第一話 異世界 Act02:魔法の世界
草壁昶は、世間一般で言う普通の人間とは違う世界を生きている。現在では退廃の一途を辿りつつある魔術師──正確には陰陽師の家系に生まれた人間。それが草壁昶という少年だ。
過去には土御門家すら脅かすほどに繁栄した、悪鬼調伏を専門とする法師陰陽師一族の一つ。その中でも草壁と呼ばれた家系の血を引いている。
日本のどこかにある多重結界で隔離された山里、そこが昶の生活している隠れ里だ。
その秘匿性の高さゆえ、学校に通ったことはない。勉学は家庭教師のような感じで、全て自宅で行っていた。今年の正月からは“こうこうせい”の内容を学習していた所である。
更には家事全般に勉学に魔術となんでもそつなくこなす兄と、術に関しては天才と言われている姉を持つ。
そして、自身も草壁の──それも宗家の血のおかげで、兄姉を超える強大な霊力が備わっており、将来を有望視されていた。
だがとある事故が原因で術者としての技量は伸び悩み、二人との差は広がる一方。ついには、宗家でも史上最弱とまで呼ばれるようになってしまったのである。
その一方で、兄や姉でもまだ読んだことの無いような魔術に関する書物を、幾つもの読みあさっていたりする。なにせ読書は、人を傷つけることがないから。
そんな時に持ち出されたのが、ここにくる直前に行われた妖刀を賭けた試合である。試合の内容は、魔術による直接対決。
草壁宗家の次に強力な力を持つ、分家からの挑戦である。
兄姉はそれぞれ宝刀を所持しており、村正は世襲制度により昶の父から彼に渡る予定だったのだ。
昶の力を軽視した分家の者は、村正の継承権を賭けた試合でこれを奪うつもりだったのだが、そこは最弱とは言え宗家の者。辛くも勝利を収めた昶の手に、無事村正が渡ったと言うわけである。
なんて自分の生まれと、直前のまでの経緯を思い浮かべたのだが、
『言えねえ……』
とりあえず、ここは魔術に関する場所ということは理解出来た。それと向こうはこっちのことを普通の人間だと思っているようである。
ならば、ここは隠しておく方がいいだろう。その方が今のところ面倒がなくて済むし、“魔術師とは自らの素性を隠しておくもの”という慣例もあることであるし。
「名前は草壁昶。日本の出身だ」
「クサカベアキラ? 変な名前ね。それにニホンってなに? 村の名前?」
──あぁ、そういえばここって外国なんだった。
なんてバカなことを考える昶。よくよく考えれば、外国だからって日本を知らないなんてことはないだろう。よくは知らないが、世界屈指の経済大国なのだから。
まずは、新鮮な空気を吸ってから、頭の中を整理しよう。そう思い至り、昶は窓の方へと向かうのだが、
「はぃ……?」
そこで、あり得ないものを目撃してしまった。
間違いかと思い、二度三度まばたき。加えてごしごしと目をこすってみるのだが、結果に変化はみられない。
「……でか」
「『でか』って、なにがよ?」
「なにって、月に決まってんだろ……!」
夜空に浮かぶ月は、地球と同じ淡いレモン色の光を放っている。しかし同時に、その大きさは昶が見慣れている月とは大きさが明らかに異なっていた。
目算で二倍、いや三倍弱はあるだろう。それほどまでに巨大な月だ。
強力な霊地、あり得ない数の龍穴、巨大な月、知らない国名、そして相手は日本を知らない。これらを考慮した時に、浮かび上がることとはなにか。昶はそれに対して一般人としても、また魔術師としても常識外れな見解を導き出した。
「……もしかして、異世界なのか? ここ」
古い文献──それも数百年単位のものになるのだが、確かにそういった資料が存在する。異世界の存在を臭わせるような、そんな資料が。
そんな御伽噺の記述を残しておくほど、術者の家系は甘くない。長い時間の中で、知らず知らずの家に消えていくものがほとんどである。
だが例外的に、そのような記述を残している家系もある。昶の家は、偶然にもそんな記述を残していた一族の一つにすぎない。
もちろん昶自身も、こんなことが起こるまでは微塵も信じてはいなかったが、こうなってしまっては信じざるを得ない。
