第九話 一夜明けて…… Act05:苦悩
ネーナのベッドを包み込んでいるカーテンをくぐり、昶は勢い良く医務室の扉を、
「痛ッ!?」
開けようとして、なにかにぶつかった。
ゴツンっと、硬質的な音と共に、可愛らしい悲鳴が一つ上がる。
それは昶も聞き慣れた、と言うよりついさっきまで会話を交わしていた女の子の声だ。
一瞬遅れてレオンが隣に並んだところで、昶はもう一度そろりと扉を開ける。
「痛いじゃないのよ、もぉ」
二人の目に飛び込んできたのは、尻餅をつきながら、両手で額をさすっているシェリーの姿だった。本当に痛かったのだろう、目がうっすらと潤んでいるのがわかる。
「わ、悪い……。でも、なんでここに?」
「レナ追いかけて来ただけよ」
「レナが?」
シェリーに言われて昶は周囲を見回す。が、レナの姿はどこにも見当たらない。
「レナさんなら、あっちに」
アイナはレナの走り去って行った方向を指差すが、やはりレナの姿はなかった。
本当に走って行ったのなら、自己ベストを軽く更新していることだろう。
「アイナまでいたのかょ」
なにしに来たんだかと内心あきれつつも、昶はなにがあったのか問いかけた。
とにかく情報をまとめないと、いきなり過ぎてこんがらがりそうだ。
「で、なんで二人がここにいるんだ?」
「レナがね、あんたが調子悪そうにしてたからって、心配になって見に来たのよ」
――あのレナがねぇ。
自分で思っていた以上に心配をかけていたことを、昶はすまないと思った。
前回のように、気絶している所を見つけられるなんて醜態はさらさずに済んだ。そう思っていたのだが、レナに抱きついたまま寝ていたのだから、結局は一緒だったのであろう。
今度からは意識を失わないよう、しっかり気を張っていなければなるまい。
「で、レナをからかいに付いて来たわけか」
「当ったりぃ!」
「私は違いますよ!? 私はちゃんと、アキラさんのこと心配してましたから!」
一緒にされたくないと、アイナは大慌てで否定した。腕をぶんぶん振るくらい、必死になって。そんなにされなくても、昶はわかっているつもりだ。
もっとも、シェリーの方も口からでまかせを言っただけで、内心は心配していたのだが。だが、それを素直に表すシェリーではない。
「まあそれは置いといて、なんでレナがどっか行っちまうんだよ」
心配をかけてしまったことをすまなく思う一方で、心配してくれたことに関しては、素直に嬉しかった。
癇癪を起こして杖で殴られたり、機嫌が悪い時に、ちょっとしたミスをして杖で殴られたり、口答えして杖で殴られたり。
お世辞にも、良い主人とは言えない。傍若無人で無駄にエラそうにしてて、昶としては接しにくいタイプである。
だが、レナはいつだって、自分を偽ったりしない。
真剣に怒って、真剣に楽しんで、真剣に泣いて、真剣に喜んで――。
――――――――真剣に心配してくれる――――――――
始めこの世界に連れてこられて死にかけだった時、昶を救ってくれたらしい。
男なのに、自分の部屋に居させてくれた。
シュバルツグローブで“ツーマ”と戦って力尽きた時も、連れて帰って来てくれた。
特に“ツーマ”と戦って意識を失って、それから初めて見たレナの顔は、ともとても心配そうだった。
泣き出す一歩手前みたいな、そんな顔。昶が最も見たくない、でもとても気持ちが暖かくなる顔。
だから、言わなければならない。
――俺は大丈夫だ。
そう言わなければならない気がする。
「さあ。扉をちょこっと開けて、アキラ達の話聞こうとしただけだし」
「ちょっと待て」
今聞き捨てならない台詞を聞いたような。
「お前らもしかして、話を盗み聞きに来たのか?」
「いや、だって気になるじゃん」
「えへへぇ、すいません」
アイナはともかく、シェリーにはまったく悪びれた様子がない。
沈黙を守っていたレオンも、これには呆れた。
レオンがもしシェリーと同じ立場だったとしても、盗み聞きに行こうとは思わない。
相手は近衛隊だ。興味よりもまず、恐怖が先行する。
それを考えると、この二人の女子生徒の行動力は目を見張る物がある。まあ、無謀と言えなくもないのだが。
「まあいいや。さっさと追いかけるか」
「でもアキラさん、レナさんがどこに行ったか、わかるんですか?」
「大丈夫よ。アキラの勘は鋭いから。ねっ、アキラ」
が、シェリーの言葉とは裏腹に、昶は苦い顔をしていた。
