第二話 犯人は誰? Act02:レナが!?
昶はなんとか起床の鐘が鳴る前に、現在お世話になっているレナの部屋に戻ることができた。今日はまだ眠っているようである。
修練の時にかいた汗もすっかり乾いている。そもそも、修練の本来の目的は身体を慣らすことであり常時肉体強化状態にあるのだ。さして疲れる様なことはない。
もっとも、同じ肉体強化を有するシェリーと木剣で打ち合ったわけであるが。
「ったく、可愛い寝顔しやがって……」
昶は足音を立てないよう忍び足でレナの眠るベッドに近寄り、天蓋から伸びるレースのカーテン越しにレナの顔を盗み見た。一週間ほど前、自らサーヴァントとなるのを認め、自分のご主人様になった女の子の寝顔を。
カーテンの向こう側から、すーすーと規則正しい寝息が聞こえる。相も変わらず、──寝ている時限定で──めちゃくちゃで可愛い。昶の好みであるので補正も幾分か入っているが、それでも絶世の美少女と言って相違ないだろう。
いつもこの寝顔と同じような可愛い顔なら、恐らく反抗しようとすら思わない自信がある。
ある意味、昶にとっては最強の兵器だ。
ゴーーーン、ゴーーーン、ゴーーーン、ゴーーーン……。
起床を知らせる低重音の鐘の音が、昶の鼓膜を優しく撫でた。このどこか心地よく抱擁感のある鐘の音は、昶の密かなお気に入りでもある。
鐘の音がなくなると同時に、昶は頭のスイッチを入れ替えた。
この鐘の音は、一日の始まりを告げる合図である。確か、ネフェリス標準時で三時半なんだとシェリーが言っていた。それがここでの時間の基準なんだろう。
昶はベッドから少し離れて、レナが起き上がるのを待った。
いつもここで、ゆったりと起き上がり眠たそうに目をこするレナから、
『おはよ、着替えるからちょっと外で待ってて』
という決まり文句を賜るのである。
「…………」
……賜るのである。
「……あれ?」
はずなのだが、カーテンの内側で布団にくるまっているレナはピクリとも動かない。いや、性格には胸の辺りの布団が寝息に合わせて上下しているのだが、全く起きる様子がないのだ。
実技以外は優等生そのものの態度(昶以外には)を振る舞っていて、規則正しい生活を送っているレナとはとても思えない失態である。
普段なら鐘の音が鳴るのと同時に行動を開始するはずなのだが、一体全体なにがどうなっているのやら。
「…………レナ~」
恐る恐る声をかけてみると、
「な~に~……?」
反応が鈍いように思える。
「あ、朝だぞ~」
「う~~~ん……。ちょっろまっれ~」
しかも、あのよく動いている──昶を罵倒する時は特に──口も、うまく機能していないようだ。
しかも、起床の時間なのになかなか動こうとしない。
それから待つこと地球の時間で三〇秒、
「あきら~」
「ど、どした?」
「こっちぃ~」
カーテンから手だけを出し、ちょんちょんとそろえた指先を手前に何度か動かす。
昶は我が目を疑った。あのレナが、手招きしているのである。普段なら寝ぐせであっちこっちはねた髪と、ほとんど下着姿の寝着を見ただけで暴走する、あのレナが。
平時ならばまず考えられない、あり得ない、不自然極まりない事態である。
「は、はい……」
昶は誘われるまま、額にびっしょりと冷や汗をかきながらレースのカーテンの内側へと入った。やたら手触りの良いレースをくぐると、鼻孔に一気にレナの香りが押し寄せてくる。
あまりの緊張に、昶はごくりと唾を飲み込む。
「おこして~」
