Act29:すれ違うしかできなくて……
書庫から草壁流に関係のあると思われる資料をある程度引っ張り出した三人は、別の部屋へ移動する。アマネは夕食の支度をするということで、ここからは昶とハヤテの二人での作業となる。作業室の長机にどんと積み上げて一冊ずつ精査していくのだが、これが思っていた以上に根気の必要な作業で今にも音を上げそうになっていた。
実家の蔵にある百年単位で昔の資料だって読めるのだからいけると思っていたわけだが、原因は量ではない。目の間の資料を持ち出す時から感じていたことだが、とにかく内容の重複しているものが多いのである。十冊ほど流し読みしたが、文言が多少違うだけで八冊は同じ内容だった。これでもまだ氷山のほんの一角に過ぎないのが恐ろしいところで、持ってきた内の何冊が違う内容のものなのか……。こまめに休みを挟まないと読む資料全てが同じ内容に思えてくる。
「ハヤテさん、今までこの作業全部一人でやってたんですか?」
「えぇ、始めの内はアキラさんと同じで、どれも同じに見えて辛かったです。もう慣れちゃいましたけどね」
「……慣れって怖いもんですね」
「人は慣れるものですから。だからアキラさんも、だんだんここでの生活に慣れてきますよ。今すぐという訳にはいかないでしょうけど」
にこっと笑い返してくれたところで、ハヤテは再び作業に戻った。一方の昶はハヤテのすすめもあって小休止を挟むことにした。
慣れないデスクワークのせいか、節々が凝り固まっている。思い起こせば、ここまで文字とにらめっこしたのはいつぶりだろう。少なくともこの世界に来てからは間違いなく最長記録である。しかも漢字と片仮名と平仮名のプレゼント付きだ。
色々と懐かしいと思いながら作業できたのだが、そう思えていたのは三冊目くらいまで。それ以降はただひたすらに苦痛であった。ハヤテさんよく続けられるなと、昶は黙々と作業を続けるハヤテを見ながらとても真似できないなと賞賛の眼差しを向けていた。
「お、ここにいたか」
するとそこへ一応は組織の長たる男、マサムネが姿を現す。
「どうだ? 進んでるか?」
その問いかけに、ハヤテは首を横に振る。しかし、マサムネは特段残念がる素振りを見せない。調査を開始してからずっとこんな調子だ、ハヤテだけでなくマサムネの方もどんな答えが来るのかわかっていた風であった。
「以前にも説明させていただきましたが、微妙に記載内容が違うのもあって全ページチェックが必要なので進捗は芳しくありません。今日のところも、見覚えのある内容しか出てきていない状況です。あえて言うなら、暴走したクサカベ流の討伐件数が一件増えたくらいです」
「まあ、気長にやるしか無いのは一日目にはわかってたことだ。時間はいくらかけてもいいから、見つけてくれや。えっとお前、アキラっつうんだったか? ちょっとついてこい。見てもらいたいもんがある」
見てもらいたいものとなると、源流筋関係だろうか。理由はどうであれ、リーダー様から直々の呼び出しに応じないわけにもいかない。
ハヤテも自分は構わないので団長の方をお願いしますと言われ、昶はマサムネを追って作業室を後にする。申し訳程度に整備された道を戻り、やってきたのは例の全金属製の戦闘艦の前。こっちだと促され、タラップを伝って甲板へ、そして船長室? と思われる船の中にしてはやや大きめの部屋へと案内された。
マサムネの私室も兼ねているのだろう。部屋の中にはいかがわしい装丁の本が何冊かあったが見なかったことにしよう。
「自分のことで色々と大変だとは思うが、こっちも余裕がなくてな」