「それがさ、この学院の校舎って、色々なところで魔法が使われてるから、すごいわかりにくいんだよ。同じフロアにでもいないと、関知とかできねえって」
………………………………………………………………………………。
「マジ?」
たっぷり現地時間で五秒ほど絶句してから、シェリーはようやく、その一言を口にした。
なまじ普段の昶を知っている分、衝撃も大きかったのだろう。
よく見知った者ならば、魔力や精霊素の気配だけで、誰かまで当ててしまうほど鋭いのに。
「とりあえず、レナさんの走って行った方に行ってみましょう」
「そうね」
アイナとシェリーは、レナの走って行った方向へと身体を向けた。
二人の見送ったレナの背中が、とっても悲しそうなで、とっても辛そうだったから。
あの扉を開けた一瞬に、いったいなにがあったのか。
なにができるかわからないけど、慰めてあげなきゃ。そんな思いが、シェリーの中にひとりでに浮かんでいた。
――――びゅう。窓が一枚も開いていない廊下を、一陣の風がすり抜ける。
はっと思って後ろを見ると、さっきまでそこにいた黒髪の少年の姿がない。
「ア、アキラさん、待ってください!」
アイナの叫ぶその先には、すでに廊下の突き当たりまで到達している昶がいた。
「アイナ、舌噛まないでね」
それを見たシェリーはアイナをひょいと担ぎ上げ、そのまま背おう。アイナがしっかり捕まったのかを確認すると、シェリーは人間には不可能な速度まで加速した。
終始無言に徹していたレオンは一瞬にして消えた三つの人影を見送ると、そのまま医務室の中へと消えていった。
レオンは医務室へ戻ると、再びネーナの側へ腰を下ろした。
「なんだったんだ、今の?」
「話を聞く限りだと、彼の主が来ていたようです。まあ、なぜか逃げ出したみたいなんですが」
「話を聞かれたのか?」
「いえ、内容までは聞いていないようでしたので。そのまま」
「まあいい。欲しい情報はいただけたことだし」
ぽふんと音を立てながら、ネーナはベッドに寝そべる。
勢いが強かったせいでギシギシとベッドがきしむが、ネーナは特に気にしない。
それよりも、考えなければならないことが山ほどあるのだから。
「確か、アナヒレクス家の小娘だっけか? あの、アキラ=クサカベの主は」
「はい」
「魔法の成績は?」
「筆記に関しては満点近いですが、実技に関してはまったくですね」
「そうか……」
ネーナはどうも、腑に落ちないと言った風に苦い表情を浮かべる。
普段は本能で生きてるようなネーナがこんな風になにかを考えるなんて、かなり珍しい。どころか、異常事態である。
王女殿下であるエルザが絡んだ時は別だが、それ以外にネーナが考え込むようなシーンは想像もつかない。
こういう表現が失礼なのもわかってはいるが、この人は本能で最適解を見つけてしまう。そう言う人なのだ。
もしかしたら、それがネーナのずばぬけた魔法や戦闘に関する才能と、なにか関連があるのかもしれない。
近衛隊に入隊してから初めてネーナが考え込んでいる様子を目撃したレオンは、そう結論付けることにした。
「いやな、昔アナヒレクス家の今の当主に、世話になったことがあるんだが。正確には、一時期かな」
「そんなことがあったんですか?」
「まあな。だがあの時は、そんな話は聞かなかったんだがなぁ」
「言い方は悪いですが、家の汚点は隠したがるものなのでは?」
レオンの意見も、もっともだ。
名家であればあるほど、その名にそぐわぬ実力しか持ち得ぬ者は、表から淘汰される運命にある。時と場合によっては、存在そのものも否定されることすらあるのだ。
確かにレナの現状を見る限りにおいて、その可能性を完全に否定することはできない。事実彼女は、実技科目においてネーナの筆記と同等の成績を記録しているのだから。
だが、ネーナが考えてるのは、それとはまるで違うようである。
「そりゃそうなんだが、オレは全員優秀なマグスになるだろうって聞いたぜ」
「いや、だからそれも、世間体を考えてのことでは?」
「それに、たぶんだが。オレは小さい頃、アナヒレクス家の小娘に会ってる。あのオレンジ髪の色には、見覚えがあってな。まだ本当にガキだったが、鳥肌立ったのを覚えてるよ」
ネーナが寒気を? そのことが、レオンには信じられなかった。
