第六話 忍び寄る影 Act01:遠い日の記憶
シュバルツグローブでの戦闘が終息して三日の時間が流れた。その時の息抜きと、必要な物資の買い出しもかねて、レナ達は学園から最も近い都市――フィラルダ――へ向かう事に。そこで昶は、ある少女と出会う。
レナがシュバルツグローブから帰ってから、丸三日の時が流れた。
だがその間、レナは昶と一言も言葉を交わしていない。
理由はいたってシンプルである。昶がまだ目を覚ましていないからだ。
詳しくは知らないが、昶はあの黒い雷――闇精霊――を使うマグスを相手に、独りで戦ったということらしい。
シェリーは魔力を生成するのに集中し、ミシェルはセインに付いて行くのに必死で気付かなかったらしいが、リンネと残り二柱は桁外れの風精霊がぶつかり合うのを肌で感じていたと言っていた。
感覚の鈍い人間――普通マグスは魔力や精霊を感知することができない――でさえ感知できたのだ、いったいどれほどの力がぶつかり合ったのか。レナには全く想像がつかない。
唯一、事後の現場に足を踏み入れたレナでさえ、そこでどれほどの戦闘が行われたのか全くもって理解できなかったのだから。
地面のことごとくがめくれ返り、巨大な木々がなぎ倒されまたは貫通し、まともに歩くことすら困難な状態になっていた。
だが、驚くのはそこではない。
レナが最も驚いたのは、その場に残された風精霊の残滓だった。
風精霊の精霊素は、大気中には普遍的に存在すると言って、まず間違いない。
だがそれを加味したとしても、その場に漂っていた風精霊の残滓はあまりに異常だったのだ。
あまりの密度に、目眩で倒れそうになるほどだった。よく倒れなかったものだと、自分でも感心するほどである。
そして、その中心部にあったのは昶と、昶がいつも腰に携えている一度も抜いたことのない剣。ゆるやかで優雅な円弧を描く剣が、昶の近くの地面に突き刺さっていた。
あの時はなんとか頑張って鞘におさめたのだが、できればもう触れたくはない。なぜか触れた直後、真っ黒い腕のようなものが自分を包み込むようなイメージが流れ込んできたのである。
なにかはわからないが、あらゆる負の感情を混ぜ込んだような、絶対に受け入れたくはないが受け入れざるを得ないような、そんななにかを感じたのだ。
こんな人の精神に干渉するような魔具、国内を探してもそうそうあるものじゃない。
――なんで、こんな物騒なものを、アキラが……。
そこでレナは思い至る。昶が目覚めた時に言った言葉を。
『ここが俺のいた世界とは、別の世界じゃないかって思っただけだ』
思えば不審な点はいくつもあった。
なぜこの国の常識を知らないのか。
なぜ字も読めないのに授業の内容がわかったのか。
なぜ“暗黒魔法”の対処法を知っていたのか。
なぜあんなにも感覚が鋭いのか。
なぜ、なぜ、なぜ。
聞きたいことは山ほどある。
それともう一つ、レナには不安なことがあった。
なぜあの時、見えるはずのない背後の風景や、森の中の少年が見えたのか。
――あれっていったい、なんなのよ……。
それもレナの抱える不安を増長させていた。
「もぉ、さっさと起きなさいよ。アキラァ」
窓から日の光が差し込み始める。
今日も夜の間中起きていたレナは昶の眠るベッドへと身を投げ、その上でスヤスヤと寝息を立て始めるのだった。
昶は道の真ん中に立っていた。
周囲を見渡せば、田んぼに畑、鶏なんかもいる。さすがに牛や豚を飼うスペースはないから、これらは“外”から買って来るわけだが。
『どうして、ここに?』
そこはまごうことなき、隠れ里の風景。昶が一ヶ月くらい前まで暮らしていた場所だった。最大直径六キロ、最小直径五キロのほぼ円形をしており、山地を切り拓いて作られた場所である。
その発生は、陰陽師が不要の烙印を押された明治初期にまで遡るらしいのが、興味はなかったのでその辺りの詳しい事情は知らない。
また一般の人間が入り込めないように、他の魔術師が侵入できないようにと、様々な趣向が凝らされている。
その内の一つが、里をぐるりと一周するように張られた多重結界だ。
龍脈(霊脈とも呼ばれる)の真上に存在し、また小さいながら龍穴も備えているので、それなりに大がかりな術でもスタンドアローンで稼働させられることができるようになっている。
