第十二話 冬休み Act05:グレシャス領
メイドさんに案内されながら、ふと昶は気付いた。
昶にも温泉をふるまってくれるつもりなら、あの時昶も一緒に連れて行ってくれれば良かったのではないかと。
つまり、グレイシアは昶の能力を試すためだけに、昶にレナの荷物を持ってこさせたのではないのか。
――確かに、こういう自分勝手なとこ、シェリーみたいかも。
まあ、振り回されるのはもう慣れっこだ。
今更どうこう言った所でどうにかなるものでもない。
気持ちを入れ替えて、温泉をじっくり堪能しよう。
グレシャス家自慢の温泉は、本邸からほんの少し離れた所に建てられていた。
昶が案内されたのは、その内の男性使用人用の、割と上等な所だった。
身分不詳の昶であるが、レナの付き人として見られていることと、シェリーの客人というのもあってこれまでにない好待遇を受けているのは言うまでもない。
ハズレのある食事と床の抜ける物置小屋という学院での扱いと比べれば、雲泥の差があると言っていいだろう。いや、不満があるというわけではないのだ、決して。
広さはだいたい、二五メートルプールほどはある。
さっきのぞいてきた下位の使用人用の湯船なんかこっちの倍くらいあったので、なんとなくしょぼく見えてしまう。
もっとも、日本の温泉にも、仕事で宿泊した時に片手で数えられる程度にしか入っていないが。
床は滑りにくいクリーム色のタイル。壁や天井も、似たような色のタイルで覆われている。
そんでもって、天井にあるのはまだまだ国内には少ない電気で稼働する照明だ。
これも恐らく、メレティス王国から買い付けた品物なのだろう。
なにで発電しているのかは興味があるが、今は久しぶりに入れる風呂の方が先決だ。
昶は手早く身体を洗うと、泳げるほど広い湯船に肩まで浸かった。
「はぁぁ……。生き返るぅ……」
まるで年食ったジジィのようである。
ほんのりとろみのあるお湯は、まるで肌に染み込んでくるかのようだ。
比べること自体が間違いであるが、真冬の泉とはえらい違いである。
しかもお湯の温度も適温だ。
だいたい四〇度くらいだろうか。
まさに、至福の時と言って良い。
さっきまでの疲れなど、簡単に吹き飛んでしまうというものである。
先ほどのメイドさんが言っていたが、お風呂はネフェリス標準時で四時頃から約三〇分の掃除の時間以外は開放されているらしく、今も二人ほど使用人らしき人物がお湯に浸かっていた。
二人とも完全なリラックス状態で、緩みきった呆け顔をさらしている。
まあ、それもわからなくもない。
久々の本格的な温泉に、昶もちょっとした陶酔を覚えているのだから。
こんなお風呂に毎日浸かれるなんて、なんという贅沢であろうか。
だが昶のリラックスタイムは、あっという間に中断された。
なにやら聞き覚えのある声を、昶の聴覚が捉えたのだ。
「お前! さっきの腐った魚じゃねえか!」
シェリーのお世話係である、ウォルテスである。
どうやら、彼の中で昶は魚類にまで格下げされてしまったらしい。
相手にしても仕方がないので、昶は一瞥しただけで無視することにした。
昶に無視されたのが気に入らなかったのか、ウォルテスは舌打ちしてから身体を洗い始める。
それから、バカみたいに広い湯船の中で、なぜか昶の隣に腰を下ろした。
「お前、お嬢さまのお気に入りらしいな」
「知らねぇよ、そんなこと」
仲が良いのは自覚しているが、そんなことを言われた覚えはない。
それより、お気に入りとはいったいどういうことだろうか。
昶は明後日の方向を向いたまま、ウォルテスに返事を返す。
「くそ、こんな腐った目をしたやつのどこがいいんだよ」
「朝練に付き合ってるからだろ。あいつに付いてこれる生徒なんて、あの学院にゃほとんどいないからな」
