第十二話 冬休み Act02:今年最後の講義
――――ゴーーーン、ゴーーーン、ゴーーーン…………。
起床の時間を告げるべく、鐘は今日も荘厳な音色を奏でていた。
年中無休で時間の区切りを教えてくれる鐘は、もしかしたら学院一の働き者かもしれない。
そんな鐘の働きもむなしく、真冬の寒さに耐性のないお坊ちゃまやお嬢ちゃま方は、大半がふかふかのベッドの中で温まっていた。
だが、何人かの例外はあるというものだ。
床にふかふか毛布にくるまっている昶も、そんな例外の中の一人であった。
二度寝をしかと堪能した昶は、むくりと起き上がりながら毛布を四つ折りにする。
床に毛布とは言え、昶の借りている部屋と比べれば桃源郷のような過ごしやすさである。
そもそも、なぜ昶がレナの部屋にいるのかと言えば、まあいつもながらにしょうもない理由であった。
部屋の床板が、腐っていたのである。
男としては軽めの体重であるし、床板をぶち抜くような重たい家具もないので大丈夫だと思っていたのだが、ついに先日床板の一枚がものの見事に真っ二つになってしまったのだ。
普通に歩いていただけだったのだが、片足にかかる昶の全体重を支えることができず、結果昶は左足首を軽く捻挫してしまったのであった。
もっとも、草壁の血のお陰で、全治一週間ちょっとの捻挫も二日で完治して今は平気である。
さすがにこれでは危ないということで、学院長が現在昶の部屋となっている物置部屋の床板張り替えを決定。
明日にはフィラルダから業者の者が来るそうだ。
ところが、未だ学院周辺の土地は整備が行き届いておらず、移動手段は飛竜に百パーセント依存している。
学院に必要物資を運んだり、土地を整備して街道を再建したりと、学院の周囲で使える飛竜は非常に少なく、業者の者はむしろ明日にならなければ来られないというのがより正確な表現だ。
学院に物資を運ぶ飛竜に乗ってくればいいと思われるのだが、そっちにも色々と面倒な手続きと飛竜の調整もあり――テロリズムの危険性を考慮して、民間の業者は手続きが厳しくなっている――、たかが床板を張り替えるだけの作業に非常に時間がかかっているのであった。
と、これらの経緯を聞いたレナが、
「ししし、仕方ないわねぇ。そそそそそそういう、ここことなら、あ……あたしの部屋に、とっ、泊めてあげても…………いいわょ」
と言い出したので、昶はありがたくレナの部屋に泊めてもらっているわけだ。
それを隣で聞いていたマグヌスト兄弟は、
「女子寮にお泊まりだなんて、なんて羨、けしからんやつなんだ君は!」
「兄貴、本音だだもれだぜ」
と、いつものように暴走する撃墜王の兄に、弟が冷静な突っ込みを入れていた。
ここでいつものごとく、昶を部屋に招き入れようとアイナが参戦し、それを見ていたシェリーがレナを煽り、ミシェルは昶に憎しみの視線を送り、それらを遠くからリンネとミゲルが眺めるという恒例の図式が完成する。
例によって話の中心であるはずの昶は、なにもできないまま深いため息をつくのだった。
だが、それも昶にとって心安らぐひと時には違いない。
大切な物を得て、それを自覚した昶にとって、何物にも代え難い時間だ。
できることならば、この先もずっとこんな風でありたいと、そう願わずにはいられないほどに……。
「珍しいな」
昶は背骨をこきこきと鳴らしながら、天蓋付きのベッドを見る。
オレンジの長髪とエメラルドの如き瞳を有する昶のご主人様は、起床の鐘が鳴ったのにも関わらず未だに夢の世界にうつつを抜かしていた。
いや、寝顔が見えなければ寝言も聞こえないのだが、きっと幸せな夢でも見ているに違いない。
そうでなければ、普段は鐘の音と同時に起床するはずのレナが寝ているなんて、ぶっちゃけ有り得ないことだ。
昶はベッドの近くまで来ると、天蓋から伸びるレースのカーテンをそっと開けた。
いつもなら鐘の音と同時に起きるレナは、すやすやと穏やかな寝息を立てている。
「レナ、朝だぞぉ」
まずはひっそりと小さな声で。
しかし、起きる気配はない。
「お~い、朝だぞ」
