第四話 編入生 Act04:空の旅
ゴーーーン、といつものように起床を知らせる鐘の音が、レナの鼓膜を震わせる。
レナは普段と比べると割とゆっくりとした動作で起き上がり、半開きの目をごしごしとこすった。
「うぁぁ、頭……ちょっと痛いかも」
それになんだか、いつもより眠いし身体もだるい。
日付が変わるまで騒いでいたせいで、いつも以上に疲れが溜まっているのだろう。なにせ、最後には料理を作ってくれた厨房の人達も混じって、わいわい騒いでいたのだから。
ワインを飲んだのも原因かもしれない。
シェリーと比べれば強い方なのだが、あっちはお酒に弱いので自分が平均から見て強いのか弱いのかはよくわからない。
「ん~!」
だらしなくベッドを抜け出したレナは、窓のカーテンを開けて日の光を浴びた。
眠気の方は少しはなくなってくれたが、頭痛の方はやっぱりどうにもならないようである。
そうしていると、昨日アイナの歓迎パーティーをしたテラスが目に入った。
これでアイナも打ち解けてくれればいいのであるが、あの鉄仮面を引っ剥がすのにはまだまだ時間がかかりそうだ。
昨日のことを思い出しながら、レナはそんな風に思った。
ああなってしまったのには、それなりの理由があるはずである。
もちろん、他人の過去を詮索するような趣味は持ち合わせていない。自分の過去を知られたくないレナにしてみれば、なおさらそう思う。
だが、過去に縛られたままでいるのは辛いことだ。例え本人がそれを望んでいても。
と、レナは、はっとなって首をふるふると振った。ぐるぐると暗い思考に陥っていることに意味はない。
レナは気持ちを切り替えて、本日の準備を開始した。考え込んでいた時間が長かったのか、時間があまりないのである。今日は通常の講義ではなく、遠方まで飛行術で移動する飛行実習。集合時間は、それなりに早く設定されているのだ。
レナはまず、髪のお手入れから始めた。いつものようにドレッサーの前に座ると、ボサボサの頭にブラシをかける。
いつもより寝癖がひどく、何度ブラシをかけてもなかなかまっすぐにならない。
ようやく納得がいく状態になったのでふとブラシを見てみると……、けっこうな数の髪が抜けている。少なくとも、十本以上はあるオレンジの抜け毛(枝毛あり)を忌々しげに見つめてから、次に引き出しからシックな黒いリボンを取り出した。
今日は飛行実習だし、邪魔にならないようにとめておこうと、ツインテールにまとめるのがいいだろう。
その次にクローゼットから制服と下着を取り出し、ベッドの上へと放り投げた。
脱いだベビードールをたたんで置き、ドレッサーの前で慎ましやかな二つの膨らみへと華奢な両腕を誘う。
うすっぺらな乳房に指を沈めていくのだが、返ってくるのは肋骨の感覚ばかりだ。
毎日確認したって、そんなに早く大きくなるわけじゃないのに、そうせずにはいられないのである。
レナは大きくなった感皆無な自分のバストに本日も落胆していると、
『胸の大きさを気にしている事も、その胸が大きくなっていないか毎日確認している事も……』
不意に、昨日のセンナの台詞が思い出した。
ぶわっと顔を真っ赤にさせながら、胸に添えていた手をマッハの勢いで身体の側面に戻す。
自分でもバカらしいとは思っているのだが、羨ましいものは羨ましいのだ。毎日確認してなにが悪い、とセンナに心の中で毒づきながら最後の一枚であるショーツを乱暴に脱ぎ捨てる。
それから新しいブラとショーツを着用、ブラウスに袖を通し、スカートを穿き、ネクタイを締め、ニーソックスに足を通してから、マントを羽織った。
「これでよし!」
ブラシをかけても髪がはねてしまう時に重宝するツインテールであるが、けっこう似合っているではないか。
胸のことなんて忘れてつかの間の優越感に浸っていたレナは、最後にドレッサーの別の引き出しに手を突っ込んで発動体の指輪の捜索を開始する。
「えっと、指輪はどこだったかな~」
