第十一話 感謝祭ネプティヌス Act01:呼び出し
シュタルトヒルデ。レイゼルピナでも有数の巨大都市で、今日は年に一度の大きなイベントが行われていた。その名も、今年一年の無事な生活を感謝し、来年の豊穣を祈願する伝統ある祭――感謝祭である。そんな国内有数のイベントに、ほとんど強制的に昶とレナは連れてこられていた。それでも祭とは楽しいもので、なんだかんだ言いながら祭を楽しんでいた二人。そんなにぎやかな祭のさなか、ある者たちの目的が着々と進んでいた……。
シュタルトヒルデ。それはレイゼルピナ南部の海岸沿いに位置し、国内二位の経済力を誇る大都市である。
その経済を支えるのは、海路と空路二つの港から成る世界最大級の貿易港で、近年では陸路の整備も進み巨大なターミナルも建設される予定だ。
街のいたる所には貿易商を狙ったホテルや宿、レストラン等の店がひしめき合っており、近年では港から仕入れた物品を直接販売する店も増えているらしい。
また、これはあまり知られていないことであるが、近くに巨大な漁場があり漁業も盛んに行われている。
最近ではそんな新鮮な魚介類目当ての観光客も、少しずつ増えているようだ。
「お姉さま、次はあっちに行ってみたいです!」
「ちょ、王……、お待ちください、お嬢様!」
そんなレイゼルピナ有数の大都市であるシュタルトヒルデであるが、今日はいつもとは様相をていしていた。
平時の数倍はいようかという多くの人でひしめき合い、道のあちこちでは大量の屋台が軒を連ねている。
大きな通りも小さな通りも、人、人、人で埋め尽くされていて、まっすぐ歩くのはまず不可能。ちょっとでも目を離せば、即座に迷子になってしまうような状態だ。
「こっちですわ、お姉さま」
そんな人だらけの中心街のど真ん中を、大声を出して駆け回っている二人の女の子がいた。
先を行くのは黄味の強い金髪を三つ編みに結い上げ、左目の下にある小さな泣きボクロのある女の子。好奇心の強そうな青緑色の瞳で、屋台の列を物珍しそうに眺めている。
裾や袖に白いレースやフリルをあしらった青を基調としたエプロンドレスに、頭を覆う薄い水色のスカーフが、清楚な雰囲気を作り出していた。
「だ~か~ら~、待てって言ってるでしょうが!」
そのエプロンドレスの女の子を追いかけているのは、オレンジのポニーテールを振り乱し、エメラルドのような瞳を大きく釣り上げている女の子だ。
胸元や袖や裾にレースをあしらったブラウスの上に、薄いベージュ系のカーディガンを羽織っている。赤茶系の生地に白いフリルが螺旋状に縫い込まれた可愛らしいスカートの裾からは、もこもこした毛の暖かそうな黄土色系のブーツが顔をのぞかせていた。
「お姉さま、あっちでレースがあるみたいですよ。見に行きましょう!」
「わかった、わかったから! 一人で先に行くなぁあああああ!」
オレンジ髪の女の子の声は、シュタルトヒルデの喧騒にかき消されるのだった。
そんな女の子達から、直線距離で百メートルも離れていない場所を一組の男女が歩いている。
そろってくたびれた上に少々汚れたカッターシャツを着用。
背の高い方は枯れ草色の作業ズボンに、竜皮でできた焦げ茶系のジャケットを着ている。カッターシャツの胸元はその下にある豊満な乳房を隠すには布が足りなかったらしく、上の方のボタンを三つほど外していた。
もう片方の背の低い方は砂ほこりまみれの黒のスラックスに、もう片方がしているのと同じジャケットを腰に巻き付けている。
「おい、黒いのが見えてるぞ」
「そうですか?」
「ちょいとじっとしてな」
「はい」
背の高い女の方が頭半分小さな男の頭に手をやり、位置を調整する。
金髪の外側にのぞいていた本来の黒髪は、再びすっぽりと金髪の内側へと姿をくらませた。
