第三話 傷痕 Act01:未だ癒えぬ
ノールヴァルトで遭遇した鵺の式神を辛くも撃破した昶。しかし、アナヒレクスから派遣された部隊には甚大な被害がでてしまった。そして同時に、昶は自らの内側に巣喰っている怨霊達の声を自覚してしまった。
思い返される、身体を乗っ取られた時の感触。大切な人を傷つけてしまうかもしれない恐怖。思うように力の使えない自分に、昶は苦悩する。
そんな時、いつになく覇気のないアイナからあることを頼まれた。
第二月も末に迫った頃、レイゼルピナ魔法学院より南方の道路がようやくの復旧を果たした。故郷へ帰省、あるいは旅行に出かけていた生徒達は、その道を通って少しずつ学院に戻ってきている。
授業開始までまだ一ヶ月以上はあるのだが、やはり好きなだけ魔法の修練を積もうとすれば学院以上の場所はない。唯一あるとすれば、魔法兵の訓練場くらいのものであろう。
人の身でありながらマグスの使役するサーヴァントであり、この異世界へと迷い込んだ少年――草壁昶も、学院の周辺で修練を積んでいる者の一人だ。
昶はまだ日も昇らぬ内から学院から北にある森の中で一人、静かにたたずんでいる。
しかし、それは精神集中と呼ぶには程遠い。少し前までなら簡単にできた事にも関らず。
まるでなにかを恐れているかのように、その表情には苦悶の色が浮かんでいた。
「すぅぅ…………はぁぁ…………」
このままではダメだ。深呼吸して、気持ちを落ち着かせる。
息を吐き出すと同時に、冷たい冬の空気が肺一杯に流れ込んできた。冷たいと言っても、豪雪地帯のアナヒレクス領ほどではない。
まずは霊力を、自分自身の力の制御を始める。腹の中心から四肢へ向かって、不定形のなにかが満たされてゆく。
肉体強化。体内の五行を循環・共鳴させ、身体能力を向上させる。高等技術にして近接戦闘を主とする術者にとっては、基本的な技術だ。
だが、草壁流陰陽術には、さらにその上がある。己が力とは別に、祖先から連綿と受け継いできた血統に宿る力。過去に葬ってきた悪鬼達の怨念という名の呪いを、自らの力へと変換し戦う術だ。
昶はその力を引き出すべく、意識の内側へと手を伸ばす。いつものような感覚で、いつもと同じように、意識の奥底に眠る、無限に湧き出る力の源泉へと……。
しかし、
――――カッカッカッカッカッカッカッカッカッカッカッカッカッカァッ!
「くそっ!!」
ほんのわずか、手が届かない。
いや、違う。伸ばすのが怖い。伸ばしたくないのだ。
背筋に走る寒気が、動物の持つ生存本能が、それ以上の行為を拒否するのである。
近付けば近付くほどに聞こえてくる、生理的な嫌悪感をもよおす嘲笑。それは以前、昶の意志を奪い、肉体を支配した怨霊達の集合意識に他ならない。
驚異的な再生力と無尽蔵のパワー、その力は核兵器よりも危険と揶揄されるエザリアをも圧倒する。しかし一方で、その力の矛先は誰に向くかわからない危険な代物だ。
またあの時のように、レナを傷つけてしまうかもしれない。いや、それだけではない。
昶とレナは契約によって繋がっているのだ。昶の意識が飲み込まれた瞬間、それはレナの魔力を穢し、意識を犯し尽くすだろう。
それが、たまらなく怖い。また意識を乗っ取られて、大切な人達を傷つけてしまうかもしれないことが。
しかし、力の使えない自分に、いったいどれだけの価値がある? この世界で昶が他のマグスを圧倒できるほどの力を有していたのは、草壁の血の力、血統に宿した怨霊達の力を使っていたからだ。
もし自分の力だけだったとすれば、“ツーマ”にすら勝てなくなってしまう。身の回りの人すら守れなくなってしまったら、いったい自分になにが残ると言うのか。
「くそがあぁっ!」
力一杯殴った木の幹に、腕が突き刺さる。それが逆に、むなしさを増長させる。
人気のない森の中、昶の慟哭はしんしんと降る雪の中に溶けていった。
早朝の食堂には、春期休暇中だというのに普段と同じように朝食を食べている少女がいた。昶の主にして、アナヒレクス家の長女、レナである。
