第八話 戦闘開始 Act01:惨劇のホール
誰もが楽しみにしていた創立祭は、またたく間に混乱と恐怖に彩られる。凶刃に倒れるオズワルト、悲鳴を上げるエルザ、そして過去のトラウマにより気絶してしまったレナ。昶はこれまで感じた事のないほどの、強い怒りを感じていた。目的を果たした襲撃者、オズワルトを襲った闇精霊の使い手は、それぞれに撤退を始める。だが、其れを良しとしない者達がいた。
創立以来、レイゼルピナ魔法学院にて過去最大の戦闘が開始される。
人垣の中から、一人の女子生徒が弾丸のように飛び出した。
優雅な踊りや豪華な食事を楽しむ空間で、制服を着ている生徒は彼女一人だけだ。
天井を覆い尽くすほどのシャンデリアに照らされて、大理石でできた壁や床はその身を白く光らせている。
そんな反射された光の中に、一瞬だけ違う種類のものが混じった。
黒い光沢のあるそれは、クナイのような形をした鋭利な刃物。それが、シャンデリアの明かりを反射しているのだろう。
その刃物の切っ先は今、ある人物の腹部に深々と突き刺さっている。鳩尾まである白髭と白髪、全身の擦り切れた黒いローブをまとった老人――オズワルトに。
この学院、王立レイゼルピナ魔法学院の学院長を務める者の腹部に、深々と。
「イヤァァァァアアアアアアアアアアアアアアア!!」
一拍の間をおいて、老人の背後にいた少女が甲高い悲鳴を上げた。
少女は大量のフリルをあしらわれた、純白のドレスをまとっている。くせっ毛な黄味の強い金髪と、好奇心旺盛そうなくりくりとした青緑色の瞳が印象的な少女だ。
飛び出した少女の持つ刃物は、元々オズワルトの後ろで立ち尽くす少女を狙っていた。
それに反応したオズワルトが、自らの身体をその軌道上に移動させたのだ。
少女を、エルザ=レ=エフェルテ=フォン=レイゼルピナを守るために。
「しくじった!!」
身長が一九〇に届きそうな長身の女性は、激しく舌打ちしながら女子生徒の元へとかけだす。
彼女の名はネーナ。レイゼルピナ王国第一王女である、エルザの直衛を務める魔法兵である。
だがネーナよりも早く、その生徒の元へ向かう者達がいた。
燕尾服やドレスを身にまとった少年少女。そう、渦中のそばにいた生徒達だ。
飛びかかるのは、肉体強化の可能な生徒二人。後方には指輪や腕輪等の装飾品を発動体とする生徒が、すでに魔法の発動体勢に入っている。
狙われている女子生徒は突き刺したクナイを、オズワルトを押して引き抜き、そのまま斜め後ろへと飛び上がった。
そこへ入れ違うようにして、拳と踵が降り注ぐ。衝撃で床材の大理石が割れ、両手で抱えるほどの大きな破片が飛び散った。
少女が飛び上がったところを見計らって、待っていましたとばかりに大量の攻撃魔法が撃ち込まれる。
場所を考慮してか、全てが下位の呪文であったが、十人以上の生徒が放つ魔法の威力はバカにできない。
中位か、あるいは上位の防御呪文を発動させなければ、それらの攻撃呪文は少女の身体を喰い千切るだろう。
ほとんどの人間は、なにが起きたのかまだ理解できていない。
理解ができている一握りの人間は、少女の行く末を見守りながら次弾の準備を始めていた。
少女を取り巻く魔力が変化する。
ホール内でも片手で足りるほどの人間が、その変化に気付いた。
そして、連れて来られていたサーヴァント達も。
彼等の生存本能が警鐘をならしているのだ、あいつは、あの女は危険だ、と。
まるで空間そのものを侵蝕するかのように少女の魔力が溢れ出し、ついにその姿を現す。
「「逃げろぉおおおおお!」」
叫んだのはネーナと、そしてついさっきエルザに剣を受け取った少年、昶である。
その瞬間、空間に染み出した少女の魔力が、明確な力となって顕現した。
それは――――黒い炎。