適当に座ってくれやと言われ、昶は部屋の隅っこに積んであった丸いすを持ってきて腰掛ける。その間にマサムネは引き出しの鍵を開け、中から紙の束を取り出した。いかにも古そうな茶色く変色したものから、比較的最近書かれたであろう白い層も確認できる。
「とりあえず、こいつが読めるかどうか教えてくれ。話はそれからだ」
保存状態は悪くなさそうであるが、いかんせん経年劣化が激しいものが散見される。間違っても破ってしまわないようにそれを受け取ると、昶は慎重にページをめくった。
「今度は英語か……」
「エイ……なんじゃそりゃ?」
「うちの国とは別の国が使ってる言語」
「つまり、読めないってことか」
表情には出さないよう努めているものの、声音から落胆しているのがバレバレだ。
今日何度目になるかはわからないが、昶がここに来てからまだ四半日も経っていない。そんな相手の言葉をこうもあっさり信用するのは、組織の長としてどうなのかと首をかしげたくもなる。しかも直接切り合ったり殴り合ったりした間柄の相手を。もっとも、それがマサムネの人を惹き付ける力といえなくもない……か。
「いいや、話したりはできないけど、読み書きならどうにか」
「え? そんなもんなの? アマネでも全然わかんねぇって言ってたのに」
「こっちの世界は無駄にグローバル化が進んでてな、全世界規模で交流させられる関係でよその国の言葉も少しは知ってないとどやされるんだよ」
「クローバーだかなんだかわかんえぇけど、とにかく読めるってことでいいんだな?」
クローバーじゃなくてグローバルな、と訂正するもマサムネが聞いている様子はない。
アマネの苦労がまた一つわかったところで、昶は英文の古文書を読み進めてゆく。
字のクセが強いものの、読めないこともない。時間はかかるが、少しずつ読み進めてゆく。虫食いや字の滲んで欠けている部分は前後の文脈で類推し、知らない単語も同じようにして解読を続ける。
そうして三枚ほどめくった頃、どうしても気になる単語がでてきた。
「なあ、質問があるんだけどさぁ……」
「お、なんだ?」
「ヴァルー……リヤ? ってなんだ?」
いきなり核心を突いたその言葉に、マサムネは目を丸くした。
「あ、あぁ……名前だけならな。だからオレ達もソイツに関する情報を片っ端から集めてるところだ」
明らかに動揺している。本当に名前だけしか知らないのなら、情報を集めているはずがない。その先の、どんな代物なのかざっくりとした概要くらいは知っていると見ていいだろう。
これ以外の──自分達にも読める別の筋の情報と符合してしまったから驚いていたのだろう。まさか、同じ単語が出てくるとは思わなかった、と。
「お前のチカラと違って、資料が少ないからな。手元にあるのがソレだけっつーわけだ」
昶は頻出する特定の単語に絞って、更に古文書を読み進める。単なる見知らぬ単語はちょくちょく出て来るが、ほとんどが前後の文脈からして人名や地名だ。他にも今では使われなくなったと思われる動詞なんかも出て来るが今回に限ってはあまり関係ない。
人名でも地名でもない、頻出する固有名詞。その条件にピタリと当てはまる三つの単語が浮かび上がる。
ヴァルーリヤ、レクスタパス、そしてカルブンクルス。この三つについての説明……のような文章が更に続いていた。形状は……よくわからないが、宝石のような見た目をしていて、いずれも霊装としては破格という単語でも不足するレベルの力を秘めているそうだ。
それこそ、たった一人がこの道具を持っているだけで一国の軍隊を相手にできるほどの。たった一人で一国を相手に?
