Act01:新たな来訪者
王都より学院に戻って六日、昶は日課の修練もせずに自室に引きこもっていた。
あれからずっと悩み続けているが、未だに答えは出ていない。心を飲み込まれ、身体を乗っ取られ、レナを傷付けてしまうかもしれないのはもちろん嫌だ。しかし、だからといって離れ離れになってしまうのも考えられない。
どっちを選んでも、後悔するのは目に見えていた。
誰も傷付けたくないのなら、今すぐにでもキャシーラに相談して異法なる旅団まで連れて行ってもらうべきなのだ。リーダーらしいマサムネの口振りから察するに、異法なる旅団は昶が飲み込まれずに済む方法を知っているらしい。
もしそれが本当なら、これ以上の美味しい話はない。
だが、その代償は昶がレイゼルピナで手に入れてきた、自分の力でつかみ取ってきた全てなのだ。
今の生活も、心から信頼できる友人達も、そして想いを寄せるたった一人の女の子も。
全てだ。全てなのだ。それはもう、簡単に手放せるような軽いものではないのである。
こういうのを、優柔不断と言うのであろう。まさか、自分がそうなるとは思いもよらなかったが。
「あんにゃろうが……」
マサムネだったっけ、あいつの勝ち誇った顔を思い出すだけで腹が立ってくる。なんとなく、無駄に威張り散らしていた分家連中を思い出すのだ。
しかしそれ以前に、連中のやり口が気に入らない。自分に用があるのなら、直接来ればいい。それなのに、こちらの力を量るためだけに、周囲の人達を巻き込んで。それがどうしても許せないのである。
安っぽい正義感だろうと、自分勝手な自己満足だろうとなんだろうと、許せないものは許せない。
しかしそれ以上に、何もできなかった自分に一番腹が立つ。実際には何もされていなかったとはいえ、レナの身に危険が及んでいると言われていながら草壁の血の力を引き出すことができなかった。
レナの身に危険が及んでいたのに、自分が一番守りたい人なのに、だ。
これで駄目なら、もうどうやったって草壁の血の力を引き出すことはできないだろう。
「本格的にダメになっちまったな、俺……」
完全に希望を無くなってしまった昶の心は、もうどこまでもダウナーに落ちてゆくだけだ。ネガティブな思考の無限ループ。それもループを繰り返す度に、昶の心は暗さを増してゆく。
もう、何もする気にならない。誰にも会いたくない、話したくない、一人でいたい。そんな風に思ったことは何度かあったけど、何もかもほっぽりだしてしまいたくなったのはこれが初めてだ。
あれだけ会って話したかったレナとも、今は顔も合わせたくないし、顔を見ることもできない。
「いや、違うか……」
顔を合わせれば、それだけ決心が鈍ってしまうから、会いたくない。
取るべき選択肢は、とっくの昔に決まっているはずなのだから。
わかっているくせに、考えているふりをする。
決まっているくせに、迷っているふりをする。
優柔不断だ、本当に。
「アキラ様ぁ、起きていらっしゃいますかぁ」
コンコンと、軽いノックに続いて聞き慣れた蜂蜜みたいな甘い声がした。ただし、そこ声には蜂蜜同様に毒が紛れ込んでいる。
キャシーラ=クラミーニャ。新たに国王に即位したライトハルトが、昶に付けた世話係だ。
しかし、それは表向きの顔。その素顔はこの異世界にありながら、昶と同じ魔術師の流れを汲む域外なる盟約と呼ばれる組織、その戦闘集団である異法なる旅団の一員だったのである。
それもレイゼルピナ基準でいえば、キャシーラも相当なレベルだった。
しかし、今は普段通りの世話係モードのキャシーラだ。その二つの顔の落差のせいで、この前の件がまるで夢だったかのようにも思える。
もし夢だったならば、どれほどよかったことか。
「起きてる」
