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事件編(8)

 病院のように真っ白く塗りたくられた廊下の壁に、またこれも嫌というほど真っ白く輝く蛍光灯の光が反射して、目が痛くなりそうだった。頭から被った黒のローブを、深くかぶり直す。

「じゃあみんな、また明日ね!」

 友達の家に遊びに来たかのような調子で、マーユが粋人の部屋から出てきた。雹はその姿を近くの壁に凭れて見ている。相変わらず緊張感が無いが、彼女のテンションは山の天候よりもころころと変わる。言動はともかく、態度に関してマーユは演技など絶対にしない。

「あれ、雹。もしかして盗み聞きしてた?」

 すぐマーユに気づかれて、質問される。雹は肩をすくめるでもなく、

「まぁな。不穏な空気を感じて来てみたら、とんだ茶番だったらしい」

「ホント! 私のために駆けつけてきてくれたの?」

 目に爛々とした光が灯る。

「誰が死なない人間の心配をするか。むしろお前が私の心配をしろ、私が死んだらお前も死ぬんだろう?」

「……あっ、そういえばそうだ……」

 マーユは驚愕の色を顔に浮かべたのを見て、雹は思わず小さく笑いそうになった。態度は本気なくせに言動がふにゃふにゃなので、かなりまだるっこしい。ただ、それがふざけているものとわかれば、これ以上に滑稽なものはない。

「そんなに死ぬのが嫌なら、私が殺してやればよかったか? 死んだと気づかない間に死ねるから怖くない」

「ふふ、雹がそんなこと言うなんて珍しいね……でも、雹は私を殺せないでしょ? 仮に、『平和』を報酬に差し出しても」

「……ああ、いつかそんなことを言ったことがあったか」

 雹はすぐにでも消し去りたい記憶の中から、そんなことを思い出して短く溜息を吐いた。マーユはそれを見てニカリと笑ってみせる。

「まぁ、そんなに私を殺したければ自分を殺せばいいんだよ。二人で幸せに死ねる。……まぁ、でも雹は死なないからね。前の大陸の時も、私はてっきり死んじゃったものかと思ってたら、こっちの世界でピンピンしてたんだもん。きっと私よりも不死身。自分を殺すなんてことは絶対にしない」

