第十話 おでかけ Act07:小さな贈り物
重たいお金の運び役をこなした昶は、夕食を食べ終えた後部屋の中でぐったりしていた。
緊急時以外は肉体強化を使わないようにしているおかげで、全身筋肉痛である。感覚系だけならまだしも、筋力系はふとしたことで事故になりかねない。
もう誰も傷つけたくない昶が、自らに定めた戒律である。
「ったく、ちょっとは自分達で持てっての」
少しくらいは手伝ってくれてもいいものを。特に大当てしたセンナとか、力が有り余っているだろうシェリーとかは。
「はぁぁ、なんか疲れた」
窓枠に腰かけ、夜風に当たりながら真ん丸な円を描く月を見つめる。
室内を照らすのは淡い月明かりと、この世界では最先端の電球の白色光だ。外を見れば、半分以上はここと同じく電球を使っているのがわかる。
昶はそんな人工の明かりを感慨深げに眺めながら、物思いにふけっていた。
本当に、創立祭の時とは方向性が違うが、今日も色々なことがあった。
全身筋肉のようなバカ親ばりの元隊長に斬られそうになったり、よくわからない恐喝犯に襲われたり、レナの手料理を食べさせられたり、お金をかけたゲームをしたり、シェリーが賭け試合に参加したり。
いつもと違う景色や匂い、みんなでバカみたいに笑って、遊んで。
毎日はごめんだが、こういう“楽しい”のも悪くない。いいや、悪くないなんて消極的な言い方ではなく、またやりたい。そう言うべきだろう。
誰かと一緒になにかをすることが、こんなに楽しいなんて知らなかった。バカ姉の言っていた『友達を作れ』と言う言葉の意味も、今ならわかる気がする。
確かに、こんな心踊ることを知らなかったなんて、損をしていたような気分だ。
「アキラー、私達ちょっと地下の遊戯場に行ってくるけど、どうするー?」
方向的に、入り口の方だろう。
「アキラさーん、行きましょうよー!」
どうやら、アイナも一緒に行ってくるらしい。元々活発的な女の子だから、まだ元気が有り余っているのだろう。
それとかなり小さくてはよく聞き取れないが、リンネの声もかすかに聞こえる。
おおかた、シェリー強制連行されているに違いない。
まあ、リンネもあれはあれでシェリーとの時間を楽しんでいる節があるので、放っておいても大丈夫だろう。
「俺はいい。重い荷物運ばされて疲れてるからなー!」
これくらいの皮肉なら、許されるだろう。
「それじゃーねー」
「アキラさーん、行ってきまーす」
「…荷物、ありがと」
答えてから現地時間で〇.五秒と経たない内に扉が開き、バタンと閉じられた。
相変わらず、シェリーの行動の速さはピカイチである。
声は小さかったものの、リンネの気遣いに昶は涙腺が緩みそうになるのをなんとかこらえた。
そういえば、レナとセンナはどこにいるのだろうか。三人と一緒に出て行かなかったのなら、部屋の中にはいるはずなのだが。
「ま、いっか」
昶は再び、窓の外に目をやる。
瞳に映るのは、さっきまでと変わらない、淡い月明かりと人工の白い光。
あの光の一つ一つに命を思い起こされる。あの光の数以上に、多くの人が生きているのだ。
思い出すのは、やはり昼間と同じ創立祭の日のことである。
あの時の襲撃して来たマグス達は、常軌を逸していた。
昶が見てきたこの世界の魔法の中でも、突出した攻撃力があったと言って過言でない。
二〇メートルを軽々と超える全身部素鎧。シェリー達に聞いた氷を使った高速戦闘を行うマグス。それから、闇精霊の使い手達。
誰も彼もが人を容易に殺せるだけの力を持ったマグスであり、レイゼルピナでも屈指の力を持つ猛者達だろう。
彼等が学院を襲った理由はなんなのだろうか。
エルザを殺そうとするなら、もっとマシな方法がいくらでもあっただろう。あの状況で襲撃するのは、どう考えても非効率的すぎる。
まるで初めから、どうでも良かったかのようにも思える。
