プロローグ(3)
その後、二人は再度試合を行うというので、桜葉と粋人は退散した。長い廊下を歩いて行き、再び施設の方に戻る。
「あのお二方はだいたい、一緒にいますね。レインさんは言葉を使えないというのに、あそこまで意思疎通ができるのはハッシさんくらいですから」
「はぁ。何かが無いっていうのは、不便そうですね」
粋人が言うと、桜葉は少し真面目な顔つきになった。
「あなたも何かが無い筈なんですけどね」
「でも心当たりなんて無いですよ」
すると桜葉は人差し指を立てて、
「こう考えてみたらどうですか。逆に、無いことが普通なんですよ。それを持ち合わせている他人から見れば不便だけど、あなたからすればそれは当然のことで意識する必要性が無い。だから心当たりが無い、そんなところです」
「……なるほど」
そうなると、人の感覚を自分の尺度で計るのは失礼にあたりそうだな、と粋人は思った。自分の尺度というものが一体どんなものだか知らないが──。
二人はエレベーターの前までたどり着いた。研究が始まった時に備えてか三基置いてあるものの、今は人が少ないだけあってどれも動く気配がない。まるで寂れたデパートのようだった。
そんなちょっとしたエレベーターホールの傍らで誰かが座り込んでいた。
「あれ、マッサーロさん……、部屋から出てるなんて珍しいですね」
桜葉が声をかけるとその青年は顔を上げた。無精に伸びた前髪が顔の脇に流れていく。細長で整った顔は二枚目といっても良さそうなものだったが、どこか億劫そうな表情をしているので近づきにくい雰囲気がある。くたびれた大学生といった風貌だ。
「なに、待ち人を、ね」
彼はまた流暢な日本語で言って立ち上がった。背が異様に高い。百九十センチほどありそうだ。ポケットに手を突っ込んだままだが、意外としゃっきりとした姿勢で粋人の方まで歩み寄り、口を開く。「よう、兄弟、予定通りで安心した」
「えっ……、えと、どうも……」
「ラニエロ・マッサーロだ。覚えておいてくれ」
そのまま相手のペースに乗せられて握手までしてしまう。冷たい手だった。
「比佐志粋人です、よろしく──」
「知ってる。じゃあ、また後で、兄弟」
ラニエロはそのまま粋人の脇を抜けて、エレベーターの隣にある階段を下っていった。粋人は呆気に取られてその背中を見送る。
「彼は一体何なんですか……?」
「……予言者です。未来予知ができるんです、彼は」
一瞬黙った後、桜葉は言った。それを聞いて粋人は彼の違和感に納得がいった。
「未来予知……だから、僕が来るのを知ってるような口ぶりだったんですね」
「そのはずです……。──また後で、とマッサーロさんは言っていたから、恐らくまた後で比佐志さんに会いにくる算段があるのでしょう。……その際に彼自身のことは聞いてください。私もあまり話したことがない方なので……」
桜葉はどこか歯切れ悪く言った。確かに、ラニエロは社交的な風には見えなかった。桜葉を含めてあまりウマが合う人間が少ないのだろう。
「分かりました」
余計な詮索をするのも悪いので、粋人はそれだけ言っておいた。
「次はラウンジに行きましょう。誰かしら居るはずですから」
桜葉はエレベーターのボタンを押す。やや間があってから、静かにドアが開いた。
「……アンドレイ」
雹は椅子の背もたれに身体を預けながら言った。アンドレイは近くの長椅子に横たわったまま、のっそりと首だけそちらに向ける。
「なんだ、もう次に迎えにいく奴の目処が立ったか?」
「そうだ……が、今回は少し厄介そうだ。これを見ろ」
「んー?」
アンドレイは面倒くさそうに立ち上がって、雹の目の前にあるディスプレイを見た。そこに記されている情報を二秒ほどで把握した途端、声を上げる。
「……中東で傭兵やってる奴だって? マジかよ、今の中東に行けってのか!」
アンドレイの驚きはもっとももなところだ。ただでさえ、新たな住人獲得のための移動手段にアメリカ空軍の借り物を使っている。その行き先は紛争の激化する中東となるとまだ平和な東京とはわけが違う、軍用ヘリで近づいたらすぐさま撃墜されるだろう。
雹はあくまで平静だが、そこへ行くことの難しさには心中で唸っている。
「しかも傭兵……恐らくソディールの超過激派か超国家主義者だろう。ここは奴らが死ぬほど憎んでるアメリカの直轄だ、生半可な説得でここに連れてこれるとは思えん」
二人は沈黙する。パソコンが稼働する音だけが部屋に響いた。
──ふと、画面を注視していたアンドレイが何かに気づいた。