今度は少し大きな声。普段の会話よりボリュームは大きめだ。
「…………ん~」
レナはくるりと寝返りをうつ。
向こう側を向いていた顔が、昶の方へとやってきた。
強烈な目力のあるエメラルドの瞳こそまぶたの内側だが、やや幼さを残す目元や、ほんのり朱に染まる頬、蠱惑的な薄桃色の唇に、昶の心臓はドキンと高鳴る。
もう少し鑑賞していたい気もするのだが、気まずさの方がわずかに上回った。
「もう鐘鳴ったぞぉ」
先ほどと同じボリュームで、優しく語りかける。
辛うじて数ミリ開いたまぶたのスキマから、エメラルドの瞳が姿を現した。
が、いつもは強い意志を宿しているはずの瞳は、焦点も定まらないままほけ~っとしている。
それからもうしばらくして、なにも言わずに腕だけを伸ばす。
「…………はい?」
意味がわからず絶句する昶。
だが待て、これと似たようなことが前にもあったような……。
「ん~!」
目のほとんど開いていないレナは、まるで起こせと言わんばかりに……ってぇ。
「…………あぁ」
思い出した。
確か、夜中に猛勉強した翌日になるとかいう、激甘モード(昶命名)。
一応受け答え等の反応はするが、意識が覚醒する前までのことはほとんど覚えていないとかいう、ご褒美なんだか罰ゲームなんだかよくわからないアレだ。
このモードになったレナは、罵詈雑言を吐いたり問答無用で杖が飛んでくるようなことはなくなるのだが、猫なで声でやたら甘えてくるようになるのである。
昶は仕方なくレナの小さな手を握り、ゆっくりと起こしてやった。
レナの上体が起きるにつれて、高価な羽毛布団と暖かそうな毛布がひっくり返り、
「うぅっ……!!」
シースルー素材をふんだんに使い、肌触りのよさそうなピンクのベビードールが現れる。
よほど好きなのだろう。
不本意ながら昶が何度か見てしまったレナの寝間着は、全てベビードールなのであった。
まあ、寝間着が薄くとも布団が相当温かそうなので、問題はないのだろうが。
昶が照れていることなどいざしらず、上体を起こしたレナはほとんど思考の停止した頭で、昶に制服と下着とその他諸々を要求。
ブラとショーツ以外を昶に着せてもらい(二つは昶が土下座して許してもらった)、その背中に乗って部屋を出たのであった。
部屋を出た昶は過去の教訓から部屋にしっかりと鍵をかけ、対面にあるシェリーの部屋をノックした。
「シェリー、生きてるか~?」
たいていは扉の前で待っているシェリーであるが、時々いないこともある。
今日は珍しくいなかったので、恐らくまだ準備中なのだろう。
あの床板の見えない部屋から教科書を救助するのは、なかなか骨の折れそうな作業だ。
「待ってぇ、すぐ行くからぁ」
ずいぶんと億劫そうな声である。
それからネフェリス標準時で約三〇秒後、こちらもやたら眠そうなシェリーが現れた。
赤紫のポニーテールまでも、今日は少し色褪せて見える。
「……どうした?」
ちょっとだけ心配になって、聞いてみる昶。
「ちょっとねぇ。で、そっちは?」
「こっちもだよ」
昶に背負われたレナを見て、シェリーも聞いてみる。
互いに顔を見合わせ、苦笑い。
どちらにも、話しにくい事情があるのである。
昶の方はと言えば、見た目にはレナのそばで修練を眺めているだけだが、実際にはレナに魔法の指導をしているということだ。
レナとアイナには知られているが、シェリーはまだ昶が魔術を使えることを知らない。
二人にはばれてしまったので、仲の良いシェリーやリンネ、あとミシェルくらいには話そうとも思ったのだが、レナに止められてそのままとなっているのである。
昶の扱う魔術はもちろんレイゼルピナには存在しないはずの技術なので、もしどこからか王国に知れたらどうなるかわからないらしい。
隠すことに罪悪感を覚えるが、王国軍に連行され、尋問される可能性も捨てきれないと言われれば、言う気も失せるというものだ。
一方でシェリーの方はと言えば、昶に内緒で行っている特訓が影響している。
未だ自分の成長を実感できないシェリーは、主とサーヴァントの間に許される奇蹟の一つを習得しようと、躍起になっているのだ。