「よし、こんなもんか」
「ありがとうございます。えっと、ネーナさん」
「いい加減名前くらい覚えてくれよ、アキラ。なんだかんだで、けっこう頼りにされてんだからな。うちの姫さまに」
女の方は、かなり投げやりな調子で男――少年に話しかける。
まあこれは女が少年を嫌っているからではなく、元々が無愛想な口調のせいであるが。
「頼りにって、恐縮ですよ。姫様からなんて……」
「まあ実際、オレも当てにしてるからな。ヘマしたら承知しねえぞ」
「は、ははぁ……」
少年はどこか悟りを開いたようなため息を漏らしながら、遠くの空に浮かぶ雲を眺めるのだった。
そう。レナと昶は本日シュタルトヒルデで行われている感謝祭――ネプティヌス――に来ているのだ。
より正確に言えば、強制連行だったりするのだがまあそこは置いといて。
はてさて、それではなぜレナと昶がシュタルトヒルデに来ているのか、と言うと……。それは二週間前までさかのぼる。
ラズベリエのホテルで昶がのぞき魔となった次の日、昼過ぎまで遊び倒した五人はアナヒレクス家の竜籠で学院まで戻った。
久々に羽目を外して疲れきった五人は、もちろん籠の中でもぐっすり。窓からさんさんと降り注ぐ陽光をものともせず惰眠を貪っていた。
そして夕方前に学院へたどり着き、部屋に戻ろうとしていた所でそれは起きた。
レナと昶が例の筋肉ダルマ、ゴリさんの愛称で親しまれているグレゴリオ先生に呼び止められたのである。
そこで学院長室まで行くように言い渡された二人は、さっそく学院長の下へ向かった。
まだ上下の引っ付きそうな目をこすりながら、開けた扉の先に待っていたのは、
「笑うなジジィ! オレだって好きでやってんじゃねぇよ!」
「だって、だって……ぐふ、ふふふふふふふふ」
恥ずかしさに怒り狂ってわめき散らす背の高い女性と、笑いを堪えようと必死になっているが全然抑えられていない学院長のオズワルトだった。
背の高い女の方に、昶は一応見覚えがあった。
一九〇に届きそうな長身と薄いライトグリーンの髪は、恐らくエルザの護衛を勤めているネーナなのだが……。一ヶ所だけ、確かにおかしな所がある。
「あの、その髪、どうしたんですか?」
昶より短い短髪だったネーナの髪が、レナと同じくらいかそれ以上に長くなっていたのだ。
似合っているかいないかで言えば、間違いなく似合っている。
かっこよさの中にも、女性らしい可愛らしさが違和感なく共存していた。
だが、それが本人のキャラと合っているかと言われれば、百人が百人とも『否』と答えるだろう。
いつものネーナを知らないレナの横で、昶は吹き出すのを必死に堪えるのだった。
「付け毛だよ、付! け! 毛! 試しにってうちの姫さまに付けられたんだよ。頭が重くていけねえや」
ネーナは心の底から投げやりな口調で吐き捨てた。
おしゃれから縁遠い性格のネーナにとっては、戦闘の邪魔にしかならない付け毛はうっとうしいだけらしい。と言うよりも、今見える髪の九割は作り物だろう。なかなか良くできている。
「実はな、ネーナくんから君らに頼みたいことがあるらしいんじゃと。くっくっく…………」
女の子なネーナと言うのが、完全にオズワルトのツボに入ったらしい。三人に背を向けると、必死で笑いを堪えようとするのだが、時折振り向いてはネーナをちらり。
きっと今頃、心の中では笑い転げていることだろう。
「まあ頼みっつっても、オレが来てる時点でだいたい察しはついてると思うが」
「……また王女殿下ね」
レナのうんざりしたような表情に、ネーナもうんと首を振った。
頭をぽりぼりとかきながら、ネーナは続きを口にする。
「『お姉さま達と一緒に行きたい』んだそうだ」
