プロローグ(4)
「光学迷彩ですか……」
雹の話を聞いた桜葉は唸った。「世界各国の軍が開発を急いでいますが、まだ実践に投入できるものは完成していないはずですよ」
理論的には何年も昔から完成しているが、実現には多くの障害があるようで、人一人が特定の状況下で姿を隠せるものが精一杯であるという。
そんなことは雹は知っていたので、大して落胆もせずに言った。
「だからアンドレイの能を活かして開発する。基礎的な理論と設計図があれば、元々空軍でメカニックをしていたんだ、ある程度実用的なものを作れるだろう」
「……まぁそれでも相当確率低いけどな!」
アンドレイは声を張った。彼のスキルは道具を扱うことだが、後天的に補った物を組み立てる技術のお陰で、設計図だけでそのものを頭の中で再現できる。つまり目の前に部品さえ転がっていれば、それは故障した道具も同然で、それを修理するような要領で新たなものをつくり上げることができるのだ。
「なるほど、その手が……それでは空軍にかけあってみますね」
「よろしく頼む」
雹は席を立って会議室から出た。アンドレイもその後を追ってきて、呆れた風に言う。
「仕事熱心だな。その分、人使いも荒いが」
「当然だ。早く人材を集めなければ、いつまでもこんな場所に閉じ込められっぱなしだ」
「そんなにここから出たいんなら、客人を迎えに行く時に、逃げ出しちまえば良いだろ? 何で律儀に言いなりになってんだ」
それは尤もなことだ。別段、監視下におかれているわけでもないのだから、送迎と称してどこかの都市に身をひそめてしまえば良い。その場合、アンドレイは秘密を隠せないので共に逃亡することになるが。
だが、雹を閉じ込めているのはこの閉塞的な施設ではない。
「…………記憶だ」
雹は廊下のある一点を凝視しながら言った。
「いつまでもこんな記憶に拘泥していたくない」
それを聞いた納得したようにアンドレイは頬を緩めた。
「……ははぁ、なるほどね。そういうことか」
「……絶対に口外するな」
雹は視線を戻して声音を一段と低くして言ったが、アンドレイはへらへらとした表情を崩さない。
「俺ができないのは嘘を吐くことだ。訊かれもしなければ平気だし、仮に訊かれたとしても何かとつけてその場から逃げてやるさ。……で、そういうことならその思い出とやらを教えてくれよ、兄弟」
「…………」
「一人で抱え込むのは良くないし、何より話してしまえば戒めにもなるだろ?」
この男は嘘偽り等を口にすることができない代わりに、道具を扱う術を得た。よって、あまり人に話したくないことを吹き込むのは上策とは言えないのだが、この男はその代償のお陰かどこか憎めないところがあって、つい秘密を共有したくなってしまう。
どう考えても自分の意志が弱いせいなのだが、その八つ当たりのように呪詛めいたふうに、
「今更戒めもクソもあるか……、まぁいいだろう。今夜私の部屋に来い」
「はいよ! じゃあ、俺は部屋で寝てくるわ。お前もちゃんと寝とけよ」
アンドレイとはそんな言葉を交わして別れた。
雹は何となく外の空気を吸いたくなって、いつもウォルトとマティアスが稽古をしている、通称『屋上』まで行く事にした。
階段を足早に下っていくと、途中であまり会いたくない人物に会った。
「マッサーロ……」
「よう、峰風さんよ。来ると思ってたぜ」
階段の踊場に座り込んで、ラニエロ・マッサーロが不健康そうな顔で笑っていた。「クク、アンタが消したがってるのがどんな記憶か、俺も知りたいところだ」
誰かがさっきの話を盗み聞きしていたのはわかっていたが、こいつだったとは。
「……それ以上言うと殺すぞ」
「怖い、怖いよ。流石は暗殺者だ。ま、後でポロスコフからどんな楽しいことをしたか聞いてみるとするさ」
そう言ってくつくつと笑う。今、この場でコイツを殺せたらどんなにいい気分がするだろう。雹はほとばしる殺意を必死に押さえ込んだ。こいつを殺してしまったら、研究をすることができなくなる。そうしたら、あの記憶は永遠に消えて失くならない──本末転倒だ。
「……酔い潰れてヘリをゲロまみれにしておいて、よくも抜け抜けとふざけた口を──」
