚いたように振り返る。
「……粋人。どうしたの」
「えっと、部屋に籠ってるのもつまらないので……」
日本語で問われたので、彼も自然と日本語で答えていた。今日はこれまでずっと、ほぼ無意識のうちに英語かフランス語を使っていたのだが、やはり母国語となると喋っていて安心感がある。
「セイディさんは何を?」
「……ご飯」
セイディは小さな声で答える。なるほど、彼女の目の前にはスープの皿が置かれていた。
粋人はセイディの向かい側の椅子に座った。彼女はちらっと彼の方を窺ってから、スープを一口啜る。コーンポタージュだ。セイディは無条件の治癒能力を持つ代わりに食欲をまるまる失っている。やはり固形よりも流形のものの方が食べやすいのだろう。
「これ、霊が作ってくれたの」
粋人の視線が気になったのか、セイディは言った。
「そうなんですか」
「そう。……わたしのために、特別にね」
そう言ってセイディはまた一口、スープを口に流しこむ。
「大変ですね、食欲が無いって……、食事は毎日とらなきゃ駄目なのに、そうしたいと思わないんですよね」
粋人が素直に思ったことを口にすると、セイディはくだらない、とでも言うかのように目を伏せた。
「──もう、慣れたわ。燃料補給みたいなものよ。油断してると菊蘭みたいに倒れちゃうけど」
「空腹で、ですか」
粋人の言葉にセイディはこくりと頷いた。それからまた一口啜る。燃料補給、まさにその表現がぴったりな様だった。淡々とエネルギー源を口の中に放り込んでいくだけの、生きるために消費する空白のような時間を、セイディは一人で過ごしていた。なんとも不憫だと、粋人は思った。
「僕もあまり空腹を感じないんですよ」
そんな思いから、粋人は自分から会話を始める。
「そうなの?」
スプーンを口につけたまま、セイディはそれが冗談かと思っているような調子で言う。しかしながら、それは本当のことなので粋人は言葉を続ける。
「はい。今までもそうなんですけど、夕飯時になってもあまり食欲が無い時が多くって」
「……何となく、意外だわ」
セイディはスープをすくい、表情を隠すようにスプーンに口をつける。信じてくれたかどうかは不安だが、それほど悪い印象を与えたわけではないようだ。
そんな時、ラウンジの扉が開いて誰かが入ってきた。粋人とセイディがそちらを見ると、雹がいつもの漆黒のローブを纏って立っていた。フードは被っておらず、氷のような何の表情を見せない目で粋人を捉えている。
「ここにいたか」
雹が日本語で言った。粋人が何の用か、と訊ねる前にセイディの方が先に口を開いていた。
「何の用よ」
いきなり言葉の槍を投げつけられても、雹は全く動じること無く切り返す。
「お前に用はない。比佐志に用がある」
「あっそう」
セイディは不機嫌そうに言って、そっぽを向いた。粋人はセイディと初めて会った時、彼女が雹について疑いを持っていることを話していたのを思い出す。そんな彼女の様子を見た雹は、面倒くさそうに言った。
「エックルズ、やけに私を敵視するが、何故だ。お前に何か嫌われるようなことをした覚えはないんだが」
「……別に敵視なんてしてないわよ」
小さな声でセイディは言う。だがすぐに声音を上げて、
「けど、なんかムカつくの。あんたはわたしよりも後に来たくせに、霊とあんなに仲良くなって……、わたしが知らないうちに霊はあんなにあんたを信頼しちゃって、仕事まで一緒にやっちゃって、……生意気で気に入らないのよ。わたしの方が、ずっと霊と一緒に居るのに……」
粋人は呆気にとられてそれを聞いていたが、そこで雹が興味なさそうに口を開いた。
「……なんだ、嫉妬か」
「べ、別に嫉妬なんかじゃないわ!」
セイディは首を大きく振った。雹は眉をひそめ、重たそうな息を吐く。
「その発言と態度、嫉妬の他に何がある」
