第二話 ユキカゼの舞う国 Act05:ノールヴァルト
昶が自らを魔術師と名乗る集団──域外なる盟約とその戦闘部隊である異法なる旅団の存在を知った翌日、レナはこれまで見た中で一番ご機嫌な顔をしていた。
まるでロッテをそのまま大きくしたみたいなうきうきぶりで、誰の目から見ても幸せオーラが全開になっている。どれくらいかと言うと、周囲にお花畑が見えるくらいのうきうきぶりだ。
「どうした? なにかいいことでもあったのか?」
「えへへ。わかっちゃう?」
「そんな顔してたら犬や猫でも気付くっての」
まるで聞いてくれと言わんばかりの顔をされていれば、気付くなという方が無理だろう。
「あのねぇ、昨日お父様に褒められたの! 助かった、よくやったなって!」
興奮冷め止まぬといった感じのレナは、胸の前で両の手を握り拳にして昶に言った。
それだけ、レナにとってロイスは大きな存在なのだ。単に自分の父親と言うだけではないほどに。
「そっか。よかったな」
「うん」
レナが一番認めて欲しかった人が、自分の頑張りや結果を認めてくれた。
それは、昶が欲しくても手に入れられなかったものである。だが、不思議と悔しいとか羨ましいとかいった感情は湧いてこず、昶も心からそのことを喜んでいた。
「……おっと。さすがに、頭撫でるのは失礼かな」
ついつい伸びそうになっていた手を、昶は引っ込める。せっかく父親から褒めてもらったのに、頭を撫でるのはちょっと上から目線な気がして気が引けたのだ。
「べ、別に……それも悪くはないんだけど、その……」
ハッとなって昶も周囲を見てみると、ちらちらと使用人達の姿が見える。
誰一人として二人に気を止めている様子はないが、それはそれで恥ずかしいものがある。
「んん! まぁとにかく、おめでと」
「ぅ、ぅん、ありがと」
昶は咳払いで恥ずかしさを誤魔化しつつ、改めて賞賛の言葉を送った。
と、二人がリビングでそんな一幕をやっていると、眠気眼のロッテが目をこすりながら入ってきた。
「レナお姉さま~、アキラ~、おはようございますぅ」
「おはよう、ロッテ」
「おはようございます。ロッテお嬢様」
今日も慌ただしい一日になりそうだと、昶とレナは顔を見合わせて笑った。
アナヒレクス領の最北端にある街──ノールヴァルト──は、バルハル山脈と海に挟まれた場所に位置している。
ノールヴァルト沖には巨大な大陸棚が広がっており、また暖流と寒流の入り混じる地形とあって豊富な水産資源が存在する。
いわゆる、漁師町と言うやつだ。
飛行船舶と違い、漁に使う船は未だに人力や風力を動力源としている。飛行船舶のような特殊な例をのぞけば、魔法はまだまだ一般的には縁遠い存在なのである。
そんな漁師町へ向けて、二つの輸送艦が向かっていた。レイゼルピナ王国軍所属の、イルミンス級輸送艦である。
「レブラプテル?」
「そう、第四級危険獣魔。体長が三メートル弱の割と小型の陸竜種なんだけど、十体前後から最大で三〇体くらいの群れで行動するから、大きさの割に危険な獣魔に定められてるの」
「獣魔ってことは、なんか魔法使うのか?」
その輸送艦の一室で、昶とレナはくつろいでいた。
ちなみにレナの妹のロッテ嬢は、外の景色を見に行くと言って甲板に行っている。
「確か総合魔法学研究院の調査報告とかだと、体温とかの生命維持に必要な機能を補ってるらしいわ。だから、目に見えて魔法っぽい能力はあまりないわね。せいぜい、上位個体が体表面に氷を張って鎧作るくらい」
「にしては、輸送艦二つ分の兵士って多くねぇか?」
「普段なら最大で三〇体くらいなんだけど、餌の少ないこの時期は複数の群れでまとまって南下してくるのよ。百体はくだらない規模で」
「あぁ、そりゃ人数いるわ」
今回のアナヒレクス領駐屯部隊の派遣について説明を受けていた昶は、なるほどと納得の表情を見せた。
それはそれとして、軍用艦とはいえ、初めての飛行船舶の乗船に昶も多少わくわくしている。
竜籠と違って部屋は広く、揺れもほとんとないと言っていいほど少ない。