「では、失礼します」
主人の許しを得て、キャシーラは昶の部屋へと入ってきた。
ちょこんと揺れるプラチナブロンドの短い三つ編み、翡翠色の瞳がいつもうっとりして見えるのは、魔術師への尊敬の念らしい。
源流使いというのは、域外なる盟約の中でもそれだけ別格の存在なのだそうだ。
「それで、決心は付きましたかでしょうか。えっとそのぉ、私と一緒に真・域外なる盟約に、来ていただける……」
「悪いが、まだついてない」
域外なる盟約のことを聞いたら、キャシーラは嬉々として話してくれた。機密や情報管理はどうなっているのか、ちょっと心配になってくるが。
話によると、域外なる盟約内には現在でも源流使いと呼ばれる魔術師が一人だけいるらしい。一般人まで含めれば、三、四〇人ほどにもなるとのこと。
そしてまた魔術師以外の人々も、多くの謎の技術──恐らくは科学技術であろう──をもたらす者として、域外なる盟約内では特別な地位を確立しているらしい。
確かに、この世界の世界の科学技術の水準──レイゼルピナではようやく電気の使用が始まった──からすれば、現代の地球の科学技術はオーバーテクノロジーもいいところだろう。小学生レベルの理科がわかるだけで、かなり違うはずだ。
「そ、そうですか。で、でも、キャシーラ期待してますから!」
三、四日に一回は、キャシーラはこうして昶の気持ちを聞きに来る。断る度にこの世の終わりみたいな顔をされるのには、相変わらず慣れないが。
──はぁぁ、俺の優柔不断のせいで困ってるのがここにもいた……。
「それはそうと、今日はそれ以外にも用事があるのです」
「なんだよ? いったい」
「学院長先生がお呼びです。すぐに学院長室まで来て欲しいそうですよ」
「今度は学院長かよ……」
自分の中の怨霊だけでも手一杯で、その上レナとアイナの件もあるというのに、この上まだ学院長まで。
面倒事だったら嫌だなぁ。
「『今度は?』」
「いや、なんでもない。すぐ行く」
すぐにでも掃除を始めたそうなキャシーラを追い出し、昶は制服に着替え始めた。
「単刀直入に言うとじゃなぁ、おほん。君、進級する気ってあるのかのう?」
「…………はい?」
学院長室に入って開口一番、オズワルト学院長から謎の質問をのたまった。
意味がわからなさ過ぎて、思わず聞き返してしまうレベルである。
「そのじゃなぁ、編入時期が遅すぎたじゃろう、君」
「えぇ、まぁ……。出席日数足りなくてテストも受けてませんから」
「そもそも、いざとなったら王国軍の魔法戦力に組み込むための措置じゃしのう。腹の内が見え見え過ぎじゃわい。ライトハルトの奴め」
「てか、ほとんど脅されて引き受けたようなものなんですけどね。お見舞いに来てくれた人全員を一部屋に押し込んで、周りを全部精鋭の魔法兵に囲まれて」
「まったく、よくやるわい。あの小童め」
事の真相を聞かされたオズワルトは、改めてため息を付く。王都奨学金制度で昶が学院生になったのは聞かされていたが、まさかそんな経緯があったとは。
小賢しいというか、悪知恵が働くというか、うんざりするほどやり口がせこい。やるならもっとスマートにやれ、と一発渇を入れてやりたくなる。
「それでまぁ、話は元に戻るんじゃが、君、進級とか興味あるんかのう? 講義に出ておったようじゃが。一応は、学院で普通に生活するためだけの措置で、講義に出ることを強要されているわけでもないのじゃろ?」
「興味があるんで、まぁ……。あと、みんなと別々になるのも嫌、だし。進級できるんなら、その方がいいかなぁ……と」
「うむ。じゃったら、これに我が校の代表の一人として参加して欲しい」
オズワルトはそう言うと、カラーで印刷されたチラシのようなものを差し出してきた。