今日の飛行実習では杖にまたがって空を飛ぶのだが、慣れない内は危険ということで飛行に使う杖とは、別の発動体をつけるようになっているのである。
理由は簡単、術の起動中も飛行は続けなければならないからだ。
一つの発動体に、飛行術のための魔力と魔法のための魔力。二種類の魔力を並行して錬り合わせるは、非常に難しい。
そもそも、最上級生の三年生でも全体の六割程度しかできないのだから、それを一年生に求めてもどだい無理というものだ。
それと、大型の武器を発動体にしている生徒も、武器の重さでバランスを取りにくいという理由から携行を禁止されている。
シェリーの剣もかなりの重量があるので、今日は持って来ていないであろう。
杖の発動体──とりわけ、またがれるほどの大きさがある物が多いのも、飛行のための手段を兼ねているからだ。武器の発動体でも飛行術を行使できなくはないのだが、飛行力場の調整が非常に難しいのである。
これらの理由から、一年生の飛行術の実習は杖を使うよう義務づけられているのだ。
なので、レナは現在杖の代わりとなる発動体を探している、というわけである。
「あれ?」
探してるのである……。
「え? そんなはずは……」
思い切って引き出しを引っ張り出してみたのだが……。
「ない!!」
レナが大切にしまっていた、エメラルドのはまった白金の指輪が、なくなっていた。
「あんた、朝からなに叫んでんのよ?」
と、防音仕様の扉の向こうから、ちょっぴりイライラしている知り合いの声が聞こえてくる。
レナは大慌てで扉を開くと、
「シェリー、丁度良かったわ! お願い、お兄さまから頂いた大切な指輪、一緒に探して!!」
「わかったから、耳元で叫ばないで」
いつにないレナの必死な形相に、シェリーも指輪を探すべく部屋の中へと入った。
二メートルほどもある杖を壁に立てかけ、レナと一緒にタンスの中や机の引き出しの中を調べ始めるのだが、やはりどこにもなかった。
絶対にドレッサーの引き出しにしまったとレナは言うのであるが、何度探してもドレッサーのどの引き出しにも入っていない。
するとシェリーはふと、本当に偶然二週間ほど前のことを思い出した。
「もしかして、あんときの下着ドロの時じゃない?」
レナはきょとんとした表情でシェリーを見つめたまま、完全に動きを止める。ほんと、絵画みたいにピクリとも動かない。
「もしドレッサーの引き出しを漁ったとしたら、指輪が転がって入りそうな場所はぁ…………」
シェリーはぐるりと部屋を見回し、指輪の入り込みそうな場所を探す。
検討はすぐについた。
「ドレッサーの下か、ベッドの下、かな?」
レナはバッ、という効果音がぴったりな勢いでイスを払い、まずはドレッサーの下に潜り込んだ。
それから光速を思わせる勢いで、今度はベッドの下をのぞき込む。
どうやらドレッサーの下には、なかったらしい。
そして、
「あった!」
歓喜に満ちたレナの声が、シェリーの耳を打った。
そう、犯人はまたしてもカトルだったのである。二週間以上も前の事件が原因とは、迷惑にもほどがあるだろう。
あとでミシェルに一言いってやらねばと思いながら、シェリーは大事そうに指輪を扱うレナにひとまず安心した。
「それじゃ、急ぐわよ。早くしないと、朝食の時間がなくなっちゃう」
シェリーは立てかけた杖を握ると、一足先に食堂へ向かった。
ギリギリの時間で朝食を終えたレナは、校舎外の集合場所にもギリギリの時間で滑り込んできた。
最後に来たのはもちろんレナである。センナに頼んでいた物をもらっていたら、遅くなってしまったのだ。
「はぁ、はぁ、すいま、せん、はぁ、遅れ、はぁ、ました!」
「まだ時間内なので大丈夫ですよ。早く並んでください」
レナは『はい』と答えて最後尾へと回り込む。
するとそこに、シェリーの姿を発見。さっきは慌てていて気付かなかったが、やっぱメインの発動体であるツーハンデッドソードは持ってきていなかった。