「そりゃ、買いかぶりをどうも。──そんなことより、いい加減にお前の事件についての見通しを教えろ。今の口ぶりからすると、お前にはもうほとんど見えているんだろ」

 ようやく話を切りだすと、マーユは拗ねたように顔を背けた。

「ちょっと不満が残るけどね。──ま、ここで立ち話はなんだし、ニノンの部屋にでも行こうよ」

「……話をするには最悪の場所だが」

 雹の反応も意に介さず、マーユはさっさと廊下を歩いて行く。雹は仕方なくその後を追った。

「足跡が二人分、往復してる」

 ニノンの部屋に入るなり、もう綺麗ではなくなった血の海を見て、マーユが言った。先ほど、部屋とニノンを調べた時にできた足跡だ。

「私とセイディの分だ」

「分かるよ。じゃあ、またよろしくね」

「何だ、いきなり」

「何って……ダイイングメッセージ探しに決まってるでしょ!」

「……は?」

 雹は驚きと呆れを通り越して、何と言えばいいか分からなくなった。理解が追いつかずにいるところへ、マーユは注文を羅列する。

「徹底的にやってね。床の裏とか壁の裏とか、ラニエロの部屋を荒らしまわった時と同じくらいの徹底ぶりでやっちゃお」

「お前……本気で言ってるのか?」

 ニノンは犯人に無力化された上で殺されたのだ。そんなものを残している暇など無いに決まっているではないか。

「当たり前じゃん。なるべく早く頼むよ。私はその間、いろいろ調べ事をしてくるんで」

 マーユは言いたいことだけ言ったような風に、そのまま部屋から出て行ってしまう。雹はそれを追おうとせずに、歯噛みしながら毒づいた。

「暗殺者を何だと思ってる……」


「ただいま」

 一時間もすると、マーユはまるで自宅に戻ってくるかのような気軽さで帰ってきた。

「馬鹿正直にやった私が愚かだった」

 渋面を通り越し、真顔になった雹は大荒れの室内で彼女を迎えた。ニノンの遺体は例によって浴室に移している。

 彼女の血の海と化した部屋の捜索は、ラニエロのそれよりももっとしんどかった。この世界に生きる常人ならば、精神を壊されてもおかしくない。

「私は暗殺者だ。標的を殺してもその場に放置するだけ。処理する側がこんなに大変だとは知らなかった」

「この歳にして新たな発見だね、おめでとう」

 流石にそこまでおちょくられると頭にくる。

「ふざけるな。お前、ダイイングメッセージなど無いと知ってたんだろ」

「それが分かってるのにやっちゃう辺り、雹はお人好しなんだから」

 マーユは嬉しそうにニタニタと笑っている。雹はすぐさま反論しようと口を開いた。

「お前、私は──」

「聞いたよ。雹は記憶を消したがってるんだって。前世界の? 記憶」

 だがすぐにマーユの言葉に遮られる。その瞳にはさっきまであった楽しげな色が無い。

 雹は瞠目した。

「誰から聞いた」

「アンドレイ。嘘吐けないみたいだから、教えてくれたよ。この施設は私たちみたいな人間の研究のために造られた場所で、成果が出た暁にはその忌々しい記憶を削ってくれるって。雹はその記憶を消したいがために、執拗に働いているって」

「……」

「悲しいなあ。今はっきり言うけどね、私は別に怒ってないよ。汚点は全て洗い流そうとするのが雹の悪い癖。いつからそんんな完璧主義になったんだろうね。過ちは過ちのまま、胸にしまっておかなきゃってお母さんに教わらなかったの? あ、あのねぇ……私は性欲旺盛な雹が好きだったんだから、忘れちゃだめだよ」

 そう言ってマーユは照れるように笑った。雹は無表情でそんな彼女の顔を見ていたが、やがて何か忘れかけていたものが蘇ってくるようだった。

 性欲を捨てるなんて馬鹿げた話だが、それ以上にこのマーユの告白は馬鹿げた話だ。今更そんな過去を引っ張ってきて、どうするのか。

 そんな風に思うと同時に、どこか居座りの良い気分であることは免れなかった。

「お人好しなのはお互い様らしい」

 そんなことを、どうにか平静を保って言うことができた。

 マーユは、またさっきまでの軽い調子を取り戻して、

「雹はどうだか知らないけど、まぁ、私はお人好しなのが取り柄だからね。──そういうわけだからさ、雹は最新の『失敗』もきちんと認識しないとダメだよ」

「……失敗」

 嫌なところを突かれたような気がした。まさかと思ったが、それはすぐに確信に変わる。

「ほい、粋人入ってきて」

 マーユに促されて粋人が入室してきた。ただでさえ、ニノンの死にショックを受けて危ない様子だったのに、現場に連れてくるなど一体どういうつもりなのか。

 答えはひとつしかあるまい。

「比佐志、こんなところに来て平気なのか」

「──まぁ、血だけなら、なんとか」

 粋人は青白い顔で言った。


「私たちがこの世界に来る前にいた『大陸』時代、私とマーユは同郷で生まれ育った、いわば幼馴染だな」

 雹は仕事前にする雑談のように語る。あらゆる負の感情が胸中に席巻している粋人から見ると、そのほとんど動じていないような雹の姿は頼もしくも有り、同時に理解し難い存在だった。

「戦争は半ば恒常的にやってたことは分かるだろう。核爆弾は一日一回は当たり前のように爆発していたし、一日に死ぬ人間の数は数えきれなかった。そんな世界でも、人間がいる限り変わらなく存在してるものがあるのは分かるだろ」

 その白刃のような視線を向けられて、粋人は本気で分からず首をふりかけたが、

「恋」

 マーユが口から零すように、その単語をつぶやいた。

「私達は付き合ってたんだよ。あ、といってもレズとかじゃないよ! やや、やだなあそんなこと言わせるなんて!」

 わざとらしく顔を両手で覆うマーユを、雹は尻目にも見ず話を続ける。

「前に言ったが、私は元々男だ。こっちに来てからはこの形にされたんだ。私は徴兵されて、戦争に赴いた。そもそも私は肉体派ではなかったから、正直死ぬと思っていた。──お前も兵士をしていたか?」