それに、彼等には“人を傷付ける”ことに対する、躊躇いはないのだろうか。“命を奪う”ことに対する、後ろめたさはないのだろうか。
昶自身は、今でもあの時のことが忘れられない。無自覚なままに、制御も知らないまま、ただの好奇心から姉に大怪我を追わせてしまったことを。
今でも夢に見るほどに、その時の出来事は昶の心の深い所に根を張り、自分自身を苦しめている。
大怪我でそれなら、もし殺してしまっていたら……。
――やめよぅ。
もし考え始めたら、抜け出せないどつぼにはまりそうだ。
それに、今考えるべきことは別にある。
――エザリア=ミズーリー。
何十回も、何百回も、今日も手持ち無沙汰な時はずっと、その名前に思い当たる人物を探していた。
だがやはり、答えは同じ。覚えはない、知らない名前。
一昔前はそれなり有名だったということは、今は一線を退いたという意味なのだろうか。
だとすると、それなりの年齢に達している可能性が高い。少なくとも、あの二〇代前半の外見は偽りのもものだろう。
それと白人系であのとんでもない強さとなると、やはり怪しいのは欧州方面だ。
他の地域にもいないことはないが、やはり白人系の術者は欧州、それも西欧方面に多いらしい。
だがやはり、それ以上のことは推理できない。判断材料が、あまりにも少な過ぎる。
せめて使っている魔術体系がわかれば、いくらか事前策を用意することができるのだが。
「アキラ。ちょっと、いい?」
エザリアのことでいっぱいになっていた思考の中に、不意に聞き覚えのある慣れ親しんだ声が混入してきた。
振り返って確認するまでもない。レナだ。
「お前が俺の都合なんて、気にしたことあったかよ」
なんだか今日はいじらしいレナばかりを見過ぎたせいか、ちょっとイジメてやりたい気分の昶。
そんな気持ちもあって、ちょっと皮肉を込めて返事する。
「悪かったわね」
うつむき加減にとぼとぼと昶の近くまで歩み寄ったレナは、そばの壁に背中を預ける。
これなら、昶の顔を直接見なくても済むので、あまり緊張しないで済む。
「実は今日のこれ、シェリーが言い出したことなの」
「これって、今日一日遊び倒したことか?」
「うん。その、アキラが、あまり元気がないって言って。それに、最近あんなのもあったし、息抜きもかねてってことだと思う。あのバカな格好も、シェリーの提案なの」
「バカな格好?」
「……メ、メイドの…………、格好」
最後の方は恥ずかしさでしぼんでいく声は聞き取りづらかったが、メイド服のことを言っているのはわかった。
なるほど、そこまで目に見えて落ち込んでいたのか。
確かに、目があったら叩かれてばかりだったので、多少気が沈んでいたのは認めるが。
もしかしたら、エザリアのことを考えていた時の顔でも見られたのかも知れない。
「俺、そんなに落ち込んでた?」
“ツーマ”を撃退し、結界が破れて一息ついていた時の雷。あれは恐らく、エザリアの放ったものだろう。抑えきれずに漏れ出ていた魔力と、似たような感じを受けた。
あんなバカげた奴を相手にするかもしれないと考えると、気落ちするのも致し方ない。
「そうみたい。あたしは、あんたにあんなことされて……。顔見たらあんなだったから、全然気付けなかったけど……」
自分の発言で再び思い出してしまって、レナは自身でも顔がかぁっと熱くなるのを感じた。本当に、顔を見せていなくてよかったと思う。
「あ、あれは!? まあ、俺が悪かったけど……。その、ごめん」
レナに誘発されてか、昶の頬にも急速に赤味が差していく。
あの時のことは、自分でも反省している。だが、後悔はしていない。
レナに誤解されたままなのはやっぱり嫌だし、あんなボロボロのレナを放っておくこともできなかった。
まあ確かに、今考えれるとなんであんな真似をしようと思ったのか全く理解できなかったりするのだが。
「いいわよ。あたしも、その、あの後あんたに色々迷惑かけちゃったし」