と、そこでウォルテスの眉がぴくんと跳ねた。
「お前! 今お嬢さまのことを『あいつ』って!」
「ん? それがどうかしたか?」
「大っ問っ題っだ!」
語調を荒げて、ウォルテスは言……いや、叫んだ。
その中に、わずかながら殺意がこもっていたのを、昶は捉えていた。
まあ、無意識の内に、であろうが。
ちょっとした嫌悪でも、多少の殺気が混じってしまうのである。
ウォルテスの姿を確認した別の使用人二人は、逃げるようにそそくさとこの場を退散した。
「お前はレナ様のサーヴァントなのかも知れねえから、それに関しちゃ口出し出来ねえが、こっちはそうもいかねぇぜ。お嬢さまは将来、グレシャス家をしょって立つお人だ。それはつまり、国をしょって立つ人になるってことだ。そんな人をお前みたいな出自もわかんねぇ人間が、『あいつ』呼ばわりするなんて……」
「あ、いや……悪い」
あまりの剣幕ぶりに、昶もついつい謝ってしまう。
つい四ヶ月前までこんなことは絶対にしなかったのに。
げに恐ろしきは、人の慣れと言った所か。
それもこれも、全部レナのせいだ。
「『悪い』じゃねえんだよ! ごるぁ!」
もっとも、許してはもらえないようだが。
「普通ならこの俺がじきじきにシメてやる所だが、お前はお嬢さまの客人だからな。それだけは勘弁してやるが、二度とお嬢さまのことを『あいつ』呼ばわりするんじゃねぇぞ。今度聞いたら、ソッコーでぶっ殺してやるからな」
と、メンチを切ってくるウォルテス。
怖いのはわかったらそんなに近付くなよ、と昶は冷静に思った。
女の子にベタベタされるのも苦手だが、男と風呂場で戯れるような趣味もない。
そんな昶の白けた態度が気に入らないのか、ウォルテスはまた舌打ちした。
舌打ちが癖というのは、使用人としていかがなものだろうか。
剣呑としての空気が、昶とウォルテスの間で流れる。
戦闘時と比べれば大したことないはずなのに、昶はなぜかむず痒いものを感じた。
時折ちらちらと見てくるウォルテスの視線も気になって、落ち着いて温泉を堪能できない。
「あの、俺になにか聞きたいことでもあるんですか……?」
痺れを切らした昶は、ついっと横目で聞いた。
目の合ったウォルテスは、ぎくりとしながらもおずおずと口を開いく。
理由はわからないが、向こうが昶を嫌っているのは重々承知している。
用もないのに、わざわざ嫌な人間の近くに入る人間もいないであろう。
「いや、その、学院での……お嬢さまの様子が気になってな。手紙じゃあ楽しそうにしてるって、グレイシアは言ってたんだが。俺達に心配をかけないよう、お嬢さまが嘘をついてるんじゃねぇかって。家じゃあいつも、寂しそうにしてたから」
「寂しそう?」
それは、いささか以上に意外な言葉であった。
シェリーといえば、学院では寂しさと対極にいるような女の子だ。
そんなシェリーが、家ではいつも寂しそうにしていたとは、いったいどういうことなのだろうか。
まあ、色々と込み入った事情があるのだろうから深入りするつもりはないが、学院でのシェリーの様子についてなら別にかまわないだろう。
「一人の時はよくわかんねぇけど、俺やレナがいる時はいつも楽しそうにしてるよ。巻き込まれてるレナ達は、だいぶ大変そうだけどな」
自分もその巻き込まれた内の一人なのだが、それはまあ置いといて。
「ほんとなのか?」
ウォルテスが、真面目な顔で昶の目をのぞき込んできた。
目を見ればわかる。
これは、本気でシェリーの心配をしている目だ。
だから昶も、真顔で返した。
「ほんとだよ」
「……そっかぁ。楽しくやってんだなぁ」
ウォルテスは肩までお湯に浸かりながら、乳白色の天井を見上げた。