魔力量こそさして必要ないのだが、こと制御に関しては困難を極める。
肉体強化以外の魔力制御にむらのあるシェリーは、術が失敗するたびに副作用にみまわれ、溜まりに溜まった疲労が顔にまで出てきてしまったのであった。
「あきぁ~、むにゃむにゃ」
昶の背中で、レナが寝言をぶちかます。
なんとなく気まずくなって、昶は顔を伏せた。
念のために断っておくが、この階には一年生の他の女子の部屋もあるわけで。
ぽつりぽつりと部屋から出て来る女の子が、声を潜めながら昶とレナのことを見ていく。
あまり見られるのも良い気がしないので、昶はとぼとぼと歩き始めた。
その隣に、額を押さえながら気分の悪そうなシェリーが並ぶ。
「そういや、俺って一年の女子にどんな風に見られてんだろ」
「一応、注目はされてるわよ。ノム・トロールぶち倒すわ、闇精霊の使い手を撃退するわで、王国軍からスカウトが来てもおかしくないって言われてるくらいだし」
「…………マジで?」
王国軍と言われ、昶の表情が引きつる。
もしレイゼンピナに存在しない魔法――魔術――が使えると知られれば、尋問・拷問のすえ洗いざらい吐かされるのでは……。
なんて想像してしまったが、ふるふると頭を振って嫌な想像を追い出す。
隣で見ていたシェリーはくすりと笑い、楽しげに続きを話し始めた。
「大マジよ。領地持ちじゃない貴族の子なんか、あんたのこと狙ってるって噂あるくらいだしね。もし王国軍に入れば出世街道まっしぐらな可能性も見越して、今の内からお近付きになっといた方が得なんじゃないかって。王都奨学制度も、一般市民の方が多く採用されてるって聞くし、アキラの場合も身分不問で採用されるかもよ。肉体強化系のマグスって貴重だから、あながちないとも言い切れないのよね」
「そりゃまた、えらい過大評価されてんな、俺も。って、俺マグスじゃねぇぞ?」
「細かいことは気にしない。それに、過度の謙遜は周囲の人を侮辱することもあるんだから、アキラこそ自分を過小評価しない。わかった?」
「りょ、りょーかいです」
ふと隣を見ると、若干苛立っているシェリーの顔が目に入り、昶は素直に首肯した。
もっとも、それも一瞬のことで、怒気はきれいさっぱり消えているのだが。
見たかぁ、とでも言っているように、にたぁ、と白い歯を見せて笑っている。
「そういや、お近付きになりたいやつがいるってさっき言ってたけどさぁ」
「うん」
「俺、学院の生徒に話しかけられたことなんて、ぜんぜんねぇぞ?」
少なくとも、レナの友人関係の外側から、話しかけられたことはない。
例外的にミシェルとは仲が良いが、あれはカトルの件があるのでノーカウントだ。
「……やだ、アキラってばそんなに自意識過剰だったの?」
「そっちが先に振ったんだろ」
「冗談だって、そんな睨まないでよ」
昶の白い目に、シェリーは苦笑いしながら返す。
シェリーの三文芝居には慣れたもので、昶も始めから冗談とはわかっていたが、まあお約束ということで。
「基本的に、レナが隣にいるから話しかけにくいんでしょ。アナヒレクス家って王家と血縁関係にあるし、持ってる土地もかなり大きいから、影響力が強いの」
「そういや、そうだったなぁ……」
昶がレナの部屋で目を覚ました時も、そんなことを言っていた気がする。
「本人は自分のことで家の力を使おうとはしないんだけど、もし機嫌損ねたらどうなるかわかんないし、あと単にあんな性格だから話しかけづらいってのもあるわね。魔法の実技と性格以外はほとんど完璧超人みたいな子だから、頼りにはされてるんだけど」
「確かに。今までどんだけ杖でどつきまわされたことか……」
「まあ、口以外が出るのは、肉体強化で防御できる私とアキラくらいだけど」
と、特に実りのない会話をしている内に、寮の入り口まで到着した。
入り口には、二人のよく見知った人物が立っている。
白味がかった青いツインテールに、レナ以上に小さな身体をした気弱そうな女の子ことリンネと、艶やかな黒髪をした前髪ぱっつんが日本人を彷彿とさせる女の子のアイナだ。
