あの日、森に捨てられた
-むかしむかし あるところに 深くて暗い森がありました-
弟が欠伸をした。
「6回目」
出発からずっと文庫本を読んでいる姉が見向きもしないで当てた。
「だって退屈なんだもの」
「本読むならもう一冊あるよ」
姉がバッグから新書を取り出そうとする。
「いい、おねーちゃんの本、難しいから」
「だから雑誌買えばって言ったのに」
弟は、姉と話がしたかった。そして姉も同じだと思っていた。だから特急列車の指定席に腰掛けた途端に姉が文庫本を取り出したのを見て、弟は途方に暮れたのだ。
窓の外は暗く退屈な田舎の風景。そして冷たそうな雨が降っている。たぶん十年前、母もたどった路線なのだろう。その日の記憶は全くなかったが、姉にそう教わった。
「おねーちゃんは憶えてるの?」
「わたしは何も忘れないの」
姉はとても記憶力がよかった。見たことも聞いたことも、見てないはずのことまで知っていた。だから今日、これから遭遇する出来事も、結末も、姉はすっかり分かっているのだろう。
弟は、これからのことがたまらなく不安だった。だから姉とお喋りがしたかった。しかし姉は、弟の相手をするつもりはないらしい。仕方なく弟は、到着まで寝て過ごそうと姉の肩に軽くもたれてみた。有り難いことに姉は怒らない。弟は安心して、姉の肩に深くもたれ掛かった。目をつぶる前に窓の外を見ると、さっきの雨はすでに雪に変わっていた。
二人が目指しているのは、都心から2時間ほどで着く温泉地として有名な街。昨日、警察から電話があって、10年前に失踪した母親と思われる遺体が見つかったと告げられたのだ。そして姉に言われるままにこの特急列車に乗り込んだ。考える間もなく。もちろん、考えたところで事態は変わらないことは分かっていたが。
やがて駅に到着した二人は、雪の中、歩いて警察署に向かった。
「歩いても十分くらいだから」
倹約家の姉はタクシーなど使わない。しかし弟は、寒さに震えて姉の選択を恨んだ。
「ねえ、今更なんだけど、おねーちゃん一人で来ればよかったんじゃないかと思うんだけど」
「そういうわけにはいかないの。わたしたちの母親なんだし」
「僕は…お母さんのことなんかどうでもいい」
「そんなこと言うんじゃないの」
「だって僕らを捨てたんだよ、捨てておいて、今更なんでって感じだし」
「もしかして連れて行ってほしかった?」
姉の言葉に弟はゾッとした。連れて行かれた自分は、今頃どうなっていたのだろう。
「そういうんじゃなくて…」
「突然ふらっと現れて、母親づらされるよりはマシでしょ?」
「それは、そうだけど」
「今日、来なければ来なかったできっと後で後悔するんだから。同じ後悔なら行動して悔やんだ方が楽なんだよ」
姉はいつも冷静だ。冷静で前向きで、弟はいつもやり込められる。
「本当は、死体を見るのが怖いんでしょ」
姉がいたずらっぽく笑って言う。
「…怖くなんかないよ」
「うそ」
そして二人は警察署に着いた。応対してくれた警官は、ご遺体は損傷が激しいので、遺品の確認をお願いしますと言う。しかし姉は、遺体も確認すると答えた。そして弟も一緒に見ろと言う。
「僕はやだよ。おねーちゃんだけで確認してよ」
「だめ、一緒に確かめるの」
「やだよやだ。だって僕、お母さんの顔なんか覚えてないし」
「写真などはお持ちではありませんか?」
警官が話に割り込んできた。
「いいえ、写真は一枚もないんです、そう言う家でしたから」
姉が淡々と答えた。
「いいよじゃあ、わたし一人で確認するから」
そう言って姉は弟を睨んだ。きっと後でいじめられる。弟はため息をついて姉を見送った。
弟は、なぜ姉が進んで遺体確認をしようと言い出したのか不思議でならなかった。
(同じ経験をしたはずなのに)
弟が母親から連想するのは、汚れたアパートや蠅の群がる台所。そして、気が遠くなるような空腹感。楽しい記憶など一つもない。だから死体だろうが何だろうが会いたくなかった。