気が抜けて呆けているのか、無表情のままじぃぃっと光源のシャンデリアを見つめる。
いや、シャンデリアではなく、どこかもっと遠くを見つめているようにも見える。
いったいなにを考えているのか、昶にはうかがい知ることはできない。
まあ、十中八九、シェリーのことには違いないのであろうが。
隣から発せられていたぴりぴりした空気も消え、昶の方も改めて温泉を堪能する。
「よかったぁ……」
しばらく経ってから、ウォルテスはそんなことを口にした。
――はぁぁ、そろそろ出るか。
昶は主人思いのウォルテスに微笑みつつ、のぼせる前に温泉を出た。
風呂上がりに近くの使用人に聞いてみた所、レナとシェリーは温泉を堪能中らしい。
昶は建物の壁に背中を預けてしばらく待っていると、最近全く会っていない気配を察知した。
「セイン、実体化しないのか?」
『その方が、火精霊の消費が少ないですから』
最近だいぶ大きくなったのもあって、舌っ足らずなしゃべりから解放されたらしい。
表情や言動には表わさないようにしていたが、やはり隠しきれるのもではなく、昶やシェリー、レナやリンネにもばればれである。
気配は同じ籠の中にあったので来ているのは知っていたのだが、到着間際になってどこかへ行ってしまっただ。
「今までどこ行ってたんだ?」
『少し、故郷の方へ。ここの近くなんです』
「精霊って確か、理性を獲得した精霊素を核に、同系統の精霊素が集まって生まれるんだったっけ」
『はい。よくご存じですね』
「学院の講義立ち聞きしてるからな」
『そういえば、そうでしたね』
近くに火山があると言っていたから、その辺りでセインは生まれたのだろう。
周囲を見回せば、確かに火山らしき山が見える。
まだ活動しているらしく、白い煙がうっすら立ち上っていた。
「精霊にとっても、生まれた場所ってけっこう懐かしいものなのか?」
『どうでしょうかね。ただ、やはりなにかこみ上げて来るものはありました』
「そっか……」
精霊も、やっぱり故郷は恋しいらしい。
ある意味、両親が存在しないからこそ、特定の場所に激しい思い入れがあるのかもしれない。
嫌な思い出しかなくても、故郷に帰りたいと少なからず思っている自分と、少しだけ似ているかもしれない、と昶は思った。
色々と大事なものが見つかった今なら、違う景色が見えるかもしれない。
だが、その大事なものがある世界に、いつまでもいたいという思いもある。
結局の所、状況に流されてばかりの自分を、だらしなく思う昶であった。
すると、セインとしばらく話している内に、よく知った二つの声が聞こえてきた。
「ねぇ、この格好歩きにくいんだけど」
「ちょっとは慣れとかないと、将来困るわよ」
「困ってもいいから、せめてもうちょっとふりふりの少ないのにして欲しいんだけど」
「はぁぁ。あんたって、本当に女らしくないわねぇ。そんなんだから、付き合った男の子全員にフられるのよ」
「ほっとけぇ!」
ガチャンと扉が開き、レナとシェリー、そして数人のメイドが現れる。
レナの方は、ライトブルーとホワイトを基調とした、ゆったりとしたワンピース。
いつも思うが、私服の方は清楚感全開だ。
自分の見せ方を、よく知っているのだろう。
それにしても、うなじや頬に貼り付いた髪の毛が、なんとも色っぽい。
部屋着なのもあるのだろうが、いつも以上に装飾をはぶいていた。
そしてシェリーの方はと言うと、いかにもお嬢様然としたものだ。
胸や袖口にフリルをふんだんにあしらったブラウスに、ふんわりとしたパールピンクのロングスカート。
スカートの方は螺旋状にフリルが巻かれ、裾には上品なレースがあしらわれていて非常に可愛い。
しかもスカートの膨らみから見るに、ペチコートかなにかを下に穿いているようである。
