事件編(7)
二人目の犠牲者が出た。この知らせは瞬く間に住民たちへ伝わり、また例の会議を開催する流れとなっている。
雹はあまり彼らが今、どういう心情で居るのかを知りたくなかった。特に、比佐志粋人は。ラニエロの死であれほどの精神的なダメージを負ったのだから、況やニノンの死となるとまた記憶が戻った時と同じような狂い方をしてもおかしくないだろう。
雹とセイディは事件の基本的な情報を集めるために、ニノンの部屋の前に佇んでいた。中に入れないのは、マーユが先に現場検証をしているからだ。今回は扉が壊れていないので、やたらとキツい死臭がもろに流れてこない。敏感な鼻を持っている身としては助かる。
「ううん……食後にこういうのはちょっとキツイわ……」
セイディは細々とした声でぼやいた。飢えから解放されたばかりで気分が良くないのだろう。
「それなら私が代わりに視るが」
雹は面倒なことになると困るのでそう言うと、セイディは首を振った。
「……わ、わたしだって軍医をやってたの、これくらい、平気よ」
「なんとか吐かないでくれ。吐瀉にはいい思い出がない」
「……あんたにはデリカシーっていうものが無いの」
セイディの声は震えていた。その声には聞き覚えがある。友人を亡くした人間が、悲しみを押し殺して強がっている時の声だ。
そう察したものの別に同情するでもなく、雹はあくまでも冷淡に言う。
「大陸での戦争では同期が死ぬことが当たり前だったろう。私はとっくにそんな感覚を忘れた」
「流石暗殺者ね、……とでも言ってもらいたいの?」
「悪い気はしない」
その時、マーユが現場となっている部屋から出てきた。
「現場の状態をざっと見てきたよ。もう遺体を下ろしても大丈夫」
マーユも顔色が少し良くない。流石に堪えているのかと思ったが、どうもよく見ると、先ほど全力疾走をしたことが響いているらしい。
「部屋の中は綺麗な血だまりだったよ。足跡一つない」
マーユは言った。「足跡がないってことは、犯人が出て行った形跡が無いってこと。また密室みたいな感じだねえ。まぁ、後はよろしく頼むよ」
「おい、どこに行くんだ」
それだけ告げると、雹の静止も聞かずにマーユはすたこらと去っていってしまった。
「……死体を検分するわよ」
脈略の無いマーユの行動にセイディも少し呆気にとられていたようだが、気を取り直したようにニノンの部屋へと入っていく。釈然としないまま、雹もその後に続いた。
玄関から居間に渡る廊下の半分ほどから、居間の半分ほどまでが血の海で、マーユの言うとおりそれは綺麗なものだった。
「マーユの足跡もないぞ。あいつ、部屋に入らなかったのか」
「……わたし達が証人になれってことかしら」
あんな独り言のような発言を、現場の状況証拠にするには少し苦しいところもある。血だまりが綺麗だったことを証明する頭数は多い方がいい。
だが、それはマーユが部屋に立ち入っていないことを同時に示している。立ち入らずに、どうやって何を調べたというのか。
「まあいい」
雹はあっさりと思考を放棄して血の海を踏み、ニノンの死体へと歩み寄った。彼女は玄関から半分ほど身体が見えるように、吊り下がっていた。ロープの起点にはあからさまに打ち込まれたような太い杭があり、そこからカレンダーをかけるかのように無造作にニノンがぶら下がっている。
高い位置にあるので、彼女を下ろすのは大儀だった。雹は椅子を踏み台に彼女の死体を抱えると、ラニエロよりもずっと軽いその身体を、ベッドに寝かせた。
「腹を鋭い刃物かなにかで裂かれてるな」
ざっと見た印象を述べる。
「しかも、……その後に無理やり手で傷口をこじ開けたようね……」
「……おい、大丈夫か」
雹はセイディを横目で見て、訊ねる。
「……大丈夫じゃなくてもやるわよ」
セイディは怒ったように言った。その口ぶりを聞いて、雹は彼女から前はもっと邪険にあしらわれていたことを思い出す。たかだか、過去のことを話しただけでここまで対応が柔らかくなるのであれば、もっと早くから伝えておくんだった、とか半ば冗談半分に思った。
「──出血性ショック死、かしらね。ロープで吊るしたのは恐らく絶命してからね」