「やっぱ、持ってきてないのね」
「そりゃ、校則ぶっちぎってあの大剣を持ってくるような勇気はないわよ。ただでさえ飛行術は苦手なわけだし。ちゃんとセインに預かってもらうわ」
シェリーの駆るツーハンデッドソードは、その名の示す通り両手持ちの大剣だ。
鞘まで含めれば、重量は四キロを軽く超えるような代物である。
「あれ、じゃあセインさんは行かないんですか?」
「はい。今回は控えさせていただこうと」
二人の話を聞いていた昶は、隣で件の大剣を抱えているセインに問いかける。
セインはカトルの時に見せたように飛行能力があるはずなので、一緒に付いて行けそうなものなのだが。
現に、鳥類や幼い飛竜種をサーヴァントにしている数名は、連れて行くようであるし。
「風精霊なら飛行能力はあるのですが、私のような火精霊や地精霊、水精霊に飛行能力はありません」
「え? でもこの前は……」
「あぁ、あれは飛行力場です。人間で言う飛行術の劣化版のようなもので、本来は浮遊する程度の力しかありません。人間のように飛行するには、かなりの精霊素を消費します」
──あれって浮遊の延長だったんだ。
昶はセインの戦闘を思い返してみるが、あれを浮遊の延長とするのは………、どう考えても無理である。
となると、セインはやはりかなり格の高い精霊なんだなぁ、と昶は再認識した。
「主達について行こうとすれば、かなりの魔力をお借りすることになりそうなので」
「なら、付いていけるのは風精霊と、鳥みたいなのと飛竜種くらいなんだ」
「要約すれば、まあそういうことです」
ということは、カトルも居残り組になるのか、と昶は小さくつぶやいた。
そういえば、リンネやミゲルのサーヴァントはどうなのだろうかと、昶は数少ない名前を知る生徒を探して頭をきょろきょろさせる。
ミゲルの近くには特になにも見えないが、リンネの肩には尾の長い青い鳥が止まっていた。尾を含めなければ、片手に乗っかるような可愛らしいサイズだ。
と、付いて行く組、居残り組を含めて、昶が一年生のサーヴァントを物珍しそうに見ている内に、レイチェル先生の話は終わったらしい。
「それじゃ、行ってくるわね」
「おぅ」
「セイン、それよろしくね」
「かしこまりました」
レナと昶、シェリーとセイン、それぞれの主とサーヴァントの間で言葉を交わすと、サーヴァントである一人と一柱は主のそばを離れた。
飛行実習に関する規約をレナから聞いていた昶は、レナとシェリーの指に輝く指輪を確認する。レナはエメラルド、シェリーはルビーのはめ込まれた指輪をしていた。
これが、今回の二人の発動体らしい。他にも、ブレスレットの形状をしたものや、ピアスなどがチラホラ見られる。
小さくて邪魔にならず、重さもさもほとんど感じないアクセサリー系の物が好まれるようだ。
「準備はできましたね? 出発しますよ」
レイチェル先生の問いに『はーい!』『大丈夫です』との声があちこちから発せられる。
それを皮切りに、生徒達はゆっくりと上昇を始めた。
手には例外なく大ぶりな杖が握られており、付いていけるサーヴァント達も、自らの主と同じ速度で上昇を始める。
こちらは元々空を飛ぶための構造をしているので、生徒達より動きが滑らかだ。
そんな中、明らかに周囲より下手くそな女子生徒が約一名、昶の目に止まった。それも、よく見知った人物である。
「……あれ、なにやってんですかね?」
「……返答に困りますが、浮こうとしているのではないでしょうか……」
その約一名とは、レナ。
ではなく、赤紫のポニーテールが印象的なシェリーであった。
どういう状況かと問われれば、今にもバランスを崩して落下しそうなのである。
五〇センチほど下の地面に。
「なにやってんだか」
「…手伝う」
素人が命綱なしで綱渡りをするような際どい状況のシェリーを、レナとリンネが両側から支えてやった。