小窓の類は軍用艦なのでないのだが、甲板から見える景色は絶景の一言。ちょっとした小山より高い高度を飛んでいるので、小さな集落などはまるで豆粒のようだ。そこへ独特の雪景色というものまで加わり、昶は何時間でも見ていられるような気がした。
それに飛竜に乗った時ほどではないにしても、甲板に出れば風を斬るような感覚が全身を包み込んで、得も言われぬ爽快感を感じることができる。ただ問題は、季節柄寒すぎることだが。
「去年は入試とか入寮の準備や手続きで来られなかったけど、一昨年は二週間くらい滞在してたかしらね」
「けっこう長いんだな」
「まあね。休養や観光ってのもあるけど、領地も広いから視察も兼ねてるの。バルハル山脈のせいで、王都とはかなり距離があるから。半分別国みたいなものになってるかも」
天気は快晴。寒いが雪は降ってない。絶好の船旅日和だ。
どうせなら、気温も一緒に多少は上がってくれればいいのであるが、こんな北国では望だけ無駄というものか。
快晴とは言え、外に出れば息は白く煙り、突き刺すような痛みが顔面に降りかかってくる。
「地方自治とか、道州制みたいなもんか」
「それってどんなの?」
「国っていう政府の下に、地方ごとに小さな政府があって、それがそれぞれの地域で政治してる、って感じでいいのかな?」
「そうね、ちょうどそんな感じかも」
それにしても、なかなか戻ってこないがロッテは大丈夫なのだろうか。二人はロッテの様子でも見てくるかと、共に甲板に向かった。
ノールヴァルトは漁師町だけあって港は存在するのだが、あくまで小型の海上船が停泊するためのものであり、大型の飛行船舶が停泊できるような施設はない。
ならば、どうやって輸送艦二隻を停泊させるかなのだが……。実はこの輸送艦、陸上にも着陸できるような設計がなされているのである。
そんなわけで、二隻の輸送艦は街の北側の平地への着陸を果たした。
事前に二人の魔法兵が降下地点に人がいないか確認もしたので、住人の安全対策も万全である。
そんなわけでロイスの指示の元、兵士達がレブラプテルの大群を迎え撃つための野戦築城を行っている間、アナヒレクス家御一行と使用人数名、そして昶とキャシーラは、魔法兵の護衛を連れてノールヴァルトへと向かっていた。
「上から見る分だと小さな町にしか見えなかったけど、かなりでっかい建物があるんだなぁ」
「討伐したレブラプテルの素材は、そのままノールヴァルトで製品に加工されて高値で取引きされてますから。それに、毎年の恒例行事になっているのもあるので、それなりの施設も整備されてるんです。数日おきに休みのを作っておりますので、その時に町の宿泊施設に泊まる人も少なくありません」
センナの案内を聞きながら、昶は周囲の景色に目をやる。
フィラルダやシュタルトヒルデといった、大規模都市と比較すればみすぼらしいのは否めないが、なんだかんだでそこそこ整備された街並みだ。木造の家屋が多いのは、海が近いだけに湿度が高いのかもしれない。
メイン通りの左右には、観光客目当ての店舗や宿泊施設が点在している。一行はその中で、一番背の高い建物へと入っていった。
毎年この時期になると、このホテルを使っているのだそうだ。
「それじゃあ、前に言った通り、ちょっと観光してみましょうか」
「そうだな。なんか、観光とか久々な気がするから、けっこう楽しみなんだけど」
「感謝祭の時は、王女殿下のお守りだったもんねぇ。となると、観光っぽいのはラズベリエが最後かしら」
「……センナさんにはめられた時のか」
昶とレナは、そろってセンナの方をジロリと見た。
「お二人とも、そんな蔑むような目で見ないでくださいませ。恥ずかしくて、センナ濡れちゃい…」
「いいから黙れ!」
「いいから黙りなさい!」
まったく、油断も隙もあったものではない。
ここにはラスターシャやロッテ以外にも、他の使用人もいるのに。
そのくせ、手際だけはよくて、現在も進行形で荷物の整理をしている。
これなら、全て任せていても大丈夫だろう。細かいことなら、ラスターシャもいることであるし。その点だけは。センナは信用できる。それ以外については、明言を避けなければならないが。
「お姉さま、お出かけになられるのですか?」