「あんたなに言ってるわけ? さっぱり意味が分かんないんだけど。それと頭かかないでくれる、あんたの髪が抜けると嫌だから」
「うるさい。ここが俺のいた世界とは、別の世界じゃないかって思っただけだ。それと、俺の名前は昶だから」
「別の世界って。やだ~、わかってたけど、やっぱあんたって頭おかしいんじゃないの?」
実に失礼な言い草であるが、もっともな意見である。
昶としても、相手が『私は異世界から来ました』と言われれば相手の頭の方を疑う。
「そもそも、俺のいたとこの月はあんなにでかくないし、霊的な力もここまで強くない。てか、何気に人の悪口言うの止めろ。友達できないぞ」
「月が大きいって、やっぱあんた頭おかしいでしょ。あたしが生まれた時からず~~~っと、月はあのサイズよ。それに“れいてきなちから”ってなに? あと、失礼なのはあんたも一緒でしょ」
結果、どっちも失礼であった。
「はぁ、わかったわかった。さっき言ったことは全部忘れてくれ」
月について議論した所で無駄と悟った昶は、今度はズボンのポケットをまさぐった。
サイフは無いが、こいつなら証拠になるはずである。
「なら、こいつならどうだ?」
最近は里の外に出る頻度も高くなってきたので、去年辺りから持たされた携帯電話だ。色は平凡なピアノブラック。姉が買ってきたもので、メーカーはよくわからない。
それも太陽光で充電できる、けっこう新しいやつだ。と言っても、里にいる時は式神が飛んでくるので使っていない。今年に入ってからは一回も使った覚えがないので、バッテリーは十分にもつであろう。
折りたたまれた携帯電話を開くと、液晶画面がパーっと光り輝いた。
「すごい綺麗……。ねえねえ、これっていったいなんなの?」
完全に科学技術の産物なんだが、レナにはわからないようだ。てことは、この世界は科学技術に関してはかなり遅れているのだろう。
よく見れば、この部屋に電子機器の類は見られない。
せめてテレビくらいないと暇でしょうがないだろうと思ったのは、昶の素直な感想である。
「携帯電話。遠くの人と話ができる機械だよ」
「“けいたいでんわ”? なにそれ、もしかして新しい魔法かなんか?」
「だから違うっての。魔術じゃないから。科学だから」
「“まじゅつ”? 魔法の間違いでしょ。それに、レイゼルピナにはそんな便利な機械なんてあるわけないじゃない」
やはりと言うかなんと言うか、部屋の様子から見た通り、科学という分野は未発展のようである。
「じゃあ、遠くの人と連絡を取りたい時はどうすんだ?」
「手紙以外になにがあるっていうのよ」
──あぁ、そういうやつですか。
特に迅速な意思疎通が必要であったり、大量の資料を閲覧あるいは出力するのに、電話やネットワーク環境は必要不可欠である。
郵便局を経由すれば到着まで数日はかかるし、式神にして飛ばしたとしても数時間はかかる。そんなどうしてもタイムラグの発生してしまう手紙より、電話やインターネットの方が有用なのは火を見るより明らかだ。
そんな日本では廃れて久しい連絡方法が、未だに最前線で活躍しているとは……。現代日本とは軽く百年以上の技術差があるようである。
「はぁぁ、もういいや」
提示する証拠のことごとくを否定された昶は、自分が異世界から来たという証明をするのを諦めた。それよりも、この世界の情報について聞いた方が無難であろう。なにせ、変える算段など全くつかないのだから。
「……えっと、ここって学校だよな? 制服着てたし」
「そうよ。正確には、ここは王立レイゼルピナ魔法学院。そこの女子寮だけど。あぁ、女子寮だからって緊張しなくてもいいわよ。寮長には許可を取ってあるから」
女子寮という言葉に引け目を感じるがそのことは置いといて、昶は頭の中に聞きたいことを思い浮かべる。
まず、この世界で“魔法”と呼ばれている魔術体系が、いったいどんなものなのかを知らなければならない。それによって、今後の身の振り方も変わってくる。
「その魔法ってのは、誰でも勉強できるのか?」
「誰でもできたら、学校なんていらないでしょ。それに、ここで魔法を勉強できるのは一部の人間だけよ」
「一部って?」