昶はさっそく勉強した知識を総動員してみる。
「……えっとぉ、マギ……なんですか?」
「マギア・フェスタ。毎年この時期に行われておる、魔法学院対抗の魔法競技会じゃ」
まあ、読めなかったわけであるが。
「それに出れば、進級できるんですか?」
「いや、優勝すれば、じゃ」
なんか、条件が一気に難しくなった気がする。
昶の顔が、一気に苦いものになった。
「それ、かなり無茶じゃないですか? 学校対抗ってことは、チームでなにかするんでしょ? 俺一人入ったって…」
「大丈夫じゃよ。既に二連覇しておるからのぉ。ちなみに、その前は五連覇しておる」
いぇいいぇい、とオズワルトはピースサイン。てか、五連覇ってなんだ、五連覇って。むちゃくちゃ強いではないか。
そういえば、レイゼルピナは近隣諸国の中じゃ一番の魔法先進国で、この学院はそのレイゼルピナの中でも群を抜いた魔法使いの育成校なのであった。
「それなら、俺がいなくても大丈夫じゃないですかね?」
「まあまあ、そこは良いではないか。個人戦と集団戦の魔法戦競技もあるんじゃ。君が出場すれば、どちらも一位を狙えるじゃろ?」
「……学院長も、新しい国王と一緒くらい、せっこいですね」
「ほっほっほっ。ちなみに、開催国はメレティスじゃ。観光だと思って、行ってきなさい。悩み多き若者には、気分転換の時間も必要なのじゃよ。特に、今の君のような若者には、のう」
「…………」
唐突に真面目な顔になったオズワルトに、昶も思わず口をつぐむ。
いきなり核心を突いてきやがった。もしかして、域外なる盟約との接触があったのも、知られているのではなかろうか。そんな疑念まで湧いてくる。
やっぱり、オズワルトは一筋縄でいくような人物ではない。一見すれば、ただの人の良さそうなお爺さんにしか見えない。だが同時に、つかみどころのなく底の見えない人物でもある。
今までもそれは思っていたが、この瞬間に想像が確信へと変わった。こんな目をできる人間は、魔術師の中でもそうそういない。
「では、必要な手続きはこちらでやっておくから、君はもう部屋に帰って大丈夫じゃよ。何かあれば、クラミーニャくんに伝えてもらうからのう」
「わかりました。じゃあ、俺はこれで失礼させていただきます」
この部屋にいるだけで、ボロを出しかねない。そうなる前に、昶は学院長室を後にした。
このまま部屋に帰っても特にやることのない昶は、久しぶりに学院内をぶらついていた。とは言っても、既に半年以上は過ごした場所である。
内部は全て熟知しているので、ぶらついたところで真新しい発見などはどこにもない。むしろ、懐かしいと感じるほどである。
それだけ、濃密な時間を過ごしてきたということなのだろう。
そういえば、学院をぐるりと囲む城壁もいつの間にか完全に修復されている。
「見に、行ってみるかなぁ……」
完全修復された城壁を目指し、昶は外庭へと足を向けた。
頬を打つ風は強く、チクチクと刺すように冷たい。城壁の上まで行けば、もっと寒いのだろう。
まぶしい割に、陽の光からは暖かさを感じられない。
昶は肉体強化を使い、一息に城壁の上まで飛び上がった。やっぱり、予想していた通り風が強い。
制服の上着が、騒がしいほどにはためく。
「っとにもう、あいつらは……」
ふと、城壁上のある場所で昶は足を止めた。テスト終わりの夜、あの日のことを思い出す。
レナに元の世界に返すと言われて、そしてアイナに告白されたあの日のことをだ。まさか、いきなりキスされるなんて思いもよらなかったが。
「優しさの押し売りなんて、するんじゃねぇっての。こっちの気も知らねぇで」
レナはレナで、アイナはアイナで、それぞれの方法で昶を支えようとしてくれている。
レナは自分の想いを押し殺して、アイナは失ってしまうとわかっていて。