今のはきっと空耳に違いない。
「えっと……。すいませんが、もう一度言っていただけますか?」
「お~こ~し~て~」
どうやら、空耳ではなかったらしい。もしかしたら、頭の方がおかしいのかもしれない。
と、昶が自分の頭のことを心配していると、
「は~や~く~!」
レナの甘声が、昶の鼓膜を脳髄ごと揺さぶった。しかも有無を言わせず、真上に腕を伸ばすダブルコンボ。
昶に選択肢はなかった。ほっそりとしたレナの腕を恐る恐るつかむと、まるでガラス細工を扱うかのようにゆっくりと起こしてやった。
ずり落ちた布団から姿を現した慎ましやかな二つの膨らみが、なんと目にまぶしいことか。
しかもつかんだ腕のなんと柔らかいこと。
──女の子の手ってこんなに柔らかいんだ。
プニプニとした柔らかな感触と人肌の温かさ、鼻孔をくすぐるより濃厚なレナ自身の甘い香りに昶はノックアウト寸前である。
「ブラ~スほスカ~トぉ、あとしたきも~」
「はいはい」
昶はカーテンを開くとご主人様の命に従って、二つあるクローゼットの一回り大きい方から白いブラウスに茶系のスカート、指名はなかったがネクタイとマントを取り出しレナの隣に置いた。
あとは下着を……。
「あ、したぎはいちわんしらね」
「りょうかーっておい!」
危うく引き出しに伸ばしそうになっていた腕を引っ込めた。
興味がないわけでは決してないのだが、レナの様子が明らかに変だ。
「らに?」
いつもはつり過ぎではないかと思われる大きな瞳は、ほとんど閉じられている。というより、完全につむっているのではなかろうか。これ以上ないくらい眠たそうである。背景に『ZZZ』の文字を浮かべても自然に映りそうだ。
まあ、これはこれでまた可愛いのだが……、しかし普段は自分の感情の赴くまま暴君として昶の頭上に君臨しているレナが、ここまで無防備なのは変を通り越して異常である。
──なにがどうなってんだ? まさか強力な睡眠系の術が使われているとか……、いや考えすぎか。鍵はかかってるし。
侵入者の可能性を考えて、昶はすぐにそれを否定した。数は少ないが、昼夜を問わず学院の中は警備の人間が巡回している。それも、感じる魔力からしてけっこうな腕利きである。
そんな危険な場所にわざわざ来るようなものはいないだろう。
「お前、変な病気にかかったとかじゃないのか?」
「しつれーねぇ。いいから早くしなさ~い」
「り、りょうかい」
昶は意を決して一番下の引き出しに手をかけた。
なにを緊張しているんだ、たかが下着を取り出すだけじゃないか。ただ男物じゃなくて女物ってところが違うだけで大した違いは、って大違いじゃねーか。とかなんとか一人で脳内乗り突っ込みしながら、昶は一息に引き出しを引いた。
中には淡色系の下着を中心に、種類別にきれいに整理整頓されている。
だが、そんな淡色系に混じって真っ赤だとか、真っ黒だとか、紐だとか、ほとんどスケスケのものだとか、そんな派手なものもしっかりとある。
…………鼻血が出そうだ。
昶は二日前の苦い記憶を呼び起こすと、下とおそろいの淡い緑系のブラを取り出しレナに手渡した。
「着替えさせ…」
「それだけは勘弁してください!」
平身低頭姿勢の見事な土下座だ。もちろん、敢行したのは昶である。
寝着を脱がせるということは、その下の二つの膨らみも露わになるという意味で、その、つまり、えーっと……。
「らってぇ、まらねみゅぃんだもん」
「下着だけは自分でしてください! お願いしますから!」