「普段とそんな変わんない気もしたけどな」
「なに言ってんのよ。あれは全部アキラが悪いからに決まってるじゃない」
「どこがだよ」
「どこって、それは……」
それは、と考えてみると――あまり思い当たらなかったり。
――はぁぁ、なんであたしってばこんななんだろぅ。
冷静に考えてみると、感情だけで行動してばかりだ。
直そうとはしているのだが、いざそういう場面になると頭に血が上ってしまう。そんな自分が、時々嫌になる。
「はぁぁ、もういいわ……。そうよ、あたしは普段からあんたにひどいことしてばっかよ。その、悪いとは思ってるんだけど、直せなくて」
「いいって。俺もどうせ気にしてねえし。それに、退屈しなくて済む」
「なによそれ。嫌味のつもり?」
「気がまぎれるって意味だよ。嫌な思い出しかねえけど、たまに思い出すんだ。故郷のこととかな」
「あっ……」
そうだった。昶は初めて会った時に言っていたではないか。
自分は別の世界から来たんだと。
以前までなら信じられなかったが、今は違う。
見たこともない機械を持っていたり、おかしな服装をしていたり、レイゼルピナに存在しない魔法を使ったり。
昶は、自分達とは違う世界の住人なのだ。
「なんか、ごめん」
「だからいいって。悪い思い出しかないっつったろ?」
「…………アキラ」
「だから、そんな辛そうな顔するな」
レナはふと隣を見るやると、横目に自分のことを見ている昶の姿があった。
「つ、辛そうな顔なんてしてないわよ!」
「そうそう。そんな風にしてるのが、一番お前らしいよ」
昶はひょいと窓枠から飛び降りると、レナの前を通ってソファーの方に向かう。
「まだ本調子じゃねえし、先に寝てるから。お前らのベッドに侵入するほどは、落ちぶれちゃねえから安心しろ。なんなら、床で寝ても…」
「アキラ!」
「はい!」
軽口を叩いていた昶であるが、レナの鋭い呼びかけに背筋をピンと張り、気を付けの姿勢で固まった。
もう、完全に条件反射になってるなあ、とか思いつつ、レナの出方をうかがう。
杖は持ってなかったし、コインなら初動を抑えれば被害は最小限に済む。とかなんとか考えていたのだが、それらは全部無駄な努力に終わった。
柔らかな絨毯の上を一歩、また一歩と近付いてきたレナは、とん、と昶の背に額を当ててきたのだ。
「一つだけ、約束してほしいことが、あるの」
首の付け根辺りに額の暖かさが、そのちょっと下辺りに二つの掌の感触が広がる。
昶の心臓がどくどくと早鐘を打ち、まるで全身の血液が頭に向かってなだれ込んでくるようだった。
それでもどうにか冷静な部分をかき集め、レナへの返事を取捨選択する。
「べ、別にいいぞ。約束のひ、一つやふ、二つくらい」
どんなことなのだろう。
あまり無茶なものはできないが、たいていのことなら守れる自信はある。
からかうのを止めたり、御主人様のご命令を素直に聞いたりくらいするぐらいなら、朝飯前だ。
昶はどんな約束なのかドキドキしながら、レナの言葉を待った。
そして、
「…………もう、無茶しないで」
意外な言葉に、昶は少したじろいだ。
昂揚していた鼓動は収まり、熱暴走を起こしかけていた思考も急速に冷めていく。
聞き間違いではないのか。そう思いもしたが、続く言葉で間違いではないことを確認する。
「シュバルツグローブの時、気が付いた時には全部終わってて、でもあんたがなかなか目を覚まさなくて、あたし怖かった。創立祭の時も、気が付いたらあんたはシェリーとどっか行ってて、もっと怖かった。このまま目を覚まさないかも、もう二度と会えないかもって、そう思って」
確かに、レナの言う通りだ。昶と“ツーマ”の力は五分と言って良い。
よくよく考えてみれば、死んでいてもおかしくはないのだ。
「心配かけたのは、悪いと思ってる。でも、俺も必死だったんだと思う。せっかく手に入れた楽しい時間が、なくなってしまうんじゃないかって思って」