確かにレオンが知っているのは、学院に入学してからのネーナだけだ。それ以前になにがあったのかは、これっぽっちも知らない。
だが一つだけ確かなのは、その当時からネーナの強さは常軌を逸していたことだ。
入学初日から二年生といざこざを起こすと言う、前代未聞の騒動があったのである。結果は、新入生のネーナが二年生を一方的に叩きのめすと言う、正直信じられないものだった。
しかもその二年生が、学年でも上位に入る実力者だっただけに、教師陣も大層驚いていたようである。しかも、先に手を出したのは二年生の方だったとか。
そんなネーナが、寒気すら感じたと言うのだ。
まだ幼かった、当時のレナであろう子供に。
「まあ、思い過ごしかもしれねぇけど、気になってきたなぁ。時間があるようなら、調べといてくれ」
「了解しました」
ネーナは眠くなったのか、あくびをかみ殺しながら意識を深い闇の深淵へと沈めて行く。
どうせ仕事が始まれば、こんなこともできなくなるだろう。ネーナは自分で思っていたよりも早く、自らの意識を手放した。
グレシャス家に伝わる秘術――肉体強化術――は本来、血の力を解放した昶の身体能力に勝るとも劣らない力を有している。
昨日の戦闘で本調子でない昶なら追い付けると思ったのだが、実際に追い付いたのは中庭だった。
アイナを背負っている分を差し引いたとしても、シェリーと昶の間にはまだまだ大きな差があるらしい。
二人よりも先に中庭まで来ていた昶は、立ち止まったまま静かに目をつむっていた。
恐らく、レナの気配を探っているのであろう。
昨日、初めて“魔力を感じる”ことができたシェリーは、その時のことを思い出していた。
必死になってようやくできたことが、昶にとっては息でもするかのように簡単にできてしまう。昨日も、自分達の居場所を一瞬で言い当てたらしい。
朝の練習に付き合ってもらってから、一ヶ月以上経つ。だが、差は縮まる所かむしろ広がっているような気さえする。
最初は魔法が使える分、本気になれば自分の方が強いだろうと思っていた。
だが色々な出来事を経験するにつれ、それは誤りだったと気付かされた。
シェリーが速くなれば、昶はそれ以上に速くなる。
闇精霊使いと、真正面から渡り合える。
高位のマグスにしかできない、魔力を察知する能力がある。
「あっちか……」
――悔しい……。
それが、シェリーの本心だった。
レイゼルピナ有数の名家グレシャス家の嫡子に生まれ、不自由のない充実した毎日を送っていた。
両親から受け継いだマグスの才覚と、魔法の技量を伸ばせる最高の環境。
同じレイゼルピナ有数の名家で、良縁なアナヒレクス家の同い年の親友。
父親の指導が厳しいのを除けば、不満なんてなにもなかった。
努力すればするほど、研鑽を積めば積むほど、それに見合った成果が返ってきたのだから。だからシェリーは、立ち止まることなく努力を続けた。
無論、苦難なことが、なかったわけではない。
ある日を境に大事な親友が心を閉ざしてしまった時は、本当に悲しかった。
また仲良く遊びたくては、心を開いてくれるよう、必死になって頑張った。
アナヒレクス家に泊まり込んで、時間の許す限り親友の側について、ずっと語りかけた、ずっと話しかけた。
例え相手にされなくとも、視線さえ向けてくれなくとも、元に戻れる日が来るのを信じて。
「あっちですか? 女子寮の方角ですねぇ」
そして、一年が経とうとした時、その日がついに来た。
少しずつではあるが、前のように話せるようになったのである。
シェリーの努力は、最高の形で報われたのだ。
多大な努力の結果とは言え、シェリーはこれまでの短い人生で、自らの望む結果を勝ち取って来たのである。
だが、今回ばかりは、超えられる気がしなかった。
草壁昶。召喚の儀の時、どこからともなく現れ、今は親友のサーヴァントとなっている、この少年には。
他人になかなか心を開けなかったレナが、素直に感情をぶつけられる相手が増えたのは確かに嬉しい。独特とは言え剣技もなかなかのもので、自分の練習に付き合ってくれているのに、感謝しているのも確かである。
シェリーとしては、剣技だけでいつかは昶を超えるつもりで修練を積んでいた。
だが、昶という人物を知るほどに、それが無理なんじゃないかと思ってしまう。否、思わざるを得なくなってしまうのだ。
黒い炎を操る生徒を見た時、レナをこんなにして許せないと思う一方で、それと同じくらいの恐怖も感じていた。
