第十三話 シェリーの決意 Act01:譲れぬ思い
グレシャス領を訪れて二日目。母ロベリアーヌから突然持ち出された婚約の話に、困惑するシェリー。しかし、レナに勇気をもらったシェリーは、自らの母親に真っ向から立ち向かう道を選ぶ。
昶の協力のもと着実に実力をつけていくレナ、セインと共に新しい術の習得に励むシェリー。ただ強くなることを目標としていた彼女たちは、その向こうになにを見るのだろうか。
二人の少女が思い悩む中、悪しき魔の手が彼女たちに、そして王国へと忍び寄っていた。
シェリーは、今日も日の上がらぬ内から目が覚めた。
明るい赤紫色の髪を右手で払い、青い瞳で外の様子を眺める。
まだ日の出前の真っ暗な空間が、窓の外に広がっていた。
身に付いた生活習慣とは恐ろしいもので、時計はないのでわからないが、恐らくいつもの朝練の時間なのだろう。
だが、この時ばかりはそれを恨めしく思った。
母親に対する思いと、アルトリスに対する好意、そして婚約に対する躊躇い。
その三つが胸の内をぐるぐると回り、シェリーの心を締め上げてゆく。
心臓に鋭い痛みが走り、左胸を力いっぱい押さえた。
わかってくれる……とは最初から思っていなかった。
学院で八ヶ月と少し頑張ったくらいで、認めてくれるような母親ではない。
実技の方はともかくとして、シェリーの母親が見ているのは座学の方だ。
そちらの成績が芳しくない以上、どうにかなるはずもない。
しかし、まさかこんな手段に出てくるなんて。
「……アルトリス兄さん」
年上の幼馴染みであるアルトリスは、シェリーにとって憧れの人であり、密かに思いを寄せている人物でもある。
そんな人との結婚話なんて、本来なら飛んで喜ぶほど嬉しいことのはずなのに。
でも、そのために自分を捨てるような真似なんて、できるはずもなかった。
グレシャス家の当主は幼い頃からの目標で、シェリーにとってはそれが全てだったから。
使用人や竜騎士隊のみんなと楽しく過ごして、父親のように領民達から信頼されるような当主になりたい。
その向こう側の展望はまだ見えていないが、父親の背中ばかり見てきたシェリーには大事なことなのだ。
例え、母親の理解を得られなくとも。
シェリーはふと、自分隣を見やった。
オレンジ髪の、幼馴染みの女の子。髪は寝癖でぐしゃぐしゃになっている。
自分より背は低いが、年齢的には一応年上だ。
昨夜はずっと自分のそばにいて、話を聞いてくれた。
たったそれだけのことだが、随分と気持ちが楽になった。
「レ~ナ~」
優しい声音で名前を呼びながら、頭をそっと撫でた。
レナ=ル=アギニ=ド=アナヒレクス。
シェリーの幼馴染みにして大切な親友、そして昨夜ずっと自分の話を聞いてくれた女の子の名前である。
こんなに泣いたのは、いつぶりだろうか。
少なくとも学院に入る前であるから、八ヶ月以上は前にはなるだろう。
小さい頃にレナの所へ家出していた時は、たいてい泣いていた気もするが、十歳辺りを境に泣くことも少なくなったっけ、とシェリーは昔を思い出す。
こうして思い出してみると、レナに頼りっぱなしであることに気付く。
一時期は逆の時もあったが、あれはあの時が特別だっただけで、やっぱり今でもレナには頼りっぱなしだ。
例えば、中間テストの勉強とか、期末テストの勉強とか。
口では文句を言いながら、結局全部教えてくれたっけ。
しかもテストに出た範囲をピンポイントで。
さすがに、過去問を探して講師ごとに問題の提出傾向をパターン化していたりはないと…………いや、やっぱりあるかもしれない。
「はぁぁ、どうしよっかなぁ……。返事くらいは、ちゃんとしなきゃだめだもんね」
予定では、もう一泊ほどしたら帰るらしい。
それまでに婚約の話に関して、なんらかの返答をするのがアルトリスに対する礼儀というものだろう。
昨日ちょっと聞いた限りでは、母親のロベリアーヌが呼び出したような感じであったし。
例え返事を待ってくれと頼んでも、アルトリスなら涼しい顔をして許してくれそうではあるが。
シェリーは寝っ転がると、レナの手をきゅっと両手で握った。
「レナァ、結婚した方がいいのかなぁ。私」