だが、それでもやらなければならない時があることを、昶はここに来てようやく学んだ。
楽しい時間を過ごした友人を、仲間を、大切な人達を失いたくはない。それは人間なら誰しもが持っている、当たり前の感情だ。
ならば、それを守りたい。守らなければならない
それが誰かを守れるだけの力を持った者の権利であり、義務なのだから。
「だから俺は、お前らが危ないって知ってじっとして居られなかったし、お前にあんな悲しそうな顔させた連中が許せなかった」
力とは、単なる腕力かもしれない。国を動かすほどの権力かもしれない。あるいは、世の理をねじ曲げるものかもしれない。
昶が持っていたのは、千年近くもの研鑽を積み重ねてきた、人外を討つための陰陽術の一つだったに過ぎない。
だから戦う。大切な人の前に立ち、それを壊そうとする者達に立ち向かうために。
「だから怖いのよ。確かに、あんたは強いわ。でも強いから、なんでもかんでも一人でしようとする。あんたがじっとしていられないのと同じで、あたしもあんたをほっとけない。あんたにも、いるんでしょ? 大切な家族が」
「まあな。うるさい親父に、病気がちな母さん。あと、優秀な兄さんと、うっとうしい姉さんが」
レナは『そう』と言って、掌をのせた服をぎゅっとつかむ。
「その人達のためにも、あんたを死なせるわけにはいかないの。あんたにとっては嫌な思い出しかなくても、あんたを大事に思ってる人は、絶対にいるはずだから」
「…………レナ」
昶はなにも言えなかった。
肯定もしないが、完全に否定することもできない。
少なくとも、兄と姉と、最近はほとんど寝たきりの母は、自分に優しかった。
「その人達のために、あんたを死なせられない。だからもう、創立祭みたいな無茶はやめて。お願い。あんたの大事な人、悲しませたくないの」
これまで聞いたことがないくらい魅惑的な声だった。
こんな声でお願いされれば、断ることのできる人間など、いないのではないかとも思えるくらい。
だが、
「……悪い、それだけは無理だ」
これだけは、聞き入れるわけにはいかなかった。昶が、昶でいるために。
誰かに言われたからではなく、初めて自らの意思で剣を取ると決めたのだから。
「俺の家系は、代々人を守る仕事をしてきたからな」
それは、単なる建前でしかない。
だが貴族の出身であるレナには、“家系”と言う言葉はとても重い意味を持つだろう。
「誰かを守ることが力を持った人間の責任だって、耳にたこができるくらい親父に言われたからな。自分の為に誰かを犠牲にしたなんて知れたら、俺が殺される」
レナも黙って、昶の話を聞いた。
マグスの持つ力の意味、貴族の成すべき責任。それらと通じるものが、昶の言葉の中に垣間見えたから。
「だから、約束の内容を変える。俺はこれからも、レナや、シェリーや、リンネや、アイナ。ミシェルやミゲル、センナさん。あと、カトルにソニスだったっけ、リンネのサーヴァントは。あと、必要ないと思うけどセインも。みんなを守るために戦う。でも、絶対に帰ってくる。それなら約束する」
昶は、黙ってレナの返事を待った。
部屋の中を、外から聞こえる小さな喧騒が木霊する。
そのままどれくらいの時間が経ったか、沈黙を貫いていたレナがついに口を開いた。
「こっち……向いて」
ガチガチに固まっていた身体は、いつの間にか完全に弛緩しきっていた。
レナが額と掌を離したのを確認してから、昶はゆっくりと半回転する。
「いいわ、それで。約束。その代わり、あたしにも条件がある」
「条件?」
ぽむ。と、力ない拳が昶の胸を叩いた。指のすきまから、紐のようなものが見える。
「これ、あんたにあげる。大事に持っときなさい」
昶が拳の下に手をやると、レナの手からなにかが落下した。
人形のようだ。それも、レナを模して作られたような、オレンジの髪と緑の瞳をしている。