──あいつ、飛ぶのは上手いんだなぁ。
機敏とまではいかないが、抜群の安定感でレナの身体が浮遊していたのである。
普段の魔法がはちゃめちゃなだけに、驚きを隠せない昶であった。
「ご、ごめんね。それじゃ、セイン、行ってくるから」
「アキラ、くれぐれも問題は起こさないでね」
「…じゃあ」
三人は上空で待機しているグループに合流し、進路を北に取って進み始める。
昶やセインの視力を以てしても、もはや点にしか見えない。思いの外、スピードが出るようだ。
「帰って来るのって、いつぐらいだっけ」
「途中でいくつか休憩をはさみながら、山を超えた平地で休んでから戻って来るそうですので、早ければ昼過ぎ、遅くとも夕方までにはお戻りになる。と、主はおっしゃっておられました」
「遅くても夕方、か………」
「どうかなされましたか?」
「いや、ちょっと」
昶は、レナ達の飛んでいった方向を、憂いを秘めた目で見つめる。
「本当にそれまでに帰って来るのかな、なんて」
「つまり?」
「嫌な予感がする。なんとなく…………」
ノム・トロールの時みたく、なにか起きたとしても自分にはなにもできない。
自分の預かり知らぬ所で、手の届かない所で、もしとんでもない事件が起こったら。そう思うと不安でたまらなくなるのだ。
失くしてはいけないなにかが、いきなり消えてしまうのではないかと。
自分の忌み嫌っている力だろうと、それで誰かを助けられる、助けたいと思えるようになったから。
昶にはただ、祈ることしかできなかった。
そんな昶の懸念とは裏腹に、一行は順調に目的地へと向かっていた。
ちなみに、配置はバランスを崩しても支えられるよう、シェリーが真ん中で、右にレナ、左にリンネである。
中庭から離陸した一年生とレイチェル先生は現在、学院北部の大山林地帯上空を飛行していた。標高一五〇〇メートル前後の山々が東西に広くそびえ立ち、空路以外の移動手段は未だ確立されていないこの森は、通称“シュバルツグローブ”と呼ばれている。暗黒の森の二つ名でも知れるこの森は、日の光さへ差し込まない密林地帯だ。
人の介入がない分、多種多様な生物が生息しており、竜種のような大型生物も例外ではない。
とは言っても、地上のテリトリーに侵入しなければ、襲われることはまずないのだが。
「あんた、なんで飛ぶのだけは上手いのよ?」
「知らないわよ。あたしだって、なんでシェリーがそんなに飛べないのかわかんないわ」
そんな物騒な森の上でも、シェリーとレナはいつも通りに互いを罵り合っていた。
もっとも、けなす方とけなされる方が普段とは逆である。
「…足して割れば、ちょうどいいのに」
二人を見ながら、リンネはぼそりとそんなことをつぶやいた。消え入りそうなリンネの声であったが、レナとシェリーははっきりと聞こえたらしい。二人はじろりとリンネのことをにらみつけた。
びくんと肩を震わせた拍子にリンネはバランスを崩しそうになったが、間一髪の所でレナが助けに入って持ち直す。
にらんだ二人もにらまれた一人も、はぁぁ、と安心から深いため息をついた。
「まあ、確かにそうかもね」
「悔しいけど、あたしもそう思うわ」
リンネをにらんだ二人であるが、あっさりとそれを肯定した。まるで悟りを開いたかのような、虚ろな表情で。
本人が自覚していても、それを他人に指摘されるとけっこうキツかったりするわけである。
レナもシェリーも例に漏れず、リンネの悪意無き言葉のナイフにぐっさりとやられてしまったのだ。
精気の抜けたレナとシェリーの隣を、リンネは苦笑を浮かべながら飛んでいた。
さて、そんな不慣れな一年生の中で、ひときわ目立っている生徒がいる。
目立つと言えば、まず最初に思い浮かぶのはクラスのムードメーカ兼ぼけ担当のミシェルである。
が、今日は男子生徒の一グループに混じって、楽しそうに談笑していた。
