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マグス・マグヌス  作者: 蒼崎 れい
第一章:若き陰陽師と幼きマグス
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第三話 初めてのおつかい Act03:トランシェ

 街の入り口に近付いてきたので、リンネは馬の速度を徐々に落としていった。

 そうして完全に停止すると、恐る恐るといった様子で慎重に馬を降り……、

「キャッ!?」

「うぉっとぉ……」

 ようとして、馬の背中に乗せた手を滑らせた。

 間一髪の所で昶が受け止め、リンネはことなきを得る。

 馬の方も驚いて暴れるようなことはなかったので、なによりだ。

 だがまあ、それとは別の問題が発生したわけで。

「…ア、アァ、ァキ、アキ……アキ」

「はぁぁ、ちょっと待ってろ。金具外すから」

 背中から地面に落ちそうになったリンネは、昶にお姫様抱っこ状態で受け止められてしまったのであった。

 引っ込み思案で人と話すのも苦手なリンネが、男の子に耐性があるはずもなく口をぱくぱくするだけ。もう昶にされるがまま、まるでお人形さんのような状態である。

 恥ずかしさから頬がぶわぁっと朱に染まり、どこを見ればいいのかわからない目は空中を右往左往する。

 そして最後には、頭からぼわっと煙を吹いてオーバーヒート。

 降ろしてもらえるまでもうどうにでもなれと、明後日の方向を向いたまま胸の前で手をもじもじしながら縮こまったのだった。

 一方で、リンネが驚いた馬に街中を引きずられる図を回避したことに安心している昶は、かちゃかちゃとリンネの足が引っかかったままの馬具を外しにかかる。

 自らの腕の中で、恥ずかしさのあまり沸騰しちゃったリンネに気付いた様子はなく、昶は女の子一人を抱えたまま片手で器用に外して見せた。

 まるでお姫様でも扱うかのような手つきでリンネを降ろすと、最後は馬具に装着された発動体を手渡してやる。

 リンネはそれを、普段ではありえないような超高速の早業でひったくった。

「…ぁ、あぁ、ぁ、あり……がと」

 その直後にはくるりと半回転して、昶に背中を向ける。

「いいって。怪我とかなかったんだし。それより、とっととシェリーに薬買って帰ろうぜ」

 背中を向けたまま、リンネはこくこくと頷いた。

 それから馬の手綱を引いて、街の中へと入っていく。

 昶もリンネの隣に並ぶようにして、街の様子を見回しながらそれに続いた。




 二人がやって来たのは、トランシェという名の小さな街である。

 ここら近辺に点在する村の中心地で、宿場町として発展していき今に至る。

 五メートルほどの幅しかないメインストリートには、小さな商店や宿屋が並び活気に溢れていた。

 と言っても、レイゼルピナ全体から見れば、末端も末端の非常に小さな街ではあるが。

 それでも、食料から日用雑貨、農業用具から護身用の武器まで手には入るトランシェは、周囲の村々にとってなくてはならない存在である。

 そんなトランシェのメインストリートから一本ずれた道を、リンネと昶は歩いていた。

 理由は簡単で、リンネは人混みが苦手だからだ。

 なんでも、あまり人が多い所に行くと気持ち悪くなるんだそうな。

 最初は、学院での講義も辛かったらしい。

 それなのによく留学なんてする気になったなぁ、と思わずにはいられない昶であった。

「そんなに苦手なんだ。人の多いとこ」

 苦笑いしながら質問する昶に、リンネはこくこくと勢い良く頷く。

 メインストリートを見た瞬間、顔を真っ青にしながら別の道へと入っていったリンネを思い出して昶はふっと笑った。

「…わ、笑わなく、たって」

 そして、リンネに怒られた。

「ご、ごめん。俺が悪かったから、機嫌直して。な?」

 ぷいっと顔を背けることで、リンネは昶の問いに答える。

 つまり、許しません、の意である。

「…………」

「…………」

 ──気まずい。

 いつもレナに対して色々と気まずい事件をやらかしている昶であるが、リンネの場合は気まずさの方向性がレナと大きく異なるのだ。

 レナの場合、気を紛らわせるためにまず口が出る。

 そして、間髪を置かずして次に手が出る。足も杖も出る。

 そのお陰で昶もレナも、気まずさの原因となった事件を忘れ、最終的に昶が土下座する形で決着が付くのであるが……。

 リンネは口も手も足も杖も出ない。

 どころか、完全に黙り込んでしまう。

 そうなると、ついつい先ほどあった事件へと意識が向いてしまうのである。

 あの瞬間には冷静でいられた思考も、今となっては見る影もなく荒れに荒れていた。

 緊急時とは言え、リンネをお姫様抱っこしてしまったのだ。

 ようやく今になって、リンネの身体の感触が両腕によみがえってくる。

 レナよりも体温が高くて、レナよりも少し軽くて、腕の直接触れた太ももはしっとりと汗ばんでいて、手を回した肩はブラウス越しにぷにぷにとした感覚が伝わってきて。

 そして宙に舞った髪からは、リンネの甘い匂いに混じってミントのようなスッと鼻を通る香りが、鼻腔へなだれ込んできた。

 ──って、なんでレナと比べてるんだよ俺は!

 その理由に昶自身が気付くには、もう少し時間がかかりそうだ。

 もっとも、

 ──…私って、そんなに女の子として、魅力ないのかなぁ……。

 昶がそれを極力表情に出さないようにしているのもあって、リンネとしてはちょっとだけ不満があったり。

 昶の下手くそなポーカーフェイスでも、なんとか誤魔化せたようである。

 リンネも別に、昶に気があるわけではない。

 好きは好きだが、それは友人としての“好き”であって、そう言う意味の好きではないのだが、レナやシェリーに対してはあからさまに恥ずかしがるのに、なぜ自分にはそうならないのだろうか。