ちなみに、こちらはレナとシェリーの中間くらいの身体つきをしている。
そして、昶に背負われたレナを見た瞬間、アイナががばっと口を開いた。
「レレレレナさん! なにやってんですか!!」
「…おはよう」
その隣で苦笑を浮かべながら、リンネも口を開く。
それより挨拶が先でしょ、とアイナに進言する声も全く聞こえていない様子だ。
「おはよ」
「おっはよう諸君! いや~、今日もしっかり成長してるかね?」
と、シェリーは二階の手すりを飛び越え、アイナの前に着地する。
しかも昶の位置からはスカートの中身が見えないように飛び降りるという、器用な真似までして。
肉体強化を用いて柔軟な着地を決めたシェリーは、ぎょっと驚くアイナの二つの膨らみへと素早く手を伸ばし、揉み揉み。
「ひぃっ!?」
「う~ん、この前揉んだ時より大きくなってる気がする」
「なにするんですか!!」
ぐっと身体を引き寄せ、アイナは自分の肩を抱くように両手を回す。
「なにって、成長してるかどうかの確認を」
「しなくていいです! と言うより、むしろしないでください!」
アイナの標的が熟睡中のレナからシェリーに移っている間に、昶はレナを起こさないよいゆっくりと階段を降りた。
降りた所でちょこちょことリンネが駆け寄ってきて、昶の肩で寝息を立てているレナをのぞき込む。
「たぶん、期末試験に備えて練習してた疲れが出ただけだから、そんなに心配しないで大丈夫だと思うぞ」
「…そぅ。よかった」
リンネはほっと表情を緩めた。
が、昶にはそんな暇を与えてくれないらしい。
「あぁ、アキラさん!」
昶が降りてきたのに気付いたアイナが、勢いよく昶の方に駆けてきた。
近くまで走り寄ると、レナの肩をぐっとつかみ、
「いつまでアキラさんの背中で寝てるんですか! 起きてください!」
ゆさゆさと揺さぶりながら怒鳴った。
だが、この程度で爆睡状態のレナが起きるはずもない。
「ん~、しょんなとこしゃわっちゃ、らめらぉ~」
これでもかというくらい緩みきった表情で、よくわからない寝言を口走る。
いったいレナの頭の中で、なにが起こっているのか。
昶にそれを考えるだけの余裕はない。
今のアイナの怒鳴り声で、再び周囲の生徒から大量の視線を注がれているのである。
もちろんここは女子寮なので、注がれる視線は丸々全部女の子のものだ。
しかもここは入り口なので、一年生だけでなく二年生も三年生もいる。単純計算で、人数も三倍である
飛行実習に創立祭と物騒な話題の絶えないこのメンツを見て、いったいなにを思っているのやら。
昶は恥ずかしさで首まで真っ赤にしながら、そそくさと食堂へ向かった。
「はぁッ!?」
一時限の講義も終盤にさしかかった頃、レイチェル先生の入ってくる前から爆睡中だったレナが、がばっと頭を上げた。
それから状況確認のため、周囲をきょろきょろ。
「どうかしましたか? ミス・アナヒレクス」
「い、いえ!! なんでもないです!」
レイチェル先生に声をかけられて、レナは慌てて手元に視線を落としてノートをとっているふりをした。
レナの様子を見て、レイチェルは再び黒板にチョークを走らせる。
一時限目の歴史の時間だと確認したレナは、とりあえず一安心した。
歴史については家にいた頃さんざんやらされたので、学院で習うことはたいてい覚えているのだ。
「おっはよう、レナちゃん。今日はいつもより、起きるの早いわね」
レナが隣に視線をやると、若干顔色の優れないシェリーの姿が目に入った。
机に突っ伏したまま、器用にノートをとっている。
「まあね。最近ずっと実技の練習してたから、疲れが溜まってたみたい。そういうあんたこそ、随分疲れてるみたいだけど」
「そっちと似たようなもんよ。疲れ過ぎて食欲もなくなっちゃったわ。今朝なんか、ご飯ほとんど食べられなかったし」
「あと、筆記試験の一夜漬けもでしょ。日頃からちゃんと勉強してないから、本番前に慌てなきゃならなくなるのよ」
ほぼ模範生のレナ様からの助言に相づちを打ちながら、シェリーは、ぐっと上体を起こした。