雹が居住まいを正して言うと、ラニエロは大仰に首を傾げてみせた。
「ああ、それはいつの出来事だっけか? 三日前くらいか?」
「そうだ。あれのお陰で比佐志を迎えに行く段取りが一日遅れた」
「知ってる。そのお陰で兄弟は池袋のテロで死にかけたこともな」
未来予知。ラニエロは未来に何が起こるかわかっている。だから、仮にこれから危機が迫ろうとも行動を起こせば回避することができるのだ。
そして、その逆も然り。この男はわざと粋人を確保しに行く出発の日程をずらして、粋人を危険に招き入れたのだ。そのせいで、
この男は究極の自己中真的人間。自分が楽しければそれでいい男なのだ。
ひどく気に入らなかった。今、こいつに未来でいかなることが起こるのか、せめてここの住民となり得る資格を持つ人間の有りかさえ聞ければ、雹の目標はたやすく達成できるのだが、それができないのはこの人柄のせいだった。
あまりにもそりが合わなすぎる。
「…………」
雹は不快感を視線にこめてラニエロをじっと睨むと、彼は皮肉めかして笑んだ。
「なら別の方法があっただろうってか? 素直にアンタにそう伝えれば良かったって思ってるのか? まぁ、どうせ思って無いだろうが、俺の真意を教えてやる」
そこで急にラニエロは真顔になって言い放った。「慌てふためくアンタが見てみたかったんだよ」
ラウンジは一変して、パン屋になってしまった。軽く三十人前はあるパンを尻目に、粋人とニノンは食べられるだけのパンを食べている。焼きたてではないようだが長い時間ものを食べていなかったので、十分おいしく食べられている。
「……」
だがセイディは欠片すら口をつけずにじっとしていた。さっきまでひどく空腹だったようでピリピリしていたのに、気になったので粋人は訊ねる。
「えっと、どうかしました?」
「別に。食べる気にならないだけよ」
ひどく素っ気ない返答だった。それを見たニノンが眉を顰める。
「セイディ、食べなきゃダメだよ。お腹すいてるから、すごいイライラしてるでしょ。ほら、あーんして」
「…………」
セイディは意外にも素直に口を開けた。ニノンはそこにパンの切れ端を放り込み、口を閉じさせる。
「はい、噛んで噛んで噛んで噛んで噛んで噛んで噛んで噛んで、飲み込んで。はい、もう一回」
「……」
「噛んで噛んで……あ、粋人もやりたい?」
呆然としてセイディの『食事』を見ていた粋人の視線に気づいたのか、ニノンが訊ねる。粋人はその質問に驚いて声を上げた。
「ええ、やりたいだなんてそんな! そもそも何でニノンさんが食べさせてあげてるんですか?」
その言葉にニノンはセイディの口にパンを入れながら、
「あれ、セイディ教えてあげなかったの? この子は食欲が無いんだよ。本能的にね」
「……そ、そうなんですか」
粋人がセイディに視線を向けると、彼女は無理に口の中のパンを飲み込んでから、こくりと頷いた。確かに食べるのがどこかしんどそうだ。そのことを知らないで接していたことに少し罪悪感を感じる。
「でもね」
ニノンは明るい口調で言う。「この子は人の傷を治せるんだよ! あたしはやってもらったことは無いんだけど」
「傷、ですか」
「心肺機能が生きてる限り、どんな怪我でも正常な状態に戻せるわ。こっちに来てから、あまり使わないわね」
セイディは牛乳を口に流し込んでから言った。「……前はかなり使ってたけど」
「そーだよねえ。大変だったもんね」
ニノンが食パンを手でちぎりながら言った。またセイディの口に詰め込むものかと思ったら、自分の口に放り込む。
何のことか、と訊ねようと粋人が口を開きかけた時、
「比佐志さん、お待たせしました──、ってこれは凄いですね」
丁度、桜葉が戻ってきて驚嘆の声を上げた。もちろん、ラウンジに存在するテーブル全てに隙間なく置かれたパンの群れを見てである。
「どうせたくさんあるし腐らせちゃうのも勿体ないから持ってきたんだ」
ニノンがニコニコして言う。
「全部食料庫から持ってきたんですか……、もう今日は私が料理する必要は無さそうですね」
「そうよ、霊はたまには休んだほうが良いわ」