 とまあつまり、あんなことがあったのに表面上はなんでもないような昶の態度から、女の子としての自信を喪失寸前のリンネなのであった。

 ただでさえ、胸もない上にお子ちゃま体形で、女の子の魅力には自信がないのに。

 それから一言も言葉を交わさないまま、気まずさだけが積み重なって今にも限界を迎えようとした時、

「…ついた」

 目的のお店までたどり着いた。

「じゃあ、入ろっか」

 リンネはこくんと昶から視線をずらして頷くと、手近な柱に手綱を巻き付けた。




 二人がやってきたのは、街で一番大きな雑貨屋である。

 一番大きいと言っても一階のワンフロアだけで、広さは学院の講義室とほぼ同じくらいだ。

 それだけ聞くと一見広そうにも思えるのだが、そこに大人二人がぎりぎりすれ違える程度の間隔で棚が置かれているとなれば、話は別である。

 しかもよく見れば、その品物の大半が高価なものなのがわかるだろう。

 違うとすれば、店の入り口付近にある生鮮食品くらいだ。

 近辺の村々でとれた穀物や野菜、村の近くを流れるセキア・ヘイゼル川で()れた川魚、果物、一応は肉も置いてある。

 こちらは周辺の村々から買い出しにやってきた者達でも、ちょっと奮発すれば楽々買えるようなものなのだが……。

 銀の食器や瀟洒(しょうしゃ)なティーセット、意匠を凝らした陶磁器、アンティークに分類されるような小さな置物、写実的な絵画。

 こちらの方は、どう考えても村人に買えるような代物ではない。

 では、これらの商品はどの客層を狙って置かれているのか。

 それは、もう少し他の商品を見ればわかる。

 架空の物語を綴った書籍、若者向けのカジュアルな服、そして極めつけは筆記用具。

 ここまでくればわかるだろう。

 この店は主に、レイゼルピナ魔法学院の生徒を客として商売をしているのである。

 もちろん実家から色々持ってきてはいるだろうが、そこは多感なお年頃の生徒達。

 それだけでは物足りないし、味気もないし、なによりつまらない上に流行から遅れてしまう。

 トランシェの次にこのような品物を売っている店となると、もうフィラルダしかない。

 だがそちらは地理的に遠く、馬を飛ばしても標準時で二〇分以上はかかる。

 その上街そのものも巨大なせいで、移動にも非常に時間がかかってしまう。ほとんど、半日がかりと言っていいだろう。

 それに対して、トランシェなら馬を使えば標準時で五分あれば着く。

 そして街もさほど広くないので、ここの雑貨屋以外にも色々見て回ることができるのだ。

 そのため、学院の生徒からはなにかと重宝されているのである。

 ちなみに、品揃えはいいのだが品数が残念なことでも有名である。

「いらっしゃ~い、毎度どうも。今日はどういった品物をお探しで?」

 リンネが重たい扉を引っ張って開けると、入り口近くのイスにどっかりと腰を降ろしている店員が話しかけてきた。

 中肉中背で、人当たりの良さそうな男性である。恐らくは、商品が盗まれないよう見張っている店番であろう。

 店長と言うには、少しばかり若すぎる。

 だがまあ、この人ならリンネも気兼ねなく話せ……。

「……あのぉ、リンネ、さん?」

 気付いた時には、昶の前を歩いたリンネは後ろに回り込んでいた。

 そして昶の影に隠れるようにして、ちらりと店番をのぞき見る。

 なるほど、レナが付いて行こうとしたはずだと、昶は納得した。

 男の人が苦手なのはわかっているが、初対面ではこんな人の良さそうな人でもだめらしい。

 そういえば昶も、リンネと初めて会った時は少し避けられていたような気はしたが、ここまでではなかった気がする。

「俺、こういうの全然わからないんだからさぁ。な……?」

「…わ、わかっ……た」

 リンネは昶の後ろからひょこっと顔を出し、両手をぎゅぅっと握った。

 それから数秒、ようやく決意の固まったリンネはてくてくと昶の前に出る。