その中でも代表的な物は思考誘導型。精神に干渉し、近付く人間を無意識の内に遠ざける効果がある。
もう一つは物理干渉型。可視光線をねじ曲げる効果を持っているので、例え人工衛星だろうとこの場所を発見することはできない。
その他にも、対魔・対物理障壁、空間干渉等、多種多様な結界によって護られているのだ。
だが、昶はなんとなく違和感に似たものを覚えた。なんか、少し違う。
向こうの家は、何年も前に取り壊されたはず。
鶏舎の数が少ない。
畑にも、もっと沢山の種類の薬草や霊薬の材料があったはずである。
全ての光景が、昶の知っている今の隠れ里とほんの少し違う。
「あきらーーー!」
ひとりでに後ろを振り返り、口が勝手に動き出した。
「おねえちゃん!」
そう、確かにあれは昶の姉、草壁朱音の姿だ。
ただし、身長は一二〇センチをようやく超えたほどである。
「ごめんねー、抜け出すのに苦労しちゃってさぁ」
「おねえちゃん、そんなことしても大丈夫なの?」
「あ……、あとでお父様に怒られるかも」
と、苦笑いを“あきら”に向ける。少し青ざめている辺り、けっこう危ないのを自覚しているのだろう。
確かにバカ姉には少し甘かったが、それでも十分に恐ろしい親父だった。
「でも、あきらのお願いも聞いてあげないとねだからね。せっかくの弟なんだも~ん」
「お、おねえちゃん、く、苦しい」
「あ、ごめん」
抜け出して来たというのは本当らしく、修練の胴着を付けたままだ。
使い古された白衣と紺の袴。草壁流では剣術を主体としているので、胴着も剣道のそれと近いものになっている。
「おねえちゃん、今日はどこに行くの?」
「そうねぇ…………」
次の言葉がなかなか出て来ない。
「おねえちゃん?」
「ごめん、なにも考えてなかった」
と、その時だ。
「朱音ーーーーーー! どこへ逃げよったーーーーーー!」
二人の父親、草壁厳磨の、重苦しい怒号が背後から襲いかかった。
これが下位の妖怪程度なら素手でねじ伏せるようなバケモノで、二人には神格級の鬼とほぼ同義の存在として認識されている。
「とりあえず、“お外”まで逃げよっか」
「うん」
朱音は昶をおぶると、血の力を使って走り出した。
わずか九歳とは言え、草壁の力を使った脚力ならば百メートルを九秒以下で走ることなぞ造作もない。
あっという間に声は小さくなり、ついには聞こえなくなった。
もちろん、霊力が体外に漏れないように生成量を調整しているので、父親の厳磨に察知されることはない……恐らく。
「ここまで来れば、後はぁ……」
「お、おねえちゃん?」
「口閉じてなさい。舌かむわよ!」
目線の先にあるのは、どこから持ってきたのかビル四階分の高さがある木の杭でできた巨大な外壁だ。
このバカ姉、間違いなく飛び越える腹積もりである。
昶自身は冷静にそう思っているのだが、自分が視点を共有している“あきら”は、冷静ではいられなかったようだ。
「そりゃーーー!」
「わぁーーー!?」
目を固くつむり、バカ姉の首に回している腕に力を込める。
と、上から下に引っ張られるような奇妙な感覚が訪れた。
が、それもだんだんと弱くなり、なくなった頃にはトンっと音を立てて着地する。
「もう一丁!」
「へ!?」
天高くそびえ立つ木の杭の側面に。
「でやーーー!」
「もうやだーーー!」
とまあ、こんな感じで二人(主に朱音だが)は外壁の外へと脱出に成功した。
隠れ里を護る多重結界は、正確には里の外壁から約三、四キロの位置に張られている。
これは龍穴の位置の関係に依る制約で、里全体に結界を張ろうとしたらこうたってしまったのだ。また同時に、術者達の修練場所を確保する役割も果たしている。
人外を相手にする業の修練を、人の多い場所でするわけにはいくまい。
また、内と外の気配を遮断する結界も張られているので、この中ではいくら力を使っても平気なのだ。
「ふぅぅ、なんとかまいたみたい」
“あきら”を背負ったまま朱音は木の上によじ登り、可愛い弟と楽しげな会話を繰り広げている。最初の内は『怖かった!』と言われて、さんざん怒られたのだが。
「あとで怒られても、ぼく知らないから」
「大丈夫、私の“いろけ”を使えば」
「ん? おねえちゃん、“いろけ”って、なに?」
「あきらは気にしなくてもいいの!!」
怒られた、意味を聞いただけなのに、なにか悪いことでもしたのかな?