やがて姉が戻ってきた。弟は急いで姉に駆け寄る。
「お母さんだった?」
「うん」
「顔見てわかったの?」
「わかるわけないじゃない。もうほとんど骸骨だし。腕時計と財布と、あと遺書の筆跡。あの人、字が下手で癖のある字書いたから」
「遺書があったの!」
「うん。読む?」
「…ううん」
遺体は、事件性がないということになって、その場で死体検案書が渡された。ついでに、この地の斎場を確認してもらって予約を入れた。幸運なことに明後日には火葬できるらしい。
「ずいぶんあっさりなんだね」
「遺書があるし、体は骸骨だし、わたしたち直ぐ施設に入れられたし、住んでたアパートはもうないし、ね」
「その…火葬するまでここにいるの?」
「せっかくだしね」
せっかく…母親の遺体が見つかってたまたま訪れた温泉地。これが合理的な判断なのか、人間味のない行いなのか、弟は少し考えた。
「旅行なんて、ずいぶん久しぶりだよね」
「久しぶりじゃないよ、初めて」
弟はこれが初めての旅行だと知って驚いた。たしかに母親が失踪してからは、ずっと施設暮らしで旅行どころではなかった。母親がいた頃は、そもそも母親は、普段の生活にも無関心な人だったから、旅行どころか遊園地にすら連れて行ってもらえなかった。だから旅行なんて行くはずがない。この事実に思い当たり弟は軽く衝撃を受けた。
「つまり、そういう人生を歩んできたってことね」
姉が冷静に分析を述べた。
「でも…そんな不幸じゃなかったような気がするんだよ」
「そうでしょ? だってわたしたち、別に不幸じゃないし」
そう言って姉は、笑いながら弟の頭を軽く小突いた。
警察署を後にして、さすがに今度はタクシーを選んだ。途中、洋服店でシャツや下着を買い求め、二人は渓谷沿いにある温泉街へ向かった。
警察署でもらったパンフレットを見て決めた宿は、この温泉街では比較的高級な旅館だった。そして季節外れのしかも平日だから案外と安く泊まれるとはいえ、姉がグレードの高い「露天風呂付き個室」を選択したことに弟は驚いた。もちろん無条件で賛成したが。
弟は、豪華なロビーや瀟洒な調度品に興奮した。テレビの旅番組でしか見たことのない世界がここにはあった。
「来てよかったでしょ?」
窓の外を眺めていた姉が笑いながら言う。弟はばつが悪かったが、素直にうなずいた。
「ねえ、そういえば、どうしてお母さんは10年間も見つからなかったの?」
「そこの渓谷のもっと下の方で、大きな岩と岩の隙間に、すっぽり嵌まって沈んでいたんだって」
「…そこで死んだの?」
「たぶん、上流の吊り橋から飛び降りたんじゃないかって」
「…アパートを出で、直ぐ?」
「遺書の日付から推測すると、そうだろうって」
「……」
「読んでみる?」
「いい」
つまりこういうことだ。
10年前、姉弟の母親は一人でこの温泉地を訪れ、観光スポットでもある上流の吊り橋から飛び降りた。おそらく激しい渓流の勢いに体が幾度も回転し、財布と遺書の入ったバックが偶然流されることなく母親の脚に絡みついたのだろう。そしてそれが身元特定の決め手となった。どうしてこの温泉地を選んだかは定かでないが、各地の飲食店を転々としていた彼女は、この温泉街で働いていたことがあったのかもしれないと警官は考えていた。
いずれにしろ姉弟が子どもだった頃のこと。弟に至ってはほとんど母親の記憶がない。しかし姉は母親が失踪した当日のことをよく憶えていて、思い詰めた表情でお金を姉に渡して出掛けたという。お金はいつもの千円札ではなく五千円札だった。だから鮮明に憶えていたのだと。
「じゃあ、そのバッグが流されていたら、誰の死体だか分からなかったってこと?」
「そうみたい」
「でも、うん、よかったんじゃないかな」
「どうして?」
「本当は、今もどこかで、また誰かを困らせながら生きてるのかなって思ってたんだよ」