元軍医というのは肩書だけではないようだ。セイディは卒なく友人の検死を済ませて結論を下した。
ニノンの首には太いロープが巻き付いていた。その痕跡が斜めについていることから、ロープは純粋に吊るすことを目的に使ったようだ。
雹は手を口にあてがって、考える。
「出血多量で死んだ後に吊るされたのか。……そうなると、綺麗な血の海というのは不可解だな。普通なら何かしら痕跡が残るはずだ」
首を吊らせてから身体を斬り刻んだとしても、ロープの圧迫によって窒息死する前に失血死するとは考えにくいし、仮にそうできたとしても跡の全くない海は、天井でも歩けない限り実現し得ない。
「……抵抗した後が全く無いわ。薬品か何かで眠らされてから刺されたのかしら……」
「だろうな。ニノンは懐疑心を失っている。今のような状況であっても、相手を信用しない方がむしろ不自然だ」
雹は部屋の中を見渡してみて、部屋の奥に脚立が立てかけてあるのを見つけた。
「……脚立。これを使って吊るしたのか」
下方の足が黒く染まっているから、それは明らかだろう。その金属質の無骨さがニノンの部屋の雰囲気に馴染んでいない、十中八九、犯人が外部から持ち込んで使ったのだろう。
「それが部屋の奥にあるっていうことは……尚更、血だまりに痕跡が無いのはおかしいわね」
セイディが言った。
「吊るした後にあれを奥に置いてたら、どうしても帰りにこの血だまりを歩く必要があるからな。──なるほど、また密室か」
「……マーユの、言ったとおりね。それにしても、彼女はどこに行ったのかしら……」
「住民への聞きこみか……? まあ、どうせ住民全員が隔離されていたんだ。総員アリバイ無しがいい所だろうが……そういえばお前、死体が見つかる前に出歩いていたが何か見なかったか?」
するとセイディはじろりと雹を睨んで、
「してたらとっくに報告してるか殺されてるわ……」
「だろうな」
予想通りの反応に、雹はあっさりと言った。
マーユの言説が正しければ、ニノンはラニエロ殺人の折に犯人をたまたま見かけてしまって、そのことが犯人にバレてしまった、或いは自分から本人に問い質したのかも知れない、故に口封じのため殺されたと考えるのが良い。
情報を開示するには、誰か個人の前ではなく集団の前の方が良い。
「とりあえず、調べたことをまとめておくか」
雹が言うと、セイディは素直に頷いた。
粋人はとにかく、身を起こさなければいけないような気がして、起き上がった。
行き場のない焦燥が胸の中で渦巻き精神を削っているようで、強烈なめまいがした。涙は不思議と出なかったが、それ以外の負の感情がぐらぐらと腹の下で流れている。
ニノンが死んだと知らされたのは、つい先刻のことだった。
第二の殺人。昨日まで生きて隣に居たはずの少女が死んだことへの衝撃は、筆舌尽くしがたいものだった。粋人は、事態を知ってからの自分の行動をよく覚えていない。ただ、自分自身が殺害されたかのような、甚大な恐怖に取り憑かれたことは分かっている。
噴き出してくる嫌な気分を抑えこんでいると、粋人は傍らにアメリーがいることに気がついた。
「あれ……」
「あ、気がついた?」
アメリーは平素と変わらない調子で言って、粋人の顔を覗き込む。「また荒れてたみたいだから、桜葉に許可もらって見張ってたんだよ。また発狂するといけないからね」
「……それは、ありがとう。──もう大丈夫」
粋人ははっきりとした口調で言った。するとアメリーは、彼を慰めるように柔らかい笑みを浮かべた。
「無理も無いよ。来て早々にすぐこんなてんやわんやになったんじゃあ……ね。私も正常な感覚を持ってたら、どうなってたことか」
何だか引っかかりを覚える発言だったが、粋人はそんなことを訊くのは野暮だろうと思い、
「……えっと、それで、状況はどうなってるの?」
そう訊ねた時、部屋のインターホンが鳴った。そう彼が認識した時には、既にアメリーは立ち上がって扉の方へ向かっている。もう事前に知っていたのではないかと思えるほどの反応の速さだ。
アメリーは玄関で来訪者と少しやり取りをした後、扉を開けた。
入ってきたのはマティアスだった。
「……邪魔するぜ」