「もしかして……あいつも」
昶の脳裏に引っかかるものがあった。そんなやつを一人だけ知っている。
記録上は一世紀以上前から存在し、神代の時代の宝具を再現し、殺しても死なない規格外の存在。
エザリア=S=ミズーリーという、バケモノという形容詞ですら生ぬるい錬金術師を。
「いや、考えすぎだ……。そもそも、別世界なんだ。あるわけ…………」
しかし、その考えを昶は途中で否定した。『この世界と地球は、なんらかの形で繋がっとる、とは思えへんか?』というエザリアの言葉がどうしても頭から離れないのだ。
五行思想が存在しないこの土地でも、五行思想の観念事態は通用する。だから基本的な術はこの世界でも使うことができる。だが、真言は? 雷法は? 地球の神々や星の権能を借りる術はどうだ? それらが問題なく使えるということは、この世界は自分達の世界と何らかの関係を持っていてもおかしくない、いや関係がなければ使える道理がないのである。
昶がこの世界で経験したこと全てが、エザリアの言葉を真実であると肯定していた。
だとしたら、二つの世界に同じものが存在していたとしても不思議ではないのではないか。それが繋がった瞬間、背筋に電流が走った。
エザリアの使った術、とてもじゃないが一人の術者にできる範疇を超えている。なんらかの宝具でも使っていなければ説明ができない。そう、この古文書の中に出てくる宝具のような。
「ん? どうした? いきなり顔真っ青にしやがって」
「いや、なんでもない」
エザリアとの戦闘を思い出しながら、昶は古文書の中から該当するものがないか目を皿のようにして探す。だが残念ながら、どのような効力を持つのかは書かれていない。
あるのは三つの宝具がいかに強力で、偉大で、畏れ多い存在かということが延々と綴られているだけだ。歴史の転換点とも言える場面には必ず登場し、神とも見紛う力を持ってして新たな体制を築いてゆく。形はその時々によって異なり、腕輪であったり、首飾りであったり、発動体の宝珠であったりとまるで統一感はない。
いや、順序としては逆だ。歴史の転換点に宝具が現れたのではない。宝具を手にした者が現れたことで、歴史の転換点が発生したのだ。神とも見紛う力を与えてくれる宝具、一国の軍隊にも相当する権能、それを以てすればできないことなどありはしない。
あと書かれているのは、その時々で宝具を用いた者の起こした奇跡について。とても一人では扱えないような強大な魔法を使ったとか、新しい魔法を次々と生み出したとか、無限とも言える膨大な数の魔法を同時に扱ったとか。
どれもエザリアには該当しているような気がするが、微妙に違っているようでもある。これだけでは情報が足りない、ということか。
「で、どんなことが書いてあるんだ?」
「まるで神様みたいな力を使って奇跡を起こした、だってさ」
「なんだ。どこに隠してある的なことは書かれてないのかよ」
マサムネはわかりやすいほどがっくりと肩を落とし、ため息をつく。
「……あのさ、俺が嘘ついてるとか思わないのか?」
「ついてねぇだろ? そんくらい目ぇ見りゃわかるっての。もういいから戻っていいぞ」
こいつは本当に人を信用しすぎじゃないだろうか。いや、本当に嘘をついているかどうか見抜いている可能性もゼロではないのだが。
しっしと手のひらを払うような仕草で昶を追い出し、マサムネは椅子に深く腰掛ける。神のような奇跡を起こせる宝具。が、肝心の場所に関しての情報はなかった。紙だけ見れば新しいものも混じっていたので多少の期待はあったのだが、あてが外れてしまった。
とは言え、まだ誰にも読めない資料はあったはず。そっちの発掘作業も進めつつ、別方面からも探さなければ。
「スメロギ様、報告があります!」
昶が部屋を出てからすぐ、慌ただしく部屋の扉が開かれた。
会食を終えてすぐ、昶は神妙な面持ちのアマネから声をかけられた。
「アキラ様、少しお時間を頂いてもよろしいでしょうか?」