「うん」
「だからよかったなって。なんかひどいこと言ってるのかもしれないけど」
姉が突然、後ろから弟を抱きしめた。
「優しい子」
「別に優しくなんかないよ」
「ううん、優しい子だよ」
この10年は、親のいない二人にとって過酷であったはずだが、どうしても弟には実感がなかった。それはたぶん、姉が常に前向きで上昇志向の塊だったから。
(こんなの全然辛くない。今の方が楽しい)
姉はいつも言っていた。強がりでも嘘でもなく、とても満足そうに笑いながら。
母親の失踪後、親戚はみな一様に「あいつの子どもじゃ…」と言って姉弟を引き取ってくれなかった。また数年経って、ぬけぬけと現れると思われていたのだ。聡明な姉には、養子縁組の話もあったが、弟と一緒でなければ嫌だと言って頑として受け入れなかった。そして二人は施設に入所した。
少しぼんやりしている弟は、学校で虐めにあった。
(ねえ、こんなの全然辛くないんだよ)
そう言って姉は、泣く弟をいつもぎゅっと抱きしめ慰めた。そして眠れない夜には、二人を主人公にした物語を話して聞かせた。幾多の困難を乗り越えて幸せをつかむ姉弟の話。弟はこの物語が大好きだった。そして何度も聞くうちに、この話は現実なんだと思えるようになってきた。
食事の前、弟がテレビでアニメを見ている間に、姉は一人でベランダにある露天風呂に入っていた。すると突然、刺すような冷気が部屋に流れ込んで来た。驚いてベランダの方を振り向くと、姉がサッシを開けてこちらを見ている。
「おいで」
「いいよ。テレビ見たいし」
「雪景色がきれいだよ」
「別に見たくない。それよりそんな格好でいると風邪ひいちゃうからね」
「来るまでおねーちゃん、ここにいるよ」
弟は諦めて起き上がると浴衣を脱いだ。ベランダに出てみると、冷気が塊のように全身を襲う。姉はいつの間にか風呂の縁に腰掛け、はるか遠くを眺めていた。
「何見てるの?」
「見てごらん、綺麗だよ」
弟も、寒さに震えながら姉に倣って遠くを見た。暗い空を、雪が狂ったように舞っている。そしてその先に、ライトアップされた吊り橋がぼんやりと見えた。
「あの橋…」
姉は答えず、勢いよく湯船に飛び込んだ。弟も急いで湯船に入る。全身が一気に生き返っていく。姉が弟の脚に自分の脚を絡めてきた。
(いつから外にいたんだろう)
その冷たい脚に驚いて、弟は姉の顔を見た。姉はにっこり笑い、弟に手を差し伸べた。
姉は、奨学金を得て大学生になると同時に施設を出た。学業をこなしつつアルバイトに励み、1年経って弟が中学を卒業すると、約束通り弟を施設から引き取った。初めての姉弟二人だけの生活。姉は学業と仕事を完全に両立しつつ、食事や家事も一人でこなした。
「なんか僕がいない方が楽できるんじゃないの?」
「いてくれれるだけでいいんだよ」
学校にも行かず、することのない弟は、パソコンが欲しいと姉に頼んだ。しかし姉は許さなかった。
「いい、パソコンやインターネットは悪なの。テレビはいくらでも見ていいし、DVDを借りてもいい。だけどパソコンはダメ」
「だけど学校では習ったし」
「あれは別物。ねえ、好きなように出掛ければいいんじゃないの? ここは自由なんだから。どこに行っても誰にも怒られないし、ばつも受けないよ」
姉はそう言うが、弟は一人で出掛けるがとても億劫に感じられた。自由とはいうが、窮屈な施設暮らしのくせが全身に染みついて、未だ抜けていないのかもしれない。
「僕、このままじゃバカになっちゃうかもね」
「いいじゃない、バカほど可愛いものはないって言うし」
「でも僕、何もできなくなっちゃう、おねーちゃんのこと助けられなくなる」
「いいの、わたしがずっと守ってあげるんから」
「だって…一生おねーちゃんと居られるわけじゃないじゃないし」
「一生、一緒にいるよ」