「マティアス……、何しにここへ……? 会議が始まるまで、部屋から出ちゃいけないんじゃ……」
粋人が驚いて言うと、マティアスは目つきを鋭くする。
「誰も部屋から出ないってことになっておきながら、ニノンは死んだんだぞ。もう、どこにいたって同じだろ。──そんなことよりな、お前らは、信用できそうだから伝えに来たんだ。アンドレイの野郎から聞き出したことをな」
マティアスは乱暴に椅子に腰掛けた。
「アンドレイは嘘が吐けないから、訊けば割と何でも答えてくれるもんね」
アメリーはそれを宥めるわけでもなく、平然とした様子で彼に倣うよう座る。
マティアスは身を乗り出し声を低くして、
「雹とかあの北欧人とで何か隠してないか、って思って問い詰めてみたんだ。──そしたら、ここの住民にこの施設に関する秘匿事項を漏らしてるスパイがいるとか言ってきた」
「えっ……スパイって……」
粋人が驚嘆の声を漏らす。マティアスは続けて、
「それも、そいつが今回の犯人である可能性が……高い」
「……それ、私たちが知ってもいいことなの?」
アメリーが質問をすると、マティアスは彼女の方を見やって答えた。
「言っただろ。お前たちには、ラニエロの件でアリバイがあった。だから信用できる」
「まあ、そうだけど……。でもなんだかそうなると、今回の事件、裏に何か凄く大きな組織が居てもおかしくないかも知れないね」
「……何で?」
アメリーの言葉に粋人が首を傾げる。
「あちこちの主要な国々が機密にしましょうって合意した情報を収集できる組織が、とんでもない連中だってことは太陽が東から昇ることくらい自明のことだよ」
──そう言ったのはアメリーではない。
いつの間にか部屋に入ってきていたマーユが、代わりに答えていた。
「お前、いつの間に!」
唾を飛ばす勢いでマティアスは叫ぶ。マーユはあっけらかんとして、
「いい匂いがすると思って引き寄せられてきてみたらさ、扉開けっ放し。近頃物騒だからさ、ちょっと脂の乗った情報が手に入ったからって、気を抜いたら命取りになるよ」
「……何しに来た」
「凄い邪険なオーラを感じるんだけども……もっと友好的にやっていきたいよ、私は……ラブアンドピース……」
マーユが肩を落としたその時、マティアスの目に怒りの色が浮かんだ。
「……っ、テメェ、ふざけやがって!」
彼は勢い良く立ち上がり拳を固めたが、アメリーが即座に彼の腕を掴んで引き止めた。マーユは全く驚いた様子を見せずに言う。
「別に、ふざけて無いよ。誠心誠意仕事してるよ、そうしないと死んじゃうからね」
「じゃあどうしてさっさと犯人を見つけねえんだ! お前がもっと早く犯人を探し出してりゃあな、……ニノンは死んでなかったんだぞ!」
粋人はどきりとした。この責任が飛び火していく感じが、嫌な気分を起こさせる。
マーユはそれでも動じないようだった。
「それは、私の落ち度だったと思うけど、契約内容は『事態の収拾』だし、雹が死なない限り私も死ぬことはないし……、こう言ったらなんだけど、運が、悪かったんだ。ニノンは」
「クソッタレ──、人としてどうかしてる!」
マティアスは叫び散らした。粋人はこれほどまでに、感情的な叫びを聞いたことがなかった。胸中にじっとりと、緊張の重い網が広がっていく。
しかし、それでもマーユは相変わらず飄々とした調子で言い返した。
「人? あれ、私はもう人じゃないって、知らなかった?」
そして、言葉を探すように視線を一瞬泳がせる。「不死身、だけどさ。人形、なんだよ。自分の意志で身体ですら動かせないようなの、人だなんて、冗談キツイね」
全くいつもの口調と変わらないのに、その裏の腐敗した感情を直に見せつけれられているような心地がして、粋人は足から順繰りに身体が固まっていくようだった。
マーユは自嘲するように話を続ける。
「死人と同じようなもんだよ。来る日も来る日も、時間が過ぎるのを寝っ転がって待つだけ。永遠にさ。もう、最初の頃は気が狂いそうになった……っていうか、実際狂ってたんだけど、もういい加減完全に壊れたよねぇ。そういう感情はさぁ、私の中ではフィクションなんだ。気持ちを落ち着かせたり昂らせたりするお伽話。それはまぁ、君達にはリアルなものなのかも知れないけど……私に押し付けるのは、ちょっと酷だよ」