まあここまでならいいのであるが、話している内容というのが、誰のおっぱいが大きいとか、誰のスタイルがいいだとか、誰の足に踏まれたいだとか、誰に罵られたいだとか。
そんな話ばかりしているから、周囲を飛ぶ女子のグループから冷たい視線を向けられていた。
もっとも、彼らに言わせればご褒美になってしまうわけであるが。
ミシェルでないとすれば、サーヴァントを連れた誰かだろうか。
サーヴァントとして一度でも契約すれば、その際に生じた能力は例え契約が解除されても継続されるので、契約を結びたがる精霊や獣魔は思いの外多い。
事実、中位階層の風精霊、鳥や飛竜種(幼体)といった獣魔のサーヴァントを連れた生徒もいる。
だが、それらも目立ちはするがあくまで主の隣を併走するだけだ。
では、いったい目立っている生徒とは誰なのか。
その生徒は、縦横無尽に宙を舞い、次々とアクロバティックな技を披露していた。
中には、三年生であってもできる者が限られるような技まで、いとも簡単に飛び出してくるのだから驚きである。
レイチェル先生の方も唖然となっていて、完全にフリーズしていた。
最初の方こそ、真似をしようとする無謀な挑戦を行う者もいたのだが、次々と決められる高難易度の技の前に戦意を喪失したらしい。
その生徒の特徴と言えば、闇夜と同じ艶やかな漆黒を湛えた、黒髪と瞳。
そう、編入生のアイナである。
レナとシェリーとそしてリンネも、三人の数十メートル上空をフルスロツトルで爆走するアイナを見上げていた。
「あれなら、適性はバッチリでしょうね」
「そうね。前にあたし、機動隊の演習見たことあるけど、アイナの方が派手だもん」
機動隊というのは、四枚の竜翼をモチーフとしたエンブレムを掲げる王室警護隊の一つだ。その名が示す通り、国内最速のマグス達で構成された部隊を指す。
周囲の大気をコントロールすることで、空気抵抗や揚力までをも自在に操り、時にその速度は優に時速二〇〇キロを超える。
名前の由来は、最速の竜である“アンセス”にちなんだものだと言う。個体数は非常に少なく、ここ三〇〇年近くは目撃情報が皆無とのことらしい。
身体の半分が尾だとか、透明な鱗を持っているとか、翼が四枚あるとか、おおよそ現在確認されている竜種とはかけ離れた姿らしいのだが、詳細は不明である。
と、竜種の生態の話はこれくらいにしておいて、話を元に戻そう。
つまりアイナのやらかしている技は、全て機動隊並み、と言うわけなのだ。
余談であるが、最高速度で巡行する場合は気流や空気を操作する技能が必要になってくるので、機動隊のメンバーは風属性を得意とする隊員が多いようである。
「そんなすごいの!?」
「…超絶技巧」
レナの発言にシェリーは驚愕し、リンネは賞賛の言葉を口にした。自分達と同年代の女の子が超人技を披露しているのだから、驚き具合も普段のそれより輪をかけて大きい。
飛べるか飛べないかでふらふらしているシェリーとは、まさに“天と地ほどの差がある”と言えるだろう。
まあ、今はそのことはいったん忘れて……、シェリーは周辺の景色へと視線を移した。レナとリンネも、シェリーに倣って眼下の森へと視線を落とす。
鬱蒼とおい茂った木々に阻まれて、地上の様子を見ることはできない。
しかし、その葉に包まれた下には、たくさん動植物、精霊、そして数多くの獣魔が暮らしている。
獣魔、それは人間以外の、魔力または精霊素を繰る能力を有する動植物の総称だ。
精霊以外の全てのサーヴァントは、竜種等も含めてこれら獣魔に分類される。
また、時に人間に危害を加えることのある獣魔の一部は、その危険度に合わせて五段階に分けられている。
先日学院に現れたノム・トロールは第五級に当たり、全体から見ればまだまだ安全な方だったりするのだ。
そんな物騒な話はさておき、もしかしたらクラスの生徒と契約を結んだサーヴァントの中に、このシュバルツグローブの森で暮らしていた者もいるかもしれない。
と、そんなことに思考を巡らせていたせいか、三人の知らぬ間に全体の高度が上昇していた。