本来存在しないはずの色をしているのは、それが火精霊でなく闇精霊の力を宿しているからに他ならない。
空間に突如として現れた炎は、少女に迫っていた攻撃呪文、そのことごとくを焼き尽くした。
それどころか呪文を発した術者を目指し、黒い炎は空間を犯しながら同心円上に急速に拡大していく。
「全員伏せろ!」
ネーナは力の限り叫んだ。
自分でさえ見るのは初めてなのだから、大半の教師や生徒があれを見たことあるはずがない。
諜報部の報告によれば、シュバルツグローブで闇精霊の使い手と一戦交えた強者がいるらしいが、通常の魔法であれを止めるのは非常に困難、不可能に近いものがある。
「マーシリアリウム!」
では、どうすれば止められるか。
「オレが相手だ、この女!」
簡単だ。物理的干渉を行い、術者の精神を乱せばいいのである。
ネーナは上位の防御呪文を一瞬で発動させた。
巨大な水の盾で黒い炎を防ぐと天井付近まで一直線に飛び上がり、空中に佇む少女に氷と風をまとった拳を叩き込む。水精霊と風精霊の力を同時に使用した全身武装鎧。超高難易度の魔力制御を必要とされる魔法である。
直撃を受けた少女は、殴られた反動で反対側の壁面にめり込んだ。
ドッと腹に響く音がホールを反響し、大理石の欠片がパラパラとフロアに降り注ぐ。
術者からの魔力供給が切れた炎は、盾を八割方灰にしながらもなんとか鎮火した。
少女は壁から身体を引き剥がすようにして悠々と立ち上がると、光のないワインレッドの瞳が目前に迫っているネーナを捉える。
「させるかよ!」
氷と風をまとった拳で、再び少女に殴りかかった。
しかし、
「同じ手は、喰わない」
闇精霊をまとった掌で、ネーナの拳を受け止める。
しかしネーナの拳は、強力な侵蝕作用があるはずの黒い炎を真っ向から受け止めていたのだ。
そのことに、拳を受け止めた少女も少なからず動揺の色を見せる。
「驚いたか? オレな、魔力には自信あるんだよ!」
自らに気合を入れるように叫ぶと、ネーナは魔力の出力をいっそう引き上げた。
拳の覆っている氷との渦は、回転速度と量をよりいっそう上げて少女に襲いかかる。
侵蝕速度以上に、ネーナの魔力が牽引する精霊の量が多すぎるのだ。
「それなら」
少女は空いている方の手にクナイを握り、ネーナに向かって突き出した。やはり刃全体を、闇精霊の黒い炎で覆っている。
それを一瞬で見切ったネーナは、のけぞるようにして後ろに回避した。
しかもそのままバック転で後方へさがる最中、おまけとばかりに風をまとった足がアッパー気味に少女の顎を狙う。
「ッ!!」
だが、少女はネーナの足と同速度で上へ向かって飛び上がり、お返しに両の手から極細ワイヤー付きのクナイを放った。
強化された脚力で一気に遠ざかるネーナを追うように、少女は手元のワイヤーを操作する。クナイは床を舐めるよう複雑な軌道を進みながら、ネーナの頭と心臓を狙って躍りかかった。
「そうそう思い通りに行くと思うな……」
すると、なんの前触れもなく、クナイの移動が突然それたのだ。
よく見れば、ネーナの身体を取り巻くように強烈な空気の流れがあるのが確認できる。
「ただの全身武装鎧だよ!」
しかも、生成する魔力量を増やし、より多くの風精霊を纏った。
ネーナはごぉごぉと渦巻く風の籠手でワイヤーを握り、腕力と風の力を使って少女を一気に引き寄せた。
「フレイムドーン」
だが、少女もただでは引き下がらない。
身体の正面に炎を集め、前方に向けて一気に放出した。
「セイレールアジーアス!」
下位の黒い炎と、上位の水塊が衝突した。
魔法すら侵蝕する圧倒的優位性を持つ闇精霊の下位呪文と、その侵蝕すらはねのける圧倒的な出力を持つ水精霊の上位呪文。
暴力的なまでに巨大な力が拮抗し、周囲のテーブルやイス、人間もまとめて吹き飛ばす。