そんな“あきら”の思考を読みながら、『やっぱあれは地なのか』と昶も結論を下した。
「そうだ、この前やっと兄ちゃんが式神の作り方、教えてくれたんだ~」
「えぇ!? 見して見して!」
朱音は袴のポケットから、正方形の和紙を取り出した。
通常はこれを加工して護符等に使用するのだが、これはその前段階。ただの和紙である。
朱音は無断で持ち出していた短刀を懐から出して親指を斬ると、血文字を用いて紙に図形を書き始める。
円の中に五亡星を描いた、最も簡単な魔法陣だ。
ちなみに草壁の血のおかげで、この程度の傷は一分と経たずしてふさがる。傷も全く残らない。
朱音は傷がふさがったのを確認すると、その紙を用いて折り紙を始めた。
「まだ“容”を変えることはできないんだけどね」
と、付け加える。
『容を変える』というのは、式神に任意の姿を取らせる技術である。
あまり高度な技術ではないが、それをこのような年端もいかぬ子供がすれば、驚かざるを得ないだろう。
ちなみに、昶が『容を変える』ことができるようになったのは、つい二年前の十四歳の頃だ。
「おねえちゃん、なに折ってるの?」
「“つる”。他のまだ覚えてなくて」
と、口を開きながらも、朱音はあっという間に完成させた。
朱音の唇の両端が、にぃっという感じで吊り上がる。さあ、ここからが見せ場だ。
「あきら、よく見てなさいよ」
「うん!」
朱音は折り鶴の翼を持って左右に広げると、下の部分から、ふぅーっ、と息を吹き込む。
飴細工を扱うかの如く、優しく丁寧な手つきで。
空気を入れると、身体の部分が膨らんだ所でそれを掌の上にそっと置く。
すると、
「わぁ…………。すごぉぃ」
“あきら”の口から感嘆の言葉が転げ落ちる。
若干、血の臭いが気になるが、左右対称に折られた白い鶴は、ゆったりとした動作で浮かび上がったのだ。
動きは多少ぎこちないものの、これは朱音の三つ上である十二歳の兄――遼祐――が、先月になってようやく教えてもらった技術である。そう言えば、朱音の術のセンスがどれだけずば抜けているか、おわかりいただけるであろう。
朱音は式神に自分達の周りを飛ぶように念じると、式神もそれに応えて二人の周囲をぐるぐると回った。
「おねえちゃん、ぼくもする!」
「あきらにはまだ無理だよ」
「やだあ! やりたいやりたい、やりたいよお!」
「もぉ、お父様にはナイショよ?」
「うん!」
昶は『やめろ!』と言おうとして、できなかった。今は“あきら”の視点を見ているだけ、自分の身体ではない。
なぜそんなことを思ったのかわからない。だが、昶はこの後なにが起こるのか、知っている気がする。
朱音はさっきと同じく手順で手早く鶴を折り、“あきら”にそれを渡した。
「いい? 息を吹きかける時に、一緒に“霊力”を入れるの。わかった?」
「うん!」
“あきら”は息を吹きかけた。
だが、それがそもそもの間違いだった。
“あきら”はまだ幼く、霊力の繰り方をあまり知らない。
また、“あきら”の潜在的な霊力は、一族内でも群を抜いていた。
そして、“あきら”はどれだけの力を式神に込めるのか、知らなかった。
折り鶴は、まるで痙攣の如く振動し、描かれた魔法陣が不規則な明滅を繰り返す。
「あきら!」
朱音が“あきら”の手を払い、折り鶴が宙に放たれる。
無我夢中で朱音が“あきら”抱きしめられる中、爆弾が爆発したかのような突風が二人を襲った。
ただ、自分の顔面に真っ赤な液体が降りかかり、朱音は背中から右肘にかけて鮮血色の花を咲かせていた。
「姉ちゃん!?」
――ここはどこだ? あの鎌のやつは!