足下を白のハイヒールが可憐に飾り、髪型の方も後ろ髪はバレッタでまとめ上げられ、こめかみから伸びる髪はロールがかけられていた。
常に比べて愛らしさは圧倒的に上であるが、確かにとんでもなく動きにくそうである。
「エルミ、せめてもう少しフリルの少ないのにしてくれない? これじゃ、いくらなんでも鬱陶しいんだけど」
「むむ、無理ですよぉ! お姉……、グレイシア様から指定されてるんですから!」
「いや、でも……」
「それに、夕刻にはアルトリス様がいらっしゃいます。お嬢様との再会を楽しみになさってるそうです。それはわかっておいでですよね?」
「……そそ、それは、うん。わかって、ます…………」
シェリーが頬を染めながらうつむいているスキに、昶はそろそろとレナの背後に近寄って肩を軽く叩いた。
「よっ」
「あぁ、あんたも来てたの」
「とりあえずな。にしても、アレ、すごいな」
「ほんと、服変えるだけでこんなに変わるなんて、あたしも思ってなかったわ」
特に驚きもしなかったレナも、付き合いが長いシェリーの変貌ぶりに驚いているようだ。
と、二人の話し声が聞こえていたらしいシェリーが、ばっと背後を振り返った。
「ア、アキラ……!?」
自分の格好を予定より早く昶に見られてしまったことに、シェリーは柄にもなく額から首まで真っ赤になる。
まだ心の準備ができていなかったらしく、両手で顔を隠してその場にうずくまった。
「大丈夫だって。似合ってるから。……くくくッ……」
「笑わなくたっていいじゃない! 私だってすすす、好きでこんな格好してるんじゃないんだから!」
まあ、それはそうだろう。
普段着ている私服とは、ほとんど正反対のテーマで構成されているのだから。
「それより、早く中に入りましょう。ここにいたんじゃ、湯冷めしちゃうわ。エルミ、シェリーのことお願いね。あたしとアキラは、先に客間で待たせてもらうわ」
「は、はいっ! 申し訳ございません、レナ様ぁ。先に行ってお待ちください」
「それじゃ、行くわよ。アキラ」
「ん、あぁ」
レナは昶を伴って、グレシャス邸へと入って行った。
レナは一階の客間まで案内もなくたどり着くと、ふかふかのソファーにどっかりと腰を下ろした。
幼い頃から何度も来ているだけに、勝手知ったるということだろう。
一直線に迷うことなく到着した。
ひと目で高価とわかるソファーに座る勇気のない昶は、レナの隣に立っている。
それから間もなくして、メイドさんに連れられたシェリーがやって来た。
昶に恥ずかしい格好を見られたのがよほどショックだったのか、未だに顔色は優れない様子だ。
頬を朱に染めたまま、ずっと下を向いている。
シェリーはレナの隣に腰を下ろすと、ふかぁぁいため息をついた。
「エルミ、紅茶お願い」
「それならば、ここに」
と、いつの間にやって来たのか、ウォルテスがティーセットをカートに乗せて運んできていた。
ウォルテスは手際よくティーカップに紅茶を注ぐと、レナとシェリーに差し出す。
もちろん、昶の分はない。
「ウォルテスさん、準備が良いですねぇ……」
「これくらいのことできなくては、お嬢さまのお世話係は務まりませんよ。エルミーナ」
「は、はぃ」
ウォルテスに言いくるめられ、しょんぼりするメイドさん。
さすがに今のを予想しろと言うのは無理だと思うのだが、ウォルテスにとってはそうでもないようである。
シェリーはとりあえず気分を落ち着けるために、紅茶を少し口に含んだ。
ウォルテスは、口は悪いが腕は良い。
紅茶の香りが鼻腔へなだれこみ、疲れ切ったシェリーの心を癒してくれる。
まあ、その疲れ切ってしまった原因というのも、昶に自分の姿を見られてしまったというだけなのだが。
「そういえば、まだ昶には紹介してなかったわね」