「う……うん」

 雹の質問に粋人は頷いた。少し考えるだけでも、数百という人間の死に様が脳裏に蘇ってくる。

「なら分かるだろう。あの極度のストレスが常に付きまとう空気。我々一隊は特に前線に居たから、更に酷かった。それが極限に達した日、私達はとある村を襲った。既に善悪の別が曖昧になった集団だったんだ、罪悪感など無かった。根こそぎそこにあるものを奪取して、立ち向かう勇敢な男達を殺して、残った女達を犯した」

 雹は目を細めて、童話の盛り場を語るかのように言う。その眼の色を見て、粋人はハッとした。

 ずっと前からその眼光には見覚えがあると思っていたが、それは『大陸』時代に戦地で必死に戦う同僚たちがしていた、あの狂気の色だったのだ。

「まぁそれだけなら、いわゆる戦争のもたらす害悪の一つで片付いたのかも知れない。私だって気にしていなかった。仕方ないと割り切っていた。だが……どう小細工したのか知らないが、こいつから私に手紙が届いたんだ」

 雹はマーユを指さして言った。それから思い出したように、

「こいつは今でこそこんなんだが、当時それはもう気立ての良い娘だったんだ」

「こんなんって何! 誰のせいだと思ってるの!」

 マーユが口を尖らせて猛抗議した。しかし雹は気にした様子を見せない。もう、そんな反応は分かりきっているとでも言いたげに。

「──その手紙の内容はもう覚えていないが……、その文面によって私のまともな感覚が戻ってきてしまった。とっくに無いと思ってた良心に壮絶な罪悪感が襲ってきて、私はその日のうちに軍を脱走した。故郷に帰るつもりでな。だが、すぐに捕まって投獄された。もう後は処刑されるのを待つだけ、そんな時に遭遇したのが、バーターだった」

 粋人の記憶にもある。窮地にある人間の前へ、突然現れて当たり前にあるものを対価に当たり前ではないものを提供するバーターという人物。

 ……何が、目的だったのだろう。粋人はなにか、底知れぬ不安をじわりと感じた。

「それで、さっさと性欲を差し出して脱獄するのに有利な暗殺術をゲットしたと……性欲を渡したのは、やっぱり私への罪悪感だったんだろうね。まったくそれじゃあ本末転倒だっていうのに、バカだよね──ま、私のせいなのかも知んないから、何かと言えないけどさ」

 マーユは横を向いて言う。「私のところにも誤報かなんか知らないけど、軍から行方不明になったって通知が来たんだ。で、あの頃の私は若かったからめちゃくちゃ落胆して、後追い寸前まで精神病んじゃった。そういう不遇な人間を相手にするのがバーターなのね、私のトコにも来てさ──、うーん、何て言ったか覚えてないんだけど、とにかく『彼』と一緒にいたいとか言ったのかな。甘いよねえ、なんというか、歯の裏っかわから液体チョコが湧いて出てくるような甘さだ」

「寒気がする」

 雹は冗談には聞こえない風に言ったが、マーユはいたずらが成功した子どものように笑う。

「まぁ、その時と容姿は全然違うけどね。こちらの世界で生きてけるような外見に変わってるみたい。ということは、その時の願い通り私は雹と一緒に居られてるっていうことで、バーターは仕事を果たしたってことだね。そう考えてみると、バーターが出したのは時空を超えた凄まじい解決策だったんだ」

「そんなわけあるか。バーターが提供するのは結果じゃない、能力だ」

「まぁそうなんだけど、前述のとおり『彼』と一緒にいたいって言ったら、バーターは私にこの不死の身を与えることを提案したの。ってことはさ、バーターはこうなることが分かってたって事じゃない?」

 マーユは同意を求めるように首を傾げる。すると雹はさっきまで雰囲気こそ変わりはしないが、少し口調を硬くした。

「……世界が滅びる事をか?」

「正確には、『大陸』が滅びることだけど」

 バーターは戦争が始まった時から現れ始めたとかいう、粋人の記憶に引っ掛かっている噂がある。

 ──それが、正しいことだとすると、あの何が原因で始まったのかよく分からなかった戦争、その内情にバーターが絡んでいたのではないか。

 粋人はそんな想像に、小さく戦慄した。

 だとしたら、今現在も世界が平行移動して、こちらの世界に移ってきたことは、バーターの思う壺だったのかも知れない。人に異能を与える能力があるというのだから、誰かに平行世界発見の切欠を与えるのは難しいことではないのでは。

 そうだとすると、今現在もあの『大陸』の戦争は続いているというのか……?