だが目の前に広げられているメニューは、とても領地持ちの貴族のお嬢様のものとは思えないほどみすぼらしい。
こんがりと焼けたトーストが一枚きり。コップには水が一杯注がれているものの、口がつけられた形跡はない。
「ふぅぅ……」
トーストをかりかりとかじりながら、ため息をこぼす。
あの日から、昶と一切口を聞いていないのだ。あの日というのはもちろん、ノールヴァルト防衛時に起きた、謎の獣魔――昶は式神と言っていた――との一件だ。
街への被害は回避できたものの、ノールヴァルトに派遣されたアナヒレクス領駐留部隊にはかなりの被害が出た。ここ数十年の中では、間違いなく最大と言っていいだろう。
「確か……オンミョウジの使役する、使い魔……だったかしら」
前回昶と繋がった時の記憶を頼りに、レナは昶が口にしていた言葉を思い返す。
そう、“シキガミ”は“オンミョウジ”の使う術だ。だが、ここは昶のいた世界とは違う。そのような術者は、そもそも存在しないはずなのだ。
もしかして、またエザリアのような、昶の世界から連れてこられた“魔術師”の仕業なのだろうか。
だとしたら、大変なことになる。自分くらいでようやく一人前と言っている昶でも、とんでもない力を秘めているのだ。それがレイゼルピナと敵対するような勢力に加担しているとなれば……。
「はぁぁ、やめょ。あたしが考えたって、どうにもなんないじゃない……」
憶測とも言えない勝手な妄想で不安になっても、意味がない。レナがやりたいのは、そういった難しいことなんかじゃなくて、昶を元気付けることだ。
無用な罪悪感に苛まれて苦しんでいる姿は、見ているだけでこっちまで辛くなってしまう。
でもいったい、目線さえ合わせてくれない状態でどうやったら話を聞いてくれるだろう。
いいや、ここで諦めてはダメだ。昶には今まで、幾度となく助けられて来たのだ。そう、意識を乗っ取られていたあの時だって。今度は、自分が昶を助ける番である。
例え無視され続けたとしても、聞いてくれるまで声をかけ続けるしかない。
そうと決まれば、早速昶を探すところから始めよう。
レナは半分ほど食べ進めていたトーストを一気にたいらげ、昶の霊力を探すべく感覚を研ぎ澄ませた。毎日欠かさず練習しているおかげが、なんとなくコツのようなものがわかってきた。
今では集中さえできれば、ある程度は気配をつかめるようになっている。なにか練習でもしてくれていれば、簡単に見つけられるのだが。なにせ、魔術師達は意識的に力の放出を変えることができるのだ。もし完全に力の放出を抑えていれば、歩いて探さなければならない。
するとその感覚が、食堂に近付いてくる気配を一つ捉えた。少なくとも、昶の力でないことは確かだ。だが、なんとなく誰だかわかる気がする。
「…………おはよう、ございます」
「うん、おはよう」
レナの予想は、ピタリと当たっていた。
気まずそうに学食に入ってきたのは、艶やかな黒い瞳と黒い髪の少女、アイナであった。彼女は今、レナが最も会いたくない友人である。
「あの、レナさん。その頼みがあるんですけど」
「なに?」
自分でも底冷えするような声音に、レナ自身も驚いた。私、友達にもこんなに冷たくなれたんだ。
しかし、それも無理はない。姿を視界に入れたくない。声を聞くのも嫌だ。
なぜならアイナは以前、レナの目の前で昶に告白するどころか、その唇までをも奪っていった相手なのだ。
自分の気持ちを押し殺してでも昶を元の世界に帰そうと決断したレナにとって、それは卑怯以外の何物でもない。
自分だって好きなのに、それでも彼を思って諦めようとしているのに。本当なら、自分だってもっともっと、昶と触れ合っていたいのに。別れたくなんか絶対にないのに。
「その、アキラさんがどこにいるか、わかりませんか?」
ピシッ……。またしても、レナの心にイライラが走った。
どうすれば、そこまで無遠慮になれるの? あたしはこんなに苦しんでいるのに。
なのにそっちは、自分の気持ちばかりを優先して。