「御守りみたいなもの。あたしの命の次に大切なものだから。だから、絶対になくさないこと。いいわね? なくしたら、ゆるさないんだから」
それだけ言うと、レナはそそくさとベッドのある部屋の方へと歩いていった。
昶は扉の向こうへ消えていくレナを見送りながら、掌の人形を見つめる。
――命の次に大切なもの、か。
昶はそれをぎゅっと握りしめると、ジャケットの胸ポケットにしまう。
「こりゃ、死んだら祟られるな。絶対」
「ならその約束、絶対に破らないでくださいね」
「っ!?」
昶は驚いて、声のした方を振り返った。
「センナさん、いつからいたんですか……」
「お嬢さまが、お話があるとおっしゃっておられた辺りから」
つまり、最初からいた、と。
よく考えれば、姿が見えなかっただけでセンナはいたわけだ。
ここは全ての部屋の中心となる位置に配置されていて、風呂場や寝室その他諸々の部屋への通路にもなっている。
きっと別の部屋からここに来た時、話しているのを見て息をひそめていたに違いない。
魔力の気配ならかなり判るのだが、案外大事な所で使い物にならなかったりするのが残念だ。
「その約束、破ったら私も承知しませんから」
と、笑顔で昶に言い放った。
その笑顔は、いつもの怖い笑顔とも、蠱惑的な笑顔とも、爽やか笑顔とも違う。
レナのことを大切に思う人の、素の笑顔だった。
「最初から破る気なんてないですよ。絶対に、守ってみせます」
「そうですか。それなら安心です」
と、センナは表情をいつもの感じにコロッと変える。
この人、何種類の笑顔ができるのだろうと考えていると、昶の目の前までやってきて、
「それでは、お風呂の準備が整いましたので、どうぞ」
「……え?」
さっきまでの厳かな雰囲気は、いったいどこへ消えてしまったのか。
話題が転換したことを認識するのに、現地時間で三秒はかかった。
――お風呂?
「お昼に仰っておられたので、少し早めにご用意させて頂きました。お嬢さま達の普段の入浴時間までまだ間がありますので、お先にお使いください」
確かに、そんなことを言ったような記憶が……。
入りたいとは言ったが、半分は冗談のつもりだったのに。
レナ達が入る前にこっそり入ると考えると、今になって腰が引けてきた。
「ささ、早く早く」
昶はタオル代わりの布を渡されると、有無を言わさず浴室に押し込まれた。
昶は頭から何度かお湯をかぶると、約二ヶ月ぶりとなる温かいお湯に全身を沈めた。
センナに強要されたとはいえ、いざ入ってみるとなかなかに心地よい。
「あぁ~、日本人はやっぱ風呂だよな~」
床や壁はタイル張りで洋風なイメージを受ける。だが、そんなことはどうでもいい。
全身がゆったりお湯に浸かれる広さがあることが、なによりも大事なのだから。
浴室と言っても、ちょっとした温泉のような広さはある。
どうやってお湯を沸かしているのかも気になるが、そんなもの久方ぶりに入る風呂の爽快感と比べたらそんな疑問は微々たるものだ。
縁に背中を預け、白く煙る天井へと視線を向ける。
光源はやはり白い電球だ。
改めて感じた電気のありがたさに感謝しつつ、昶は大きく足を伸ばした。
――ん?
なにか物音がする。少なくとも水の音ではない。もっと別のなにか。
軽くて柔らかい物がこすれるような。
昶が水行の力を調整して、聴力を強化してみると、
『レナ、部屋に残っていったいなにしてたの?』
『あ、それ私も気になります』
『べ、別になんにもなかったわよ。それに、部屋にはセンナもいたでしょ』
『…そうなん、ですか?』
『はい。お風呂の準備などをしておりました』
昶は聴力を元に戻してから、冷静に考えてみた。
なぜか、女の子達の声がする。
確認のために、もう一度聴力を強化してみると、
『皆さん、きっとびっくりしますよ』
今のは、間違いなくセンナの声だった。
――なにやってんだあの人!!!!