と、ここでネーナは、レナの後ろでぼーっとしている昶に視線を移す。
数秒後、ネーナが自分を見ていることに気が付いた昶は、
「えっ? 俺も!?」
先ほどの発言の意味をようやっと理解したようだ。
驚いて聞き返すと、ネーナは長くなった髪をうっとうしそうにかきあげながら大きく縦に首を振った。
どうやら、聞き間違いではないらしい。
「来月の頭に、シュタルトヒルデでやるネプティヌスに行きたいんだと」
シュタルトヒルデ、ネプティヌス。どちらも昶にとっては聞き覚えのない単語である。
「レナ、シュタルトヒルデとネプティヌスって?」
「おいこら、そこはオレに聞くとこだろ」
割と真面目な顔で抗議するネーナであったが、その後ろからオズワルトが、
「座学では学院過去最悪の成績で卒業した君がのぅ……。成長したな」
ネーナの肩に手をやって、満面の笑みを浮かべた。
「そこは黙ってろジジィ。イヤミのつもりだろ」
と、ネーナとオズワルトが仲良くじゃれあいを始めた所で、
「それで、シュタルトヒルデとネプティヌスってなんなんだ?」
もう一度レナに聞き返した。
「シュタルトヒルデは、ここから南にずっと行った所にある、海岸沿いの大きな都市よ。ラズベリエよりずっと遠いし、比べものにならないくらい大きいわ」
「じゃあ、ネプティヌスは?」
「そっちはシュタルトヒルデで、毎年第十二月の最初の安息日に行われている感謝祭のこと。『今年も無事過ごせそうです、来年もお願いします』って、水の大精霊に祈りを捧げるのが本来の形だったんだけど、今は娯楽行事の一環みたいになってるわ」
「なるほどねぇ」
祭りとは本来、その土地の神や信仰の対象となっているものを祀るものなのだが、時代の流れと共にただのにぎやかな催しになるのは地球もレイゼルピナも同じようだ。
まあ実際、ただの厳かなだけの儀式はやってる当人達以外面白くもなんともないので、昶としてはにぎやかな方がいいと思う。
「えっとつまり、俺とレナをその感謝祭とやらに連れて行こうってことですか?」
「まあ、そんなとこだな」
と、ネーナは何食わぬ顔で床に伏しているオズワルトを、足でげしげしと踏みつけながら答えた。
いったい、二人の目を離していたすきになにがあったのだろうか。
「それって、絶対に行かなきゃならないの?」
「あぁ。単なるわがままだったら、ちょっとお仕置きすりゃあ、言うこと聞くんだがなぁ……」
お仕置きという単語にこの上なく違和感と興味を持った二人であるが、聞くのも怖いのでとりあえず話の続きを聞くことにした。
それにしてもお仕置きって、いったいお姫様相手になにをやっているのだろうか、この衛兵は。
「うちの姫さまの“良く当たる勘”みたいなやつが、ネプティヌスの日になんかあるって言ってるらしい。だから、お前らに声かけたってわけ」
「でも、なんであたし達なの? 近衛隊になら、優秀な魔法兵がいっぱいいるじゃない」
レナのもっともな疑問に、しかしネーナは表情を全く崩さずにとんでもない答えを返してきた。
「あぁ。そりゃこのこと、王様達知らないからな」
「「…………………………え?」」
ネーナの言ったことを理解するのに、現地時間でたっぷり五秒はかかっただろうか。
それだけ、今のネーナの発言は色々な意味でぶっ飛んでいたのである。
「事情があって詳しくは言えないんだが、まああれだ。王様に言ったら行かせてくれないのと、あと姫さま本人が行かないと意味らしいってのが理由だ」
その事情というのも、実はエルザの見る夢が関連しているだけなのだが、今はいいだろう。
時々ではあるが、エルザは予知夢のようなものを見ることがあるのである。国を治める為に備わっている秘術の一種ではないかとネーナは思っているのだが、詳しいことはエルザ本人にもわからないらしい。