もうそろそろ山頂なので、先生が高度を上げたのだろう。
レナ、シェリー、リンネの三人も、先生がいる辺りまで上昇を始めた。
もちろん、シェリーは両側をレナとリンネに支えてもらっている。
「ご、ごめんね~」
「いいわよ、どうせ口だけなんだから」
「…た、確かに」
なぜか感謝したのに、逆に非難されてしまうシェリー。
きっと日頃の行いが、悪いに違いない。もっても、本人は気付いていないようであるが。
「なによ~、二人してそんなこと言うなんて」
「…でも、事実」
「右に同じ」
本当、すごい信用のされ方である。見てる方が同情してしまうくらいに。
「ふぅぅ、でも空の上って空気が薄いわね。あたしにはちょっとキツいわ。そこんとこどうなのよ、体力バカ?」
「今すごく失礼な感じがしたんだけど、まあいいわ。息苦しくはないけど、バランス取るのに必死でそれどころじゃないわよ……っわあ!?」
危うく半回転しそうだったのを、レナが受け止める。
さすがに今のは効いたのか、顔に血の気がなくなっていた。
めったに見られないシェリーの怖がる顔を見て、レナはにししと笑うのだった。
そうこうしている内に、無事山頂を越えたようだ。
しばらく山を下っていくと、折り返し地点であるちょっとした平原にたどり着く。
「それでは、少し休憩しましょうか」
総勢五〇名ほどの一団は、ネフェリス標準時で一時間半のフライトを経て、ゆっくりと降下を始めたのだった。
下に降りると、あちこちでシートが広がり始めた。
重いものでなければ、持ち物の携行は許可されているので、バスケットからサンドイッチやバターロール、チョココロネ等が取り出され、口の中へと消えていく。
レナが今朝センナから渡された物も、こういった類の物だ。頑丈で軽い食器に、軽食やら水やらシートやらが入っている。
センナの相変わらずの準備の良さに感心しながら、レナはさっきまで一緒に飛んでいた二人の方へと視線をやった。
リンネは木の上で読書、シェリーは足を大きく広げて横になっている。
十代の女の子、しかも上位の貴族出身の淑女(であるべき人物)が、あろうことか股を広げて大の字で横になっているのである。
リンネの方はまだしも、シェリーの方はどうかと思われる。
しかも、
「疲れた~~~、飲み物ちょうだ~~~い」
だらしないことこの上ない。これで淑女なら、全世界の女性は今頃みんな聖女にでもなっていることだろう。
「はい、水」
レナは呆れながら持ってきたガラス製のコップを取り出すと、水の入ったビンを傾けた。
コポコポと音を立て、重力に従って透明な雫が落下する。
「ありがと~」
シェリーはよっこらせと上体を起こすと、水の入ったコップを受け取った。
当然、肩の下で激しく自己主張している二つの球体も、重力に引かれて上下に揺れる。
「………あんた、どこ見てんの?」
「べ、べつにどこも見てないわよ!」
とても、二つの大きな膨らみを羨望の眼差しで見つめていた、とは言えない。
でも、すごく羨ましい。
──いいなぁ……。あぁ、神様、これって不平等すぎます。
と、レナは正直あまり信じていない創造神に、大真面目に世界の不条理について問いかけるのであった。
「だいたい言いたいことはわかったわ」
まあ、レナは昶以上に考えていることが顔に出る少女である。
鋭いシェリーのことだから、きっとレナの思ったことを一字一句違わずに察したことだろう。
それがわかってしまったレナは(顔には出やすいが、洞察力は鋭いのだ)、恥ずかしさからぷいと顔を背けた。
と、そこに危なげなく杖にまたがったリンネが、ふわふわと降りて来る。
「さっき読んでた本、もう終わったの?」
「…その、途中まで、読んでたから」
レナの質問にリンネはもじもじと照れながら、さっきまで読んでいた本を顔を隠すようにして見せた。