眠っている相手に話しかけても、返事は得られない。
だが、どんな答えが返ってくるかはわかる。
昨日もさんざん言われた。
自分にもわからないが、一緒に悩んであげるくらいしてあげる、と。
アルトリスに好意を抱いているのは、本当だ。
嘘偽りない事実である。
だが、グレシャス家もそれと同等以上に愛おしい。
母は相変わらず自分を認めてはくれないし、最近は父とも全く会えていないが、使用人や竜騎士、兵士達とは主従以上の関係を築けている、と自分では思う。
本当に、そのどちらかを天秤にかけ、切り捨てなければならないのだろうか。
「ううん。違う。そうじゃない」
これで何百回、同じことを考えただろう。
結論は『選べない』と、そうはっきり出ている。
レナを呼んだのは、本当は自分の考えを後押ししてもらうため。自分で決定権を放棄して、レナにすがろうとしていただけだ。
もしかしたら、レナはそこまで見越して、あえて自分からはなにも言わなかったのかもしれない。
自分のことに関しては、シェリー自身よりレナの方がよくわかっている部分もある。
自意識過剰かもしれないが、本当にそうだと思っている。
必要なのは、どちらかを“選ぶ”ことではない。
自分で答えを出す“勇気”だ。
「よしっ、はっきり言おうか。ねぇ~……、レナ」
シェリーはレナの頭を優しく撫でながら、そっと目をつむった。
決意したことで心の枷が外れたのか、妙に心がすっきりしている。
シェリーは再び這い上がって来た睡魔に身をゆだねながら、心地よい眠りへと落ちていった。
同じ頃のレナの部屋。
レナがいないならいいかな、とレナの部屋で寝ていた昶も目を覚ました。
ちなみに、悪いとは思いながらも、お言葉に甘えてベッドで寝させていただいた。
昶、ベッド初体験の夜である。
お日様の光をいっぱいに浴びていたであろう布団は、これまでに経験のないほどふかふかな上に、保温性抜群であった。
これに慣れたら今までのベッドはもちろん、床でなんて絶対に眠れそうもないので、金輪際やめておこう。
それにしても、さすがは最高級のベッド。
外に出ようとする気力が、湧いたそばから奪い取られてゆく。
『起きていたのですか』
昶が少しでも快適空間を形成しようと、身体をごそごそ動かしていると、不意に声が聞こえてきた。
もし昶以外の人間だったならば、ちょっとしたホラー体験ができたのだが、まあそれは置いといて。
物理的な姿を確認することはできないが、感覚を少し研ぎ澄ませれば、肌をぴりぴりと焼くような気配はある。
間違いなく、火精霊の気配だ。
「セインか。そういや、こっちにいたんだっけ」
『はぃ』
昨日はシェリーに気を使って、レナと二人きりにしてあげたそうだ。
そして、特に行く当てもないので、二人以外の唯一の知り合いである昶の所に来たのだ。
もっとも、睡眠の必要があまりないセインと違って昶には適度な睡眠が必要なので、シェリーのことを少し聞いただけで寝てしまったのだが。
あまり期待もしていなかったが、セインもやっぱりシェリーのことは話してくれなかった。
それだけ、なにか大変なことがあったのだろう。
私では力になれず非常に残念です、と顔に書いてあった。
昶にできることと言えば、セインと大差ない。
物心付く前から修練を積んでいた、破壊のための力――草壁流陰陽術。
これで、誰かと戦うことくらいだ。
しかし、それ以外となると…………。
「はぁぁ。やっぱ、戦うことしか能がないんだなぁ。俺って」
自嘲気味に笑う。
それしかやってこなかったのだから当たり前かもしれないが、それでも悔しかった。
昶が己に見出した戦う理由は、大切な誰かを守ること、苦しんでいる誰かを救うことだ。
それなのに、自分は傷付いたシェリーを元気付けてやることすらできなかった。
昨夜、シェリーの姿を見た時である。
なにかに心を痛めているのは、姿を見るだけでわかった。
しかし、その後にどうすればいいか、昶にはわからなかったのだ。
戦闘ならば、最適解を容易に導き出すことができるのに。
なんて声をかけてやればいい? どのように接してやればいい?