だが、そんなことはどうでもいい。必要なのは、その夢の持つ意味なのだから。
ネプティヌスの日、シュタルトヒルデでなにかがある。それも、この国の命運を左右するような大事の、その前触れとも言えることが。
エルザの見た夢では本番はその日よりずっと後、しかし猶予はあまり残っていないようだ。
だから行かなければならない。なにがなんでも。
「それにオレは、近衛隊の連中も、王都の魔法兵の連中も、誰も信用してねえからな。今の王様の改革派中心の政策に、否定的なやつはけっこういる。上の連中なんざ大半がそうだ。だから、こんなこと頼める相手はお前らしかいなかったんだよ」
「でも、あたし達なんかで本当にいいんですか?」
ネーナの真剣な表情に気圧されて、レナはいつもからは考えられないほど縮こまっていた。いつもの半分以下に細くなった声で、恐る恐る言葉を口にする。
信用してくれるのは大いに嬉しいのだが、レナには自信がない。魔力の制御が下手で、魔法のうまく使えない自分に、本当にエルザを――王女殿下を守ることができるのか、と。
「あの聞かん坊に言うこと聞かせるのは、オレよりそっちの方が上手いだろ。それに……」
ネーナは視線を再びレナから昶に移しその肩をつかむと、ぐいっと自分の方に引き寄せた。
戦闘時こそ驚異的な肉体強化術で人間の限界を超えた力を発揮できるが、平時においてはただの人である。
体格的に勝るネーナにつかまれれば、成す術もなく引き寄せられるのも道理だ。
「こいつはけっこうな戦力になるからな。うちの隊の連中よかよ」
ネーナ後ろから抱きつくように、昶の首に腕を回した。
そうすると身長的な問題から、首の辺りに非常に柔らかくて、でも弾力性もある温かい球体があたるわけで。
「ネッ、ネーナさん!」
昶は反射的に叫んだが、時すでに遅し。
シェリーのよりも輪をかけて大きいネーナの胸の感触に、昶の顔は一瞬にして真っ赤になる。
いつものレナならここで昶を罵倒する所なのだが、相手が相手なだけにそれもできず、のどまででかかった声をごくんと引っ込めた。
身分の上ではレナの方が圧倒的に上だが、相手は近衛隊の一員で、しかも王女殿下の護衛を務めるほどの人物だ。
創立祭の日に、近衛隊を率いていたのも彼女である。
身分がどうこう以前にマグスとしての格の違いが、レナの口を詰まらせてしまうのだ。
「おぉ、いっちょまえに顔なんか赤くしやがって。可愛いやつめ。うりうり」
昶の反応が面白くて、更に自分の胸を押し付けるネーナ。
それを後ろに横たわっているオズワルトが、指をくわえて羨ましそうに見ている。
昶に怒りをぶつけられないレナは、そんなバカなことをしているオズワルトに矛先を変えた。ぶつけられない怒りの全てを視線に乗せて、うがーっとにらみつける。
竜でも逃げ出しそうなド迫力に気圧されてか、オズワルトは何事も無かったかのように立ち上がり、こほんと咳払いを一つ。
「おっと、悪かったな」
ネーナは思い出したかのように昶いじりを中断すると、レナの方に押し返した。
おっとっと、とレナの前ぎりぎりで止まった昶は、
「あんたなにデレデレしてんのよぉおお!」
「あだっ!?」
罵声と共に全力で頭をはたかれた。それによって辛うじて均衡を保っていたバランスが崩れ、前方に倒れ込んだ。
――――ぽむ……。
レナのなだらかな胸に向かって。
「な、な、なぁ…………」
それも顔面から。
「なにしてくれてんのよ!」
「へぶっ!!」
花も恥じらう乙女にあるまじき怒号をぶちまけながら、レナは渾身の張り手を昶の頬に見舞った。
昶の頭は蹴られたボールよろしく、勢いよく床を直撃する。
「……おぃおぃ」