「──ま、昔話はこれくらいにしようか。なんでこんな話、しちゃったんだっけ?」

 マーユが場を改めるように言った。

「……粋人の昔話のついでだ」

 雹の言葉に粋人はマーユの方を見やって、頷いてみせた。

 マーユにここに連れて来られた時、とりあえず、粋人が持つ『大陸』時代の記憶を聞かせてほしいと言われた。粋人は素直に持っている記憶をありのままに話すと、マーユの共感が始まり、それが雹の昔話へと結びついていったのだ。

「でも、聞けて嬉しかったよ。僕の事情なんて大したことない位、二人共つらい思いをしてたんだなって思えたし……」

「面白いこと言うね、粋人は! ま、私だって、数十年だてに不自由な不死身として過ごしてないよ。気持ちの整理なんてとっくについてるし──」

「第一人格が変わりすぎだ。私だって最初は信じなかった」

「わ、私だって最初は分かんなかったよ! そんな服を墨汁で毎日洗濯してるようなカッコの冷たい目をした女が、まさか──名前は忘れたけど、私と昔イチャイチャしていた男だったなんて……」

「確かにそっちの方が驚くかも……」

 粋人は苦笑いを浮かべて言った。「でも、ありがとう。僕なんかに教えてくれて」

 マーユはじっと粋人の顔を見つめてから、口を開いた。

「雹は粋人が失ったものは、『自己への執着』とか言ったみたいだけど、私は違う解釈をするよ」

 粋人は一瞬ピンと来なかったが、確かに、雹にそんな指摘をされた。あれは記憶を取り戻した直後のことだ。詳しく聞こうと思ったら、異変に気づいたマティアスが飛び込んできて中断したのだった。

 違う解釈と聞いて、粋人は何故か他人事のような心地がした。

 マーユは指を一本掲げて、

「ラニエロの言葉に載せて言うなら『自己愛』だよ。ラニエロは『他者愛』、ベクトルこそ違えどどっちも同じ愛でしょ? だから粋人を兄弟なんて呼んだんだと思うんだけど、どうでしょ」

「どうでしょ……って、まぁ……間違ってもないかな?」

 答え合わせをするように、覗きこんでくるマーユの瞳にたじろぎながら、粋人は答えた。するとマーユは自分の言葉に確信を持ったように、口の端を吊り上げる。

「あくまで自分のコトは他人事だね。まぁ、どっちにしろ、自分がどうでもいいって思うようにされたのは間違いないみたいね。──私と真逆だ」

 真逆ということは、自分のことが大切に思えて仕方がないということだろうか。

「……そうなの?」

「そうだよ」

 断言するマーユ。彼女は死にたくないと言っていたが、その発言の根幹にはそんな思いがあるのだろうか。粋人はなんとなく、意外に思った。

 だが、それもこの突然蘇った記憶を辿れば理解できる。明日生きて天を拝めるか、本当に分からないような毎日だった。家族が、友人が、恋人がいつ居なくなってもおかしくも無い世界。せめて自分だけは、と思いたい気持ちも、不自然ではない。だからこそ、バーターという人間の取引はあちこちで行われたのだろうし、自分だってそうだ。戦争に巻き込まれていたという名目で、いつの間にか殺人を何度も繰り返してきた。