「もー」
と、いきなりベビードールを脱ぎ始めたので、昶も可能な限り全力で一八〇度回れ右をした。いつも思うのだが、体形はほとんど子供なのになぜああいうのだけこうも大人びた物を身につけているのだろうか。
目のやり場に困るではないか、と思ったのもつかの間。今度はバサッとか、シュッとかの布のこすれ合う音が耳に直に飛び込んできたのである。しまった、耳のやり場もなかった。
あまりの緊張に心臓が飛び出そうだ。不整脈でも起こしているのではと思うほど、心臓が激しく鼓動している。
自分の身体を完全に掌握するのも魔術師の必須技能なのにも関わらず、今の昶にはこれっぽっちも出来てはいなかった。
「おわったわよ~」
振り返ると、下着をつけただけのレナがベッドの縁にだらしなく座っていた。むしろ裸よりもエロティックに映る。
昶は可能な限りレナの方を見ないようにしながら、ブラウスに手を伸ばした。
それからレナの手を取ってブラウスの袖に手を通し、次に反対側も通し、ボタンをとめにかかる。
レナの胸に手が触れないよう細心の注意を払いながら、上から順々にとめていく。
と、最後のボタンを止めたときには、レナの下半身を覆う淡緑色の布が目先二〇センチの所に。ローライズなだけに、大事な部分がギリギリ隠れるほどしか布の面積がない。
「……!?」
昶は慌てて後ずさると、大きく深呼吸をして息を整えた。ただし、域は整っても心臓は痛いくらい鼓動したままだが。
それからようやく足を取ると、今度はスカートを穿かせる。
ここだけは腰を浮かせてくれたので、すんなりと穿かせることが出来た。
そして、鼻血を辛うじて我慢した甲斐もあって、ようやく終わりが見えてきた。が、これが最後の難関でもある。
レナは片足を上げたまま微動だにしない。つまり、黒いニーソックスも穿かせろ、と申されているのだろう。きっと。
いや、それ以上足を上げられるとスカートの中のものまで見えてしまうことに気付いて欲しい。まあ、そのスカートの中身とやらは、すでにしっかりと網膜に焼きつけられてしまっているわけだが。
だが、素の下着姿とスカートの裾からのぞくそれとでは、また違った魅力がある。昶はついスカートの方を向きそうになる欲望と、手の甲いっぱいに広がるレナの太腿の感触と戦い──もとい堪能し──ながら、ようやくニーソックスを穿かせることに成功。最後に一年生の赤いネクタイを蝶々結びにしマントをはおらせ、昶はレナに制服を着せる任務をようやく完遂したのだった。
これなら、いつもみたいに振り回される杖をかわしながら罵倒を浴びせられた方が、ずっと楽である。
「あきら~」
「はいはい、今度はなんですか?」
「おんぶ」
「……」
昶はレナの言った言葉の意味がわからなかった。おんぶ? そんな言葉聞いたことあったっけ? てな具合に。
「うんしょ」
と、昶がフリーズ状態をかましている間に、のっそりとした足取りのレナが背中におぶさってきた。肩甲骨の辺りに、なにやら温かくて柔らかくてぷにぷにした感触のものが押しつけられる。
この感触は、あの姉……というか、バカ姉が抱きついてきた時と同じような感覚だ。同じと言い切れないのはボリュームのせいだろう。
ただ一つだけ言えることがある。この感触は…………ヤバイ。
「しょくどー行ってね。むにゃむにゃ……」
半分以上眠った状態のレナはなにかを口走ったかと思うと、スースーと寝息を立てて眠り始めた。昶の背中の上で。
──いったいなにがどうなってんだ!