「悪あがきしやがって」
百キロ単位の重量でもやすやすと吹き飛ばす衝撃の中、二つの人影が爆心地の近くで踏ん張っていた。
しかし爆風の威力に負けて、ネーナの手からワイヤーがはがれ落ちる。
「それでもな……」
全身武装鎧に用いていた全ての風を拳に乗せ、後方に飛ばされながらも振り抜いた。
「ただで引き下がるかよ!」
二つの力の中心を、風の貫通弾がぶち破った。
それは見事に少女を捉え、後方の壁まで一気に押し込む。
押されるがままに天井へ衝突し、シャンデリアや天井材と一緒に少女の身体が落下した。
天井への衝突はかなりのものであったが、防御に使ったらしい袖の下の籠手が壊れ制服に穴が空いただけで大きなダメージは見られない。
「はっ、バケモンかお前」
ネーナは自嘲気味にそんな言葉を漏らした。
と、その時点になってようやくホールの人々は現状を理解した。
あまに突飛なことが起きたために、誰もが理解が追いつかなかったのだ。
目から入った情報を、視神経を通して脳に伝えたところで人間は思考を開始し、理解をすることが出来る。だが人間は驚きが過ぎると、その思考力を失ってしまうのだ。
学院長も十分に驚きの事態であるが、そんなものは周囲の人間にしかわからない。
だが、今度は違う。ネーナと女子生徒の間で行われた通常のマグスとは一線を隔した戦闘、そして先ほどの爆風。人はようやく恐怖を理解した。次に異変が起きた。
彼等の大半は、魔法は使えるがマグスとは言えない見習いの身。
目の前で突然戦闘が開始され、自分達も巻き込まれる恐れがある。
さて、力の無いものは、ここでどのような行動を選択するだろう。
そう、逃げればいいのだ。
「わぁああああああ!」
パニックは一気に広がった。
「どけ、俺が先だ!」
「痛い! 足踏まないで!」
「とっとと逃げろ! また始まるぞ!」
「押すな! 前がつかえてんだ!」
「早く! 早く! 早くぅううう!!」
飛べる者は人垣の上を、そうでない者は他の人を押しのけ、ホールの出口へ向かってかけ出した。
だが下階へと通じる階段は、どんなにつめても三人が限界である。
全員が逃げ終えるまでには、まだまだ時間がかかるだろう。いや、全員が逃げ出せる時間があるようには思えない。
ホールに残ったのは、闇精霊の使い手である女子生徒、近衛隊のネーナ、腕に自信のある十数名の生徒と教師、逃げるには遠すぎた者達――――。
そして、目の前の出来事に呆然とすることしかできない者達。
「レナ?」
出入り口とは正反対のバルコニーにいた昶達は、その場にとどまっていた。
パニックに巻き込まれて怪我をしたのでは、元も子もない。
「……レナ」
少女と相対しているネーナや、残った教師と生徒は、互いに攻撃のタイミングを見計らって膠着状態に入っている。
ほんの少しのきっかけで、両者は動き出すだろう。
「レナ!」
昶は三度レナに呼びかけた。だが、三度とも全く反応がない。
「……だ」
レナのその可愛らしい唇から、小さな小さな言葉が発せられる。
昶は慌てて、レナの顔をのぞき込んだ。
瞳孔の開いた目は、焦点を合わすこともできないまま右往左往している。
縮こまった肩も、ガクガクと小刻みに震えている。
まるで、なにかに怯えているかのように。
「……んだ」
光を失った瞳からは、いつもの傍若無人さは感じられない。
あるのはただ……、
「……死んだ? 学院長先生が? 死んだ、死んだ、死んだ、死んだ、しんだしんだしんだしんダシンダシンダシンダシンダシンダシンダ……」
純粋な恐怖、それだけだった。
「レナ!」
「レナさん!」
「ちょっとレナ、どうしたのよ」
レナはその場にへたりと座り込むと、広げられた両手に視線を落とす。
「………………ィャ」