 その緊張たるや、膝が曲がっていなかったり足と手が同時に出るほどである。

「…あ、あのぉ!」

「はぃ、なんでしょうか?」

「…く、薬! あ、あります、か? 風邪、薬……なんですけど」

「あぁ、どうだったかなぁ。ちょっと待っててくださいね。店長~!」

 店番は店の奥の方を向くと、耳に心地よい声音で声を張り上げた。

 すると、

「今行くから、少し待っててくれー!」

 奥の方から、野太い声が返ってきた。

 それからがしゃがしゃと、なにやら品物を整理しているような音がしばらく続き、

「済まないな、待たしちまって。で、なんなんだ?」

 恰幅の良い、大柄の男性が現れた。

 体重はだいたい、リンネ二人と半分くらいありそうである。

 腹は少々出っ張ってはいるが、腕や足には強靭そうな筋肉が顔をのぞかせている。

 それに対して、目は子供のように大きくくりくりとしていて、愛嬌はたっぷりだ。

 この人に勧められれば、例え欲しくなくても買ってしまいたくなるような、そんなオーラを放っていた。

「こちらのお客様が、風邪薬が欲しいと」

 店番は、店長とリンネ達の間を交互に見つめながら言った。

 それから店長はリンネの方を見て、う~ん、と困った顔。

 店長に悪気はないのだが、いかんせん(いか)つい顔のせいか怒って見える。

 先の店番でも気後れしていたリンネは、もう顔真っ青の冷や汗だらだらである。

 ついにはふらふらとし始めたので、昶はその肩をぐっとつかんで支えてやった。

「すいません、そいつぁ品切れでして」

「…ないん、ですか?」

「えぇ。最近ちょいとばかり風邪が流行ってるせいで、今週は学院の生徒さん達がよく買いに。うちとしても売りたいのは山々なんですが、無いものは売れません」

 それもそうか。この雑貨屋は、少なくない学院の生徒が訪れる店だ。

 学院に保管してある薬がなくなるほど風邪が流行っているのだから、当然ここに買いに来る生徒がいてもおかしくはない。

 むしろ、ごく当たり前の思考と言っていいだろう。

「それじゃあ、次に入荷するのはいつになりますか?」

 念のため、昶は店長に聞いてみる。

 少しはレナの代わりに、リンネを助けてやらなければ。

「早くても、安息日の次の日になります。つい昨日、荷車の車輪が壊れちまいまして、今も修理中なんですよ」

 と、店長は右手の親指を立てて背中の方──店の奥を指さした。

 よぉ~~~く耳を澄ませば、確かにノコギリやらトンカチやらの音が聞こえる。

「…じゃあ、終わったら、今すぐ、行ってくれます……か?」

 初対面の厳つい店長にびくびくしているリンネであったが、いつの間にか水を得た魚の如く目をきらきらさせていた。

 単純に機械だけでなく、きっとこういった作業も得意なのだろう。

「んあぁ、まあ、できるんならな、今すぐに行っても。もう荷物は届いてるんで」

「…手伝わせ、て……ください」

「そっちの兄ちゃんじゃなくて、君がか?」

 度肝を抜かれている店長をしりめに、リンネはこくんと頷いた。

 それも、いつもより力強く。

「邪魔にならないように、お願いしますよ」

 店長はぽりぽりと頭をかきながら、二人を店の奥へと案内した。




 二人を連れて店長がやって来たのは、馬のとめてある小さな小屋であった。

 木の角材で仕切られた内側では、二匹の馬がジャブジャブと水を飲んでいる。

 国内でも最安値を争う干し草が小屋のあちこちに積み上げられ、独特の臭気を放っていた。

 その中には今、いつもとは違うものが運び込まれている。

 荷台の修理に持ち込まれた木材である。

 その横には、片側の車輪が無残に潰れ、シャフトの折れ曲がった荷車の姿があった。

「あれ、どしたんですか店長?」

 修理を請け負っていた線の細い男は手を休め、子供二人を連れてやって来た店長を見やった。

 その子供の着ている服には、線の細い男も見覚えがあった。