叫んだらばれるので、それは心の中にとどめる。
とにかく、今はこの事態を打開しな……、
――――ガラガラ。
とか思っている内に入ってきてしまった。
昶は思い切り息を吸い込むと、そのまま湯船の中へと避難し、入り口から最も離れた位置へと移動する。
だが、もぐってから思い至った。隠れていたら、もはや弁明のしようすらないということに。
試したことはないが、五分も持たせる自信はない。
なにも打開策が浮かばないまま一分が経ち、かなり息が苦しくなってくると、じゃぶじゃぶとお湯に入って来る音がし始めた。
唯一の救いは、水中のために視力がかなり低下していることだ。それでも、もうちょっとで色々と見てはいけないものが、見えてしまいそうである。
そうこう考えている内に肺の中の酸素は刻一刻と減っていき、
――あぁ、やべぇ……!!
ついに我慢できず顔を出した。こうなりゃやけだ。煮るなり焼くなり好きにしやがれ。
「はぁぁ、はぁぁ、はぁぁ、はぁぁ……!」
三分とちょっとぶりに新鮮な空気とご対面した昶は、根拠はないがその場の空気が凍り付いたのを感じ取った。
ちらっと後ろの方を見やると、茫然としている女の子が四人と、してやったりといった風なメイドが一人。
が、やがて一人の女の子から強烈な気配が漂い始めた。
「アアア、アキ、アキアキ……」
魔力を感じることはできても人の気配は感知できないはずなのだが、なぜかこれだけはわかる。
ご主人様の怒りメーターが、猛烈な勢いで跳ね上げているのを。
「アキラァアアアアアアァァ!!」
レナの怒号が、室内に響き渡った。
昶は毎回思っているのだが、外まで聞こえたりするのではなかろうか。
「違う! これはセンナさんが入れって!?」
「アキラ様がお風呂に入りたいとご所望でしたので、お嬢さまのまだ生えそろっていない幼い裸体でも見たかったものかと思いまして」
「セ、センナ、なんてこと言ってんのよ!」
さらっと聞いてはならない単語を聞いた気がするが、聞かなかったことにすればまだセーフのはず。
「俺、もう出る!」
「アキラさん、それなら私と入りましょう!」
「…それは、だめ、だょ」
「センナさんも、余計なこと言ってレナをあおらないでくださって、レナ、暴れちゃダメェ……」
「まあまあ。なんなら、シェリー様とお嬢さまでアキラ様を…」
「センナァアアアアアアアア!!!!」
その日昶は、朝まで正座を強要されたそうな。
そしてセンナには厳重な注意が必要なのだと、改めて認識させられる一同なのであった。
時を同じくして、王立レイゼルピナ魔法学院で最も高い場所――学院長室に白髪白髭の好々翁を絵に描いたような老人がいた。学院長、オズワルトだ。
一切明かりのない室内で、長い背もたれのあるふかふかのイスに身体を預け、疲れ切ったように眉間の辺りをつまむ。
すると開け放たれていた窓から、人影が一つ室内へと侵入した。
「疲れているようだのう、主」
現れたのは、一柱の精霊だ。
目鼻立ちのくっきりとした顔に、露出の激しいドレスとも法衣とも取れる、羽衣をまとった不思議な長衣。卑猥の一歩手前の妖艶さと、嫌味の一歩手前の優美さを兼ね備えた、オズワルトのサーヴァント――ウェリスである。
「あぁ、ウェリスか。そうじゃのう、ここ最近忙しかったからのう。疲れもたまっておるじゃろ」
「済まんな。街道をあんな風にしてしまって」
「ほっほっほっ、なあに気にするでない。相手が相手じゃったのじゃからな」
「そう言われると、少し安心する」
ウェリスはふっと表情を緩めると、床を滑るようにしてオズワルトの背後に回り込んだ。
「どれ、肩でも揉んでやろう。こんな感じでいいか?」
ウェリスは恐る恐るオズワルトの肩に手を添えると、親指にわずかな力を込めた。
精霊は人間より高い筋力を持つために、こういう細かな作業は苦手な部類に属する。
ウェリスは細心の注意を払いながら、オズワルトの固くなった肩を揉みほぐす。