昶は心の中で救いを求めて叫んだのだった。
仕方なくレナを背負ったままドアを開くと、シェリーと見慣れない女の子がいた。
見慣れない子の方は、両手に乗っかるくらいのサイズの木箱持っている。
「おはよう、アキラ……って、あれ? その後ろに背負ってるのはー」
「……レナ」
昶は先ほどまでレナの部屋で繰り広げた人生最大の難問について、シェリーに包み隠さず話した。
てっきり白い目で見られるとばかり思っていた昶であったが、シェリーから返ってきた言葉は意外なものであった。
「あぁ、またか。徹夜で勉強してたのよ。たまにやらかすんだけど、次の日は見ての通りそんなでね。自分でもなにしてたのか全然覚えてないから、そんなびくびくしなくても大丈夫よ。でも、今日はいつも以上に眠そうね」
そういえば、座学はともかく実技の成績は歴代の生徒の中でも最悪の方だと嘆いていたのを聞かされたことがある。
今日は机の上には辞書みたいに分厚い参考書が五、六冊に、見やすく丁寧に、しかしびっしりと文字が書き込まれていたノートがあった。
自分なら絶対途中で断念すると断言出来る自信がある。
けっこう勉強家な一面もあるんだと、感心せざるを得ない。それが例え、不安の裏返しだったとしても立派であると昶は思う。
ただし、そのせいでこんな面倒をかけてけれるなら、可能な限り控えていただけると助かるのだが。
だがさすがに、頑張って勉強しているのを『止めろ』なんて言えない。
「大丈夫って言われても」
「大丈夫だって、一学期は私が面倒見てたんだけど、ほとんど覚えてなかったから」
「…シェリー」
木箱を持っている少女が、シェリーのブラウスの裾をついついと引っ張った。
レナよりも更に小柄な体型、白味がかった水色の髪を黒のリボンでツインテールにまとめ、瞳の色は髪とは反対の深い青色をしている。
「あ~、ごめんごめん。それで、ちゃんと直った?」
「…うん」
木箱を持った女の子は小さくちょこん頷くと、手に持った木箱をシェリーに手渡した。
シェリーは木箱をまじまじと見つめながら、不意にぱかっとそのふたを開ける。
────パァン パラン パァ パァー パァーン パァーン……。
それは音楽だった。繊細でいて儚く、しかしどこか心温まる音色。小さな木箱が奏でる優しい音に、三人はしばしの間耳を傾けた。
「オルゴールか」
「そう。小さい頃旅行先でママに買ってもらったやつなんだけど、壊れちゃって。それを直してくれたの。ありがとね、リンネ」
「…直って、よかった」
木箱──オルゴール──を持ってきた女の子は、シェリーの言葉にぽっと赤くなりながら、柔和な笑みを浮かべていた。
「りんね?」
それが、シェリーのオルゴールを直した女の子の名前らしい。
「アキラ、会ったことなかったっけ?」
「初めてだよ」
「そっか~、じゃあ紹介するね」
シェリーは自分の後ろに隠れるように立っていた女の子──リンネ──を、昶の前に引っ張り出す。
不意に目線があったかと思うと、びくっとなってうつむいてしまった。
「この人は、レナのサーヴァントになった……で合ってるわよね? アキラ」
「……どうも。昶っていいます」
レナが背中からずり落ちそうなのを押さえながら、軽く会釈をした。相変わらず背中の感触が悩ましい。
「…リンネ=ラ=アンフィトリシャ。えっと、その、よろし……く」
それだけ言うと、リンネは再びシェリーの後ろに隠れてしまった。
目線の方はシェリーの影から半身を出して、昶と廊下の床を行ったり来たり。なんだか、こういった反応は新鮮な気がする。
「この子、ちょっと人見知りなのよ。仲良くしてあげてね」
「あ、うん。わかった、よろしく。え~っと、リンネ、さん?」
「…でいぃ」
なにか言ったようだが、小さかったので上手く聞き取れなかった。
リンネはうつむいたまま、更に全身を隠すようにシェリーの後ろに回り込んで、
「…リンネ、でいぃ」
「あ、あぁ。わかった。よろしくな、リンネ」
昶はそっと手を差し伸べた。
シェリーの影から出てきたリンネは胸の前で腕を構えたまま、遠慮がちに右手を差し出そうと腕を伸ばす。が、それがなかなか伸びきらない。