肩や腰をひねると、こきこきと小気味よい音がレナの耳まで届く。
退屈なこの講義も、あと少しで終わる。
シェリーは黒板の板書をノートに写し終えると、再びいつもよりトーンの低い声で話しかけた。
「ちょっと、聞きたいんだけどさ」
「なに」
「いったいどんな練習したのよ、期末試験の実技」
「あぁ。魔力の探し方を、ちょっとだけね」
レナは、昨日までのことを思い出す。
意を決して昶に打ち明けて、教えを乞うたことを。
暗黒魔法と真っ向から戦えるマグスとなれば、国内にもそう多くいない。
練習を付けてくれる相手としては、うってつけだろう。
――シェリーの朝練にも付き合ってるんだし、主のあたしが練習に連れてっても、変に見られないわよね……。
と、一応は学院での自分のイメージを守るのにも必死なレナであった。
「ふぅん。それで、魔力は探せるようになったの?」
「ぜんぜんよ」
「でしょうね。私もよ」
さも当たり前のように魔力を感じ取っている昶であるが、ローデンシナ大陸一の魔法大国であるレイゼルピナのマグス達でも、そんな芸等ができる者はほんの一握りしかいない。
だからレナもシェリーも、そんなことはできないと思っていた。
それがもし、できるようになったとすればどうだろう。
確かに、魔力を感じ取れるという技能は、魔力を制御する技術との直接的な関連はない。
しかし、習得すれば魔力を制御する上で確実に助けになる。
「でも、もうちょっとでわかりそうなの。そのおかげかもしれないけど、ちょっとだけ魔法もうまくいくようになったし」
「うらやましい限りで」
そして実際、効果はあった。
まだ“何かが流れている”程度の感覚――それをほんの少しだけ感じ取れるくらいではあるが、その小さな感覚を糸口にレナは魔力を制御する術を身に付けつつあるのだ。
これがもしはっきりと魔力を知覚できるようになれば、より精密に魔力を制御できるようになるだろう。
シェリーもそれがわかっているから、魔力を感じ取る訓練をしているのである。
「まあ、とりあえず試験合格おめでと。まだ言ってなかったわよね」
「えぇ、ありがと。まぁ、シェリーに比べたら目も当てられないくらいひどいけど……」
「なに言ってんの。実技で追いつかれちゃったら、私はいったいどこであんたに勝てばいいのよ」
「…………む……胸、とか」
まだ頭が回りきっていなかったか、レナは完全にチョイスを間違ってしまったらしい。
二人の間に妙な静寂が流れ、
「大丈夫、まだ希望はあるから」
と、シェリーはレナの顔ではなくなだらかな胸に向かって、優しげな口調で答えた。
えぇ、あたしのは小さいですよ文句ある? なんてシェリーに耳打ちするレナ。
「…あるだけ、いぃ」
そんな二人の様子を、一列前に座ったリンネが恨めしそうに見ていた。
歴史の講義には全く興味はないレナであったが、次の錬金術の講義では見事な模範生ぶりを発揮し、真剣に講義にとりくんだ。
錬金術は魔法よりも難易度が高く、レナはもちろんだがシェリーも上手く使えなかったりする。
昶の周囲で錬金術があるていど使えるのは、リンネにミシェルとミゲルのマグヌスト兄弟の三人くらいだ。
ちなみに昶はと言えば、陰陽術と関わりのない技術体系のため、本で読んだ程度の知識しかないため、レナよりへたくそである。
精霊魔術なら五行と似たような部分があるので、少しくらいならどうにかなるのであるが。
まあそれも、本で得た知識がほとんどだったりするのだが、それはひとまず置いといて。
二時限目の講義が終わると、レナとシェリーは食堂で昼食をとることにした。
二人のおこぼれに預かるためもとい、なにか奢っていただくため昶も一緒である。
メニューは、チーズたっぷりのカルボナーラ。
あまり朝食を食べられなかった、シェリーたってのご希望だ。
ちなみに、昶の分はレナが払ってくれた。
とそこへ、大きな荷物を持ったリンネとアイナがやってきた。
「ふはひほほひへひ?」
「うわっ!? つば散らすな!」