「嘘だよ、おねーちゃんのが年上なんだから、先に死んじゃうかもしれないじゃないか」
「女の方が平均寿命長いんだよ」
「でも、事故とか病気で死んじゃうことだって」
「安心して。わたしは絶対に置いてかない」
「だけど」
「信用しなさい。わたしには見えるの。二人切りでいれば大丈夫。もう絶対誰にも邪魔されない」
夢のような数日間が終わった。雪の中、二人で温泉街を散策した。自分たちの為にお土産も買った。夕食のたびに姉はお酒を飲んで終始上機嫌だった。無理やり弟に酒を勧めることもあった。そしてむせ返る弟の様子を見て笑うのだった。
旅館をチェックアウトして、二人は斎場に向かった。僧侶も参列者もいない火葬は呆気ない。それでも棺の前には白い菊の花が添えられていた。二人が焼香を済ますと、職員が手慣れた手順で棺を炉に搬入する。合図と共に点火され、炉の上のランプが赤く点った。何時間くらいですかと問う姉に、職員は微妙なニュアンスでそれほどかからないと返答する。何しろすでにほとんど白骨だ。経験豊富な職員も、白骨を灰にする時間までは分からないのだろう。
二人はロビーの、目立たないソファーに腰掛け待った。姉は行きの電車と同じように文庫本を取り出し読み始める。弟は、備え付けの本棚にあった漫画を持ってきた。遺体を燃やす炉は高熱なのに、待合ロビーはひどく寒かった。
その日のうちに、二人は前の年に姉が購入したマンションに帰ってきた。姉は帰って直ぐに骨壺の入った木箱をクローゼットの奥にしまい込んだ。それから全ての窓を開け放ち外気を取り入れる。ここが二人の家。特に弟にとっては、一日の大半を過ごす場所。
夕食を済まし、風呂に入って、二人はソファーに並んでテレビを眺めていた。数日前と変わらない光景。そして永遠に繰り返されるであろう日常。しかし弟は、退屈だとは思わなかった。それどころか本当に永遠に続けばいいとさえ願った。
「たまには旅行もいいよね」
「そ? じゃあ、これからはもっと行こうね」
「大丈夫なの?」
「うん、今までどこにも連れて行かなくてごめんね」
「…お金、あるの?」
「そーゆー心配はしないでいいの。わたしこれでけっこうお金持ちなんだよ」
姉は、大学生のときすでに起業していた。大学を卒業した今も、会社の業績は好調らしい。家で仕事の話を全くしない姉だったが、湾岸の、しかも高層マンションが買えるのだから、確かに儲かっているのだろうということくらいは、弟にも察しがついた。
「でも、お金なくたっていいんだけどね」
「でもお金ないと生きていけないよ」
「これがねー、あんがい生きていけるんだよ」
弟はふと思い出して姉に聞いた。
「ねえ、遺書には何て書いてあったの?」
「読みたい?」
「…うん」
姉は、弟の返事に驚いた様子で、弟の顔をまじまじと見つめた。
「読んでも、意味ないよ」
「どうして?」
「だってあれ、わたしが書いたんだもの」
「え…」
弟が絶句すると、姉はいたずらっぽく笑い、弟の頭を軽く小突いた。そして弟が次の言葉を言い出す前に、弟を乱暴に抱き寄せ、胸でその口を塞いだ。柔らかな胸に押しつぶされて、弟は考えるのをやめにした。姉が考えて実行したことに間違いはない。それがたとえ10年前の決断でも。
「どっちがよかった?」
「どっちって」
「あの人がいる未来と、いない今」
「今で、よかった」
「でしょ?」
「ねえ、いつものお話しして」
「いいよ」
姉は、自分が作った物語を語り始めた。幼い姉弟が深く暗い森の中で、母親に捨てられ、それでもくじけず成長していく物語。内容はいつも少しずつ違っていたが、結末は必ず同じだった。
-そして可愛い弟は、優しいおねーちゃんと、いつまでもいつまでも仲良く暮らしました、とさ-
onaishigeo「あの日、森に捨てられた」2012/01/15 初出:ブクログのパブー http://p.booklog.jp/book/42181