「あ~も~、じれったいわね!」
と、なかなか手を出せないリンネに業を煮やしたシェリーは、二人の手をつかみ強引な握手に踏み切った。
「よ、よろしく、な」
リンネはこくんと頷くと、まるで逃げるようにして自分の部屋へと帰ってしまった。
昶がじろりとシェリーの方を見ると、あからさまな口笛を吹き始める。今ので嫌われたらどうするんだ、と頭の片隅で思っていると、
「…お待たせ」
発動体と思われる細身の杖を持ったリンネが帰ってきた。
「じゃあ、食堂に行こうか」
シェリーの一声で、四人(一人は寝たきりだが)は食堂へ向かう。
昶はちらりとリンネの方を見ると、シェリーの影に隠れて恥ずかしそうにしながらも、お礼を言われた時みたいな柔和な顔で笑ってくれた。
どうやら、新しい友人が出来たようである。
食事中に話しかけてきたのは、意外な人物だった。
いや、そもそも人物という表記から間違っているだろう。
『アキラさん』
例によって普段は実体化を解いているので、昶以外にセインの存在に気付く者はこの食堂の中にはいない。
「セインか。いいのかな~、他のサーヴァントみたくご主人様の側にいなくて」
『その点ならご心配なく。下位階層の火精霊達に見張らせていますので』
「さすが、上位階層」
自分よりも下位の精霊達を使役出来るとは、下位階層や中位階層と契約したマグス達がちょっとかわいそうになってきた昶である。
たしか精霊と契約しているマグスも何人かいたはずだ。今も食堂の中に各種精霊の気配が数柱分はある。
「それで、なにか用事?」
昶は慣れた手つきでサンドイッチを口へと運ぶ。
今日はエリオの試作料理ではなく、学生達の余り物でできた普通においしいサンドイッチである。
『最近、主の修練のに付き合っているのを拝見しましたので』
「あぁ、そのことか。まあ、剣には多少の心得があるから。自分の練習にもなるしさ」
※注:実際は心得があるとかいう生易しいレベルではありません。
『その、私も教えを請おうかと』
「え? 剣なんかなくても、精霊ならかなりの力があるんじゃないのか? 俺ここの精霊については、よくわかんねぇけど、セインから感じる気配は相当のもんだぞ」
『それは……、そうなんですが』
なぜか気配が不安定に。なにか言いにくいことなのだろうか。
昶はちょっとだけ姿勢をただすと、セインの気配が漂う空間に視線を合わせた。
『私の主は見ての通りの魔法剣士なのですが、私には、その、近接戦闘のスキルが皆無なので、いざという時に主を守れるかどうか不安なのです。それに、サーヴァントは本来、主の盾であり矛たるものです。このままでは主と肩を並べることすら叶いません。力が大きい分、下手をすれば主に怪我をさせてしまう可能性もあります。それが心配で』
「セインでも、そういうの気にするんだ。でも、それだったらシェリーに教えてもらえばいいんじゃないか? 練習相手が増えれば、喜ぶと思うけど」
『アキラさんと主の修練は遠くから拝見しておりました。剣技もさることながら、身のこなしも実に見事でした』
「そう言われると、ちょっと恥ずかしいな……。これでも、落ちこぼれって言われてたんで」
まあ、それでもすでに人類の限界点をはるかに超えたレベルに達していたりするのだが。
『それでも貴方以上の方はこの学院にはいません。それに、主には知られたくありませんので。それくらいのプライドは、私にもあります』
「まあ、断る理由もないし、いいか」
『ありがとうございます。では、主達が教室での授業の時にでも。ご教授のほど、よろしくお願いします』
「そんな、堅苦しいのいいですって! そういうのはなしって言ったのは、そっちが先だろ?」
『そうでしたね。それでは後ほど』
納得したのか、肌を焼くような気配はゆっくりと遠のいていった。
そういえば、どのサーヴァントも、マスターには忠実というか、つくすというか、そういう傾向があるんだが、やっぱりこれも契約の影響なのだろうか。
その割には、昶自身はそういった感情は…………ないと、思う?