「まあ、ほとんどは貴族ね。あとは、商人の子供とか。そうね、大きな商社の社長や重役の子供なんかかな」
「いかにも金持ちって感じだな、それだけ聞くと」
「なに言ってんの。お金ないと、魔法みたいな専門性の高いものが勉強できるわけないでしょ」
結局は金なのね、と愚痴をこぼす昶であった。
もっとも、“魔術を学ぶ教育機関”そのものが、昶にとって極めて特殊な存在だったりするのである。現に昶は、里の者──具体的には父親から教わっているし、他の術者達も同門の先達たちから教わるのが、少なくとも日本の一般的なスタイルだ。
──あ、でも姉さん今年から大学行くって言ってたっけ……。
まあ、なにごとにも例外はあるのだが。
「じゃあマグスってのは、金持ちばっかなわけね」
「例外はいくつかあるけど、おおむねそんな感じで合ってるわ」
なるほど、と昶はうんうんと首を縦に振った。
しかし、マグスは例外なくお金持ちじゃないと成れないというのは、なんとも世知辛い世の中である。
「それよりも、あんたがさっき言ってた“まじゅつ”、って、いったいなんなのよ?」
レナに言われ、昶は頭の内に思い描く。
昶の世界では、魔法と魔術はきっちりと区別されている。
血筋による天と地ほどの差はあるが、魔術とは突き詰めれば学問であり学べば誰しもが会得できるものである。実際に行使できるかどうかは別として、人は理論的に誰しも魔術を扱える存在なのだ。
それに対して魔法とは、時として“神の奇跡”とも形容されるほどの途方もない御業を意味する。
例えば無から有を作り出す。例えば時間を跳躍する。例えば死者を蘇らせる。
こういった、“如何なる手段を用いても達成不可能な事象を現実のものとする技術”を魔法と呼ぶのである。
また魔術は、人が魔法を追求し続けた末に辿り着いた技術体系にすぎない。故に魔術は、圧倒的に魔法に劣るのである。
ではなぜ、昶の世界では魔法より魔術の方が広く世界に普及しているのか。
その理由は、ひとえに習得の困難さに他ならない。魔法を行使するには、それこそ人の一生では足りないほどの膨大な知識と技術が要求されるのだ。
「あ~、忘れてくれ」
とまあ、魔術について説明しようと思ったら、これだけのことをわかりやすく説明せねばならないが、そんな面倒なことやってられない。
それに、
──どうせ言ってもわかんねえだろうし。
と、若干失礼なことも考えてみたり。
「ふ~ん、まあいいわ。ねえ、ちょっとそれ貸して」
曖昧な返事しかしない昶に焦れたレナは、本人の了解も無く携帯電話を昶の手からひったくった。
実は、最初に見た時からけっこう興味があったのである。はしたないので(と本人は思っている)顔に出さないよう注意はしていたのであるが、いざ持ってみるとそんな注意はどこぞへ吹き飛んでしまったらしい。
「乱暴に扱うなよ、壊れやすいんだからな」
「むむむぅ……。ねえ、これってどうやったら動くのよ」
ボタンという物がわからないようで、どこをどう触れば動くのかわからないようである。
と、色々な所をぺたぺた触っている内に、指がマナーモードのボタンに触れてた様で、
『ブゥーーーン……』
「ひゃっ!?」
レナは正体不明の物体を放り投げた。
「っとっと!? 危ねえなぁ。壊れやすいって言っただろ」
「いい、いきなり動いて、ち、ちょっとびっくりしただけよ!」
「驚くのはまだ早いぜ。動くだけじゃなくてなぁ……」
今度はライトのスイッチを長押し。
「わっ、何これ、眩しいぃ!?」
「明かりもつくんだぜ」
レナの目の真ん前で、明かりをつけてやった。
写真撮影用の強烈なライトが、レナの目の中に飛びこんだ。
「いだ!?」
「あにすんのよ、このバカ猿」
鳩尾を、爪先で蹴り上げられた昶。無防備な状態だっただけに、これは悶絶ものである。
と言うより、普通の人間ならこんなものでは済まないだろう。
「……す、すいません」
「『もう二度といたしません。レナ様お許しください』でしょうが」
しかも頭まで踏まれる始末。そこまで悪いことしたのかと抗議したいのはやまやまなのだが、またスカートの内側が見られたので、これはこれで有りかも?