闇精霊と言う、知ることすら禁止されるほどに強力な力を相手にしようなど、正気の沙汰ではない。
事実、王女殿下の直衛を任されていたであろう人も、引き分けるので精一杯だった。
だが、昶は違った。
昶は、あの黒い炎を操る生徒を、完全に押し負かしていたのだ。
いくら憎くても立ち向かおうとは思わなかったのに、昶は違った。
憧れはある。だが、同時にやっぱり悔しい。
歳もほとんど変わらないのに。自分よりもずっと強くて、ずっと優しいから。
「自分の部屋にいるんでしょ。行くわよ、アキラ、アイナ」
シェリーは負の連鎖に陥っていた思考を追い払うと、先陣を切って走り出した。
アイナは振り落とされないように必死になって、シェリーの首にしがみついていた。
昶もシェリーも高位の肉体強化術を使っているので、常にはないような速度でどんどんと景色が後ろに流れていく。
長い階段を、十段くらいまとめて跳んでいる。
二人とも、そんなにレナのことが心配なのだろうか。
普段は使わない肉体強化術を使ってまで、早く駆けつけたいくらいに。
――……羨ましいなぁ。
アイナは、本心からそう思った。
レナは自分にないものを全部持っている。
国内有数の名家の令嬢で、座学に限ってだが成績も優秀。
仲の良い友人が何人もいて、そして自分が気になっている人を、いつも側に連れている。
初めて会った時は、怖い印象があったけど、それもすぐに消えた。
授業中は教科書を貸してくれたし、授業の後は学院を案内してくれた。
自分の歓迎パーティーを開のに、一役買ってくれたと言うのも聞いた。
飛行実習の時、川に落ちた自分とシェリーをリンネと一緒に助けてくれもした。
優しくて、強くて、それでいてそれを誇らない。
格好いいと思うし、心から尊敬している。
でも、そればかりではない。
「レナ、中にいるんだろ!」
「レナ、なにがどうしちゃったの? お願いだから話して!」
部屋の前にたどり着いた昶とシェリーは、扉をドンドンと叩きながらレナに言葉を投げかけていた。
――……でもずるい、ずるいよそんなの。
それが醜い嫉妬だと言うことも、わかっている。
でも、だからと言って、これは不公平すぎやしないだろうか。
必死で頑張っても、報われなくて。そんな時間が、十数年も続いて。ようやくこの国の王様から認められて、魔法学院に入学したのに。
だが、レナはそれを、さも当たり前のように享受している。
自分が十数年かけて、ようやく手に入れたものを。生まれが“名家だったから”、と言う理由だけで。
もちろんこの学院の生徒は、誰もが“超”の付くほど裕福なのはわかっている。
だが、だとしてもアイナはレナのことが羨ましかった。
「うっさいのよ! いいから一人にして!」
昶の必死になっている顔が、アイナにはとっても辛かった。
果たして自分にも、あんな顔をしてくれるのだろうか。
不器用だけど優しくて、ヒーローみたいに格好いい、大好きな、大好きかもしれない男の子。
――多分してくれるんだろうな。だって、アキラさんはとってもとっても優しい人だもん。
実際のところ、アイナ自身もはっきりわかっていない。
昶を“好き”と思う、この気持ちが、どう言う意味の“好き”なのか。
そもそも、この気持ちが“好き”なのかさえ、アイナ自身、はっきりわかっていない。
初めて会った時は、レナの隣にいるだけの男の子だった。
常にだるそうな感じで、レナに時折小突かれては嫌そうな顔をして。
それで、次に会った時は、自分達を助けに来たヒーローだった。
普通なら討伐隊を編成するような、巨大な鳥竜――フラメル――をあっという間に黙らせて。
闇精霊に侵された、自分の命の危機を救ってくれた。
あの時は、すごく痛くて、いたくて、イタくて。死んじゃうんじゃないかと思った。
でも、それを昶が助けてくれたのだ。
すぐに治療も受けられたので、今もこうやって、普通に生活できる。
うっすらと傷は残ってしまったが、これが昶が自分を救ってくれた証拠。そう思えば、なんともない。
「ほっとけるわけないじゃない!」
「シェリー、開けるぞ」
レナのことは好きだが、羨ましくて、妬ましい。
でも今は、やっぱり心配だった。
あんなに取り乱したレナの姿は、アイナも見たことがなかったから。
昶はジャケットのポケットから部屋の鍵を取り出すと、レナの部屋の扉を開いた。