 王立レイゼルピナ魔法学院。国内外でそれなりの地位を持っている貴族か、あるいは一流商社の子息令嬢が通っておられることで有名な、魔法を学ぶ学校の制服である。

 そんな雲の上にお住まいのお方が、どうしてこんな所に。

「ちょっとな、手伝うって仰られて」

 と、店長も困ったもんだと肩をすくめる。

 リンネは昶に発動体を預けると、制服が汚れるのも気にせず荷台の横に回り込んだ。

 まん丸と目を丸くする店長と線の細い男は無視して、壊滅的に折れ曲がったシャフトを見つめる。

「…これ、劣化のせいだけじゃ、ないです。重いもの、載せすぎ……ですよ。重さに、耐えられなくて、折れ曲がった感……じです」

 リンネはおもむろに、両手をその折れたシャフトの部分へとかざした。

 左中指の、グリーンサファイアがはめ込まれた指輪が強烈な光を放ち、リンネの掌にもぼぅっと淡い光芒が灯る。

 すると、折れ曲がったシャフトに変化が生じた。

 タイヤを支える部分がぽっきりと折れ曲がったシャフトが、だんだんと元の形に戻っていくのである。

 切断面の金属パイプは植物の根のように繊維状の手を伸ばし、互いに絡ませ合う。

 そして十数秒後には、修理不能で交換待ちだったシャフトは完全に復元していた。

「…錬金術の冶金(やきん)……と、土精霊(グノーメ)を操作、すれば。これくらい、なら」

 自信はあまりなさげであるが、それでもちょっぴり誇らしく、リンネは微笑んだ。




 それから気を良くした店長と線の細い男は、リンネの協力を快く受け入れた。

 力仕事では昶も加わり、リンネの指示で次々と木材を寸法通りに切断していく。

 もっとも、それくらいしかやることもないのであるが。

 ぎこちない手つきではあるものの、一般人と比べればほぼ無尽蔵に近い体力には、線の細い男もかなりびっくりしたようだ。

 そして昶が切り出した木材を、リンネが正確な寸法へと加工していく。

 土精霊(グノーメ)を操作して粒子の細かい砂を作りだし、それで表面を研磨していくのである。

 土木建築でも活躍しているマグスはいるものの、こういった細かい芸等のできる者は細身の男も見たことがないらしい。

 そんな予想以上にハイスペックなリンネのお陰で、二日はかかるだろうと思われていた作業は、ネフェリス標準時に換算して三〇分ちょっとで終了した。




「俺達も一緒に」

「…行くん、ですか?」

「厚かましいですが、協力していただけませんか?」

 店長は両手をあわせて、深々と頭を下げていた。

 荷物を取りに行くのに、一緒に付いて来て欲しいと頼まれているのである。

「最近、この界隈(かいわい)で盗賊に襲われる事件が立て続けに起きておりまして。できれば、積み荷の護衛をしていただきたく」

 と、リンネは背後にひかえている昶を、心細そうな目で振り返った。

 先ほどは魔法を用いて見事な加工を行ったリンネであるが、戦闘方面はからっきしなのである。

 もし盗賊に襲われたとすれば、リンネにはどうすることもできないのだ。

 それに対して昶は、

「わかった。いざって時は、俺がなんとかするから」

 ぽりぽりと頭をかきながら、にぃっと笑って見せる。

 それを聞いたリンネも、ぱぁっと顔を輝かせた。

 元々、昶の力はそういうこと向きなのだから。

「…わかり、ました。それでは、一緒に行かせて……いただきます」

 店長に向き直ったリンネは小さな、しかし力強い声でそう答えた。

 まさか本当に付いて来てくれると思っていなかった店長は、二人に見えないよう半回転してから小さくガッツポーズ。

 鼻歌まで歌い出すくらい、超上機嫌である。

「そんじゃあ待っててください! 今すぐ準備しやすから!」

 店長は荷台の修理をしていた線の細い男にも店番を頼むと、馬と荷台のある小屋へと駆けていった。




 昶とリンネは、空の荷馬車に乗ってゆらりゆらりと揺られていた。

 学院から乗ってきた馬は、小屋にとめてもらっているので逃げ出される心配はない。