レナの網膜に、当時の情景が映し出される。
俗に言う、フラッシュバックと言うやつだ。
「ィャ、ィャョ。ィャィャィャィャイヤイヤイヤイヤ」
膝の上には、大切な人の頭がよこたわっている。
そして、両手に、全身に、その大切な人の血が内蔵が、千切れた皮膚や肉が、べったりとこびりついていた。
「――――――いヤぁぁァァアアアアアアアアあああああああああああああああああ!!」
大きく弓なりに仰け反り、エルザより何倍も甲高い絶叫を上げた。
人のものとは思えない、悲しい、哀しい、闇の深淵よりも更に暗い、聴く人の心を芯まで抉るような、そんな悲鳴だった。
レナの悲鳴を皮切りに、闇精霊の使い手である少女――“ユリア”――は再び動き出した。
一瞬だけ悲鳴に気を取られたネーナ、学院の教師や生徒達の反応が、刹那の間だけ遅れる。
「させるか」
ネーナの魔力が攻撃的な気配を見せたのを感知した“ユリア”は、ワイヤーの巻き取り機能の壊れたクナイを投げつけた。しかも、黒い炎のオマケ付きで。
「チッ!」
物理的な核を持つために、先ほどのように防御呪文で防ぐことも難しい。例えそれが上位の呪文であっても。
ネーナは腰に携えた剣を素早く抜き放ち、刃に水精霊の力を付加させて迎撃した。表面の水が灰に還元される前に、剣はクナイを弾き飛ばす。
そのすきをついて、“ユリア”は本命のクナイをエルザに向けて投擲した。
「抜かれた!?」
ネーナが再び視線を戻した頃には、すでに“ユリア”もクナイも隣を通り過ぎていた。
明確な殺意を孕んだクナイは、エルザの心臓を狙って直進する。
目の前で人が刺されたことに怯えたエルザは、クナイが自分に突き刺さることがわかっていながら、見つめることしかできなかった。
「あぶねえ!」
誰かがエルザを突き飛ばし、クナイの軌道上から身体を押しのけた。
「……ア、アキラ、さん」
さっきまでバルコニーにいたはずの昶だが、今はエルザを抱えた状態で床に転がっている。
その二人に覆い被さるように、“ユリア”は飛びかかった。
だが、そこへ、
「よくやった、坊主」
後から飛び出したはずのネーナは、いつの間にか“ユリア”の上を取っていた。
「うちの姫様に、手ぇだしてんじゃねえぞ、ごるぁああああああああああああ!!」
ネーナは“ユリア”の後ろ襟をつかむと、頭を軸にして進行方向へと投げつけた。
“ユリア”の身体が、再び大理石の中へと埋没する。
「大丈夫か、姫様」
「ネーナ……。あたくしのことより、学院長を」
ネーナは、自分の目の前に横たわっているオズワルトへと視線を落とす。
姫様を、エルザをかばって刺されたのだ。本来ならば、それは自分の仕事でなければならないのに。
深い、深い、自責の念に駆られる。社会のクズ、最低の人間だった自分に、魔法とはどうあるべきか教えてくれた恩師が、自分の目の前で、自分の代わりに刺されたのである。
ネーナは自分の不甲斐なさに、激しい憤りを感じずにはいられなかった。
昶はレナのことが気にかかり、急いでレナの元へと駆け寄った。
シェリーに膝枕されて、その上でスースーと規則正しい寝息を立てている。
さっきはいきなり叫び声を上げられてびっくりしたが、今は落ち着いているようだ。
ただし、涙を流しながら悲しそうに怯えた顔をしているが。
――パラパラパラ――――。
いきなり横から聞こえた、なにかを押しのけるような音に、昶は振り返った。
それはちょうど大理石の欠片にうずもれた“ユリア”が、這い出そうとしていた所だった。
“ユリア”のワインレッドの瞳と、昶の黒い瞳とが交錯する。
その時、昶の中にある感情が芽生えた。
『コイツノセイデ、レナガ……』
それと同時に、別の声も聞いた気がした。
サァ、オレタチヲヨベ。チカラヲホッセ。ホッセ、ホッセ、ホッセェェエエエエ!