セイディがメロンパンを小さくちぎりながら言った。「昔から頑張りすぎるところがあるんだから」
彼女の言葉が図星なのか、桜葉は苦笑いした。
「そうですね、では今晩は休ませて頂きましょう。──それでは比佐志さん、お部屋に案内しますよ」
「はい、お願いします」
粋人は言いながら立ち上がった。
パンの風味を背中に受けながら二人はラウンジを出て、粋人の部屋へと向かう。
──その道の途中で、先ほど見知った人物と出会った。
「あ、桜葉と……粋人、だっけ?」
アメリーだ。
「どうもリリーさん」
桜葉が挨拶した。「さっきは永さんと一緒でしたよね。今はどうしてお一人で?」
「菊蘭ちゃんがどっぷり自分の世界に入っちゃって。呼びかけても全然反応してくれないから、置いてきちゃったんだ」
「えっ、射撃に行ったんですよね?」
粋人が訊ねると、アメリーは困ったような笑みを浮かべる。
「そう、射撃! もう的を撃つのに夢中みたい。流石の集中力って感じね」
「集中力、ですか」
「そうそう、あの子、集中力が人間離れしてるんだ。代わりに自信が全くないんだってー、なかなか大変だよね」
アメリーの言葉に、粋人はようやく納得がいった。自分という存在への信頼を犠牲に、人の声が聞こえないほどの集中力を持っているらしい。
「なるほど……、ということは、一日プチプチ君とかっていうのはその能力を活かした技なわけですね」
「うん、そうそう。あの子、普通にやったりするからね、一日中同じ事。多分、射撃もお腹が減るかするまでずーっとやってるんじゃないかな。──あ、私の方がお腹すいたから先に出てきちゃったんだった」
アメリーは照れるように頬を緩ませる。桜葉が歩いてきた方を振り向いて言った。
「ラウンジにたくさんパンが置いてありますから、そこで食べるといいですよ」
「本当? それならちょっと食べてこようかな。じゃあ、またねー」
アメリーは手をひらひらと振って、意気揚々とラウンジの方に向かっていった。
桜葉と粋人も再び歩き始める。
「ちなみに確認なんですけど」
粋人はずっと気になっていたことを訊ねた。「桜葉さんは何も能力は持ってないんですよね?」
「そうですよ。私は、いわばアメリカの国家公務員的な者ですからね……。まぁ、仮に何らかの異能がここの管理に必要なものだとしたら、私は峰風さんに管理権を譲渡しますがね」
その発言に粋人は目を丸くした。
「そうなんですか」
「彼女はこの施設の最古参ですからね。責任を持ってやってくれることでしょう」
粋人の脳裏にセイディの言葉がよぎる。彼女は雹という謎の多い少女にひどく懐疑的だった。
「でも、セイディさんも最初からここに居たって言ってましたが……」
最大限、セイディの考えが露呈しないように言うと、桜葉は察したように、
「……聞いたんですね。エックルズさんは特異点なんですよ。彼女が今何歳だかご存知ですか?」
粋人が首を振ると、桜葉は言った。「十五歳です。でも……彼女は十二歳の時点で記憶を取り戻していたのです。通常は十七歳で蘇るはずの、記憶を、ね」
「……」
「彼女がきっかけで我々はそうした『異能』を持つ人々の存在を知った。そうして、この《ニンギアル》計画が始動したわけです。言ってしまえばエックルズさんは創始メンバーなんです」
「なるほど……」
「まぁ、なにぶん彼女はまだ若いですからね。色々考慮しなければなりません。──さあ、着きました、部屋はここです」
一つの扉の前で立ち止まり、桜葉は鍵を取り出して解錠した。外開きに扉が開き、二人は中へ足を踏み入れる。
「あ、靴は履いたままでいいですからね」
靴を脱ごうとした粋人に、桜葉は声をかけて部屋の明かりをつける。粋人はハッとして、気恥ずかしく思いながら室内を見渡した。洋画でよく見るホテルの一室のような部屋だった。一人で暮らすにはいささか広すぎるような気がしないでもない。家具はひと通り揃っているものの、最低限しかないのでどこか物寂しい感じがする。
「十号室です。こちらが鍵ですね」
粋人は桜葉から鍵を手渡された。「私からの案内はこれくらいにしておきますが、何か分からないことがあったら、なんでも訊いてくださいね」
「分かりました」