「いや、そんだけ、今の俺が頼りねぇって、そういうことなんだよな。たぶん」
守りたいはずの人達、それも女の子から心配されるなんて。不甲斐ない。本当にどうしようもない奴だ。
アイナへの返事一つ、満足にすることができない。
いや、アイナだけではない。レナにだって、なぜあの時もっと強く言い返さなかったのだろう。
帰りたいという思いは確かにあるが、それだけが全てではない。この世界に居たい理由だって、もう見つけてしまったんだから。たったそれだけを言うだけなのに。
自分がもっとしっかりしていれば、結果はおのずと違っていたはずなのだ。もう、完全に手遅れとなってしまったが。
「あら、何辛気くさい顔をしておりますの? 草壁の血が泣きますわよ」
突然真上からかけられた言葉に、昶は思わず上方を見上げた。
「ソフィアさん!? どうして、こんな場所に」
高高度から急降下してくる豪奢な黒いドレス。それは城壁の直上一メートルの位置で急速に減速し、静かに降り立つ。
黒をベースとするゴシックロリータの衣装に身を包むのは、柔らかな銀髪の少女。耳には逆卍字のイヤリング、胸元には細工の凝ったロケット。薄いアイスブルーの瞳は、片方を銀細工の意匠をあしらった黒い眼帯に覆われている。
ソフィア=マーガロイド。暗隷式典にも記載される、高精度の長射程大威力砲撃魔法、禍焔術式を修得している超凄腕の精霊魔術師だ。
「早い話が、『貴方と同じ』身の上になりましたの」
「俺と同じってぇ……」
それはつまり、
──口に出さなくてもけっこうです。この子には聞かせたくありませんの。
──あ、はい。ん? この子?
いきなり念話で話しかけられて当惑する昶をよそに、ソフィアは後ろを振り向いて小声でひそひそ話し始める。
するとソフィアのドレスの影から、まだ本当に幼い男の子が現れた。もっとも、幼いとは言っても小学校の中学年くらいだ。
ソフィアとよく似た柔らかそうな銀髪に、気の弱そうなスカイブルーの瞳をしといる。
「シャリオ、挨拶は?」
「はっ、初めまして……。シャ、シャリオって、いいます」
だんだん尻すぼみになっていくシャリオに、昶は思わず苦笑してしまう。
そこまで緊張しなくたって、取って食ったりなんてしないのに。
「草壁昶。よろしくな」
初々しいというか、見ていて微笑ましい気持ちになってくる。
「じゃあシャリオ、学院長に挨拶してきなさい。わたくしは、少しこのお兄さんとお話したいことがあるの」
「えぇ……。ソフィアお姉ちゃん、一緒に来てくれるって、言ってたのにぃ…………」
「人見知り直す練習です。これからこの学院でお勉強するんだから。立派なマグスになりたいのでしょ?」
「…………うん……」
「じゃあほら、行ってらっしゃい」
シャリオの頭を優しく撫でると、ソフィアは風精霊を集め始める。集められた風精霊はシャリオの身体を宙に浮かせ、校舎に向かって運んでいった。
「さて、これで気兼ねなくお話しができますわね」
「そんな聞かせたくない内容なんですか?」
「あの子には、のびのびとまっすぐに育って欲しいだけです。汚れた話は、わたくしだけで十分ですから」
「まぁ、わからないでもないでそけどね」
あの無垢な目を見た後では、なおさらそんな風に感じてしまう。自らの内に流れる力が、魑魅魍魎達の怨念という血塗られたものであるだけに。
禍焔術式を有するソフィアも、きっと似たような気持ちなのに違いない。
「で、俺と『同じ身の上』になったんですよね。それってつまり…」
「えぇ。シャリオをこの学院に通わせるのを条件に、わたくしもレイゼルピナ王国軍の臨時の魔法戦力となりました。メレティスとしても、いつ暴れられるかわからないわたくしを、近くに置いておきたくはなかったようです」