「って、まだここに連れてきていない契約者がもう一人いるじゃねえか」
雹はその言葉にもしや、と思って画面を再度見たがすぐに手を振る。
「……そいつは放置している。対価を『身体の自由』に設定したバカ野郎だ、そのせいでその場所を一切動けないから、連れて来られない」
「……は?」
「居場所は割れているが、連行が不可能だから現状放置しかない……そう桜葉から指示された。だから今はこの傭兵に集中するしかない」
「そうだな」、と雹は短く呟くと目をアンドレイに向けて、
「説得の方法は後だ。とりあえず、パレスチナ人に殺されない手段を考える。──そういうわけだ、アンドレイ、アレの開発を急いでくれないか」
「アレって……」
アンドレイは思い切り顔をしかめた。「光学迷彩のことか?」
桜葉が開けてくれた扉を通り、粋人はラウンジに入った。まず目に入ったのは大きな液晶テレビ、整然と並べられた談話用の椅子や机、そして二人の少女。丸い机を真ん中に向き合って、何やら話し込んでいる。
そのうちの一人がこちらに気づいて、何かを言った。また何語だか分からない。粋人は不安になった。
「新しい入居者の比佐志粋人さんです」
だというのに、桜葉は日本語で話しかける。先ほどのマティアスとの会話でもこのパターンだったが今回は大丈夫なのだろうか。
「あっ、そうなんだ! 私はアメリー・リリーっていうの、よろしく!」
「は、はぁ……よろしくお願いします」
彼女の口から見事な日本語が飛び出てきた。粋人はもう何も考えないように、その言葉に応じる。金髪をサイドポニーに結い、大人びた容貌をしているがどこか子供っぽい、快活そうな少女だった。
アメリーはもう一人の少女に話しかける。
「ほら、丁度いい機会じゃない! ほらほら、自己紹介!」
そう促された少女はおずおずと立ち上がると、怯えたような表情で粋人と向き合った。
「ええと、えと、エイ・ジュエランって言います……、あっ、かか、漢字が分からないですよね、んと、日本語でいうと……え、永遠の孤独とかの永遠の『永』! と、花の『菊』と、『蘭』で、永菊蘭です……すいません……」
菊蘭はやけに抑揚のある調子で言った。東洋人の顔立ちをしていると思ったが、どうやら中国人らしい。恐らく粋人と大して歳は変わらないだろうが、幼く見える風貌に終始落ち着かない色を浮かべている。
「えっと、よろしくお願いします」
粋人は若干戸惑い気味に返事をした。すると驚いたように菊蘭は声を上げる。
「は、はい! よろしく、お願いです! あっ、すい、すいません……おお、大きな声を出して……」
「い、いや別に気にしてないから平気ですけど……」
「ごめんね、ちょっとこの子は自信を取られちゃってるからさ」
アメリーが言った。
「自信、ですか」
「そっ。それで、手に入れたのは──」
ふっと、彼女は菊蘭の方に視線を向けて訊いた。「何だったっけ? 誰もバカにしたりしないから、言ってみて」
そう促された菊蘭は目をぎゅっと閉じてから、意を決したように言う。
「ふえっ、えっと……プチプチ君を一日潰し続け、られます!」
「……」
「き、金魚を一日中観察できます」
「……」
「一日中キャベツの千切りとか、一日中塩粒の数を数えたり、一日中一人でオセロとか……」
よく分からない特技の列挙に、粋人は目をしばたたかせる。
「ば、罰ゲームか何かですか……?」
「アメリーさん、や、やっぱりダメですよお……」
粋人の反応に菊蘭は泣きそうな顔でアメリーに言った。アメリーも困り顔で呟く。
「うーん、ダメかあ……」
「そういえば永さんは、最近射撃をやられてますよね?」
そこへ桜葉がフォローするように言った。菊蘭は恐る恐るといった風に頷く。
「み、みんな上手いって言ってくれるから……、そ、その……一応……」
その情報にアメリーは目を丸くした。
「そうなの! 初めて知った! じゃあ射撃してるところ見せてよ!」
「え、で、でも……」
「善は急げでしょー! ほら、行きましょ! もしかしたら天職かもよ、それが!」
アメリーは菊蘭の背中を押して、ラウンジを出ていってしまった。残された桜葉と粋人は顔を見合わせる。桜葉は困ったように笑みを浮かべた。
「……リリーさんのことはさっぱり聞けませんでしたね」
リリーどころか、肝心の菊蘭が何を得ているのかもよく分からなかった。
「でも、どんな人なのかは分かった気がします」
「そうですね、世話焼きのいい姉さんと言いますか」
粋人がリリーがどんな能力を持っているのか訊ねようとした瞬間、初めて聞く声が飛び込んできた。