「では」
そう言って桜葉は部屋から出ていった。粋人は一人部屋に残される。とりあえず、ずっと手にぶら下げていた荷物を下ろして、備え付けられているベッドに腰を下ろした。なんだか疲れた。たくさんの人と出会うと、決まって疲弊を感じる。人と接するのは何ら苦でもないのだが、どうしてなのか、昔からこういう疲れを抱くのだ。
疲労に甘えるように倒れこみ、目を瞑ると、粋人はそのまま眠りに沈んでいった。
「邪魔するぞ」
アンドレイはそう言って部屋に入ってきた。リクライニングチェアに腰掛けていた雹は黙ったまま黒いフードを脱いで、黒髪をかき上げる。
「率直に訊くが、誰だと思う?」
「率直過ぎる」
アンドレイはげんなりしたような顔でベッドに腰掛けた。「よく来たな、だとか、今日はお疲れ、だとかそういう言葉は無いんかね」
「不必要だろ」
寸分も考える時間をおかず即答すると、アンドレイは苦笑した。
「冷たいな。まぁ、それがお前という人間なのは分かってるが。でもそうすると逆に、比佐志粋人への扱いがやけに丁寧なのが気になるな」
「……まだ気にしているのか」
ため息混じりに雹は言う。アンドレイは大仰に頷いた。
「何故お前が執拗に黒いものを身に纏いたがるのと同じくらい気になるな」
「これは趣味だ」
「知ってる」
「なら訊くな」
「あぁ、もしかして、粋人に優しくするのも趣味ってか? まさかの年下好きかお前は」
「……そんなわけあるか。むごい冗談だな」
「──それで、お前は誰だと思ってるんだ?」
アンドレイはまっすぐに視線を雹に向けた。最初に雹が彼にぶつけた質問のオウム返しだ。雹は目は逸らさずに黙り込む。
──ここの住民の中に内通者が居る。
ここニンギアルは、国連に名を連ねる国々が是認した超機密組織である。ここで取り扱われている情報は常軌を逸しており、それが出るところに出れば──、例えば紛争が活発な地域に漏れれば、ここに居る者達の能力はそのまま兵器として応用されてしまうだろう。この施設がおおよそ常人に到達することがなかなか難しい場所にあるとはいえ、正確な座標が漏れてしまえば彼らを捕縛することを目的とした、大掛かりな部隊の大編成に突入をされてもおかしくない。
「言っておくが私はスパイではない」
雹は不機嫌な声で言うとアンドレイは真面目な顔で頷く。
「それも知ってる。河辺機関は前の職場なんだろ?」
「あぁ……質問に答えると、どうも信じがたいのが現状だ。これほどの記憶を抱えながら、それを利用して情報を垂れ流す輩が居るなど、とはな」
「まぁな……俺もやや同意見だ」
そう同意した一瞬後、アンドレイは思い出したように言った。「──というか、俺はそのお前の記憶とやらの話を聞きに来たんだ。別の話題でごまかすなよ」
彼はこの話題に深く関わりたくないようだ、半ば強引に話をずらしてきた。
「私の記憶なんてただの建前だ。……私は今、ひとつの仮定を持っている。それについて、お前の意見を聞きたい」
雹は肘掛けに肘を置いて頬杖をついた。「比佐志粋人の能力についてだ」
呼ばれた気がして、粋人はふっと目が覚めた。寝ぼけた視界でしばらく明るい室内を眺めていたが、少しして自分がニンギアルという施設に招聘されたことを思い出した。あのまま眠ってしまったが、今は何時だろうか。
部屋の中に時計が無いので、粋人は廊下に出た。地下に作られているため窓が一切無く、外の明るさも分からない。彼は時計を探してさまよった。
そういえばラウンジにテレビがあった。あれなら時間も分かるのでは。
──ラウンジは真っ暗だった。手探りでスイッチを探して明かりをつける。蛍光灯に照らされたラウンジは、営業時間が終わったフードコートのような寂しさを孕んでいた。ニノンが持ってきた大量のパンは半分程度に減っている。あの後、順調に消化できたらしい。
液晶テレビが置いてあるラックの上にリモコンがあったので、粋人はそれで電源をつけた。すると、英語のCMが流れ始めて、そういえばここが日本でないことを思い出す。時刻は真夜中を指していた。なかなかぐっすりと眠ってしまったようだ。
適当にチャンネルをいじっていると、日本のニュース番組が見つかった。