「あんた、先に食べてからしゃべりなさいよ」
飛び散ったカルボナーラを上着の袖で拭う昶を見ながら、レナはシェリーに口をすぼめて言う。
「…シェリー、きたなぃ」
「もう、口の周りもこんな汚しちゃって」
リンネの白い目にさらされるシェリーの口元を、アイナは慣れた手つきでハンカチでぬぐってやった。
アイナにされるがままのシェリーはそのまま口周りを綺麗にしてもらってから、再び口を開いた。
「二人とも、帰省するの?」
「…ぅん」
「はぃ」
シェリーの問いに、リンネとアイナはうんうんと首肯する。
大きなトランクいっぱいの荷物は、そのためのものらしい。
アイナのほうはともかくとして、リンネの方は相当に重そうな感じだ
「…年末はちょっと、家の手伝い……しなきゃ、だから」
「私も似たような感じです」
リンネは若干頬を赤らめてうつむきながら、アイナは苦笑いしながら答える。
そしてシェリーは、そんなリンネの変化を見逃さなかった。
「ふ~ん、家の手伝いねぇ」
ちらりと、シェリーは含みのある視線をリンネに投げかける。
レナに次いで、学院でシェリーとの付き合いが長いリンネも、その視線の意味に気付いた。
あれは、レナを全力でからかいにいく時によくやる目だ。
その目が今、リンネに向けられているということは……。
「…な、なに?」
努めて平静を装うリンネであるが、肩を強ばらせている上に、いつもより三割り増しでもじもじしていては、シェリーを騙せるはずもない。
「べっつにぃ。まあ、がんばれ~、くらいは言ってあげる。進展があったら、包み隠さず私に報告するように。以上」
と、シェリーは空いている方の手をふるふると振った。
行ってらっしゃい、の仕草である。
「…あぅぅ」
元から赤くなっている顔が、ほとんど真っ赤と言っていいくらい真っ赤になった。
肩幅をいっそう小さくして、人差し指同士をもじもじさせ始める。
紙でも近付ければ、今なら火が点きそうだ。
「…ぅん、じゃあ」
ようやっと発した言葉は一迅の風にかき消されそうなほど小さかったが、ちゃんとシェリーの耳にも届いていた。
リンネは赤くなった顔を隠すためにうつむきながら、でもほんの少しだけはにかんで、同じくふるふると小さく手を振る。
ちなみにさっきまでリンネの隣にいたアイナといえば、
「アキラさん、少しの間離れ離れになっちゃいますけど、すぐに戻ってきますから!」
空いている昶の左手を両手でがっちり握りながら、一方的な約束を取り付けていた。
ちなみに年末年始は学院も休業するため、生徒や職員、講師達は月の最終日から四日前までには学院から退去していなければならないのだ。
なのでアイナが帰ってきても、昶が帰ってきていない可能性も十分にあるのだが、まあここは言うまい。言うと、余計ややこしくなりそうだから。
シェリーみたく、口の中の物を飛ばしてしまうのは、昶も嫌である。
「ちょっとアイナ! なななななななななにはしたないこと、ややぁ、やってんのよ!」
こういう男女のアレには敏感なレナは、口をなわなわと振るわせながらずびしっとアイナを指差した。
「アキラさんにおんぶで食堂まで行ってた人に言われたって、説得力なんてないですよ~だ!」
「お、おん……ぶって、それはその…………ぃ、色々と事情があったのよ!」
「それじゃあアキラさん、シェリーさん、あとはしたないレナさん、また来年会いましょう!」
ぷしゅ~っと頭から湯気を出してオーバーヒートしているレナに勝ち誇った笑みを送りながら、アイナはリンネを伴って出発した。
道路は相変わらず整備中のため、杖を使って空での移動となる。
積載量に自信のあるアイナはリンネの分の荷物も持って、二人は空へと旅立った。
アイナはわからないが、リンネはフィラルダまで馬車が迎えに来ているので、そこからメレティスに向かうのだそうだ。
二人以外にも空路を使って帰省する者は多く、竜籠の姿もちらほら見える。
そういえば、マグヌスト兄弟はまだ帰省していないのだろうか。
昶は後でミシェルの部屋にでも行ってみるかと思いつつ、カルボナーラを平らげた。