蒸気機関の有用性と問題点について、とかいうタイトルの超難しそうな工学系の専門書に、そこは照れる所じゃないでしょとレナは少し苦笑い。
そういえば、リンネの趣味に機械いじりがあったっけ、とレナはふと思い出す。確か、時々シェリーの壊れた物を直していたような記憶がる。
「にしても、いくら『飛行実習』だからって、こんな遠くまで来なくていいのに」
「いつも学院の中だけじゃ、飛ぶのに窮屈だろうっていう学校側の配慮でしょ」
「そんな窮屈でもないと思うけどねぇ。てか、むしろ大きすぎる気もするし……」
最後には、もう飛行実習なんてなくなればいいのよ、と飛行術が壊滅的に苦手なシェリーは、とうとう学院の授業カリキュラムにいちゃもんを付け始める。
そんなことを言っていたら、普段の魔法実習で毎回みじめな思いをしている、自分を始めとした実習の成績悪い組はどうなるのと思ってんのよ。年に一回しかないんだから我慢しなさいよこのバカチンが、とレナはとりあえず心の中で罵っておいた。
と、シェリーへの呆れから、はぁぁ、とため息をついたレナの視界に小さな影が映った。
影は次第に黒く、そして小さくなっていき、ついには一人の少女の姿がレナの視界に飛び込んでくる。
「あの、ご一緒してもよろしいでしょうか?」
杖に横向きに座ったアイナが、若干気まずそうに微笑みながらやって来たのであった。
「別にいいわよ」
「いらっしゃい。えっと、アイナだっけ」
「…シェリー、名前くらい覚えないと、……失礼、だょ」
リンネに怒られて、ちろっと舌を出すシェリー。三人の許可を得られてほっとしたのか、アイナはふわりと着地すると、レナの隣に腰を下ろした。
「まだ皆さんの名前が覚えられなくて……」
と、アイナはばつが悪そうに照れ笑い。
まあ、全部で五〇人と少しもいるのだから、一日で全部覚える方が無理だろう。
レナは三人分のコップを取り出すとそれぞれにとぷとぷと水を注ぎ、内二つをリンネとアイナに手渡した。
「…ありがと」
「あ、ありがとうございます……!?」
リンネは丁寧な手つきで、アイナはぎこちない手つきで、それぞれレナの差し出したコップを受け取る。
レナが軽くにっと笑って水を飲むのを見て、リンネとアイナも水の入ったコップに口を付けた。
適度な冷たさの水に、アイナは、ぷはぁー、と気持ち良さげな声を上げる。
「すごいわね。見てたわよ、さっきの」
アイナがコップから口を離した所で、レナは先ほどの空で思ったことを口にした。
それを聞いたアイナは、大慌てでコップをシートの上に置き、
「いえいえそんなっ!? 私なんて、空飛ぶことしかできませんし!! それに、魔法だってまだこれっぽっちも使えないですから!!」
わたわたと両手を振って、私なんてまだまだですよと首を左右にぶんぶんと振る。
アイナの大仰な仕草がおかしくって、レナ、シェリー、リンネはくすりと笑った。
笑われたのが恥ずかしくて、アイナは顔を赤らめながら、そろそろと振っていた両手を下ろす。
ひとしきり笑った三人は、コップに残った水をあおった。
恥ずかしさで縮こまったアイナも、三人に倣って舐めるようにちびちびと水を口に含む。含みながら、他の生徒達を見やった。
その視線に違和感を感じたレナは、
「どうかしたの?」
と、心ここに在らずとなっていたアイナに問いかける。
「はぃ、こういうの、夢だったので、ちょっと」
三人の方に向き直りながら、しかしどこか別の誰かに語りかけるように言葉を紡ぐ。
「自分が今ここにいるのが、まだ実感できないんです」
なんだろう、笑っているのに、泣いてないなのに、何故だかとても悲しそうに感じる。
レナだけではない。シェリーとリンネも、アイナからそういった感情を感じ取ったようだ。
きっと、今まで辛い思いをいっぱいしてきたのだろう。
だったら、それ以上に楽しい思い出をこれから作っていけばいい。
そう思ったレナが声をかけようとした瞬間、空間を引き裂くように不気味な爆音が轟いた。