 ──せめてもの慰めなのか、自分が殺した、いや、自分が見てきた死人の顔は全員覚えている。それが贖罪になっているかは、全く分からないが。

 死人の顔──。

「──あの、ちょっと、頼みたいことがあるんだけど……」

 粋人は言った。「もし良かったら……ラニエロと、ニノンの顔を見ても良いかな?」

 彼の発言に雹とマーユは目を見合わせる。

「……大丈夫なのか?」

 雹に問われた。大丈夫なのか、というのは、死を知らされた時の粋人の反応を考慮してのことだろう。粋人は強く頷いた。

「大丈夫。──忘れないように、見ておきたいんだ」

「……分かった」

 雹はそう言って立ち上がり、浴場に歩いて行った。粋人がその中を覗きこんでみると、全く生気のないニノンの骸がそこに横たわっていた。

 喉の奥から湧いてくる嫌な気配を呑み込み、粋人はその傍らまで寄ると、膝をついてその死顔を覗きこむ。ひどく無残だった。色々な感情と共に嘔吐がこみ上げてきたが、何とか耐えてその顔を見続ける。

 ──彼の内に居たニノンは、すっかり居なくなってしまった。それを、心に刻みつけた。

「じゃあ、次はラニエロを……」

 粋人は雹に向かって言った。

「……私は後で行くから先いってて」

 雹はすぐに了承したが、マーユはそんな言葉を残し、粋人たちと入れ替わりに浴室へ入っていった。

 二人はラニエロの部屋へと向かった。扉が壊された入り口を抜け、浴場に入る。

「大分放置してるから腐敗が進んでるな」

「……」

 粋人は仰向けに横たわるラニエロに近づいていって、その傍らに跪いた。その死顔は、記憶にある自分が殺した人間が浮かべた死の間際の顔よりも、歪んで見える。

 やがて、見ていられなくなって粋人はさっと立ち上がり、浴室を出た。

「……平気か」

 雹が声をかけてくる。粋人は首を縦に振った。仮にかなり際どい状況であっても、首を横に振ることは無かっただろうが。

「……ありがとう」

 粋人は多大な感謝の意を込めて言った。これで自分の罪滅ぼしは継続されている。そんな風に思えるだけで、だいぶ心が軽くなったような気がした。

 すると、そこへマーユがやって来た。

「──ちょっと失礼」

 粋人の脇を抜けて浴室へ入っていった。何かを察したらしい雹も彼女を追う。

 廊下に取り残された粋人は少しの間戸惑っていたが、やがて意を決して恐る恐る浴場を覗きこんだ。

 そこでは雹がラニエロの顎を押し上げ口を大きく開かせた上で、その口腔の奥を探っていた。

「これ、ライト」

 マーユがペンライトを取り出して、雹に手渡す。雹はそれを受け取ると、ラニエロの口の中を照らした。

「あ、あの……何を……?」

 何をしようとしているのか分からず、粋人は訊ねた。するとマーユは、珍しく真面目な顔で口を開く。

「失血死にしては血の量が少ないな、って思ってたんだよ。ただでさえ、ニノンの部屋があんなにすごい様子だったからね。ぱっと見ても、ニノンの部屋のほうが血の量は多かった。──どちらかというと、ラニエロの部屋のほうが少なかったんだ。二人共同じ出血性ショック死だったはずなんだけどね……それは何故かって言ったら、ラニエロが失血死する前に他の死因で死んだからしか無いよね。セイディも検死は確実じゃないって言ってたから、一応その推理は成り立つ。まぁ、そこまでは分かってたんだけど……」

「……これは胸を裂くしか無さそうだ」

 雹が懐から短刀を取り出す。その刀身は鈍く光っていて、その鋭さだけでものが斬れてしまいそうであった。それを見て粋人は声を上げる。

「何を?」

「解剖だ。目、逸らしておけ」

 雹は短く警告すると、躊躇なく刃をラニエロの身体に突き立てた。粋人は咄嗟に目を逸らす。

「顔を見て分かったよ」

 マーユが言った。「窒息死だね。自殺は飛び降りとかさ、手を離せば自動的にやってくれるようなやつじゃないと、相当の意志がない限り死ねない。けど、ラニエロは敢えてそういうのでなく、それこそ死んででもこの方法で死ななきゃいけなかったんだ」