断る理由も特にないので、昶は頷いてアマネの後ろに続く。少なくとも、料理の感想を聞きたいわけでないことはわかる。
船を降り、二人は建物群の中でも中心の方へ向かう。建物の周囲には高い塀が作られ、入り口には門番が二人。門番はアマネに一礼すると道を譲り、二人は更に中へと移動する。なんとなく声をかけづらい昶は黙って後ろをついて歩くが、周囲の様子が明らかに他と違う。得も言われぬ圧迫感に、無性にのどが渇いた。
そうして厳重な警備と鍵付きの扉を抜けたところで、ようやく昶はどこに連れてこられたのかを察した。
「こんな牢屋に何の用事が?」
「一つ、確認していただきたいことがございまして。本来なら、このような場所にお連れするのは大変心苦しいのですが」
木造家屋の中にあって唯一の石造りは、簡単に壊されないようにするためだろう。重く冷たい金属製の扉を開けると、八畳ほどに仕切られた牢獄が目にとまる。牢屋の数は十ほどで、奥の方には人影が二つほど見え……。
「アキラさん!」
この場にいるはずのない人物が鉄格子に手をかけて自分の名前を呼ぶ光景に、昶は言葉を失った。
それは、まったくの偶然であった。先日ほどでないにしても、飛行術の決勝レースでは魔法弾の応酬が行われていた。メルカディナスの周囲を何周も回るには相応の魔力が必要とされ、しかも参加者が全員完走できるようなコース設定にもなっていない。例え妨害がなかったとしても、完走できるのは半分もいれば良い方だろう。
そんな決勝レースはまだ序盤、みな魔力には余裕があるので相手の力量を見定めるため各所で小競り合いレベルの魔法戦が発生していた。生存能力、飛行技術、そして魔力を高レベルで兼ね備えたアイナは上級生たちにガッチリとガードされ、危なげなくレースを進めていた。
先日の過酷極まる予選レースと違い、まだまだ余裕があったからだろう。マギア・フェスタの観戦のため、人の流れは大半が街の中心に向かっている。だがその流れに逆行する二人組の姿が、アイナの目にとまったのである。
運が良かったかそれとも悪かったのか、目深にかぶっていたフードは風にあおられて隠していたものをさらけだしてしまった。この近辺で黒髪の人はそうそういない。その黒髪に引き寄せられてしまえば、おのずと顔にも目がいく。その顔を見間違えるはずがない。物憂げな表情を浮かべている昶が、一瞬にしてアイナの目に焼き付いた。昶はフードを被り直すと、どこからか現れたもう一人に手を引かれどんどん街の中心から離れてゆく。
今日はレナとシェリーの集団戦の試合もあるはず、それを見ないのはどう考えたっておかしい。理由のない胸騒ぎが、アイナの胸をきゅっと締め付けた。
ここで追いかけなければ、もう二度と会えないかもしれない。被害妄想のような強迫観念が頭の中を隅々まで支配する。もうレースどころではなかった。
どうやればここから自然に抜け出せるか、すべての思考がその一点に費やされる。周囲の先輩達を振り切って追いかけるのも不可能ではないだろう。だが、自分と同程度の技量を身に着けている先輩もいる。連れ戻される可能性がある以上、それは得策ではない。
それ以上に、本気で昶に逃げられれば追跡など不可能である。街を出てしばらくすれば深い森も現れる。鉄道の引かれた平野部に出てくれればその限りではないが、直感がそれはないと告げていた。
「アイナちゃん、ボーっとしないで。進路ズレてる」
「す、すいません!」
昶のことに気を取られ進路変更が一瞬遅れた。後ろから先輩に叱責され謝罪の言葉を返す。その振り返った時、こちらに魔法弾を放ってくる集団が見えた。先輩方なら簡単に防いでしまうのだろうが、これしか思いつかない。
「先輩! う、後ろ!」
わざと大げさに叫んで減速しつつ、アイナは先輩を突き飛ばすようにして魔法弾をかすめるように動いた。不安定な軌道をとりつつ急降下。きりもみしながらさっきまで飛んでいた場所に視線をやるが、先輩達がこちらに向かってくる様子はない。