「ん? そうねぇ。ちょっとアキラと街を見てこようかなぁって」
「お姉さまが行くなら、あたしも行きます!」
「でも雪山には行かないから、ソリ遊びはできないわよ?」
「もぉぉ、お姉さままで! あたしを子供扱いしないでください! ソリ遊びはもう卒業しました!! ちょ、ちょっとは楽しみにしてましたけど」
ということは、町は三人で回ることになりそうだ。
もちろん、二人の護衛に付いてる兵士(偽装のために私服)も付いて来るだろう。無論、昶が一人居ればこと足りるのであるが、こればっかりはどうにもならない。
「そういえば、イェレスティオさんの姿が見えないんだけど。あの人も、一緒に付いて来てたよな?」
「えぇ。たぶん、お父様の手伝いをやってるんじゃないかしら? 王都でも、一緒に仕事してたみたいだし」
「お姉さまー! アキラー!」
と、少し離れた所からロッテの声が響いてきた。
「はーやーくー!!」
もうコート一式を完全装備して、入り口付近に待機している。もう待てないと言った風に身体をうずうずさせながら、こちらのことをにらんでいた。
「二人は俺が近くで見てるんで、少し遠くからってのは、大丈夫ですか?」
「あたしからも、お願いしていいかしら?」
魔法兵達はかなり不満なようだが、昶の力をロイスから伝え聞かされているだけに断ることもできず、少しだけですからね、と了解を取り付ける。
二人は足早に、先に駆け出して行ったじゃじゃ馬お嬢様を追いかけた。
こちらの世界に来て、二回目の海の町へとやって来た。
しかも今回は、極寒の雪国というオマケ付きだ。
だがそれも、アナヒレクス家お墨付きのコートのお陰で、思いのほか温かい。
「お姉さま、まず最初はどこに行きましょうか?」
右手をレナ、左手を昶と繋ぐロッテは、レナに聞きながらも視線は街の景色から離せないでいる。
毎年来てはいても、興奮は押さえられないようだ。
特に今回は、前回来られなかったレナと一緒というのもあって、屋敷の時の五割増しではしゃいでいる。
「まぁ、港町なんだから、見て回るのはお魚さんになるんじゃないかしら?」
「ひうぅ!?」
お魚さんと聞いて、ロッテの顔が引き釣った。理由は、ここ数日の食事風景を思い返せば、だいたい想像がつく。
どうやら、ロッテは顔が引き釣るほど魚が嫌いらしい。
「魚以外にも、海老とか蟹とか貝とかもあるんだから、そんな嫌そうな顔するなって。大人なロッテお嬢様」
「うぅぅ……」
そう、あたしは大人、あたしは大人、と小声でぶつぶつ繰り返すロッテ。まったく、レナ以上に扱いやすい子だ。詐欺にあったりしないか心配になるレベルだ。
そんな風にロッテが自分に言い聞かせている内に、レナは漁港の方へと足を向けた。
「あ、新しくなってる」
「それに、去年まではあんな大きな建物はありませんでしたよね、お姉さま」
細く入り組んだ道を進んでいくと、胸がもわっとするような海の臭いが漂ってきた。
そして海岸線までたどりで着くと、昶の目から見ても近代的に整備されたコンクリートの港湾施設が現れた。
沖に向かって大きく張り出した桟橋には、数十隻もの漁船が停泊している。全長は、どれも十メートル以上はあるだろうか。
しかも桟橋をよく見れば、潮の満ち引きによって橋そのものが上下に動く、いわゆる浮き橋の構造になっているのがわかる。
「すげぇな。コンクリート使ってんのかよ」
「そうみたいね。でも、こういう魔法関連でない技術って、大半がメレティスからの輸入なんだけど」
「リンネの実家がある国だっけ。レイゼルピナとは反対に、科学技術の進んでる国だっけ」
「相互補完って考えれば、いい関係でしょ」
「お姉さま、あれって?」
昶が久し振りに見たコンクリートに感激していると、ロッテはレナの手を引いてその方向にくいっと顔をやる。
レナと昶もその方向を見やると、なにやら家族連れの団体さんが、ぞろぞろと桟橋の根元にある建物へと向かっていた。
見た感じ、レナやロッテ達よりも高そうなコートを着ているように見えるが。
「あれ、お嬢さん達は、刺し網観光の方じゃないんで?」
三人が家族連れの団体さんを見ていると、いかにも漁師といった風貌の男性が声をかけてきた。