「知らないわよ、そんなの! でも……、もしあんたと霊がそのままお互い男女としてくっついたら、とか考えると……、凄く、凄く腹が立つの!」
「……そんな勘違いをされるとは、迷惑甚だしいな」
雹はもはや感情を全く見せない、のっぺりとした表情で言った。
「アジア人の男は欧米の女にモテないと聞くが、例外もあるみたいだな。だが、このままそんな敵愾心を向けられても困る、敵は少ない方がいい。だからそのくだらない妄想を否定してやる。私が桜葉と男女の関係になるはずがない、とかいう」
「な、何。も、もしかして、もうほかの人と……ってこと? そ、そうなると……あのロシア人の人なの!?」
「真面目にやってるのか、お前は……」
今にも噛み付きそうな勢いで赤い顔になるセイディを見て、粋人も雹と同じような心境になっていた。意外とそういう方面に敏感らしい。歳相応の感覚と考えれば、それはそうと頷けてしまうが、もう少しクールな性格なのだと思っていた。
やれやれといった様子で、雹は手頃な椅子を手に取ると深く腰を掛けて足を組んだ。
「まだエックルズが幼いとはいえ、長い付き合いになるな。でも理解できないと思って、私の特異について話したことはなかった。そんなはた迷惑な思い込みを払拭するためにも今説明しておく」
「……」
子供扱いされてムッとしたのかセイディは反応せずに、スープを口に運んでズズズとわざとらしく音を上げた。雹はそんな態度も気にした様子を見せず、
「私の身体は暗殺に特化しているが、もちろん対価を払っている」
雹は粋人とセイディに視線を交互に向けながら言う。
「──私には性欲がない」
一瞬、沈黙がその場を包んだが、すぐにセイディが口を開いた。
「……そんな告白で、わたしが動揺すると思う?」
「ならそのスープに沈んでいるスプーンは何だ」
「…………」
セイディは恨めしげに雹を睨んでから、悲しげに皿の中を見つめた。
「だからそんな色恋沙汰など私とは無縁、別段いい男を見ようがなんとも思わんからな。お前が気に病む必要性など、皆無だ。ついでに興味深い話として付け加えておくが、見ての通り私は女にしか見えない、だが遺伝子の情報は男を示してる。身体は女だが、設計図は男、つまり半陰陽。男にも女にも性欲の湧かない私にお似合いな身体だとは思わないか」
「……同情してもらいたいわけ? わたしだって食欲がないのよ」
皿の中からコーンポタージュまみれのスプーンを拾い上げ、ナプキンで拭きながらセイディは言う。雹は自分のことを見ないセイディの目をじっと見ながら反論する。
「だからついでの話だと言っただろ。同情なんて生臭いものは要らん」
「……もしかして、その話し方もそういうところを意識してるわけ?」
セイディが脇目で雹を見て言ったことに、雹はおどけるように少しだけ首をかしげた。
「……日本語だと顕著にそういうところが出るが、この口調は『昔』のまま変えていないだけだ」
「──どういうこと?」
セイディの質問に、雹は視線を落とし薄く口元に笑みを浮かべて、答えた。
「男だった時代があったというだけのことだ」
「……なるほどね」
セイディは立ち上がって、皿を持った。「どうしてあんたがあんなに積極的に動いてるのか、ちょっと……というかすごく疑ってたけど……、性欲を捨てたって聞いてだいたい分かったわ」
彼女はラウンジの出口へ向かい、扉の前で足を止める。
「消したい『記憶』……わたしなんかよりずっと深刻そうね」
それだけ言い残して立ち去った。
粋人はセイディのいなくなったドアの方をぼんやりと眺めていると、雹が口を開く。
「何が何だか分からないというような顔をしているな」
「えっと……男だった時代って……どういう意味ですか?」
「そのままの意味だ。説明するのも忌々しいから、お前の『記憶』に訊いてくれ」