「知ってどうするの? またキスでもするつもり?」
だから、これくらいの皮肉は許されるだろう。鼻で笑いながら、レナはアイナに言い放つ。
再認識させられる事実は辛いが、それ以上に苦しんでいるアイナの表情に嬉しさが湧いてくる。最低だと、自分でも思う。
他人の不幸を喜ぶような自分がいるなんて、想像もしたことがなかった。人の不幸は蜜の味とは、よくいったものだ。
「いえ、違います。それに、そっちが目的ならわざわざ聞いたりしません。レナさんに黙って勝手にします」
「それもそうね。で、どんな用があるの? 聞くだけなら、聞いてあげないこともないけど」
冷たいレナの物言いに言い返そうとしたアイナであるが、それをぐっとのどの奥に飲み込む。
自分の立場くらいは、ちゃんと理解しているつもりだ。自分が盗っ人の立場で、レナに喧嘩を売ったのだということくらい。冷たいなりにもちゃんと相手をしてくれるのは、やっぱりレナが優しいからなのだろう。
そういえば、自分の編入時に歓迎会を主宰してくれたのもレナだったっけ。あれからもう、半年近くも経っているのか。
もう、一年以上も前のように感じる。それだけ、濃密な時間を過ごしてきたという事なのだろう。その間に、ずっと胸の内に秘めていた昶への想いも、ついに抑えきれないところまできてしまった。
そんな敵対している状況のレナに、アイナは頭を下げた。
「実は、頼みたいことがあるんです……」
アイナは気を引き締めると、順を追ってレナに説明し始めた。
不甲斐なさすぎる自分に呆れ果てた昶は、いつも以上にハードな練習を終え学院へと戻った。血の力を使えない以上、自分の能力を限界まで引き出すより他に方法はない。
部屋に戻ったら、新しく護符の製作もしなければ。そろそろ、手持ちの護符も心許ない枚数になってきた。
ふと空を見上げると、太陽はもうかなり高くまで上がっていた。感覚的には、十時くらい――レイゼルピナの時間なら五時過ぎといったところだろうか。さすがに、お腹が減ってきた。
久々に、エリオットのデンジャラス試作料理でも食べさせてもらおうか。あれはあれで、当たりが出た時には相当な絶品がでてくるのだ。
そう思って校門をくぐると目の前に二人、よく見知った――今は会いたくない少女が立っていた。
「おはよう、アキラ」
「おはようございます、アキラさん」
レナとアイナだ。どうやら、自分で想像していた以上に腑抜けてしまっているらしい。
二人を目の前にするまで、まったくその存在に気付かなかったのだから。普段なら、魔力の気配だけで簡単に気付けたはず。
自分で自分が笑えてくる。これでは、本当にただの役立たずだ。
そのまま通り過ぎようとした昶であったが、ご丁寧に二人は道をふさぐように入り口に立っている。
「あぁ、おはよう」
数日ぶりに、誰かと言葉をかわしたような気がする。
「悪いけど、ちょっと通してもらってもいいか?」
だがあいにく、今は誰とも話したくない。自分のことで手一杯すぎて、とてもじゃないが誰かの相手なんてしてられる状態ではないのだ。
気持ちを確認し合ったレナと、勇気を振り絞って告白してくれたアイナ。どちらにもきちんと返事をしたいがゆえに、今は答えることができないのである。どちらも、自分の守りたい大切な人達であるから。だからちゃんとした状態で、きっちりと答えを出したい。
「いえその、アキラさんにお願いしたいことがあって……」
「前のことだったら、まだ…」
「いえ、あれは関係ありません。ちょっと人手が足りなくて、手伝って欲しいことが……」
「人手?」
アイナの意外な申し出に、昶は少し拍子抜けした。どうやら、返事はまだ待ってくれるらしい。
それはそれでありがたいのだが、だとすれば人手の必要な用事とはいったい何なのだろう。
「はい。できれば、今すぐにでも向かいたいんで、杖の後ろに乗っていただけると、助かります。説明は道中でしますから」
申し訳なさの内側で揺れる切実さ。もしかしたら、ここまで憔悴しきったアイナを見るのは初めてかもしれない。