「刺し網観光、ですか?」
聞き慣れない言葉に、レナは男性に聞き返す。
「はい。ちょっと前に、漁の現場を見たいってんで、取引先の商家の方を乗せたんですが、それがえらい好評だったもので、うちの組合長がそのまま観光にしちまったんでさ。そしたらまぁ、それが当たっちまった感じで」
とりあえずは、漁の現場を見れるということだそうな。
昶とレナは、そろって視線を下の方に向けてみると、
「………………」
ロッテは羨望の眼差しで、漁師の叔父さんのことを見ていた。両の目には、おっきな十字星まで浮かんでいる。
となれば、結論は決まったようなものだ。
「それって、今からでも参加できるのかしら?」
と、レナが一言。
その瞬間のロッテの目の輝かせようと言ったらもう。
「えぇ、船にはまだ十分な空きがありますから」
「なら、三人分お願い」
「かしこまりました。お一人様、三四〇〇〇ルピナスとなっておりますが?」
「案外安いのね。それくらいなら、大丈夫よ」
「ありがとうございます。では、こちらです」
漁師の男は商人顔負けの営業スマイルを浮かべると、三人を先導するように歩き出す。
その直後、どこからともなく現れた三人組が、レナ達の近くに寄ってきた。
「お嬢様、勝手な行動は困ります。もし、海の上でなにかあっては、我々では」
「アキラがいるから大丈夫よ。その気になれば、海面凍らせる位のこともできるんだし」
「真言は疲れがヒデーから、あんま使いたくはないんだけどな」
覇気のない昶の声に反応して、三人の護衛はギロリと敵意のこもった視線を昶に向ける。
こんなやる気のないような子供よりも自分達が劣っているなど、どう考えてもあり得ないはずなのに……。
そんな嫉妬とも憤怒ともとれる感情が、ひしひしと感じ取れる。ただ、その敵意を向けられた本人は全く気にしていないのだが。
「そんなに俺が気に入らねえんなら、相手してやってもいいんだぜ? 蒼銀組のエリートさん達。命くらいは保証してやるから」
それどころか、軽く脅しをかけただけで三人は一歩後退った。
────化け物が。
三人は口々にに昶を罵りながら、しかしレナに逆らうこともできず渋々了承の意を示した。
「じゃあ、あなた達は桟橋の近くで待ってなさい。みんなにお土産も持って帰りたいから、できればお店も調べて欲しいんだけど、その強面だとお店の人も怖がりそうだし」
「承知致しました。それでは、行ってらっしゃいませ」
ようやく三人の護衛から解放された三人は、少し先で待機していた漁師の男の元へと急いだ。
「すいません、お待たせしました」
「いや、それは別に構わないんですが、あれっとお嬢様方の護衛の方達ですよね?」
「えぇ、そうですけど。なんでわかったのかしら?」
「そりゃ、刺し網観光のお客様は、商家の方や貴族の方ばかりですから。自然とわかるようになりますよ」
レナの質問に、漁師の男は滑らかに答えた。
口振りからもわかるように、過去に護衛の者を連れた客も大勢いたのだろう。
少々臆してはいても、驚いているような雰囲気はない。
遠くから見ていただけでこの反応なのだから、確かにあの三人がいれば悪い連中は寄ってこないだろう。
「ごめんね、アキラ。あの三人には、あとでキツく言っておくから」
「いいって、城での生活も長かったし、いい加減慣れた。やっぱ、学院のがすごしやすくていいや。なんだかんだで、みんないいやつだしな」
「アキラ……」
「ほれ、お前もそんな顔すんな。ロッテが心配するだろ」
一人先に漁師の男についていくロッテの姿を見ながら、二人は苦笑いを浮かべた。
この先も、昶やソフィアはこのような仕打ちを受けるのだろう。この国を救った本当の英雄は、異世界から渡り来た二人だというのに。
レナはそれが腹立たしくて仕方がないのだが、当の昶がこれではこっちも毒気を抜かれてしまうというものだ。
そうだな、ロッテみたいに自分も思いっきり楽しもう。最近辛いことが多かったんだから、その分を取り戻すつもりで行かないと。
だって今ここには、可愛いロッテと、大好きな昶がいるのだから。