ネーナはぜえぜえと息を荒げるレナと、床の上で伸びている昶を交互に見やった。
ふかふかの絨毯ではあるものの、ちょっとばかし心配になる威力である。
さすがのネーナも少々引き気味と言うか、苦笑いが隠せない。
そんなネーナの視線に気付いたレナは、
「ち、違うのよ! これはその、ふ、不可抗力であって、わざととかそんなんじゃ、全然なくて、えっと……」
「いや、そんなことより……」
いつものようについやってしまった“お嬢様”らしからぬ行為について、レナが必死で言い訳を取り繕っていると、ネーナはおもむろに昶の方を指差す。
それに釣られて、レナも昶の方をちらり。
「大丈夫なのか? あれ」
「あぁ!? ア、アキラ? ごめん、大丈夫? こら、返事しなさいってばぁ!」
大慌てで駆け寄ったレナは、うつぶせのまま倒れている昶を仰向けにひっくり返した。
耳元で呼びかけたり、身体を揺すったりするものの、全く反応なし。更に慌てて、ぶんぶんと身体を揺さぶり出す始末。
それでは逆効果だろうと思うネーナであるが、なんか声もかけ辛い雰囲気に気圧されて、結局ただ見守る方を選んだ。
白目を向いて気絶している昶を見て、改めてあの強烈なビンタの威力に苦笑しつつ、ネーナはレナに話しかけた。
「そんじゃまあ、変装用の服もこっちでそろえなきゃならんし、サイズを計らしてくれ」
それからぎこちない手つきでレナと昶の身体のサイズを測ったネーナは、何時間もかかる道のりを竜にまたがって帰って行ったのであった。
「それにしても。王女様、ずいぶんと人混みに慣れてるみたいですけど」
「あぁ、オレやミゼルも手を焼いてんだよ。城下にはけっこう頻繁に出歩いてるからなぁ、オレ達にも内緒で」
レイゼルピナの首都、王都レイゼンレイドは国内最大の人口を有する都市でもある。
今のシュタルトヒルデほどではないにしろ、普段からけっこうな数の人で溢れ返っているのは言うまでもない。
なるほど、頻繁に城下に(お忍びで)遊びに行っているなら、嫌でも慣れるというものろう。
まあ今の状況を見るに、その人混みすらも楽しんでいるようである。
「そういや、お前って魔力の気配で人を追えるんだよな?」
「まあ、そんな精度高くないですけど。王女様一人くらいなら、なんとか」
と、言葉では簡単に言っているものの、実際はそうではなかった。
エルザから発せられている魔力は、一般人と比べれば高くはあるものの、力の規模はかなり小さいものなのである。それも魔法学院の中で、最下層に位置するような。
もちろん、魔力の大きさだけが全てでないとはいえ、決定的な才能の一つをエルザが持っていないのは確かであった。
「ふうん、便利なもんだな」
「これがないと、うちじゃどうにもならないんで」
ネーナは少々羨ましそうに、横目で昶のことを盗み見る。
今回はことがことだけに、二人は事前にある程度互いの有するスキルについて教え合っているのだ。
これは緊急時、互いがどんな技能に長けていてどんな技能が未熟かを理解していれば、連携を取りやすいからである。
もっとも、そんな緊急時なんて無いに越したことはないのだが。
「そりゃまた、ずいぶんと難儀なとこで」
「ほんと、難儀なとこでしたよ」
――本当に、な……。
昶はもう一度、心の内で吐露する。
こっちに来てからはあまり感じなくなったが、向こうにいた頃は何度も思った。『なんでこんなとこに生まれたんだろう』と。
こんな力さえなかったら、姉を傷付けることもなかった。父親や里の連中から、蔑まれることもなかった。
宗家のできそこない、宗家のお荷物、宗家の恥さらし。どこへ行っても宗家、宗家、宗家。誰も自分のことなんか見ていない。
でも、ここではそうじゃない。