「ん? あっ!? ちょっと何処見てんのよ!」
ようやく気付いたらしく、レナはスカートの裾を押さえて後ずさる。
さすがに、二回も上手くいかないらしい。
「あ~ん~た~ね~……」
「すいません、以後二度としないので許して下さいレナ様」
いかにもな、しかもかなり大型の杖をつきつけられれば誰だって怖いだろう。しかも、アナヒレクス家は超実力派だとか豪語していたくらいだ。
絶対に逆らわない方がいい。
「ふ、ふん、やればで、できるじゃない」
なんとか体裁を保とうとしているレナだがが、顔を真っ赤にしたその姿がかわいくて昶は見入ってしまった。一応は、許してくれたようだ。
と思ったとたん、視線が合ったので慌ててそれを外し、本題に戻る。
「ま、まあその話は置いといてと、俺の世界ではほとんどの人間がこれを持ってる」
「みんなこんなの持ってるの? 嘘じゃないでしょうね」
「嘘ついてどうすんだよ。俺はまず信じて欲しいだけだ」
「でもいまいち信じられないのよね。今まで、召喚の儀で別の世界から呼び寄せられたサーヴァントなんて、聞いたこともないわ」
「俺だって別の世界があるなんて信じられねえよ。でもこうして来ちまったんだから、信じるしかねえだろ」
二人の視線が、バチバチと火花をとばした。
「ま、あんたがそう言うなら、そう言うことにしといてあげるわ」
「結局信じてねえのかよ」
「そう簡単に、信じられるわけないでしょ。そんな話」
と、しかめっ面で昶の話を聞いていたレナが、不意に『あ……』とつぶやいた。
「そうだ忘れてた。あんたが目を覚ましたら、学院長室に連れて行くよう言われてたんだった」
レナは部屋のカギを持って扉をあけると、昶の方を振り返る。
「付いて来なさい」
ろうそくに灯した火を頼りに、二人は学院長の所へと向かった。
昶の通された部屋は、学院長室と言うだけあって嫌味っぽくはない、しかし上質な調度品が必要最低限だけ備え付けられていた。
学院の記録を記したノートと、それをしまう本棚。数人の肖像画に観葉植物、来客用のソファとテーブル。そして学院長の仕事机。
名前をオズワルトと言うらしい。
「すまないねレナくん。彼の看病をしてくれたそうだね、ありがとう。大変だったろう」
「いえアナヒレクス家の長女として、当然の責務を果たしただけです」
「あ~、すまないが君は外で待っていてくれないかな? 彼と二人で話がしてみたくてね」
「わかりました。それでは、失礼します」
レナは自分の部屋にいた時とは三六〇度反対の礼儀正しい態度で、学院長室を後にする。
昶はそのあまりの変貌ぶりに、少々というか、かなり驚いた。さっきまでの乱暴さは影も形もない。
「どうしたのかね? そのように呆けた顔をして」
「いえ、さっきまでと雰囲気が全然違ってたんで、びっくりして」
「ふぉっふぉっふぉっ、まあそうじゃろうて。あの子は自分の名に誇りを持っておるからのう」
オズワルトは、楽しそうにレナのことを語り出した。まるで、自分の孫の話をしているかのように。
年齢は分からないが、白い長髪に同じく白い見事な髭。両方とも、鳩尾のあたりまでありそうだ。
座っているので身長もわからないが、昶より幾分かは高いであろう。
第一印象は、そのまんま好々爺といった所か。顔に刻まれた深いしわが、優しげな雰囲気をよりいっそう強調している。
「身分が上の者には最上級の敬意を払い、下の者には威厳を持って応じ、か弱きものには分け隔てなく接する。あれはそんな子じゃよ」
「そうですか? 俺、今出て行けみたいなこと言われてるんですけど」
「ふぉっふぉっふぉ。まあ、なんとかなるじゃろうて」
目をつぶって、オズワルトは自慢の髭をいじり始める。大方、レナと昶とのやりとりを、まぶたの裏側で思い浮かべているに違いない。
「恐らくじゃが、そのまま素直に部屋を出て行こうとしたら、慌てて止めたじゃろうて。『どうしてもって言うんなら、考えてあげてもいいわよ』とか言いそうじゃな」
なぜか妙にリアルなのだが、それはひとまず置いておこう。
「どう見ても、プライドの塊にしか見えませんけどね」
「そうでもないぞ少年。死にそうになった君を助けるとは言え、サーヴァントと交わすはずの大切な契約まで、使ってしまったんじゃからな」
「…………」
昶は意味がわからなかった。思考がショートした、という表現の方がしっくり来る。
昶とて、魔術師の端くれ。“契約”という言葉が、どういう意味を含んでいるのか。それくらいは、知っているつもりだ。
それはお互いが、お互いの肉体的・精神的に深い部分で繋がる、ということと同義である。
なんでレナが、見ず知らずの自分にそんなことをしたのか、昶には理解できなかった。
「どうやら、治癒魔法でも治せないような重傷を負っていたらしくてな。契約することで君の治癒能力を上げようとしたらしい。契約に関しては未だ解明されていない部分も多いが、わかっていることもあるのでな。その一つに治癒能力の向上があるのじゃよ」
人外の力を持つ草壁の血を以ってしてもだめだったということは、普通の人間だったらとっくの昔に死んでいただろう。最悪、即死でもおかしくはない。
「なにやら、レナくんが召喚をしようとした時に突然爆発が起きて、その中から君が現れたとレイチェル先生から──その時の担当の先生から報告を受けておる。突然空間に高密度の魔力が集まって、暴発したようじゃ」
「あいつ、そんなことのために俺なんかと」
「それに、それがあったのは昨日の出来事じゃ」
「ええ!?」
──ってことは、丸一日寝てたってことなのか?