若干元気を取り戻したシェリーは、メイドさんへと目配せする。
それに気付いたメイドさんは、シェリーの隣までひょこひょことやって来た。
「エルミーナ=ラ=エルフィン。私付きのメイドで、グレイシアさんの妹さんよ」
「ど、どうも初めまして! エルミーナ=ラ=エルフィンと申します! アキラ様のお噂は、姉よりよく聞いております!」
カチコチに緊張しながらも、一回も噛まずに言い切ったメイドさんことエルミーナ。
確かにグレイシアの妹と言うだけあって、瞳と髪の色は同じだ。
ただし、髪型は三つ編み、目つきはおっとり垂れ目で、雰囲気もなんとなく緩い感じで、似ているのは瞳と髪の色だけだったりする。
「俺の噂?」
グレイシアがシェリーから手紙を受け取っていたのを思い出した昶は、情報源であるシェリーに視線を向けた。
「うん。手紙に、アキラのこれまでの戦績を、ちょこっと」
「トロール鬼やフラメルを一人でやっつけちゃうくらい強いんですよね!」
両手を胸の前で握り、目にはお星様をいっぱいに浮かべたエルミーナが、昶の近くまで寄ってきた。
先ほどまでの自信なさげな様子はなりを潜め、好奇心フルスロットルで昶の目をのぞき込んでくる。
あまりに予想外すぎる展開と勢いに、昶も思わず数歩後退さった。
「二つとも、危険獣魔に指定されるような、怖~いやつなんですよね? すごいですよ!」
「……あの、エルミーナさん」
一方的にテンションを上げまくるエルミーナとは反対に、昶の声のトーンは限りなく下がっていく。
そして念のため、昶は一つ確認を取った。
「はい、なんでしょう!」
「怖くはないんですか? そんな怪物をのしちゃうような人が、目の前にいるのに」
「ほぇ?」
まるで意味がわからないというように、エルミーナは首をかしげる。
「だから、怪物を倒しちゃうような俺のこと、怖くないんですかって聞いてるんですけど……」
「でも、アキラ様、私達にそんな力使ったりしないですよね?」
「そりゃ、そうだけど」
「だったら怖がる必要ないじゃないですか。そんなこと言ってたら、グレシャス家のみなさんも怖がらなくちゃならないじゃないですし」
と、エルミーナは力説してくれた。
つまり、怖くないということらしい。
この辺りはさすが、魔法が一般人に広く知られているだけのことはある。
魔術の存在をほぼ完全に秘匿している昶の世界――地球――では、絶対にこうはいかないだろう。
そのために、魔術は一般社会から完全に隔離されているのだから。
「エルミ、あんまりアキラを困らせちゃだめよ。それに、あんまりくっついてるとレナが怒り出すから」
「ッ!? す、すいませんでした! 私ったら夢中になるとつい周りが見えなくなって」
エルミーナはぺこぺこ頭を下げながら、壁に当たるまで後ろに下がった。
妙な圧迫感から解放された昶は、ほっと肩の力を緩める。
「別にそんなんじゃ怒ったりしないから大丈夫よ。それよりも、そのいやらしい目ぇ、止めなさいよ。鼻の下も伸ばしちゃって、みっともない」
「ち、違うっての! そんなんじゃねぇよ!」
と、気を抜けたのも一瞬のこと。
今度はレナからの強襲である。
なにか気に触ることがあったのだろうが、当然ながら昶に心当たりはない。
「へぇぇ。じゃあどんな理由があるのか、はっきり言ってみなさいよ」
「そ、それはぁ……」
男の子の生理現象みたいなものです、とはもちろん言えるはずもなく。
「どうなの? どうなのよ? ねぇ?」
どんどん険しくなるレナの視線に、どんどん小さくなっていく昶。
そして最後には、
「す、すまん……」
「ふんっ」
不本意とはいえ、つい胸が高鳴ってしまったことに、嘘をつけない昶であった。
そんな二人の様子を見ていたエルミーナは、シェリーのそばにこっそりと近寄り、小さく耳打ちする。