それは純粋な怒り。自らの大切な者が傷付けられたことに対する、憤りに他ならない。
言葉よりも先に、身体が次に取るべき行動を決めていた。
荒ぶる感情に身を委ね、思考を放棄した結果、腰に携えた刀へとひとりでに手が伸びる。
そこで村正ではなくアンサラーを選んだのは、わずかに残った理性のおかげかもしれない。
昶は床と平行になるようにして走り出し、大理石の壁から抜けだしたばかりの“ユリア”まで一気につめよった。
そして居合い斬りの要領で、アンサラーを抜き放つ。
「ッ!?」
今まで見てきたどんな一撃よりも速い。そう、あの“ツーマ”よりも更に。
“ユリア”はのけぞるようにして、逆袈裟の一撃を回避したものの、宙に残った前髪がいくらか切られた。
勢い余ったアンサラーは、そのまま大理石の壁面へと滑らかな切れ込みを刻む。常軌を逸した、恐ろしい切れ味である。
昶は勢いを殺さぬまま一回転し、今度は首を狙ってアンサラーを突き出した。
回避を無理と判断した“ユリア”は、巻き取ったクナイを使って刺突の軌道変更を試みる。
ギィンッ! まるで巨大な鉄球同士がぶつかりあったかのような低重音。
「……重い」
そして鋭い。
頬を軽く切られたものの、刺突の一撃を横方向にずらすことに成功した。
だが、強力な“硬化”の魔法を無視するかのように、クナイの中腹辺りが七割ほど切り裂かれている。
「オ前ガ……」
昶は素早くアンサラーを引きもどし、再び逆袈裟に切り上げた。クナイの先端部が、あっさりと切り裂かれる。
砕くのではなく切り裂かれたことに、“ユリア”は驚きを隠せなかった。
信じられない鋭さだ。
確かに最上位の硬化や固定化をかけられた武器は、常識外れの切れ味を持つのは知っている。
だが、昶の今の一撃はそれを考慮したとしても、余りに滑らか過ぎた。
「オ前ガ、レナヲ」
今度はアンサラーを横向きに構える。
「フレイムシールド」
“ユリア”は剣撃の迫る方向に、黒い炎の盾を作り出した。
触れるだけで全ての物――例え水であろうと――を灰へと還元する、闇精霊の炎。
しかし……、
「許サネェ…………!」
アンサラーは昶の腕力を借りて、侵蝕すら許さない速度で振るわれたのである。
あまりの速さによって生み出された衝撃波に守られて、昶は黒い炎でできた盾を両断した。
“ユリア”は顔をしかめた。
身体をそらして回避には成功したが、左上腕部に深さ一センチほどの傷が刻まれる。
飛び散った血は宝石のような美しさを放ちながら、壁や床に鮮血の赤い斑点を作り出した。
「あぐっ!!」
昶の足が“ユリア”の華奢な身体にめり込む。痛みに気を取られたのが命取りだった。
壁にめり込んだ衝撃を上回る蹴りに、“ユリア”の胸部は悲鳴を上げた。
――肉体強化で物理衝撃にも強くなっているはずなのに、それでいてこの激痛なんて……。
危うく飛びかけた意識を呼び戻し、冷静に状況を分析する。
やはり諜報部の報告通り、ネーナとアキラの戦闘力はなかなかイレギュラーであった。手違いでオズワルトをやってしまったとは言え、その他の生徒や教師もなかなか優秀。ここは退いた方が得策だ。
“ユリア”は意識を背中の方へと集中させた。
すると黒い炎が現れ、自分自身を包み込むように展開し、
壁へと激突した。
だが、今回はその中に埋もれることはない。
なぜなら、壁には長径二メートル、短径一メートルほどの楕円の穴が空いているのだから。
『今のは、なんだ?』
目の前から敵の姿が消えたことで、昶は正気を取り戻した。
どうやら相手は、壁を焼き尽くして作った穴から逃げたようだ。穴の周囲には黒い炎の残滓が未だにくすぶっている。
ひとまずの危機が過ぎ去ったことを感じた人々は、ドサッとその場に座り込んだ。
「シェリー、アイナ、レナの様子は?」
昶はシェリーの膝の上で寝かされている、レナの元へと戻った。
どうも頭の回転が鈍いが、今はそれどころではない。
「とりあえずは落ち着いたみたいよ」
「アキラさん、今のすごかったです」
アイナは昶の剣技を素直に賞賛したが、そんな悠長なことを言っている時間はない。
開いた穴からは数名の教師と生徒が飛び出し、闇精霊を使う少女の追跡を始めている。
それに、学院長の方も気になる。
致命傷を負っていなければ、こっちの回復魔法でも十分に回復できるのだが。
するといきなり、大気そのものが振動しているかのような衝撃が全身を打ち、続けて鼓膜を破らんとする爆発音が反響した。
中央の塔――クインクの塔――の外壁を突き破り、黒い爆炎が飛び出していた。