今度機会があったら、召喚や契約についてレナやシェリーに聞いてみるのもいいかもしれない。
「ま、気にしてもしゃあねえや」
なるようになる。現に今もそうなのだから。
「なにがですか?」
昶の独り言を聞いたエリオットが、食べ終わった食器を持って帰ってきた。
両手には、それぞれ十枚以上の皿がありそうだ。けっこうなバランス感覚である。
「いえ、なんでもないですよ。ごちそうさまでした」
昶は水をぐいっと飲み込むと、シェリー達の席でぐったりしているレナを背負って教室へ向かった。
レナを教室まで送り届けた昶は、食堂での約束通り学院の外でセインに剣の手ほどきをしていた。
まあ、人間以外に剣を教えるのもそうだが、上位階層の精霊だけあって、教える方も色々と大変な目に会った。
まず、精霊の力は人間よりもはるかに強い。
魔力的な意味でもそうだが、筋力的な意味でも人類を大きく上回っている。おかげで剣を捌くだけで随分と精神力を浪費してしまった。
しかもその剣も、セインが空気中の火の精霊素を集めて作ったものであったりする。精霊素とは、単にエネルギーとしての側面しか持っていない精霊を指す。どうやらこの精霊素も、人間で言う魔力同様の物質化ができるらしい。
ただ、数発は威力を逃がしきれなかったので、今も腕に痺れが残っている。
学習能力はかなり高いようで、もう一ヶ月すれば十分シェリーの練習相手が務まるほどになるだろう。それも、元々備えている非常に高い運動能力があってこそ成せる異業とも言えるが。
もっとも、それはパワーとスピードの力技で押すことが前提であって、技巧的な部分はまだまだ未熟の一言である。
草壁の血に頼らない状態では、教えられることも少ないだろう。主に筋力的な面で。
昶自身も、血の力を使いたくはない。
──こんな、壊すだけにしか使えない力なんて。
そんなハードな時間を終えると、二限目の終わりに合わせて昶は教室の前までやってきた。
ほとんど空っぽになった教室の中をそっとのぞいてみると、一番上段の席にぐったりとしているレナの姿を発見。その周囲にはシェリーと、小説に目を走らせているリンネの姿もある。
「まだ寝てんだ」
昶は小走りで最上段まで駆け上がると、レナの前に回り込んだ。
「…見ての通り」
「まだ熟睡中ね」
どうやら、昶がくるまで待っていてくれたようである。きっと、レナを運ばせるためだ。
運ばされる昶にとっては、嬉しいのか悲しいのかよくわからない状況である。
その件についてはすでにあきらめがついている昶は、シェリーとリンネの方を見やった。
「…………。で、シェリーとリンネは午後からどうするんだ?」
シェリーとリンネは視線を合わせると、同じように頷く。
「…新刊、今日入荷」
リンネと意思疎通を図るには、もうすこしスキルが必要そうだ。
今の昶には、本にまつわることしかわからない。
「今日、新しい本が入荷するから、一緒に中央図書館に行こうって約束ことしてたのよ。魔法に関する書籍もあったから、レナも誘おうと思って部屋の前で待ってたんだけどー……」
当の本人は熟睡中である。こら、口からよだれが……。つつつーっと顎を伝って垂れそうになった所で、シェリーがハンカチを差し出す。それからごしごしぬぐわれても、全く反応なし。色んな意味で驚きの熟睡ぶりである。
それにしても、こんなに活発なシェリーと人見知りのリンネがなんでこんなに仲がいいのか、その辺りの話も聞いてみたいものだ。
「とりあえず、食堂の隣のテラスに行きましょう。ちょっとお腹もすいてるし」
リンネは無言で頷くと、ゆっくりとした足取りで、教室の外に向かって歩き始めた。
「あ、アキラはレナを連れてきてね」
「わかってるって」
昶は背中の感触にドギマギしながらレナをおぶると、三人はリンネの後を追うようにして教室を出た。