「あの、お嬢さま」
「どうしたの?」
「今、アキラ様はなにもしていなかったのではぁ?」
「あぁ。アキラがあんたに照れてたのが気に入らなかったんでしょ」
「あわわわ、私、そんなつもりなんて全然ありませんからね!」
「大丈夫。レナはいつもあんな感じだから」
「あのねぇ…………」
シェリーとエルミーナは、そろっていきなり割り込んできた声の方向を振り返る。
そこにいたのは、血管マークをこめかみ辺りにピキピキと浮かべているレナであった。
まなじりと目が限界までつり上がり、凶悪犯罪者ばりに恐ろしい顔で二人を見すえる。
「ナイショ話なら、もうちょっと人に聞こえないようにしなさいよ」
つまり、今さっきまでの二人の会話はレナに筒抜けだったわけで。
「あんた……いくらなんでも地獄耳すぎでしょ」
「わわわわ、私お茶菓子持ってきますので、ウォルテスさんあとお願いします!」
「っこら! 一人だけ逃げんじゃねぇ!!」
シェリーがレナに呆れる中、お菓子を持ってくるという名目で、エルミーナとウォルテスは厨房の方へと消えていった。
女の子は可愛いものと甘いものに目がないとよく言われるが、昶は今日それを実体験として目の当たりにした。
さっきまで右肩下がりにどんどん悪化していたレナの機嫌が、エルミーナの持ってきたカップケーキとウォルテスの入れ直した紅茶によって、見事に立て直されたのである。
カップケーキを片手に紅茶を口に運びながら、とろけそうなほどうっとりとした笑みを浮かべている。
「ウォルテス、アキラの分も」
「……わかりました」
ウォルテスはギロリと昶をにらみながら、それでもシェリーの手前、実に繊細で洗練された手つきで紅茶を注いでいく。
「ほらよ」
これで笑顔なら完璧なのであるが、顔の方は相変わらず敵意剥き出しである。
そんな隣のウォルテスにびくびくしながら、エルミーナは昶にカップケーキを差し出した。
「そんじゃあ、いただきます」
舌でも噛んじまえ、というウォルテスの声はたぶん空耳だろう。
エルミーナからの期待の眼差しをむず痒く感じつつ、昶はカップケーキを一口かじった。
「……うめぇ」
表面はカリッと、しかし中はふんわりとした感触。
口の中いっぱいにメープル系の甘い香りが広がる。
だが、甘さはしつこくなくさっぱりとしていて、ものすごく食べやすい。
これなら、三つ、四つは軽く食べられそうな感じだ。
「お口に合ったようで、なによりです。がんばって準備したかいがありました」
エルミーナはにっこりと満面の笑みを浮かべる。
どうやら、このカップケーキは彼女のお手製らしい。
少なくとも、学院でレナやシェリーから頂いていたスイーツより。
カップケーキを一口頂いた所で、紅茶にも口をつける。
「熱ッ!?」
カップから紅茶がこぼれることはなかったが、代わりに舌の先端がヒリヒリする。
ウォルテスは、それを見て小さくほくそ笑んでいた。
昶はそちらをジロリとにらみながら、紅茶をゆっくりと口に含む。
学院でも何度か飲んだことはあるが、なかなか慣れない味と香りである。
学院では生徒から講師・職員に至るまで美味しそうに飲んでいるが、お菓子にはやっぱり緑茶だろうと思う昶であった。
――――ガチャリ。
客間の扉が突然開いた。
扉の向こうには、真剣な顔つきのグレイシアの姿がある。
グレイシアはシェリーの姿を確認すると、その近くまで素早くよって来た。
「アルトリス様がもうすぐお着きになります」
「そ……そう。じゃあ、出迎えの準備、しなくちゃね。向こうにもレナ達がいること知ってるから、二人も来て。というより、一緒に来て」
シェリーはグレイシアに指示を出すと、そわそわしながら客間を出て行った。