「うむ、なかなか良いものじゃな。昔は儂の方がやってばかりで、気持ちが良いのかようわからんかったが」
「よく言う。あの頃はまだ尻の青い坊主だったではないか」
「それはもう六〇年以上は前の話じゃろうて。今ではこの通り、ただの老いぼれたじいさんじゃよ」
「なにが老いぼれだ。現役の時以上の技量を身に付けておきながら。この老獪め」
「それはほれ、必要じゃからじゃよ」
オズワルトは首を傾け、背後のウェリスを見やった。
出会った時と寸分違わぬ、浮き世離れした美女の姿を。
荘厳であって儚く、蠱惑的でありながら気高い、一目見た瞬間から恋い焦がれていた一人の女の姿を。
「この学院の者全てを守るには、のう」
オズワルトは手を伸ばすと、ウェリスの頭をそっと撫でた。
「殊勝になったものだな。あの時の坊主も」
「そのせいで迷惑をかけたからのう。お前たちには」
「気にするな。それに、少しは弱い方がお前も良かろう。守り甲斐があってな」
「ほっほっほっ、否定はせんさ」
オズワルトはイスから立ち上がると、開け放たれた窓の方へと歩み寄り、明るい夜空を見上げた。その横に、ウェリスも並ぶ。
「死人は出んかったが、今回は完全に儂の失態じゃ」
「いや、お前はよくやった。お前以外の誰にも、同じ真似をできはしまい」
二人は無言で夜空を見上げる。月明かりが真っ暗な室内を照らし、寄り添う影を作り出す。
手を伸ばせば届きそうな星の運河は、しかし決して届くことのない遠くへある。
まるでオズワルトをあざ笑うかのように、ずっとずっと遠くに。
「そうだ、最近忙しそうにしていたからな。頃合いをつかめずに、渡せずにいたのだが」
ウェリスはそう言うと、不格好な紙の束を差し出した。
バラバラのサイズの羊皮紙に、記号のような文字列やレイゼルピナの文字が羅列された、一見して子供の落書きを集めたのかとも思える代物だ。
「まったく、奴らそんなものまで盗んでいたのか」
「私と永久にありたいと、お前が奮起した証だからな。私にとっては、何物にも代え難い宝だ」
だが、その落書きの持つ力の強大さを、オズワルトもウェリスも重々承知している。
これは既存の魔法をはるかに凌駕する、禁断の力。
こんな物を、世に出すわけにはいかない。
例え、本物もまがい物であったとしても。
「これを狙っておったと言うことは、奴らの狙いは」
「恐らくは、“パピルス文書”だな」
ウェリスの言葉――“パピルス文書”という単語に、オズワルトは遠い過去の悲劇を思い出す。
すいません、間に合いませんでした。いきなり謝って何の事だかさっぱりな読者様もいっぱいいることでしょう。八月中に十一話投稿するとか言ってたのに、できませんでした。理由はあれです。スピンオフ書いてたり、タイトルロゴやバーナー作ったり、文化祭で頒布する小説の原稿の中間報告が今日だったりしてなかなか書けなかったせいです。それでもなんとか、気力だけで十話を書き切れたのは、まだ良かった(のか?)。
そんなわけで、初めての人初めまして、お久しぶりの方、毎度のことながら待たせてしまって申し訳ない。蒼崎れいです。なんだかんだで、本作を連載してちょうど一年になります。早いものですね、一年。作中まだ二ヶ月しか経ってないのに。今回は大きく変化した昶とレナの関係らへんを描いてみました。
ただ、急展開過ぎないかとか、レナが可愛すぎないかとか色々悩みましたが、結局突き進みました。お楽しみいただけたら幸いです。あと、書いてて思ったんですがコメディパートのセンナさんが最強すごて書いてて笑ってしまいました。あの人は放っておいたら大変なことになる!
ここからは私ごとになりますが、なんとか無事単位を全部取得できました。よかったです。自然気胸と感染症で一ヶ月入院して、実技科目もあったので非常に不安でしたが、なんとかなったようです。 それでは、また次回お会いしましょう。