四人は学食の隣にあるテラスでゆったりとした昼食を済ませた。昼食と言っても、おやつをつまむていどの軽い食事である。
シェリーの奢りで、初めて貴族に出されている料理を口にした昶の感想は、
『お前らいいもん食いすぎだろ……』
とのことであった。
いや、エリオの作ってくれる料理も──試作品を除けば──非常においしい。だが、それらは普段レナやシェリー、リンネ達が食べているものの端材にすぎないのだ。昶は改めて、そのことを実感したのだった。
そんな感じでにぎやかな昼時を過ごした四人(内一人は食べる時だけ半分起きていた)は、今は中央のクインクの塔の二階──食堂の上の階──にある中央図書館に来ていた。
「すげぇ……」
それは本好きの昶にとって、宝の山にも等しい光景だった、……字さえ読めれば。
「ここ数百年分の本が所蔵されているそうよ。劣化を防ぐ術がかけられてるらしいから、こうして私達も見ることができるの」
残念ながら、家には千年近く前の本からあります。確か奈良とか飛鳥とかの時代からのがあった気がする。
なんてことを言いたい昶であるが、物的証拠はないのでやめておこう。
ただし、所蔵されている本の量は凄まじいの一言に尽きる。
堆くそびえ立つ本棚、高さは優に五メートル、それが何十メートルも、何十列に渡ってズラーっと並んでいるのだ。
それでも整理しきれない本は、棚の横に積み重ねて置かれたり、テーブルの上に散乱したりしている。
ヴァチカンの教皇庁にあると言われている、聖書にまつわるものから魔導書に至るまで様々な書籍を所蔵していると噂される禁書図書館も、あるとすればこんな感じだろう。
本当に心から字が読めないことが悔やまれる。
「リンネ、新入荷はこっちだって~」
カンウターの前では、シェリーが手を振っている。
図書館なのだからもう少し静かにすべきだろう。
「…シェリー、静かに」
昶が思っていたことを、リンネが代わりに言ってくれた。
シェリーは舌をチロッと出すと、自分の頭に軽くげんこつを落とす仕草をして見せる。
「それは?」
昶とリンネが近付く頃には、シェリーはすでに数冊の本を片手に持っていた。
「ほとんどが小説よ。国外に機械式の印刷機が出来たらしくてね、こういった娯楽の本が楽に読めるのは嬉しいわ。ね、リンネ」
リンネはこくんと頷いた。
すでにシェリーと同じ本を開いては、文章を追いかけている。一ページにかける時間は約十五秒、見開きを三〇秒で読むペースだ。
すでに自分の世界にのめり込んでいるのか、目線と手の動き以外は、静止画のように固まっている。
「アキラも読んでみる?」
「俺は字がわからねえから、いいよ」
「あら、ごめんね。無理に連れて来ちゃって」
「いいって、それに見てみたかったからあっ!」
首筋になにかくすぐったいものが触れた。
これは……、唇だろうか。なんだか、生温かくて、湿っていて、プにプにとした感触だ。
「ん~……あきら?」
レナが目を覚ましたようだ、一割程度。
「どした?」
「こ、こ、は?」
「中央図書館よ」
シェリーが代わりに質問に答えた。髪の毛以外にも、吐息が首筋を撫でる感覚がたまらない。
精神的に色々と限界だ。
「ちゅうおうとしょかん?」
レナはもう一度、周囲を見回してから、昶の耳に口をよせて、つぶやいた。
「あきら~、部屋」
「部屋行ってどうすんだよ?」
「寝る」
午後の時間はお昼寝に費やすつもりのようである。
そういうわけで、
「俺、レナを部屋まで運んで来る」
「頑張ってね~」
シェリーは肩をポンと叩くと、近くのイスに腰かけて本を読み始めた。
リンネは手だけは振ってくれたが、目線は手元の本に釘付けになっている。
昶は一階の食堂に通じる通路に戻ると、グノーメの塔を目指して歩き出した。