レナとの冷戦が精神的にかなり堪えているのも確かだが、これはそれ以上になにかしている。それによく見れば、手の皮はぼろぼろになっていた。
「その手、どうした?」
「それも含めて、移動中に説明しますから」
昼食はまだなのだが、あいにくと腹は減っていない。こんなところにまで影響が出てしまうなんて、まったく酷い精神状態だ。
しかし、なにかやっていた方が、色々と悩まずに済んで楽かもしれない。アイナの手の様子からすれば、力仕事には違いないだろう。エリオットには悪いが、試作料理の件は次の機会に持ち越しだ。
「わかった。一緒に行くから、とりあえず訳を話して」
「ありがとう、ございます。じゃあ、早速」
促されるままに、昶はアイナの後ろにまたがった。
学院を出発してから南下することしばらく、アイナと昶は一つの巨大な都市へと到着した。
そして昶以外にも、アイナに付いて来た人物が二人いた。
「こうして見ると、王都って本当に大きいのですねぇ。キャシーラびっくりです」
「一国の首都なのよ? これくらい大きくて当然でしょ」
昶のお世話係りに任命されたキャシーラと、主のレナだ。
出発しようとしたその瞬間、昶を探し回っていたキャシーラに見つかってしまったのである。気合いを入れてくれるのは嬉しいが、まさか王都まで付いて来てしまうとは。
はしゃぐキャシーラとは正反対に、後ろに乗せているレナは無事到着したことに安堵のため息をついていた。
「それにしても、酷いな。これ」
上空から王都レイゼンレイドを見た昶の口から、そんな言葉がこぼれる。
それにはレナもアイナも、そしてキャシーラも頷いた。
外縁部はともかくとして、中層部から王城のある中心に向かって、徹底的に破壊し尽くされているのである。
エザリアとの激戦を繰り広げた城内よりも、むしろ王城を囲む外堀付近の方が酷い状況だ。いったいどれほどの激しい応酬があったのか、容易に想像が付くほどに。
その一端に加わっていた昶の心に、チクリと黒い物が刺す。
急ピッチで復旧作業が行われている様子だが、完全に人手が足りていない。なまじ完全に整備し直された区画があるだけに、生々しい戦闘の痕跡に目がつく。
「そろそろ降りましょ。王都の上空は、飛行許可がないと飛べないから」
そう言うレナに、アイナも頷いた。
「そうですね。それに、今はまだ厳戒態勢が敷かれてますから、下手したら魔法で撃ち落とされちゃうかもしれません。南口から入ります。付いて来てください」
指示を出すと、アイナは緩やかに高度を下げ始める。それに倣って、レナもゆっくりと降下していく。
昶とキャシーラは杖からずり落ちないよう、相手の腰をしっかりと抱きしめた。
地上へと降下したアイナ達は、徒歩にて王都に入った。昶は改めて、王都の大きさに驚いた。
前に来た時は上空から強行突入した上に戦闘中で余裕なんてなかったが、これまでに行ったことのあるどの都市よりも大きい。活気とでも言えばいいのだろうか。それが他の街とは桁外れに大きい。
昶達はアイナに先導されるまま、王都へと入った。
王城の周囲に施された三重の水堀のように、王都の周囲にも街をぐるりと一周するように川が流れている。川には東西南北に石造りの橋がかけられており、アイナ達が通っているのはその中の南側の橋だ。
大きくはあるが、あちこちにガタがきているらしく、繋ぎの部分があちこちひび割れている。
橋を渡りきり、アイナ達は王都へと足を踏み入れた。橋から続くメインの道路沿いは巨大な商業区画になっていて、みんな二ヶ月前の大事件などまるでなかったかのように商売をしている。中には半壊した店舗で、商売をしている人もいる。
そのバイタリティが、今は少し羨ましい。
そんな雑踏の中を、アイナは無言で歩き続ける。それも、重苦しい雰囲気で。昶も話しかけようとするのだが、そこから先の言葉が出てこない。
だが、それも無理もない話だ。移動中にわけを聞かせてくれるとは言っていたが、まさかあんな内容だとは夢にも思わなかった。