なにもわからなかった。
「セイン、ちょっと実体化して付き合ってくれるか?」
『私も、ちょうどそうしたいと思っておりました』
昶と実体化したセインは、三階の窓から飛び出した。
ようやく日も上り始めた頃、こんこんとシェリーの部屋に小気味良いノックの音が響いた。
「失礼します」
白と黒のシックなエプロンドレスに、可愛らしい白いフリルのヘッドドレスを身に付けた女性が、静かに部屋へと入る。
薄い赤色の三つ編みと、スミレ色の瞳をした垂れ目の女性。
シェリー付きのメイド、エルミーナ=ラ=エルフィンだ。
「お嬢さま、朝の紅茶をお持ちしました」
ティーセット一式と入れたての紅茶を載せたワゴンをベッドの横まで運ぶと、レースのカーテン越しにシェリーへと声をかけた。
シャアーっとレールを滑り、カーテンが開かれる。
だが、そこにあったのは自分の仕える主人ではない。
「おはょ、エルミ」
「レ、レナ様!? ななななぜ、お嬢さまのお部屋に……?」
「昨日、シェリーに呼ばれたのよ」
「よ、呼ば、呼ば呼ばれ、呼ばれ呼ばれたたたなんて…………ダッ、ダメですそんな! 女の子同士で!」
しゅぽーっと頭から湯気を上げながら、エルミーナの顔がぼっと赤くなった。
なにやら、よからぬ想像でもしたらしい。
「あのねぇ、あたしにそんな趣味ないから。エルミったら、いったいどんな思考回路してるのよ、まったく。単に、シェリーの話聞いてただけよ」
「うぐ……。す、すみません」
ぺこりとレナに謝ってから、エルミーナはその傍らで眠るシェリーへと目をやった。
安らかな寝顔をしているが、目元は赤く腫れ、同様に涙の流れたであろう頬の部分にも、くっきりと赤いラインが浮かび上がっている。
昨日なにがあったのか、その一部始終を見ていたエルミーナの脳裏に、昨日部屋を出て行く直前に見せたシェリーの悲壮な顔が思い起こされた。
あんな顔を見るのは、幼少の頃以来だ。
ロベリアーヌの言っていることは、世間一般からすればもちろん正論である。
例外が皆無なわけではないが、子供が男女の姉弟である場合、例え男が姉弟の中で一番下の末っ子であろうと、家督は男が継ぐものなのだ。
シェリーのグレシャス家を継ぎたいという思いは、そんな慣習に真っ向から反するものなのである。
「婚約、ロベリアーヌさんに迫られてるんだってね」
「お嬢さまは、そこまでお話になったのですか?」
「シェリーがあたしを頼るのは、こういう時だけょ。家族とギクシャクしちゃった時だけ」
そういえばそうでしたね、とエルミーナは静かに頷く。
「アルトリスさんが相手なら、あたしも大賛成よ。ただし、シェリーが納得してるなら、の話だけど」
「そこ、なんですよね……」
二人の間に、暗く重たい沈黙がのしかかる。
帰ってくる前に知らされていれば、ある程度は心の整理ができていたかもしれない。
いや、それさえもロベリアーヌの計画の内だったのだろう。
心理的余裕をなくすことで、強引に婚約まで持ち込むつもりだ。
母親だけあって、シェリーの性格をよく理解している。
「とりあえず、冷めない内にお茶にしましょう。モーニングティーです」
「そうね。そうしましょ」
エルミーナはワゴンからもう一つカップと受け皿を取り出すと、激しく湯気を立てる液体を注いだ。
湯気に混じった紅茶の香りが室内に漂い、シェリーのことで悩んでいたレナの心を優しく揉みほぐしてゆく。
「ほら、起きなさいよ」
ゆさゆさと、レナはシェリーの肩をそっと揺すった。
その拍子に寝返りをうち、横を向いていた顔がふかふかの枕にうずまる。
「うぅ~……」
鼻と口がふさがれて、思ったように息ができないのだろう。
それから間もなくして、息苦しさに唸っていたシェリーはがばっと頭を上げた。
寝起きはあちこち毛の跳ねているレナと違って、シェリーの髪は流れるようにさらさらとしている。
本人の性格に似て無駄に丈夫な上に、羨ましいくらい艶やかだ。
「おはょ」
「おはようございます、お嬢さま」
モーニングティーに洒落込んでいるレナと、背筋をぴんと伸ばして会釈をするエルミーナの姿が映る。
「あぁ、うん。おはよぉ」
そういえば二度寝したんだっけと、まだ覚醒しきってない頭で思いつつ、周囲の状況に目をやる。
どうやら、モーニングティーのようだ。
「あんたも、冷めない内に飲んじゃいなさいよ」
「うん、そうねぇ。ふぁ~~ッ……」
大きく伸びをしてから、腕を伸ばしてカップをつかむと、そのまま一気に飲み干した。