「他国が危険過ぎて厄介払いしたような人を引き入れるって……。どんだけ切羽詰まってんだよ、レイゼルピナの王国軍」
しかし、魔法戦力を補強するという点だけ見れば、ライトハルトの決定は正しい。というより、ソフィア一人いるだけで他の部隊が霞んでしまうレベルだ。メレティスが危険視する気持ちも、わからなくはない。
昶ですら、王国軍のレベルで言えばトップクラスなのだ。その昶の遥上をゆくソフィアの力は、もはや言うまでもない。
「ちなみに、わたくしも奨学生になりました。講義は受けないのですけれど」
「あぁ、そこも俺と『同じ』なんですね」
「えぇ。よろしくお願い致しますわ。先輩」
「やめてください、気まずいですから」
昶と同じく、ソフィアも名目上は学院の生徒になったらしい。随分簡単に出るんだな、奨学金って。ソフィアにからかわれた昶は、うへぇと苦い顔になった。あなたのような人から先輩だなんて言われたら、鳥肌が立ってしまいます。
こうして横に立ってる今でさえ、緊張で心臓がバクバクしているのに。
完全に自分の力を制御しているソフィアからは、わずかな魔力すら感じられない。
だが、わかるのだ。その身に纏う空気そのものが、もう完全に別物なのである。
その空気は、昶よりもエザリアに近い。これぞまさしく、強者の風格である。
「学院の生徒になったんなら、制服は支給されてるんですよね?」
「えぇ。あるのかないのかわからない、対魔法防御機能付きの制服なら。まぁ、着る気はないですけれどね」
ソフィアの辛口な評価に、昶は頷きつつも苦笑い。
昶も初めて見た時の感想は『無いよりはマシ』『でもあってもそんなに変わらない』であった。うん、人のことは言えないな。
今はその、無いよりはマシレベルの制服を着ているだけに、複雑な気持ちだ。
「そういえば、貴方は着ているのね。それ」
「服の換えもそんなないですから。持ってたの、全部秋用だったんで」
「そんなに寒いかしら? 日本の冬の方がよほど寒いと思いますけれど」
「いやいや、普通にこっちの方が寒いですから。てか、日本のどこですかそれ」
「北海道です」
「そりゃ寒いですよ!」
北海道なら、そりゃこことは比べものにならないほど寒いであろう。北海道を相手にするなら、アナヒレクス領くらいは引っ張り出してこなければならない。
「で、その寒い北海道まで何しに行ったんですか?」
「仕事ですわよ、仕事。反倫理的実験をしてた集団をフルボッコしに行きましたの。お姉様の提案で」
「そりゃあまた……」
「問題は、その後に駆けつけてきた協会勢力の方でしたわ。ほんっとにもう、面倒をかけさせてくれまして。いったい何百人いたことか。こちらは五人しかいませんでしたのに」
「……うっわぁ」
わかってはいたが、実際に聞かされると改めて凄まじい。
「ほんと、何なんですか。ネームレスって。聞いたこともないですよ、そんな組織」
「単なる正義の味方ですわ、甘さが売りの。新興の魔術師集団ですから、知らなくても不思議はありません」
自分で甘さが売りなんていう新興の魔術師集団が、たった五人で数百人の術者を相手にしたのか。いったいどこが甘いというのだろう。相手にする方はたまったものではない。
フルボッコにされた連中と、オマケでボコられた方々には同情する。
「それにしても、久し振りですわ。同じ世界の方とお話しをするのは」
「こっちも同じですよ。まぁ、何話せばいいかわからないんですけど」
「その話のタネなのですけれど、そういえば貴方にはまだきちんとした自己紹介をしていませんでしたわね」
「あぁ、言われてみれば……」
言われてみればソフィアの名前を聞いたのはレナからで、本人から聞いた覚えは一度もない。