あんな話を聞いた後では、どう声をかけていいものか昶にはわからない。冷戦中のレナは、そもそも話しかける気などなさそうであるが。
商業区に入ってからしばらく歩き、中層部へとさしかかる。すると途端に損壊した建物が、目に見えて多くなった。正規軍と反乱軍の衝突した跡だ。
魔法を使ったのか、それとも大砲を使ったのかまでは判別できないが、かなりの激戦だったのだろう。瓦礫の一部は未だに処理されず、そのままの状態で残されている。
するとアイナは商業区を外れて、不意に細い脇道へと入った。
人がすれ違えるかどうかという細い路地を抜け、一本隣の通りに出る。すると、この街の持つもう一つの顔が現れた。
この通りでは、歩兵同士の衝突があったのだろう。剣や槍による切り傷、あるいは矢の刺さった穴、そしてもはや黒い斑点となった血の跡の数々。魔法による傷がないだけに、その痕跡は生々しい情景を彷彿とさせる。
だがそれ以上に、全く復旧のすすんでいない状況に昶は大きく目を見開いた。
「この辺りの区画って、俗に言うスラム街みたいなものだから。それでも、他の街に比べたら随分綺麗な方なんだけどね」
レナの一言で、昶は納得した。否、無理やり自分を納得させた。
交通量の多い表の商業区は急ピッチで復旧作業を行っているが、そちらにリソースが割かれているせいでこういった貧民街までは手が回らないのだろう。そもそも、手を回すかどうかすら怪しいところがある。
生々しい戦いの傷跡がほぼ修復されることもなく残されており、それを見たキャシーラはびくびくと震えながら小さな悲鳴を上げていた。震えてはいないものの、昶も思わず目を背けてしまう。
血そのものに対してなら、それなりに耐性がある。だがそれは、人外である妖怪や怪異達──魑魅魍魎を相手に戦ったものだ。
人と人の集団が全力で殺し合った痕跡など、正視できるわけがない。レナも気持ちが悪そうに、眉間にしわを寄せている。
しかしその中を、アイナは平然と歩いていく。
アイナだけではない。すれ違う人々全員も、まるで気にした様子はない。
「二ヶ月も経ってるから、みんないい加減慣れちゃったんですよ。でも、これから行く所は大丈夫ですから、心配しなくていいですよ」
三人の表情を観察していたアイナは、即座に声をかけた。二ヶ月前の自分も、まさにこんな感じだった。凄惨な現場から目を背けたくなる気持ちは、痛いほどよくわかる。
しかし、ずっとそのままというわけにもいかない。毎回そうやって心を痛めていては、身体の方まで参ってしまう。
「あともう少しです」
復旧のほぼ完了している表の通りをそれてから、標準時で五分近く経っただろうか。既に気持ちのいい呼びこみは聞こえず、物静かな住宅街が広がっている。
住宅街と言えば聞こえはいいが、今にも倒壊しそうな建物がほとんどだ。地震なんてこようものなら、簡単に崩れてしまいそうである。そんな貧民街の人々は国からの支援を諦め、自分達で復旧作業を進めていた。
アイナの言っていた人手不足というのは、まさにこの復旧作業のことだ。撤去された瓦礫の山とは別に、新しく使うであろう建材の山もちらほら見える。
そして周囲の建物が少なくなり視界も少し開けてきた時、アイナはある建物の前で立ち止まった。
「院長先生、ただいま戻りました!」
玄関の戸を叩き、大きく声を張り上げる。そのことに、レナとキャシーラはえらく驚いている。
二人の様子を不思議に思う昶の目の前で、扉はぎぎぃと外側に向かって開いた。
「お帰りなさい、アイナ。それで、例のお手伝いしてくださると言うのは……」
「えっと、こちらの方です院長先生」
出てきたのは、笑いしわの目立つ五〇代頃の女性であった。
その人は静かに外に出ると、昶達に向かって一礼する。
「本日は遠くからおこし頂き、ありがとうございます。わたくし、この孤児院の院長をしております、マーサ=ラ=アイヌレイドと申します」
孤児院の院長、その単語を聞いた昶とレナは、二人の頭の中に深々と突き刺さった。