「──こいつを隠すためか」

 雹がラニエロの体内から拾い上げたのは、一本の缶。

 ──インビジブル塗料、と英語で書かれている。

「ブラックライトを当てると光るやつ。これで遺言を書いて、呑み込んで自ら命を絶った。一見でダイイングメッセージがあることが分からないようにしないと、後で発見した時犯人に消されちゃうからね。その為には書くものの隠滅もしなくちゃいけなかったんだ」

「そのためにわざわざ防刃チョッキ着て密室作るなんて小細工したのか……、なんて奴だ」

 雹はラニエロの死体を見下ろして言う。マーユはラニエロの体内から取り出され、血まみれになっている缶を雹から受け取ると、あらゆる角度から眺めて、そこにくっついている細いものを剥がした。

「ご丁寧にブラックライトが一緒にくっついてる。ちゃんと使えるのか分かんないけど、ま、早速見てみようか」

 三人は浴室を出て居間へと向かった。そして、ブラックライトのスイッチを入れる。粋人はマーユの背中越しから、青白い光に照らされた床に青白い文字が浮かび上がっているのを見た。

『Der Stern can not sleep』

「星は、眠れない」

 粋人は口の中で、その文面を呟いた。マーユは首だけ振り向いて訊ねる。

「Der Sternって、何語?」

「ドイツ語で『星』って意味」

 そういえば、例の語学を習得できる氷を、彼女はまだ飲んでいなかった。

 粋人から解説を聞いたマーユは更に疑問を深めたように、考えこむ。

「星……?」

「星──か」

 二人の背後に居た雹が言った。

「日本の警察用語で、犯人のことを『ホシ』と呼んだりする。きっとそれはそのことを──」

「雹」

 ふいにマーユが雹の言葉を遮った。雹は何かを察したように口を噤んで眼光を鋭くする。粋人もそれに釣られて、身を固くした。

 ──しばらくそのまま、緊張した空気がその場に漂ったが、雹がやがて低い声で言った。

「……別に異常はないようだが……」

 恐らくは、周囲に敵が居ないかどうか神経を張り巡らせて探っていたのだろう。

「……そう、良かった」

 マーユが一番安堵したようだった。「──まぁ、これで確定かな。誰が犯人か」

 その言葉を聞いた途端、粋人は心臓が大きく脈打つのを聞いた。あの短いメッセージだけで、犯人を確定できたというのか。雹も同じく驚いたように眉根を寄せている。

 この場にいる人間の中で、マーユだけが見ることのできた、事実があるのだ。

「とびきりの組織が裏についてて、とびきりの殺人技術を持ってて、とびきりの情報技術を持ってるような相手を追い詰めなきゃいけないんだから……、準備は念入りにしなくちゃね」

 マーユは既に、犯人を追い詰める算段を始めている。粋人は呆気にとられながら、彼女の言葉に耳を傾ける。

「決定的な証拠は何ひとつない。あるのは状況証拠と、ダイイングメッセージだけ……、そうなると、ちょっと卑怯な手を使うしか無いね」

「……」

 それは、決定的な証拠を犯人自身に作らせること。

「犯人しか知り得ない情報を、犯人の口から出させる。これしかないね」

「ネタはあるのか?」

 すかさず雹が訊ねる。その作戦で犯人を追い詰めるとなると、マーユが既にそれだけの情報を掴んでいるという前提が必要になる。

 マーユには自信があるようだった。

「あるよ……まあ、まだ推測の段階だけどね。これからそれを確かめようと思う。そのために、雹にはダイイングメッセージ探しをしてもらったんだもん、ニノンの部屋のね」

「……ムダだったと言ったら、本気で殺すところだったぞ」

 雹は至極真面目な様子で言う。脅し文句にも聞こえない台詞だったが、マーユは面白そうにケラケラと笑った。それから、目尻を擦りながら、

「最後の手がかり集めに、端末室に行こう。ここに潜んでいる内通者さんがアクセスしている先も分かるだろうし……それから、できればアメリカの国家機密にもハッキングできると良いかな?」

「……お前、それがどれだけ難しいことか分かってるのか?」

「うん。できるよね? 雹!」

 マーユは全く怖気付く事なく、満面の笑みを浮かべて言ってのける。

 雹はすっとフードで表情を隠してしばらく黙っていたが、やがて口を開いた。

「当然だ」


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