 しかしまあ、まだ昼の早い内から出てきたので良かった。

 このままだと、帰るのは早くても夕方になりそうだ。

 昶はちらりと、自分の隣で横になっているものを見る。

 仕事をやり終えた感満載のリンネが、くて~っと横になっていた。

 初対面の人と話したり、修理作業を手伝ったりして疲れてはいるのだろうが、男である自分の真横でこうもぐっすり眠るとは。

 まあ、それだけ信頼しているという意味の現れでもあるのだろうが。

 それにしても、リンネの寝顔の可愛いこと。

 びくびくしている姿も微笑ましいのだが、緊張の解けた寝顔は表情が弛緩しきっているおかげで、普段ではなかなか見られないようなとびきりの笑顔になっているのである。

 なんとなくほっぺたをぷにぃと突っついてみたい衝動に駆られるも、昶はなんとか踏みとどまった。

 それからふと、空を見上げる。

 朝よりも正午、正午よりも今の方が、空を覆う雲が厚くなっている。

 昶もリンネも雨具の類は一切持ってきていないので、学院に帰るまで持ってくれればいいのだが。

 今この瞬間もゆっくりと、だが確実に雲は厚さを増していた。

 フィラルダに着く頃には、この白い雲も暗い灰色へと変わっていることだろう。

 それに加えて、陽光が遮られるにつれて温度も低下してきている。

 昶は自らの黒いジャケットを脱ぐと、そいつをリンネにかけてやった。

 リンネにまで風邪を引かれたら、また誰かがあの店まで買いに行くことになるのであろうし。

 これで昶は長袖ティーシャツ一枚になってしまった。里の閉鎖的な環境が影響してか、飾りっ気は皆無である。

 びょうっ、と肌寒い風が流れるが、このていど肌に突き刺さるような山の冷え込みと比べれば、まだ温かい方だ。

「っくしっ!!」

 実を言うと、ちょっと寒かったりするのだが、それはそれとして。

 こんな光景をレナに見られれば、ふ~んリンネには随分と紳士なのねぇあたしの時とは違って、とか言われるかもとか思いながら、昶は携帯電話の電源を入れた。

 軽快な電子音の曲がワンフレーズ流れ、お決まりのメッセージに続いて画面にぱぁっと明かりが灯る。

 まだ数回しか見た覚えのないデフォルトの待ち受け画面が現れると、昶はすぐさまカメラ機能を起動させた。

 静止画にするか動画にするか。

 数秒ほど悩んだ結果、データ容量には余裕があるので、昶はビデオモードへと画面を切り替える。

 フォーカスを調整して、決定ボタンを押した。

 画面の右端に“●REC”という赤の文字列浮かび、なんの変哲もない効果音と共に撮影が開始される。

 呼吸に合わせて規則正しく小さな胸が上下し、小鳥のさえずりのような寝息が心地よく耳を打つ。

 時折吹く風がツインテールをさらい、その度にミントのようなスッと鼻を通る──リンネの匂いが香る。

 この世界に来てここまで穏やかな時間を過ごしたのは、これが初めてかもしれない。

 なんとなく元の世界へ帰る方法を考えてみたり、この際だから精霊魔術でも習得してみようとか思ったり。

 そういうまどろっこしいことを全部ほっぽりだして、なにも考えずにただぼーっとするだけの行為。

 冷たい風にはらりと舞い上がった、リンネの髪を追いかる。

 その一房が鼻にかかり、むずがゆそうだったので昶は払ってやった。

 さらさらと柔らかな髪質で、まるで最高級の絹糸でも触っているかのような気分になる。

 くしゅんとくしゃみをしたリンネはぐるりと寝返りをうち、昶から顔を背けてしまった。

 昶は決定ボタンを押し、撮影を終える。

 続いて“この動画を保存しますか”と久々の日本語のメッセージが表示され、“はい”を選択して画面を閉じた。

「…ん、んぅぅ」

 と、リンネがむくっと上体を起こした。

 まだ眠気の残る目をぐじぐじといじっていると、腰の辺りでしわくちゃになった安っぽい上着を見つける。

「寝てる間に身体冷やして、風邪引かないかなぁって思って」

「…あり……がと」