シェリーも、リンネも、アイナも、ミシェルとおまけにミゲルも。そして、一応レナも。
自分を自分として見てくれる。“宗家のできそこない”ではなく、“草壁昶”として。
だから守りたい。だから一緒にいたい。
そのためなら、この力だってあってよかったと思えるようになったのである。
「あ、そういえば」
と、昶は唐突にあることを思い出した。
「ん? どうした?」
「俺に会って欲しい人がいるって、ネーナさんのとこまで連れて行ってくれた人っていたじゃないですか」
「あぁ、レオン先輩のことか」
「そうそう。その人ってすごく仲良さそうでしたけど、今日はいないんですか?」
「いや~、それなんだがなぁ……」
ネーナは頭をぽりぽりと書きながら明後日の方を向くと、困ったような笑っているような、よくわからない表情をして見せる。
苦笑と言うにはずいぶんさっぱりした表情で色々考えて、ネーナはやっぱり話すことにした。
理由は様々あるが、昶がネーナの信用できる数少ない人物であるからというのが大きい。
まあその根拠も、動物並の直感という根拠のまったくないものだったりするのだが。
「先に言っとくが、本当はしゃべっちゃダメなんだからな? こういう職業柄」
まったく、機密もへったくれもあったものではない。
「話すには話したんだが、今日どうしても外せない仕事があるらしくてな。フラレちまったよ」
「真面目そうな顔してましたしね……。ネーナさんと違って」
「悪かったな、真面目じゃなさそうな顔で」
最後の方は小さい声でぼそりとつぶやいただけなのだが、ちゃんと聞いていたようである。
この喧騒の真っ只中で聞き取るなんて芸当、昶でも聴力を強化しなければ聞き取れないものをよくもまあ。
「あ、速度が上がった」
「ったく、うちの姫さまは……。しゃあねえ、走るか」
「離れすぎても護衛できませんからね。まあ、保険はかけてんですけど……」
「あのお嬢じゃ、当てになんねえだろうが。で、どっちだ?」
「…………あっち」
なにかを言おうとした昶を強引に遮り、ネーナは今エルザのいる方向を要求する。その方向を指し示すと、わき目も振らずに走り出した。
身体が大きいために、通行人に割り込んで行くのも大変そうである。
昶はなんだかんだでエルザが心配なネーナにふっと笑みをこぼしながら、その後を追いかけた。
エルザがシュタルトヒルデの街中を突っ走っている頃、街の外側――内陸にある湖に一艘の小船が着水した。見た目こそ普通の帆船であるが、風精霊の結晶や軽量な蒸気機関を搭載した、最新鋭の空を飛ぶ船である。
湖の真ん中に着水した小船は、岸部から伸びる桟橋へ小さな波を立てながら近付いて行く。
この湖は、近年発達の著しい精霊素の結晶を制御して作られた人工の湖である。大きさはせいぜい二〇メートル四方。湖と言うよりは、大きな池と言った方が正しいかもしれない。
深さも最大で五メートルを超える程度で、小型の船しか乗り入れることはできない。
なぜ、湖なんてものを作る必要があったのか。
商人の街という性格もあって、シュタルトヒルデはレイゼルピナの中でもかなりにぎやかな部類に入る都市である。
だが、そんな俗っぽいにぎわいを嫌う貴族も多い。
そんな貴族達が集まって、シュタルトヒルデの市長に自分達のための港を作らせたのだ。もちろん、大量の賄賂を積んで。
これは、シュタルトヒルデが貴族の治める領地ではなく、国が管理する国有地であるからというのが大きい。市長は近隣に領地を持つ貴族の中から、元老院の下部組織が選出することになっている。
選出された者は、それぞれ国の有する都市で市長として様々な権限が与えられるのだ。
ここで話を元に戻すと、都市とその周辺は国が管理している土地のため、基本的にどんな有力な貴族が言っても港を作ることはできない。