三人が乗った観光船は、なんと帆船ではなく蒸気機関を備えた船舶だった。
地元の商会からの全面支援によって得られた船で、小型船舶では難しかった沖合での漁も可能となり、水揚げ量も上々でノールヴァルト漁業組合はうはうはだとか。
船の規模は、全長が二〇メートル以上、横幅は最大で五メートルほどとなっている。
甲板の上には現在、漁師六名を含めた三〇人近い人数が集まっていた。
波は少々荒いが、航海船舶初体験の人ばかりで、波の感触を楽しんでいる人が多そうだ。
「あんた、わりと平気そうね。こういうの、乗ったことあるの?」
「こちとら島国出身だぜ? 海なんざ、珍しくもねえよ。まあ、実家があるのは内陸だから、船に乗ったことは少ないけど」
それはともかく、この真冬に海である。比較的温暖な地域の出身である昶には、少々堪える。
そんな昶を嘲笑うように、甲板の上をパタパタと走る人影が複数あった。
「おぉ、魚の群れが飛び跳ねてるぜ!」
「本当だ!」
刺し網観光で来た客の子供達である。
年齢的には、小学生くらいの子供が多い中に混じって、
「あっ! 海竜種がいるです!」
ロッテの姿もある。
身長が低いせいもあって、悲しいかな、全く違和感がない。
「すげぇ、ロッテ隊長!」
「ロッテ隊長、目がいいんですねぇ」
「隊長すご~い!」
しかもなんか、子供全員を引き連れて隊長なんて呼ばれている。
まあ、これはこれで、有りなのだろうか。
子供達の親と顔を見合わせては、苦笑を浮かべる。
「お兄さんとお姉さんですか?」
「いえ、俺はただの知り合いです。こっちは、正真正銘のお姉さんですけど」
自分やレナを指差しながら、昶は相手の質問に答えた。
いかにも成金、といった風貌の夫婦である。まるで相手の格を値踏みするように、昶やレナのことをちらちら見てくる。
そしてすぐ、レナの手に持つ杖へと目を付けた。
「もしかして、マグスの方で?」
「えぇ。まだ見習い中の身ですけど」
「あら、ではそちらのお兄さんも?」
「まぁ、そんなところです」
夫婦はそろって、目を皿のようにした。
マグスと言えば、たった一人で普通の兵士数人分、場合によっては十数人から数十人分にもなる戦力を有する存在。
目の前の、自分達の子供より一回り程度大きいだけの子供が、そんなとんでもない存在とわかれば、驚きもするだろう。
「そういえば、今日はアナヒレクスの駐屯軍が来てましたなぁ。そろそろレブラプテルが南下して来る時期でしたが、お二方はそちらの関係者ですか?」
「そこは、お二人のご想像にお任せします」
そうこうしている間に、船はスクリューを停止させ、イカリを下ろした。
「それでは、網を巻き上げますので、装置から少し離れてください!」
漁師の男は目印のブイを引き上げ、下から伸びるロープを巨大な巻き上げ機に引っかける。
すると更に若い衆が二人、息を合わせて巻き上げ機のハンドルを回し始めた。
ロープはすぐに目の大きな網へと変わり、どんどん巻き上げ機に巻き込まれていく。
そしてすぐに、最初の獲物が現れた。
「よっしゃあ、一匹目!」
年配の漁師が、網に刺さっていた魚を一尾、甲板の真ん中に開いた生け簀へと放り投げた。
見た感じ、五キロくらいはするだろうか。なかなかのサイズだ。
その後も比較的大型の魚が次々と巻き上げられ、ロッテ隊長以下子供全員は目をらんらんに光らせている。
「うわ、醤油欲しくなる……」
そんなロッテ達とは別意味で目を光らせる異世界人が一人。
だが残念ながら、この世界に醤油はない。
「なにそれ?」
「豆から作るソースみたいなの。それを捌いたばっかりの魚の身にかけて食べるの」
「……それって、生で食べるの」
「生だからいいんだって。調理の手間かかんねぇし」
「お腹壊しそうだから、あたしは遠慮しとくわ」
と、二人が話している間に老いた漁師の一人が生け簀から魚を一匹引っ張り出して、その場で捌き始めた。
内臓と骨を一瞬で取り除いた所で、船内の調理場で網焼きにする。
そこへ、この近くでとれた塩で味を整え、
「へい、お待ちぃ!」
ミニサイズのフォークの付いた塩焼きの魚が、皿に持ってお客の前に出された。