「……はぁ」
また『記憶』という単語が出た。少しくらいなら教えてくれても良さそうなものだが、どうしてもここの住民はそれを語りたがらない。それ以前に粋人が訊ねようとしないのも一因としてあるが。
雹は眼差しを粋人にまっすぐ向けた。粋人はその瞳の奥で淀んでいる色を見て──やはり以前にもどこかで見たことがある、と確信した。ぼやけた既視感のような曖昧な感覚ではあるが、何故だか、こういう目を多く見てきたような気がした。
「その記憶に関してだが、お前は明日が誕生日なんだな?」
漠然と考えていたところに突然質問を受けて、粋人は動揺を隠しつつ頷いた。
「はい、そうですけど」
すると雹は身を少し前に傾けて、
「記憶はふつう、十七歳の誕生日に日付が変わった時点で蘇り始めるというのが定説だが、実際にはばらつきがある。──私はその瞬間を見届けなければならない。『記憶』の内容によっては……、お前に限って絶対にないだろうが、舌を噛んで死んでしまうかも知れないからな。だから、今晩はお前の部屋に居させてもらうぞ」
誇張が混じっているのだろうが、そのただならない雰囲気の漂うことに粋人は身を硬くした。
「そうなんですか。じゃあ、よろしくお願いします」
「素直で助かる」
雹は目を細め、皮肉めかして言うと立ち上がった。「それでは二十三時ほどになったらお前の部屋へ向かう。それまでに、就寝準備を整えておけ」
結局空腹が訪れなかったので、粋人は雹に言われた通り就寝準備を整えて待機していた。
とはいえ、全く手持ち無沙汰で過ごすのもつらいので、テレビでニュースを観ていた。東京の地下鉄のトンネル内一斉工事が来週に施行される旨の報道がされている。その日一日、地下鉄を使えないとあって、ビジネスマンたちは辟易しそうだが、遠く離れた地にいる粋人にとっては関係のない話題だった。
──何となく、ラニエロが尋ねてくるのではないかと期待していたのだが、結局会わずじまいで今日が終わってしまう。昨日約束したのに、なんとも後ろめたい気分だった。
新しく仕入れた時計が午後十一時を告げた時、訪客を知らせるブザーが鳴った。粋人は急いで玄関まで向かって扉を開いて来客を招き入れる。
「こんばんはー」
訪れたのは雹だけではなかった。
ピンク色のジャージを着たアメリーが、相変わらず黒装束の雹の後ろから現れたので、粋人は困惑した。
「えっと、アメリーさんも、ですか?」
「お前の性質を考えると一人じゃ足りないかも知れないからな。柔術を心得てるリリーも助っ人に頼んだ」
「そういうことだから、大船に乗った気でいてね!」
アメリーが得意気に胸を張る。なんとなくピンと来なかったので、粋人はおずおずと質問をした。
「柔術って言うと……どういうことですか?」
「日本人なのに分からないの? まあ、ざっくり言うと徒手武術って言って、柔道とか合気道とかそういう感じのものをひっくるめて上手い感じにするものだと思ってくれればいいよ」
かなりアバウトな説明だが、雹も特に補足してこないのできっとそれが正鵠を射た表現なのだろう。
「なんだか意外ですね、アメリーさんがそんな武道に長けてるなんて」
粋人の言葉に、アメリーはどこか嬉しそうに髪の毛の先を指で巻きながら言う。
「私は反射神経を弄られてるの。人間の反応速度ってどんなによくても〇.一秒強が限界らしいんだけど、私の場合はほとんどノータイム。脊髄反射よりも速いかもね」
「そ、それは凄いです」
「あはは、まぁでも結構地味な力だよ」
アメリーは照れるように掌をひらひらと振った。
「比佐志、私たちのことは気にしないでいいから好きなタイミングで眠れ」
いつの間にか適当な椅子に腰を落ち着かせた雹が言った。きっとアメリーとの会話の区切りがつくのを待っていたのだろう。
「はい。じゃあすぐに寝ますね」