もっとも、言葉すらほとんど交わしていないのだから、当然といえば当然である。
「ネームレス所属の、ソフィア=マーガロイドと申します。保有している承認ランクはS。以後、お見知り置きを」
「草壁昶です。所属は……よくわかんねぇけど、流派は草壁流高野派。保有してる承認ランクはCです」
ソフィアはスカートの裾をつまんで優雅に一礼し、昶も格上の術者を前に背筋をピンと伸ばして深々と頭を下げた。
とはいえ、固かったのはそこだけで、すぐに先ほどまでのような砕けた雰囲気に戻った。
反射的に形式通りの挨拶をしてしまうのは、術者ならみなDNAレベルで身体に刻み込まれているに違いない。
「さて、これで自己紹介も済みましたわね」
「じゃあ、自己紹介で定番の、趣味の話でもするんですか?」
「それもいいですが、そろそろシャリオのところに行ってあげようかと」
「なら、俺も一緒に行きますよ。別に用事もないし、ついでにもうちょい話したいですし」
「うふふ、ありがとうございます。では、エスコートをお願いします」
そう言うと、ソフィアは風精霊を集め始めた。集まった風精霊はソフィアと昶の身体を繊細に包み込み、ふわりと浮き上がらせる。
風精霊を使って浮くのはこれで二度目だが、個人的には杖で飛ぶ方が好きだ。特に、レナの背中は特等席と言っても……。
──って、何考えてんだ俺……。
なんだか、自分でも自分が気持ち悪くなってきた。
だが、その時だった。
「なんだ!? これ」
「わかりませんが、急ぎます!」
正面の校舎を挟んだ反対側。位置まではっきりわかるほど、異様で異質な魔力が放出されたのだ。
アイナですら置き去りにするほどの急激な加速度が、昶の身体を押し潰そうと襲いかかる。が、そこは肉体強化でどうにか対応した。
五秒と経たず校舎の反対側まで飛翔したソフィアは、速度を維持したまま地上まで一気に降下する。
するとそこには、異様な気配を察知した生徒達が次々と集まってきていた。その最前列へと、ソフィアと昶は降り立つ。
「どうなってんだ、これ?」
「そんなん、俺だってわかんねぇよ」
昶は隣にいた同じクラスの男子生徒に問いかけるもその反応はかんばしくない。
しかし、
「でも、これと似たようなのなら、前にも……」
男子生徒は昶の方を見ながら、意味深な言葉をつぶやいた。
「それって?」
「お前の、時と……」
────ドォォォオオオオオオオオオオオオオオォッ!!
男子生徒が全てを言い終える前に、溢れかえっていた異様な気配は一点へと収束した。
爆発にも似た衝撃波が収束した一点から広がり、辺りには砂埃が舞い上がる。
「そんな、嘘だろ……」
昶の口から、不意にそんな言葉がこぼれる。
視線は一点に向けられ、口も開いたまま固まっている。まるで、信じられないものでも見ているかのように、黒い瞳は大きく揺れていた。
「なんで、どうやって……」
土煙が、冷たい風に巻かれてだんだん晴れてゆく。その中に、女らしき人影が見えた。
背はあまり高くない。何やら、キャリーバックのような大きな荷物も見える。
「あ、この気配は!」
人影は何かを叫ぶと荷物を投げ捨てて、砂煙を凄まじい速度でくぐり抜けてきた。
真冬だというのに、真夏全開の半袖ティーシャツとジーンズという出で立ち。もちろん、防寒具の類は一切無い。
黒い髪を緩い三つ編みに編み上げ、腰には湾曲した特徴的な刀剣。ベルトからは五色の御守りがぶら下がっている。
その人物に、昶はたった一人だけ心当たりのある人物がいた。
だが、それは絶対にここに居るはずのない人物なのだ。
「あっきらーーーーーーーー!!」
草壁朱音。三つ上の昶の実姉にして、一族内で最高峰の技術を誇る陰陽師は、全力で最愛の弟に抱きついた。