慌てて周囲を確認するが、ここはシュバルツグローブではない。
この見覚えのある天蓋付きのベッドは、レナのもの。
つい先日まで、昶が居候させてもらっていた部屋であった。
「んぁ、やっと起きたのねぇ」
昶のお腹の辺りで伏せていたレナが、眠たそうに目をこすりながら起きあがった。
珍しく手入れをしていなかったのか、クセの強い髪はいつも以上にボサボサで、目の下にも、うっすらだが隈ができている。
「なんで俺、ここに」
「もう三日目よ。シュバルツグローブで、アキラが戦ってたのは三日前の出来事」
「じゃあ、みんな無事なのか?」
「そう、アキラのおかげよ。ありがと」
「お前だって、怪我、大丈夫なのか?」
「ぅん。リンネが頑張ってくれたみたい」
だが、うっすらと覚えのある臭いが鼻孔を撫でた。
骨折した時に、よく姉が塗ってくれた軟膏と同じような臭い。
目を凝らせば、鳩尾の高さでぐるりと巻かれた包帯が、うっすらとブラウスを透けて見える。肋骨を何本かやったのだろう。
「それと、血だらけだった服はセンナが洗ってくれたから。テーブルの上に置いてある。そ、それと、身体も拭いてた、みたい……」
――そういえば、さっきからダイレクトに掛け布団の感触が。
まだ頭の中がぼやけているせいか、昶はほとんど全裸に近い状態ながら恥ずかしくは感じなかった。
昶はレナから別の方へと視線を移動させると、不意に壁に立てかけてあるモノに目が留まる。それは、こっちの世界では見られない緩やかな円弧を描く刀剣。
昶の顔が一気に険しくなる。
「触れたのか?」
「ご、ごめん」
「ちょっと来い!」
「わぁ、ちょっと、アキラ!?」
昶は自分が裸なのも忘れて上体を起こすと、レナを人外の力で引にひき寄せた。顔と顔が、約二〇センチにまで近寄る。
たったそれだけで、レナはかーっと両の頬が熱くなるのを感じた。ぼわっと真っ赤になった顔を隠すために、わたわたと両手を振る。
――な、なななな、ど、どうしちゃったのあたし。なんでこんなんなってんのよ、もうわけわかんない!
「大丈夫そうだな」
アキラはそれだけ言って、レナを解放した。
「あ、あ、あぁ……」
「ん? どうした?」
「あああ、あんたいきなりなにすんの!!」
「え~っとなぁ…………、元気そうでなによりだなぁと」
「バレバレの嘘つかない! それ今考えたでしょ!」
昶の持つ村正はその昔、魑魅魍魎が跋扈していた時代、それらを討つ任を負った者達のために刀工村正が特別に鍛えられた代物だ。
長きに渡ってそれら人外の者を狩り続けた村正には、それらの負の感情が凝縮されている。力のない者が触れれば、刀に取り込まれかねないほどの危険な代物なのである。
レナの魔力を見た所、村正の邪気が流れ込んだ痕跡はなく、また魔力の流れも歪められてはいなかった。
どうやら戦闘で力を使いすぎたようで、村正の力が一時的にでも弱っていたことが幸いしたのだろう。
「嘘じゃねえよ。ったく、心配かけやがって」
「し、心配したのはこっちなんだからね! アキラってば、なかなか起きないし……、あたしが、えっぐ、どれだけ、心配じだど……」
と、緊張の糸が切れたためか、レナの目から涙がポロポロとこぼれ落ちる。
最後の方は嗚咽で言葉にならなかったが、なにを言いたいのかはわかった。
「悪かったよ、心配かけて」
どうすべきだろう。こういう時ってどうしたらいいんだ。
悪いことをしたわけではないが、自分が原因で女の子を泣かせてしまった場合って、いったいどうしたらいいんだよ。
と、昶が悶々と頭を悩ませていると、不意に嗚咽するレナの声が聞こえないのに気付いた。
「レナ?」
昶は心配になって、レナに声をかけてみると、
「あー、泣いたらすっきりした」
妙に低い声、しかも純度二〇〇パーセントの怒りオーラが含まれている。怒りオーラ?
「まったく、このあたしに心配ばっかかけて、あんた何様のつもり?」
「何様って……」
「ほんっっっとうに、こんなバカには躾が必要よね?」
レナはベッドから離れると、壁の隅に立てかけてある杖を手に取った。
「いや、あの、レナ様? なぜそのような杖をお持ちに」
昶はいつでも動けるよう、全神経を研ぎ澄ませる。
「『なぜ』って、決まってるじゃない」
一三〇センチ前後の杖が、なんの躊躇もなくフルスイングされた。
昶は背中をそらすことで回避に成功、転がるようにしてベッドから抜け出す。
ちゃんと前は隠せるように、ちょっとだけ強化した腕力で強引にシーツをもぎ取る。
「危ねえだろ! んなもんいきなり振り回すな!」
「うるさい! 心配かけるアキラの方が悪いんじゃない! ちょっと前だって、トロール鬼とあんなこと!」
昶の足下を、“ツーマ”の大鎌にも劣らない速度で、一本の杖が通り抜ける。
「っとと、あれは向こうから先に仕掛けてきたんだ! 俺だって被害者だ!」
「っさい! どうでもいいから殴られなさい!」
「理不尽だろ!?」
その後、昶がわき腹を杖でぶん殴られたことで、レナの怒り? は収まったようだ。
ちなみに、冷静になった後も、『は、早く服を着なさい』と殴られたとか。