改めて突きつけられた事実に、ショートを起こした思考は完全にフリーズしそうになった。そうならなかったのは、まったくの偶然である。
「その間に、君の看病をしとったのも彼女じゃよ。包帯を変えたり、身体を拭いたりのう」
「……見た目ほど悪い奴じゃないってことか」
「して、どうじゃった?」
「へ? なにがですか?」
「じゃから契約した時じゃ」
学院長先生の目はいたって真面目だ。今更契約した時のことを聞いて、意味があるのだろうか。
「契約とは、召喚者と召喚された側の粘膜的接触、あるいは体液やそれに類する物の交換が必要での、一番手っ取り早いのが接吻なんじゃよ。いくらか言葉をつむぐ必要はあるがの」
「あぁ、あれが契約だっのか」
とはいっても、口の中は血だらけで、全身の感覚がなくて、血まみれの手をぐっと握り締めるレナの姿くらいしか覚えていなかったりする。
「して、ちっすの感触はどうじゃったのじゃ?」
「……は?」
「じゃから、レナくんとちゅ~をしたのであろう? どうじゃったと聞いておるのじゃ!!」
──いい歳して、ガキみたいな質問する爺さんだなあ。
残念ながら、そんな記憶はどこにもない。
もしあったなら、脳内のメモリー(永久保存用)に保管されているはずである。
なにせ、見た目だけなら完全にタイプだったのだから。
「気絶してたから、覚えてませんよ」
「な、なんじゃと……」
学院長の露骨ながっかりぶりは、昶の目からも明らかだった。
そんな感じに学院長が盛大にがっかりしていると……、
「あれは仕方なくやったのよ! 仕方なく! 粘膜の接触が最も簡単かつ迅速に行えるって講義で言ってたから、それだけよ!」
重厚な扉を開け放ち、顔面を真っ赤にしながらレナが大絶叫。全てを言い終えると、はっとなって大慌てで扉を閉めた。
ばたん、という大きな音に顔をしかめる昶。留め具が壊れないか心配になる衝撃だったが、壊れてはいないようである。
「そういえば忘れておったわい。君、名はなんと言うんじゃ?」
普通は最初に聞くもんじゃないのか、と突っ込みたい気持ちを抑え昶は口を開いた。
さっきのレナの怒号を聞いたせいか、もはや突っ込む気力すら湧いてこない。それになにより、レナと比べたらずっと接しやすそうだ。
「草壁昶です。昶と呼んでください」
「アキラか、変わった名前じゃなぁ。して、その腰の剣は発動体かね?」
やはりオズワルトも気付いたらしい。やっぱりこの世界でも刀を携帯している人は少ないのだろうか。
さっきのシェリーという少女は、ツーハンデッドソードを扱っているらしいが。
「すいません、発動体って?」
「発動体を知らんとな。はて、常識じゃと思ったのじゃがのぉ。まあ一言で言えば魔法を発動させるのに必要な物じゃ。儂ならほれ、この指輪かのう」
そういって学院長は左手を昶の方に向けた。そこには五指に各一つずつ、銀製のリングにサファイヤの埋め込まれた指輪がひっそりと輝いている。
「儂の属性は水じゃ。しかしこのサイズではちいとばかし力が足りんので、こうして五つも付けとると言う訳じゃ。それに五つもあれば一つくらい無くしても大丈夫じゃしの」
「発動体って、そういうことだったんですか」
なんとなく予想はついていたが、あれで術を起動するようである。
確かに陰陽師なら護符を使うし、ルーン魔術師ならルーン文字を刻んだカードなんかをよく使う。錬金術師なら呪物や触媒を他の術者より多用するし、他にも玉串やらヤドリギやら例を挙げれば切りがないが、魔術を行使するのにこのように何かを介することは珍しいことではない。
この世界では、発動体というのがそれに当たるのだろう。
さきほど会ったシェリーも、発動体という単語を口にしていたのでほぼ間違いないだろう。