「あ、居た居た、新入りの人!」
新入り、というのは自分のことを指しているのだろう。粋人が振り返ると一人の少女がいつの間にかラウンジに現れていた。ショートカットの髪にぱっちりとした瞳。愛嬌のある、また桜葉とは趣の違った笑顔を浮かべている。
「おや、ロワリエさん、どこで新しく人が入ったことを聞いたのですか?」
彼女の姿を見た桜葉は訊いた。
「ラニエロに教えてもらったの、ここに居るって。あの人の言うことってなんでも当たるから凄いよね、尊敬するっ!」
「ほぉ、マッサーロさんが人に何か教えるのは珍しいですね」
桜葉の言葉に、ロワリエと呼ばれた少女が首を傾げる。
「そうかな。あたしには色々と教えてくれるけど──、あっ、初めまして、あたしはニノン・ロワリエって言います!」
「ど、どうも、比佐志粋人と言います、よろしく……」
唐突にニノンの話す相手が粋人に変わったので、彼は返答がしどろもどろになってしまった。だがニノンは全く気にしていない様子で話を続ける。
「あたし、今までこの寄宿舎での一番の新参者だったから、なんだか後輩ができた気分で嬉しいな、よろしくね! んと……、もし差支えがなければどんな能力を持ってるか教えてくれないかな?」
初対面の女の子に答えられない質問をされて、申し訳ない気分が粋人の胸中にどっと湧く。
「……えーっと、それが、自分でもそれがわからないんですよ」
「あれ、もしかしてまだ十七歳じゃないの?」
「そうです。明後日誕生日で十七になります」
すると、ニノンは合点がいったというふうに、
「なるほど~、あたしもそのパターンだったんだよ。全く自分の特別な才能とか何も知らなくて、ここに連れてこられて……、でも十七歳になった途端に全部思い出したの」
心底から嬉しそうな笑顔で言った。
「あたし、人の心を掴むことができるの!」
「……え」
「あのね、だから、何も考えずに何も意図しないでも喋ってるだけで、みんなあたしのことを好きになっちゃうの! すっごいよね!」
「……うーんと、それは凄いですね」
初対面の人間にそんなことをあっさりとバラしてしまうとは、凄い。粋人はそんなニュアンスを込めて言った。そんな本来黙っておくべきようなことを早々にバラしてしまうと、相手に警戒されてしまうのではないか。
ニノンは、そんな粋人の心配も忘れさせるほどの明るい声で、
「そんなチカラのお陰であたしも元気にやってるからさ、君もきっと十七歳になれば元気にやっていけるよ!」
「そ、そうですね。首を長くして待ってることにします」
半ば彼女の勢いに呑まれるように粋人がそう返した時だった。
「……ニノン?」
不意にまたラウンジの扉が開き、あどけない少女の声が聞こえてきた。ニノンはその声の方向を見ると声を上げる。
「あ、セイディ!」
「もう、いきなりどこか行っちゃうから探したわ。──ねえ、この人が新しく来た人?」
セイディと呼ばれた少女は、無遠慮な視線を粋人に向けた。紺色の瞳が彼のことをじっと見つめる。今まで会ってきたここの住民よりも、確実に幼い感じがした。十三歳か、十四歳かそのくらいだろう。ややウェーブのかかった長い髪と、頭に載せるようにつけた黒いリボンがよく似合っていた。
粋人が口を開く前に、ニノンが自信満々に言い放つ。
「そう! 粋人って言うの、セイディも仲良くしてあげてね」
「……まぁ、そうするわ」
しかし、セイディの反応はそっけなかった。それどころか、刺々しさも感じられる。あまり良い印象を持たれなかったのかと、粋人は冷やりとした。
「セイディ……」
ニノンはハッと真面目な表情になって、セイディの方を見た。「もしかして、お腹が空いてるの?」
「えっ……、別に、空いてなんか無いわ」
するとセイディは、虚を疲れたようにそっぽを向いた。
「そう? なら良いんだけど……」
その直後、か細いお腹の音がした。そこにいる全員の視線を一斉に浴びて、セイディが慌てて顔を伏せる。耳がみるみる赤くなっていった。
「何か、食べた方が良さそうですね」
桜葉が提案すると、ニノンが張り切って頷いた。
「じゃあ、あたしパンか何か持ってくるね!」
ニノンはそう言ってラウンジから出ていくと、すぐのところで誰かに会ったらしい。
「あ、お疲れ様です!」
そんな声が小さく聞こえてくる。
──ニノンが声をかけたらしい人物は、その直後ラウンジに入ってきた。
「桜葉」
粋人は一瞬、影が現れたのかと思ったが、それは黒いフードを被った雹だった。桜葉は意外そうな顔をする。
「どうされたんです?」