お次は甲殻類を二、三匹持って入ると、同じくあっという間に殻を剥き、実を取りだし、軽く湯通しすると、あらかじめ作っておいたソースを添え、今度はフルコースのメイン顔負けの料理が出される。
あの老人の漁師、料理の腕前はかなりのものだ。もしかして、調理師の方が本業なのかもしれない。
老人の漁師は網を全て巻き終えるまで次々と獲物を調理していき、甲板の上には十品ほどの料理がほくほくと湯気を上げていた。
漁師らしい豪快なものから、レナの目から見ても繊細で美しい料理まで、まさに変幻自在だ。
「なあ、これレナん家のより美味くねぇか?」
「……い、いい勝負じゃないかしら」
レナのお口にも、大変美味しかったようである。
「素直じゃねぇなぁ」
「方向性の違いよ。これはこれで、すっごく美味しいけど」
「そういや、学院だと魚料理って無理だもんなぁ。だいぶ内陸にあるし」
「そうね。食べ慣れない味だから、新鮮よね」
他の客の様子を見ても、みんな満足なご様子だ。
「にしても、すごいわねこれ。チップ弾んでいいレベルだわ」
「あれ、そういやロッテは?」
振る舞われた料理をぱくついては、子供軍団を引き連れて甲板を走り回っていたような気がしたが……。
「お、いた」
「どこどこ?」
レナに聞かれて、昶はあっちと指を指す。
するとそこには、舷側に腰掛けるロッテ隊長以下数名の姿が。
だんだんと近付き始めたノールヴァルトの岸を指差しては、歓声を上げている。
「あっぶねぇなぁ。ロッテって泳げるのか?」
「そもそも、この寒い海で泳げるわけないでしょ。ロッテェ! そんな場所に座ってたら、危ないでしょぉおお!」
「大丈夫で~す、お姉さま~!」
ミニフォークを掲げて、ぶんぶんと手を振ってくるロッテ。
その直後、特大の波がレナ達の乗る船に襲いかかった。
立っていた人々は尻餅を突き、甲板に置かれていた料理は食器ごと無残に散らばる。
そして、
「何人落ちた!」
昶は声を張り上げ、船員に向かって叫んだ。
「わからんが、四、五人くらいだ! 機関、緊急停止!」
復唱される、機関停止の命令。落ちた人間が巻き込まれていないことを祈りながら、昶は分厚い防寒着を全て脱ぎ捨て、村正とアンサラーもその場に放り投げると、真冬の海に向かって飛び込んだ。
全身を針で突き刺されたような寒さが襲う中、昶はロッテの魔力を頼りに一気に前進する。
視界にはすぐに、ロッテを含めた五人の人影が見えた。
──さすがに、五人は無理だな。
だが、すぐ後ろから接近してくる魔力が一つ。
『三人はあたしが』
『悪い』
念話で素早く打ち合わせを終えると、一足先に到着したレナは一番流された子の上空でホバリング体勢に移行した。
そして着ていたコートの裾を、真下に向かって伸ばす。
「捕まって!」
一人が捕まり落ち着くのを確認すると、レナは二人目に向かって移動を開始する。
その間に昶は、ようやく手前の一人へと到着した。
そして背後へと回り込むと一度海へ引きずり込み、再び浮上して耳元で怒鳴り散らした。
「落ち着け! 死にたくなかったら暴れるな!」
胸元を強く締め付けてやると、一人目は顔を引き釣らせながらもなんとか暴れるなのをやめてくれた。落ち着いてはいないようだが、まずはこれでいい。
浮いていれば、その内落ち着いてくるだろう。
昶は二人目を探して周囲を見やると、よく目立つオレンジの髪が目に入った。
「ロッテ!」
昶はロッテの名前を叫ぶと、両足に力を込めた。
桁外れの脚力から生み出される推進力に、昶の身体は波を突っ切ってグイグイとロッテへと近付いて行く。
そして、
「ロッテ、捕まれ!」
「ア、アキラァ……」
昶の姿を見て安心したらしいロッテは、伸ばされた昶の手を優しくつかんだ。
『二人確保、そっちは?』
『大丈夫。持ち上げるのは無理だけど、三人共無事』
昶は二人を抱き抱えながらレナの魔力のする方を見ると、一つ二つ向こうの波間に必死になってコートをつかむ三人の姿を見つけた。
『とりあえずは、全員回収できたみたいだな』
『そうね。じゃあ、風邪引く前に船まで戻るわよ』
昶は先を行くレナを追って、真冬の海を船に向かって進み始めた。