よし、これでアキラさんを追いかけられる。そうこうしている内にだんだん地面も近くなってきた。とりあえずきりもみ状態から姿勢をただし、半ばぶつかるようにして街の端にある建物の上に着地する。当然、昶の姿は視界内に収めている。どうやら、厩舎の方に向かったらしい。馬での移動となると、ますますもって怪しい。肉体強化を使える昶は馬なんて使わなくても早く走れるし、そもそも乗馬に慣れていないのもあって自分から馬に乗ったりはしない。そう、誰かに案内してもらう以外は。
絶対に見失う訳にはいかない。レース以上の緊張感に身体がこわばる。そんな張り詰めた緊張感が、近づいてくる魔法兵の気配を捉えた。レースの救護役だろう、途中脱落する原因は魔力切れか魔法戦による被弾の二種類しかなく、その内の約八割が魔法戦だ。
心配してくれるのはありがたいが、ここで病室に連行されるわけにはいかない。あの厩舎から一番近い出口は……。レースのおかげで街の概略図は頭の中に入っている。アイナは見つかる前に屋根から降りると、一目散に昶の出て来るであろう場所まで走った。
あまり近付きすぎても昶に見つかってしまう。こちらの気配を感づかれないためには、可能な限り距離を取らなければならない。メルカディナスから出ていく昶の姿を確認したアイナは、その人影が目視できるギリギリの距離を保ちつつ追跡を開始した。地平線の点のようにしか見えない人影を追い続けるには、並外れた集中力を要する。もう脳の神経が焼き切れてしまうのでは思うくらい、アイナは常に気を張って目を凝らし続けた。
幸いだったのは、森の中を通るとは言っても比較的整備のされた道を通ってくれたことだろう。馬で移動するので、最低限の舗装はされている。下に降りるのすら難しそうだった予選レースの森と比べれば、なんてことはない。あっちなら絶対に見失っていただろう。
とはいえ、それでも普通の精神力でできることではないのに変わりない。精神力と魔力の限界を感じつつ、何時間もアイナは昶を追いかけ続けた。時間が経つにつれて人の気配はなくなり、舗装されていた道も獣道同然のものへと変化してゆく。
このあたりになると、朝食でとったエネルギーと水分はすっかり使い果たし、激しい喉の渇きと空腹に思考がまとまらなくなってくる。時々眠ってしまいそうになるのを必死で我慢し、霞む目をごしごしとこすって追い続けた。
そしていよいよ、二人は馬を降りて徒歩で道があるように見えない森の中へと入っていく。ここから先は、こっちも歩いて追いかけた方がいいだろう。音を立てないようにゆっくりと着地したアイナは、抜き足差し足忍び足で木陰から二人を見やる。
何も考えずに追いかけてきたものの、正直これ以上は厳しい。早く飛ぶのには慣れているが、ゆっくり飛ぶのに慣れていないのも原因の一つだろう。だがそれ以上に、相手に見つからないよう追跡し続ける行為そのものが、体力と精神力を根こそぎ削り取っていったのである。特に体力以上に魔力の方が深刻で、アイナは今までに経験したことのないような脱力感に見舞われていた。
そんなアイナが辺り一帯に仕掛けられた警報術式気づくことなどできるはずもない。気付けば三人に取り囲まれ、反抗するだけ無駄と悟ったアイナは連行されるがままこの牢屋へと押し込まれたのであった。もっとも、反抗するだけの気力なんてこれっぽっちも残っていなかったが。ようやく追跡から開放されたアイナが眠りに落ちるのに、長い時間は必要なかった。
見張りから報告を受けたアマネが目にしたのは、完全に眠りこけたアイナであった。衣服に汚れが目立つが、レイゼルピナ魔法学院のものであることは確認できる。この時期にこの場所でこの制服、昶と同じマギア・フェスタに参加している生徒だろう。
「まったく、あの子は……。あれほど注意しなさいと言っておいたのに」