「──だから、不謹慎な態度でも大目に見ろってか?」
マティアスは目を見開いて言った。「んなことできるか! お前と一緒にするんじゃねえ!」
そう言って彼はどこから取り出したのか、ボールペンを握りしめてマーユへと振りかざした。アメリーが瞬時に反応してその腕を掴んで止める。
「ちょっと落ち着いてよ!」
アメリーが声を張るが、マティアスの耳には届いていないようだった。
そのペン先を見つめてなお、マーユは平静な顔をしている。
「いいよ、殺っても」
「──」
「それで気が済むのなら、どうぞ。私は不死身だから、何も失くなんないし」
それを聞いたマティアスの手に、力がこもった。
「あっ……」
アメリーが声を漏らす。彼女の手に掴まれたまま、マティアスが腕を動かしたのだ。まるでアメリーの制止が存在しないかのように彼の腕はマーユへ伸びていき、ペン先は容赦なくマーユの首筋を狙って勢いをつけた。
「──!」
粋人は思わず何かを叫びかけた。
「……」
が、次の瞬間には時間が止まったように、場が静まり返った。
ボールペンの先はマーユの首筋寸前で止まっている。マティアスが寸止めをしたのだ。彼は大きく息を吐いてから、ペンを懐に仕舞ってぼやいた。
「んなこと……できるか。それじゃ、ニノンを殺った奴と一緒じゃねえか……」
「はぁ……ビックリしたぁ……」
アメリーが胸を抑えて、つぶやく。粋人も心の底からホッとして、体中から緊張という緊張が抜けていった。
だが、この中でもっと安堵に身を震わせている人間が居た。
「うううう……」
マーユは半ば泣いているような声を出して、その場にへたり込んだ。
「めちゃくちゃ怖かったよぉ……」
「……何だよ、虚勢だったのか、あれは……」
あまりにもさっきとは打って変わった情けない様に、マティアスがげんなりした風に訊ねる。
「当たり前だよ……私は死にたくないから不死身になったのに、死んじゃったら元も子もないじゃんっ……」
「その考え方、突っ込みどころが多いんだけど……」
アメリーが苦笑いしながら言う。するとマーユは涙で赤くなった目で反論した。
「真面目だから! 物語とかで自分を犠牲にして、人を生かすのとか居るでしょ? ああいうシチュエーションに絶対遭遇したくないんだ、考えただけでも怖気がする。だから、不死身になって死を遠ざけた……でも、そうしたら余計に死ぬことが怖くなってさ……、怖いものって近くにいるほうが却って怖くないんだって、気づいたね。だからこそ自己犠牲なんてできるんだ。もう私は手遅れだからさ、死ぬってことを忘れたくて明るく振舞ってるの」
どうも今までの軽薄な言動の数々は、マーユなりの明るさの表現らしい。でもそれはある種の意味付けのようなもので、元々がそういう性格なのだろう、と粋人は思った。
「……けっ、何だよ、十分人間らしいじゃねえか。さっきはひどい自虐しやがって」
マティアスが乱雑に頭を掻きながら文句を言うと、マーユは下を向いた。
「ごめんね。……ところで、私がここに来たのは他でもない、情報収集のためなんだけど……何か無い?」
そして本来の目的を思い出したように顔を上げる。その質問に、三人は顔を見合わせて一様に首をひねった。誰もが、突然の事件に驚いているといった様子だ。
「逆に全く誰も情報を持ってないってことが気になるってところだな」
「そうだね、まさか二人目が出るなんて夢にも思ってなかったし……」
マティアスとアメリーが言った。
「……まぁ、ラニエロの時もそうだったんだ、奴は今回も手抜かりなくやってるよ。でもね……、結構ニノンを殺すのに犯人はなかなか苦しいことをしてる」
マーユは目元をぐしぐしとこする。
「いろいろ残念だね。まあ、それだけ最初の殺人に手が込んでたってことかな」
何が彼女に見えているのか、粋人には全く分からなかった。だが、何だかマーユならば、一連の事態を収束してくれるような気がする。あの掴みどころの無い振る舞いの裏には、何か大きなはかりごとの構図が終始描かれているような、そんなふうに粋人は感じた。