だが、市長ならその都市と都市周辺を、市長権限において開発することができるのである。
「着いたか?」
「はい」
それはつまり、この小船の主も身分の高い貴族ということを意味している。
先に降りた白銀の鎧をまとった兵士は、小船から伸びた綱を桟橋に固定した。まだ若い、好青年の声をそのまま表したような声である。
その鎧の色からもわかるように、彼は近衛隊に所属するほどの猛者だ。
そして青年が深く頭を垂れると、小船の主であるだろう初老の男性が現れた。
どこか厳かな雰囲気の漂う純白のローブに身を包み、色素が抜け始めたまだらな茶髪をしている。
「足元にお気を付けください。議長閣下」
「わかっておるさ。そんなことより、今日は頼むぞ」
「はい。我が命に代えましても、議長閣下をお守りする所存にございます」
初老の男の名はヴェルデ――元老院の議長をも務める、重鎮の中の重鎮である。
移動のためか、普段身に付けているようなごてごてとした派手な装飾品はしていない。
しかし、代わりとばかりに重厚な雰囲気の漂う杖を握っている。ごつごつとした、だが掴みやすい形状だ。
先端には重たそうなダイヤモンドが埋め込まれており、それはまるでそれがヴェルデの持つ権力の大きさを表しているかのようである。
「まったく、騒がしいことこの上ないな」
「本日はネプティヌスが催されておりますので、そのせいでございましょう」
「……本来の姿すら忘れた俗物風情が。感謝祭とはよくも言ったものだなぁ、誰も感謝などしておらぬと言うのに」
吐き捨てながら桟橋に降りたったヴェルデは、さっきまで乗っていた小船の方を振り返る。
シュタルトヒルデの方から聞こえる喧騒から耳を背けたようにも見えるが、そうではない。
待っているのだ。小船に乗っているもう一人の人物を。
「さっさとしろ。あまり余を待たせるな」
元々低くしわがれた声が、より一層低くなって発せられる。
すると、水面が小さく波を打った。発生源は、ヴェルデが先ほどまで乗っていた小船。
船室から現れたのは、ヴェルデとは対象的な漆黒のローブを着た人物。表面にはエナメル質の黒い魔法文字が踊り、フードのために直接顔を見る事は出来ない。
だが、滲み出る異様で異質なオーラに、白銀の鎧は得も言われぬ戦慄を感じた。
「はぁぁ、めんどくさいナァ。ボク、“ノウラ”のコトそんなに好キじャないのに」
「それはお前の都合だろう。余には関係のないことだ。貴様にも、いざという時働いてもらわねばならぬのだからな」
「はィはィ。わかッテますヨー。だから、ボクがここにイるんでしョッとォ」
漆黒のローブは、人間とは思えない跳躍力で甲板から飛び上がると、体重を感じさせないほどゆっくりと着地する。
間違いない。肉体強化と、杖の発動体を用いない飛行術。
どちらも高い技術と適性が必要な、簡単には真似できない魔法である。
「しくじった貴様を罰するでもなく、こうして使ってやっているのだ。感謝くらいしてみてはどうなのだ? 死に損ない」
「はははははッ。なにソレ? 感謝祭とかけてるつもリ? 面白くなさすギテ、逆に笑ッちャうヨ!」
「…………さっさとしろ。と、言ったはずだが」
「わかッテるッテ。だからそんなに急かさなイでヨ」
漆黒のローブから発せられたのは、滲み出るオーラとは正反対の、明るくて快活で無邪気な少年の声。
だがだからこそ、見た目と声との間に生じる差違が、恐怖となって青年に襲いかかる。
この子なら、笑顔のまま人の首でも切り落としかねない。
そう思わずにはいられないなにかを、青年は確かに感じた。
「では、行くぞ」
そう言うと、ヴェルデは歩き出す。
白銀の鎧の青年と、黒いローブの少年を伴って。