粋人は即答して、世界情勢を深刻に述べるニュースが流れるテレビの電源を消すと、ベッドに横たわる。その日の疲れがどっと噴き出してきた。雹が今座っている椅子も、アメリーが興味深そうに眺めている棚も、地下深くにある備品庫から持ってきたのだ。エレベーターがあるとはいえ、苦労した。怪力のウォルトがいなかったら、今も家具運びにあくせくしていたかもしれない。
そんな風にその日の回想をしていくうちに、粋人は眠りに沈んでいった。
大火。死臭。猛烈な、熱さ。痛み。恐怖。
もくもくと昇る雲。妙な形をしている。
転がっているあれは人間か、石か、骨か。
半身が吹っ飛んでいるような感覚。彼はひたすらに地面を這った。灰色の植物たちが爛れた頬を撫で、塩が塗りこまれているかのようにちりちりと痛む。進む度に身体が端から灰に少しずつ変わっていくようだった。口から声が出ない。代わりに喉から嫌な音が出た。
俺は何をしているのか。
そう、戦争。戦争に俺は巻き込まれた。一介の一般人だった俺は、ただ小さな地主の息子だった俺は、はた迷惑な戦争に巻き込まれて、こんな目にあってる。クソッタレだ。友達はみんな死んだか。いや俺が生きているのなら、みんな生きてるに違いない。
俺だけだ、こんなに惨めな思いをしているのは。
そのうちに脚が動くようになった。生まれたてのシカのような気分で、彼は駆けた。呆れるほど広い草原を走った。幾度から足が絡まってこけた。黄色い森が遠くに見える。煙も遠くに見える。どこに行っても戦争をしている。この大陸にはもう住めないのではないか。あの何千人が集って何年かけて飲んでも無くならないであろう量のしょっぱい水たまりを超えて、新たな土地を探しにいくしかないのでは──。
また別の場所があるなら、行きたい。新しい場所に行きたい。友達はみんなそこに居るに違いない。
彼は気でも違ったかのように走った。摩擦がいたずらでもしたかのように、幾度も転んだ。
そのうち、起き上がれなくなった。冷たい地面に触れた身体が漲るように熱い。
死ぬのか。彼は他人ごとのように思った。死にたくなかったし、これからしたいことはたくさんある。だが、こればかりはもうダメだった。億劫な気分が腹の底から湧いてきて、それは徐々に死の実感へと成り果てていく。だんだんとそれは、心地が良いものになっていく。
──そんな時に。『そいつ』は霊のように現れた。
「よう、大変そうだね」
男なのか女なのか、よく分からないくぐもった声。彼は必死で眼球を動かし、その声の主を探した。そんな彼の努力をあざ笑うように声が続く。
「こんな時で悪いんだけどさ、お兄さん、一生に一度の大取引のチャンスだよ。なんでも好きなものを望みなさい。怪力、超能力、その他色々なびっくり能力を実現させてあげよう。その代わり、それがしの望むものを、差し出していただくよ」
「はっ……」
『そいつ』の言葉を聞いて、死にかけの脳みそが一つの単語を吐き出した。
人間の性質を引き換えに、人外の力を提供する、『交換屋』。
「……お前、……バ、バーターか。……う、噂には聞いていたが……、……な、なかなか趣味の、……悪い野郎、だ」
彼が精一杯の強がりを見せて言うと、バーターは皮肉いっぱいの口調で、
「元気だね。まぁ別に、嫌なら交換しなくていいんだよ」
あっさりと、見捨てようとする。彼は慌てた。
「す、する……、ク、クソ……ここで、……し、しなけりゃ、……死ぬだろうが……」
「分かってんねぇ。で、何が欲しいの?」
そう言いながらぬっ、と、バーターは目の前に姿を現し、舐め回すように彼の顔をじっと見下ろした。
そいつが何なのかは分からない。
どんな顔でどんな声でどんな会話をしてどんな契約を彼らが交わしたのかも、分からない。
『記憶』はここで、途絶えているから──。