「相談がある。会議室に来てくれ」
「……分かりました。ええと、すみませんが、比佐志さんは私が戻ってくるまでここで待ってていただけますか? 後ほどお部屋の方に案内しなければならないので……」
「あ、はい。──了解です」
粋人は一瞬、ちらりとセイディの方に視線を向けてから頷いた。それを見た桜葉はそのまま雹と合流して、ラウンジから出ていく。
粋人とセイディだけがそこに取り残された。
「……えっと」
粋人は改めてセイディの方へ向き直ると、彼女は椅子に腰掛けながら言った。
「スイトっていうの? わたしの名前はセイディ・エックルズよ、よろしく」
「よろしく……です」
なんとなく言い淀んでしまう。ここに来てから会った人は全員初対面なので敬語を使ってきたが、今目の前に居るのはあからさまに年下の少女だ。なんとなく不自然なような気がする。
セイディは、ムスッとした風にそれきり黙りこむ。粋人は困って、彼女の机を挟んで向かい側の椅子に座った。
「……あんたもあの雹って暗殺者に連れてこられたの?」
セイディが訊いた。
「そうです」
「……何かおかしいとこ、無かった?」
「おかしいところ?」
粋人が問い返すと、セイディは苛立ったように声音を落とす。
「……違和感、何か無かった? もしかして、雹の話を全部鵜呑みにしてここまで来たの?」
予想以上に露になった言葉のトゲに、粋人は焦って記憶のページを捲る。とはいえ実際のところはセイディの言うとおり、雹の言を丸々信用してここを訪れたのだから、気になる箇所はなかった。
「べ、別に違和感は無かったけど、……ええと、テロが起こりかけてましたよ」
あたかも機嫌をとるかのように、そんなことを口にしてしまう。するとセイディは眉根を寄せた。
「テロ? あんた、日本から来たんでしょう? 日本ってテロ起こるの?」
「えっ、最近じゃどこで起きても不思議じゃないですよ。それで、待合せ場所に潜伏してたテロリスト達を峰風さんが全滅させて予防したって言ってました」
「…………それで、あんたは平気だったんだ」
「まぁ、そうですけど……、あ、でもそういえば一度気を失ったな……」
池袋のトイレに入って、誰かが──恐らく雹が手を下したテロリストだったのだろうが、個室からもんどり打って出てくるのを目撃した直後、意識を失ったのを思い出した。
その経緯を説明すると、セイディは難しそうな顔をした。
「どう考えても雹の仕業ね。……でもどうしてあんたを気絶させたのかしら」
「さぁ……」
じっとりと汗をかきそうな長考の間の後に、セイディは口を開く。
「…………まあいいわ。この寄宿舎に住み始めたのはわたしが最初よ。霊と一緒にね」
懐かしむようにぽつりと語り出した。「……あ、霊っていうのは桜葉のことよ。わたしのことをよくかわいがってくれたわ。雹が来たのは、この寄宿舎が機能し始めて一ヶ月後くらい……、河辺機関からの人材って言ってたわ。河辺機関って知ってる? 日本の諜報組織よ」
「……まぁ、噂くらいは……」
インターネット上の一部の掲示板などでしょっちゅう話題に上がる、秘密機関。本当に噂程度の認識だったので、実在するとは知らなかった。
「……あの黒装束も何だか怪しいし、人材集めと称して外出したがるのも変だと思わない? 別に雹が行かなくても、元々霊が直々に集める予定だったのよ? ……何だか、あの女はきな臭くて、あまり関わる気になれないわ」
セイディは吐き捨てるように言った。粋人はそれを聞いて複雑な気分になる。確かにそう考えると雹が妙な人物に見えてきてしまうが、彼女は池袋のテロから彼の身を守ってくれたのだ。
「意図が見えないから気持ち悪く思えるんじゃないですか」
粋人はフォローするように言った。「それがわかればきっとスッキリしますよ」
「……その意図があんたにとって、良くないものだとしたらどうするの?」
「まぁ……諦めますかね?」
「…………変な人」
ぼそっとセイディは独り言のように呟いた。粋人は内心苦笑いする。なんだか、ここで暮らすうちにそう言われるのに慣れてしまいそうだった。それはそれで、別に構わないが。
その時、ラウンジの扉が勢い良く開いて勢い良くニノンの声が飛び込んできた。
「持ってきたよ!」
ガラガラと車輪が地面を転がる音がする。
「……そんなに食べられないわよ」
セイディは気だるそうに言った。ニノンが持ってきたのは台車いっぱいに載せられた大量のパンだった。もし、この施設に無類のパン好きがいたとしても、これだけあったらげんなりしそうだな、と粋人は思った。