『──先週決議された憲法九条改正による日本再軍備について、各国との軍事条約の改正が順次行われます──』
「母国のことが気になるかい」
不意に話しかけられ、粋人は飛び上がるほど驚いて入り口の扉の方を見た。
そこに居たのはラニエロだった。前髪で半分隠れた顔に薄ら笑いを浮かべて、粋人の方へ近づいてくる。粋人は若干戸惑いながら答えた。
「ええ……と、まぁ……そうですね」
「そうだろう。今は激動の時代、もう第三次世界大戦は始まっているも同然だ。もっとも」
ラニエロは粋人の向かいの椅子に座って言った。「俺はずっと前から知っていたがな」
その余裕そうな立ち振舞を見て、粋人は桜葉の言葉を思い出す。
「未来予知……ですか」
「その通りだ。兄弟、お前は未来というものをどう考える?」
「は、はぁ……」
あまりに漠然とした質問なので、粋人は咄嗟に何も言えなかった。「これから訪れる時間……?」
稚拙な粋人の返答が興を起こしたのか、ラニエロは低く笑った。
「クク……、答えを教えてやろう。俺にこんな能力を与えたクソ野郎の解釈だとな、俺が何もしないで黙って傍観した時に訪れるものが、未来だ」
「……」
「ところが俺が適当なパンでも何でも食った時に訪れるものも未来だ。俺がアンパンを食ったら、メロンパンを食ったら、チョココロネでもフランスパンでも、それぞれのパターンに用意されているのも未来だ。バタフライ効果って知ってるか? ちょっとした行動でも、時間が経てばとてつもない大きな影響が現れるんだ……そんな無数の選択肢から好きなものを選ぶことができる。それが、未来予知だ」
ラニエロは台本でも読んでいるかのように、粋人に語り続ける。「一つ例を見せてやるよ。こいつはお前の部屋に置いてあった時計だ」
そう言って彼は掛け時計を取り出し机の上に置いた。
「こいつを俺がパクっちまったから、お前は時間を求めてここまで来た。そうだろ?」
「……その通りです」
粋人は呆然として、その時計を見た。その様子が面白かったのか、ラニエロは腹の底で笑う。
「これが予知の威力だ。しかも、こいつの面白いところはな……果てが見えるんだよ。──分かるか? 死、だよ」
「死……」
「俺は死ぬ。その瞬間がいつ来るか分かるんだ、兄弟。どう動いたところで、こいつだけはどうしても変えられない。絶対に、決まった時間に俺は死ぬ、そう予知してるんだ。クク……、想像がつくか、この絶望が」
「……想像もつきません」
粋人は、それでもなお愉快げなラニエロを見据えながら言った。
「──なあ、俺が何を捨てたか教えてやるよ」
ラニエロは急に息を潜めて、そして顔を粋人に近づけた。蒼い瞳がぐっと茶色い瞳に接近する。
「俺はな……愛を捨てたんだよ。他者に対する、な。──お前と同じだ、兄弟」
「──えっ」
愛を、捨てた?
「俺とお前は、同じものを捨てたんだ。分かるだろう? だから俺はお前を兄弟と呼ぶ。お前も呼ぶ権利があるんだぜ」
「……」
ラニエロの言葉に粋人は絶句して、ただ自分が息が乱れていくのを聞いた。
相変わらずラニエロはそんな粋人の反応を楽しむように不敵に笑み続ける。
「つまり、究極自己中心主義者なんだ。そんな俺が、自分の死を知ったら……、どうすると思う?」
「…………想像も、つきません」
「クク……、自分が納得する形で終わらせるに決まっているだろう? 俺、だけが、楽しんで、終わる世の中にするんだ」
粋人はラニエロの瞳孔の奥に狂気を垣間見た。常に死と隣り合わせの自己中心主義者はもはや発狂するしか無い。現世に幻滅を深めながら快楽を求めて、唾を吐きながら歩きまわる。人は彼を煙たがり、命は遠ざかっていく。悪寒が脊髄を駆け巡った。
『──日米安全保障条約改正協議の日程が確定しました。エリン・エリオット大統領は来週来日し、木田首相と会談する予定です』
沈黙の中、テレビの声が原稿を読み上げる。その内容にラニエロが反応した。
「エリン・エリオット大統領……、アメリカ初の女性大統領か。なぁ兄弟、知ってるか?」
「……何を、ですか?」
ラニエロは小さく笑った。
「彼女はレズビアンらしいぞ」