 伏せ目がちに昶のことを見ながら、リンネは安っぽいジャケットを差し出した。

 それを受け取った昶は、何事もなかったかのようにそれを着込む。

 ほんの少しだけリンネの残り香が漂い、昶の鼻腔をくすぐる。

 とくん、と強く脈打つ心臓を必死でなだめ、表情を固く結ぶ昶。

 そしてそんな昶の内心に気付かず、私ってやっぱり女の子の魅力がないのかも、とちょっぴり傷付くリンネ。

 だが、そんな傷などどうでもよくなるような代物を、リンネは発見した。

「…アキラ、それ、なに?」

「ん?」

 言われてから昶は、リンネの視線の先へと自分のそれを降ろす。

 あったのは、ピアノブラックにカラーリングされた、一台の携帯電話である。

 レナには非常に反応の悪かった携帯電話であるが、

「…………」

「…………」

 昶は無言で携帯電話を胸の高さまで上げてみる。

 するとリンネの頭も、それに合わせてくいっと上を向いた。

「…………」

「…………」

 それから右に振り、

「…………」

「…………」

 今度は左に振り、

「…………」

「…………」

 最後にぐるりと一周。

 まるで吸い寄せられるように、リンネの頭が携帯電話の軌跡にそってきょろきょろと動いた。

「見る?」

 昶の問いかけに、リンネは即座に首を縦に振る。

 普段のリンネからは、想像もできないような機敏さである。

 ひょいと差し出された平らな直方体を、リンネは恐る恐るといった様子で慎重に受け取った。

 下からのぞいてみたり、遠目にフォルムを確かめてみたり、目の前まで持ち上げてじぃぃっと凝視したり。

 それから素材を確かめるように、表面をぺたぺたと触る。

 プラスチックなんて素材、まだこの世界には存在しないだろう。

 リンネは物珍しそうに携帯電話の表面を撫でたり突っついてみたり、ワンセグ用アンテナを引っ張り出して驚いたりと、とにかく感動していることだけはよくわかった。

「…分解してもいい?」

 なにを思ったのか、突飛な台詞がリンネの口から発せられる。

「それはだめ」

 それは困るので、昶もそこだけはきっぱり断った。

 もしリンネが犬だったら、耳と尻尾がしゅんっとなっていたことだろう。

 それくらい目に見えて、リンネはずぅ~んと落ち込んでいる。

 だがまさかあのリンネの口から、いきなり『……分解してもいい?』なんて言葉が飛び出すとは、昶にも想像できなかった。

 確かに、特殊な先端のドライバーも錬金術を使えば難なく作ることが可能であるし、あとは感電にさえ気を付ければ本当に解体してしまえそうである。

 だが、一応使い時があるかもしれないので、分解されるわけにはいかない。

 それに、分解はしないでくださいと説明書にも書いてあった。

 ルールはきちんと守りましょう。

 だが、このままだとちょっとかわいそうなので、昶はリンネが握ったままの携帯電話へと手を伸ばした。

 びくんと首をはねあげるリンネをよそに、片方の手で携帯電話を固定し、もう片方の手で画面を開く。

 折り畳み式の携帯電話はぱちんと画面をはねあげ、液晶にはデフォルトの待ち受け画面が表示された。

 画面の外から数秒おきにカラフルなラインが現れ、画面を横切っては反対方向へと抜けていく。

 物足りないFLASH映像の待ち受けであるが、リンネは感嘆のため息を漏らした。

「…すごい」

 しかも昶の見間違いでなければ、なんか艶のある声でうっとりしているようにも見える。

 そこまで好きなのだろうか、機械。

 その後もリンネは時折頬を朱に染めながら、あっちこっちボタンを押して感触や反応を確かめる。

 よっぽど興奮しているらしく、両のお目々にはきらきらとお星様まで浮かんでいた。

 そんなリンネに目をやりながら、昶は遠くでキラリと閃いた光に、深いため息をつくのだった。

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