追跡者に気付かなかったキャシーラに、アマネは眉間をつまんで苦い表情を浮かべる。とはいえ、昶の関係者なら無碍に扱うわけにもいかない。彼女がこちらに危害を加えようとするなら別だが、その線も恐らくないだろう。面倒なことに違いはないが、先日の侵入者と比べれば可愛いものだ。相当疲れているようだし、昶と会わせるのは起きてからでも遅くない。
「彼女が目を覚ましたら教えに来てください」
見張りに指示を出したアマネは夜の会食の準備に戻り、ついでにキャシーラにキツめのお説教。そして会食の最中に見張りからの連絡が届き、現在に至る。
眠気まなこだったアイナも昶の姿をとらえた途端、意識が急速に覚醒した。気づけば牢の鉄格子に手をかけ名前を叫んでいた。
視線の先には呆然としている昶がいた。それもそうだろう。自分がどれだけバカなことをしているのかちゃんと自覚している。奨学制度の継続評価に直結するマギア・フェスタを放り出してきたのだ。いや、それだけなら困るのは自分だけなのでまだいい。
レースに参加していた他の先輩達は、優勝のために自分を勝たせようと色々と戦略を立ててくれたのに全部無駄にしてしまった。今になって結果が気になってくる。自分の穴を埋めるくらいのことはできるだろうが、先日のことを考えると安心はできない。
姿が見えないせいで先輩にも同級生にも心配もかけているだろう。もちろん、レナ達にも……。
だとしたら…………なにが昶にこのような行動をさせたのだろう。きゅっと鉄格子を握る手に、無意識に力がこもる。アイナのまっすぐすぎる視線を直視できず、昶は視線をそらした。
「彼女、アキラ様のご学友の方でしょうか?」
昶の心中を察して、アマネは耳元でささやく。昶はうつむいたまま無言でうなずいた。
「お話、されますか?」
「いや、いい……。ただ、手荒なことはやめてくれ」
「それは心得ております。可能な範囲内で善処致します」
昶はもう一度顔を上げ、ちらりとアイナを見やる。どうしてこんなことをしたのか言ってください、と訴えている。しかし、やっぱり答えることはできない。
ちゃんと説明をしようと思えば、この草壁の呪われた血統から説明しなければならなくなる。その時のアイナの反応が昶に二の足を踏ませていた。
この事実を知った時、アイナはどんな気持ちを抱くだろう。今までのように接してくれるだろうか、それとも怖がられるだろうか。もし後者だったとしたら、もうアイナとは元の関係には戻れないだろう。一度できてしまった壁を取り払うのは簡単ではない。
しばらくの間アイナの方を見やっていた昶は、そのままきびすを返して外に向かおうとする。
「アキラさん! どうして、どうしてなんですか! 答えてください! どうしてこんなことをしたんですか! アキラさん!」
しかし、昶はアイナの悲痛な叫びに振り返ることなく出ていってしまった。崩折れて嗚咽するアイナの姿は、アマネの胸にも深く突き刺さる。本当に純粋に、この子は昶を追いかけてきただけなのだと。だが、昶の話したくない事情もわかるだけに、すれ違うしかできない二人にもどかしさを覚えた。
「この場所を言いふらさないのでしたら、メルカディナスまでお連れ致しましょう。ご希望がりましたら、可能な範囲で対応致します。もうしばらく我慢してください」
優しく語りかけ、アマネは時々振り返りながら部屋から出ていった。アマネが出たのを確認すると、見張りは部屋に鍵をかける。牢屋の中は再び静寂に包まれる、虚無感が更に増してアイナの中をぐちゃぐちゃにしいてゆく。聞こえるのは、自分のくぐもった泣き声だけ。
昶を思ってこんな場所まで追いかけてきたのにたったひと言すらかけてもらえないなんて、胸が締めつけられるように痛い。そこへ無力感が加わり、一層惨めな気持ちになる。
「アれ? ボク以外にこんな所に入れラれるような変わり者がいたンだネ」
そんな泣きじゃくるアイナに、向かいの牢屋から寒気のする声がかけられた。