「それと、もう一つ質問が」
「なにかね?」
「“さあばんと”って、なんですか?」
「あぁ、まあ言ってみれば、召喚者のパートナーと言ったところじゃな」
サーヴァント……、なるほど従者か。
「そうですか」
「まあ、君と話してみたかくて呼んだだけなんじゃよ、アキラくん。では、ちょっとレナくんを呼んでくれんかね」
「はい」
昶が学院長室を後にすると、入れ替わるようにして今度はレナが再び室内へとやってきた。
「なんでしょうか、学院長先生」
先ほど入室した時と同じように気品の溢れる見事な一礼を決めると、学院長の前まで歩み寄った。
「いやのう、アキラくんのことなんじゃがなぁ……」
オズワルトはそこで一旦言葉を切ると、よっこらせと立ちあがる。それから、目を合わせるのが気まずいのか、そのままレナの背を向けて窓の方を眺めた。
そんな不審なオズワルトの態度に、レナも目をしかめる。
「今学院には空き部屋がないんじゃよ」
「そうなんですか」
「あぁ。職員の部屋は既に定員でいっぱいで、教員の部屋も同じじゃろ。学生寮も部屋自体はあるが、スペースがなくてのぉ」
「思ったより、空き部屋ってないもんなんですね。こんなに広い校舎なのに」
そこで会話がぷつんと途切れる。まるで嵐の前の静けさのように……。
「すまんが、部屋の用意ができるまで君の部屋に泊めてもらえんかのぉ?」
「………………………………えぇっ!?」
オズワルトの言葉を理解するのに、たっぷり十秒くらいかかった。
「なんであたしなんですか! せめて男子生徒の部屋にしてください!」
まったくの正論である。
年頃の女の子の部屋に、どこから来た(正確には異世界から来た)のわからない男の子を泊めてくれなど。普通に考えれば天と地がひっくり返ったとしても考えられない。
「そ、そうは言われてものぉ……。他に部屋もないし、なにより今日まで看病していたではないか」
「それはそれ、これはこれです。そりゃ、住む所がないのは、かわいそうとは思いますけど」
だが、かわいそうと思う以上に不安がある。女の子ならまだしも、同い年の男の子と同じ部屋で寝るなんて。
いかがわしい目で見られるんじゃないかとか、衣類が盗まれたりしないかとか、そんな妄想がいくつも浮かび上がってきて、とてもじゃないが一緒の部屋なんてできない。
だが、これもまだ想定の範囲内。オズワルトは次の手を打って出た。
「そういえばレナくん。前期の単位、実技はほとんど取れなかったそうだね」
「……はい。アナヒレクス家の長女として、面目ないです」
「このままだと、来年の進級も怪しいそうだね」
うぐっ、と声が聞こえたような気がした。レナの第六感とも言うべきものが、今すぐ回れ右して立ち去るべしと言っている。
具体的に言うと、嫌な予感しかしない。
「せめて部屋が決まるまで、お願いできんかのう?」
さっきまで背中を向けていたのが、いつの間にかレナの目の前に。しかも柔和な笑みのおまけつきで、レナの顔を覗き込んできる。
「一応聞いておきますけど、断ったらどうなるんでしょうか……」
「そんなに聞きたいかえ?」
聞かなくてもわかる。
つまり、“学院長のお願い”を聞いてくれれば、もし進級が危なくてもなんとかしてくれる、と言う意味だ。逆に断れば…………下手すれば留年確定。
レナに選択の余地はなかった。
「はぁぁ、わかりました。でも、部屋の都合がつくまでですからね」
「おぉ、引き受けてくれるのか! さすがレナくん、儂が見込んだだけのことはある! では、よろしく頼んだぞ」
オズワルトの嬉々とした表情と反比例するかのように、レナの表情は曇天の空よりも深く沈んでいた。
レナが昶を伴って学院長室から離れたのを確認すると、オズワルトは教員達の部屋へと向かった。