熱湯が多少冷えた程度でまだ火傷するほど熱いはずなのだが、そんなのお構いなしである。
香りを楽しんでいる様子すら皆無だ。
「ぷっはぁ~……。さて、そんじゃいっちょ、派手にやりますか」
真っ赤に腫れた両頬をぱちんと叩き、気合いを注入する。
昨日は悩むだけ悩んだのだから、今日は分からず屋の母に自分の思いを受け取ってもらう。
なにがなんだろうと、受け取ってもらう。
例え拒否されようと、自分の思いはやっぱり曲げられない。
まずは格好からね、とシェリーはエルミーナに指示を出す。
シェリーの指示に、それじゃあ私がお姉ちゃんに怒られちゃいますよ、とエルミーナは泣いていた。
ロベリアーヌとアルトリス、そしてシャルルは、清潔な白いテーブルクロスのかかった長テーブルで朝食をとっていた。
バターをたっぷりつけたトースト、竜の霜降り肉のボイル、片面を焼いたベーコンエッグ、そして野菜の添え物。
竜の霜降り肉のボイルなんかは、早朝から仕込みに入り、超一流のシェフ達によって作られた絶品である。
三人がそれらに舌鼓を打ちながら優雅な朝食を楽しんでいると、食堂の扉が乱暴な音と共に開かれた。
その音に、三人とアルトリスの後ろで食事を珍しそうに眺めているイリアス、そして食事係の使用人達が一斉に振り返る。
「シェリー、なんて格好をしているのですか!?」
ロベリアーヌは、ヒステリックな甲高い声を上げた。
それもそのはず、シェリーがまとっていたのは昨日のような可愛らしい服ではなく、学院の制服だったのだから。
動きやすさを重視するスカートの丈は膝上で、装飾の類も胸元の赤い紐タイ以外にはない。
しかも今日はローファーではなく、どんな悪路でも走破できそうな、編み上げの頑丈なロングブーツを穿いている。
威力の低い魔法なら防いでくれるマント、そして一番は背中に背負ったシェリーの背と同じくらいの長さのある大剣だ。
銘をヒノカグヤギ、使用者の魔力を吸って炎を発生させるシェリーの発動体である。
気高く、凛々しく、そして力強さを感じる。
だが、ロベリアーヌのまとう貞淑さとは、正反対と言っていいだろう。
スカートなんぞ、ちょっと飛んだり跳ねたりするだけで中身が見えそうだ。
「いいでしょ、別に。この方が動きやすいんだから」
「おはようございます、ロベリアーヌさん」
その後ろから、同じく学院の制服を着たレナが現れる。
こちらは、スカート丈こそ膝にかかるくらいだが、普段ローファーを穿くところが頑丈な編み上げのブーツとなっている。
シェリーに合わせて、そのようなチョイスにしたのだろう。
そして右手には、鮮やかな緑の珠がはまった一メートル三〇センチほどの杖が握られていた。
更にその後ろから、圧倒的な存在感を発する火精霊と、二振の刀を腰に携える少年が続く。
「……おはよう、レナちゃん。昨日はよく眠れたかしら?」
その物騒な出で立ちの三人と一柱に驚きはしたものの、ロベリアーヌは努めて冷静を装う。
今まで反抗してきたことは何度もあったが、結局は自分のいうことに従っていたシェリーが、まさか自分の猛反対した学院の制服を着てくるとは。
夫の『好きにやらせてやれ』という言葉もあって了承はしたが、ロベリアーヌは未だに賛成はしていない。
つまりこれは、徹底抗戦してやる、というシェリーからの宣戦布告なのだ。
「…………」
ロベリアーヌは、鋭い目つきでキッと愛娘のシェリーを見すえた。
恐らくこの一年足らずで、シェリーを精神的に大きく成長させるなにかがあったのだろう。
母親として、その事実は非常に喜ばしいことである。
だが、シェリーが夢見ているのは茨の道だ。
徹底的な男社会である“家の当主”達の世界では、女で在ることはマイナスには働いてもプラスに働くことはない。
女で在ることを捨ててまで、その世界に入る価値はあるのか。
ロベリアーヌには、そうは思えない。
夫の仕事を長年手伝ってきた者として、その事実をまじまじと見てきたのだ。
いったいどれだけの女当主が、これまで惨めな思いをしてきたか……。
ロベリアーヌの凄みのあるにらみも、まるで気にした風はない。
シェリーはロベリアーヌの斜め前、アルトリスの隣に腰掛けた。
「それなら、なぜ学院にも行かないのに制服を着ているのかしら。これなら、答えてくれるでしょう?」
依然として、ロベリアーヌの声は厳しい。
年端もいかぬ子供なら、泣き出してもおかしくないほど、その声には棘があった。
「さっきも言ったでしょ。家でどんな格好してようと、私の勝手だって。動きやすい服が、これしかなかったの。他の動きやすい服なんて、使いつぶした剣の練習着くらいしかないから。ママがそういう服、絶対に着させてくれなかったから」
シェリーは竜の肉のボイルをナイフで切り分けて口に運びながら、ロベリアーヌをにらみ返す。
母親そっくりの鋭い視線に、対面に座っていたシャルルはびくんと肩を震わせた。
周囲に控える使用人達も、二人の殺気立った空気に数歩後退る。
自分の鼓動が聞こえるほどの静寂が、室内を満たした。
「それと婚約の件ですけど、昨日一日考えてみました」
ちらりと隣のアルトリスを見ながら、シェリーは静かに口を開く。
アルトリスはいつもの優しげな笑顔で、どんな返事を聞かせてくれるのかな、と小首をかしげた。
「何十回、何百回考えてみても、やっぱり今の私には決められませんでした。グレシャス家を継ぐのは小さい頃からの夢で、でもアルトリス兄さんも良い人で……。だからせめて、卒業まで待っていただけないでしょうか?」
「いけません」
ロベリアーヌが、間髪を入れずに否定する。
「なぜ私がこうして婚約の場を設けたか。わからないあなたではないでしょう」
「だからよ。私の将来は私が決める。アルトリス兄さんのことも、自分でちゃんと決めたいの。ママの言いなりでお嫁に行くとか、死んでもごめんよ」
女として幸せに生きて欲しい。今はまだわからなくても、絶対にわかる時が来るから。
ロベリアーヌの思いは、そのたった一つだろう。
夫の仕事を手伝う過程で見てきた、貴族社会の厳しさを知っているのだから、反対するのはむしろ当然といっていい。
だが、シェリーにも譲れないものがあった。
憧れだった父の背中ばかり追いかけてきて、しかも女であるはずの自分に父は期待しているのだ。
本来家督を継ぐはずの、弟のシャルルよりも、ずっと。
「いいよ、それで」
やっぱりというか、なんというか。
アルトリスは、あっさり了承した。
これにはさすがのロベリアーヌも、表情に出して驚く。
そしてシェリーも、嬉しい気持ちと驚きとがごっちゃになった、困ったような表情になる。
「あと二年、学院で頑張るといい」
「アルトリスくんは、それでいいの?」
えぇ、とアルトリスはロベリアーヌに頷く。
それからふと、シェリーを挟んだ向こう側で食事中のレナに目をやる。
「自分のことを自分で決められない辛さ、他人に運命をねじ曲げられる苦しさを、僕達は知ってますから。それが例え厳しい道のりでも、シェリーには悔いのないように生きて欲しい。僕はそれだけですよ。ロベリアーヌさん」
セインとシャルル、そして昶を除いた全員がレナを見つめる。
張りつめていた空気はすでに弛緩し、誰もがしっとりと悲しげな表情を浮かべていた。
そんな中、レナがただ一人変わらぬ表情のまま、ぱくぱくと食事を進める。
――なにか、あったのかな……。
昶はその場の雰囲気から、なんとかそれだけ推理することができた。
レナはあまり自分のことを語らないので、今までどんなことがあったのか、昶は知らない。
知っているのはせいぜい、兄と妹がいて、この前弟ができたということくらいだ。
聞けば教えてくれるのだろうが、誰にだって触れられたくない過去くらいある。
昶も今の姉のことは話したが、幼い頃自分のせいで姉に大怪我を負わせたことを言っていない。
幸い、傷が残るようなことはなかったが…………。
いったいあの時どれだけ後悔して、怖い思いをしたか。
今でも夢に見るほど、鮮明に覚えている。
小さく華奢な姉の身体に抱えられながら、肩の向こうで肉が赤く弾けたのを。
鉄臭く、粘り気のある温かな液体が、姉の全身を深紅に染めていた――その光景を。
だから、無理に聞くようなことはしたくない。
自分から話してくれる、その時まで。
「どうかした? あたしのことジロジロ見て」
レナは全く気にした風のない様子で、周囲の人々に問いかける。
アルトリスの意味ありげな視線と言葉、そしてそれを聞いたシェリーやロベリアーヌ、使用人達の態度の変化。
気付いてないわけがない。
全部わかった上で、こうしてふるまっているのだ。
レナは他の四人を差し置いて先に食事を済ませると、静かに席を立つ。
『魔法の練習はダメでも、魔力を感じる練習には付き合いなさいよ。食事が終わってからでいいから』
『あぁ、うん。わかった』
レナは昶を伴って食堂を出ると、自分の部屋に向かった。