第十四話 決戦のレイゼンレイド Act05:嚥血の魔剣
王城の頂よりはるか上空に、一艘の小舟が漂っていた。
飛竜や飛行術を使えるマグスならば容易に到達できる高さではあるものの、その小舟が他の者達の目に見えることはない。
透過型潜空装置。
未だ総合魔法学研究院で研究途中の、空に潜むことを可能にする装置である。
現状でも雲を発生させる、幻影を作り出す等の姿をくらませる装置は存在するが、自身を透明にするものは未だ試験段階の域を出ていない。
しかもまだ、搭載するには最低でも駆逐艦クラス、もっと言えば巡洋艦に準ずる大きさが必要なのを考えれば、現在王城上空に潜む舟は明らかに常識を逸脱した存在であった。
大きさはせいぜい、十メートル程度。
百メートルを大きく超える巡洋艦と比べれば、大人と赤子ほどにも差がある。
その小舟のデッキにある座り心地抜群の最高級のイスに腰掛け、眼下の惨状を俯瞰する者が一人いた。
どこか厳かな雰囲気の漂う純白のコートに身を包み、色素が抜け始めたまだらな茶髪をした初老の男。
宝石を散りばめた装身具を全身にまとう男は、抑え切れぬ笑みを口端に浮かべながらグラスに注がれた葡萄酒を呷る。
「まったく、建造物の破壊は可能な限り避けるよう厳命したのに、さっそくか」
だが言葉とは裏腹に、怒っている様子はない。
それもそうだろう。
明日にはあの城は、この国は、自分のものとなっているのだ。
壊れてしまったのなら、修繕すればいい。
兵士の代えも、今回雇った傭兵達でまかなえる。
大戦後の名残で続いている紛争地をのぞけば、彼らの仕事場はほとんどない。
大半の者が、自分の言葉に乗ってくるだろう。
「お注ぎしましょうか、依頼主?」
男は声のした方を振り返る。
いつも自分の相手をさせている、黒衣をまとった従順な少女だ。
フードに隠れた美貌も、イスに腰掛けるこの位置ならば見ることができる。
そうだ、王都を落とした暁には、国王の寝所でこの者と戯れるのもいいだろう。
最近は裏側での活動が忙しくおざなりになっていたので、色々と溜まっているのだ。
他にも使用人にはもったいないメイド達を何人か見繕って、三日三晩楽しむのも一興か。
ここまで来るのに元老院の議長としての責務と、今回の反乱の下準備をしてきた自分への報酬も、いくらかあっていいはずである。
「あぁ、頼む」
男は下卑た笑みで更に表情を醜く歪めながら、少女へと声をかけた。
黒衣をまとった少女は、一本で一般家庭の年収にも匹敵するような最高級葡萄酒を、男のグラスに注ぐ。
「“ユリア”」
「なんでしょうか?」
自身のコードネームを呼ばれた少女は、葡萄酒を注ぐそのままの体勢で男を見た。
口には出さないが、色々と嫌な思い出が呼び起こされる。
少女の思いとしては、一秒でも早くこの男の傍から離れたい気分だ。
「今日より、余を王と仰ぐがいい」
「……意図がよくわかりません。依頼主の職は王ではなく、元老院の議長であるはずですが」
「よいのだ。明日には、余がこの国の国王になっておるのだからな」
もっとも、私情を仕事に挟む気はさらさらない。
自分は今この男の道具であり、武器でもある。
それだけだ。
依頼主の気分を害していては、仕事に支障をきたすかもしれない。
少女はただ頷いて、傍らに恭しく膝をついた。
「承知しました、陛下」
男はどこまでも愉快そうに、戦場となった王城と黒衣の少女を見ていた。
レオン=メリム=ディオナス=ラ=ガルシェール。
代々軍属の家系に生まれた彼は、物心つく前から魔法兵になることを夢見てきた。
領地を持っているわけではないが、忠厚く長年に渡って王家に使えてきたガルシェール家は、他の土地を持たない家系よりも裕福である。
そんなレオンが世界最高の魔法教育機関である王立レイゼルピナ魔法学院への入力を希望したのは、当然の成り行きであった。
すでに一年生で学ぶ基礎をほとんど身に付けていたレオンは上位の成績で試験を突破し、その後もクラスの中心的人物として学院生活を送っていた。
だが三年生へと進級した時、事件は起こった。
入学式の初日から、一年生と二年生の間で喧嘩が起きたのだ。
まだ大半が魔法を使えない一年生と、曲がりなりにも基礎を終えた二年生。
結果は目に見えている。
一年生の身を案じたレオンは、すぐさま現場へと駆けつけた。
だが、レオンの瞳に映ったのは、想像とは正反対の、まさしく衝撃的なものだった。
ろくに身動きの取れなくなった二年生を、一年生が一方的に殴りつけていたのだ。
それも、二年生十人に対して、一年生は一人。それもまだ、年端もいかない女の子である。
しかもその二年生というのは、学年でも上位に入るような連中ばかりであったのだ。
一年生の女の子を力任せでなんとか押さえつけてその場は幕引きとなったが、レオンはなぜかその女の子に懐かれてしまった。
そしてその女の子は自分と同じ近衛隊に配属され、今自分の目の前で愕然としている。
ネーナ=デバイン=ラ=ナームルス。
名前すら無かった女の子の、それが今の名前である。
ネーナはレオンが目の前に立ちはだかった事実に驚きながらも、反射的にエルザとライトハルトを守るように前へと出ていた。
学院を卒業してからまだ三年ほどしか経っていないのに、すっかり板に付いてしまったようだ。
「いったいどういうつもりですか? レオン先輩」
体勢を低く構え、具現化する一歩手前まで風精霊を集る。
「あぁ、うん。悪いとは思うけど」
レオンは黒と赤の剣を両手に持ち直すと、どこか悟った風な、物悲しげな顔を見せた。
そして、次の瞬間、
「これも、必要な犠牲なんだ」
床に亀裂を走らせながら、白銀の鎧が閃光のように駆けた。
「なっ!?」
ネーナは接近するレオンを押しのけようと、集めていた風精霊を暴発させる。
しかし、
「悪いな、ネーナ」
レオンは爆風をもろともせず柄でネーナの脇腹を打ち、エルザとライトハルトへ斬りかかっていた。
「危ない!」
とっさに近衛隊の二人が身を挺して、エルザとライトハルトを守る。
しかし、ライトハルトを守った者の方は、鎧の上からばっさりと背中を斬り裂かれていた。
現段階で最高の強度を誇る、近衛隊の鎧がだ。
「しっかりしろ! 今治してやる!」
ライトハルトは怪我をした者の背中に回ると、治癒の魔法を起動させた。
幸いにも傷口は浅く、苦悶に満ちたあえぎ声が、安らかになっていく。
「申し訳ありません」
「いいから、黙って治されろ」
ライトハルトは治療をしながら、ネーナに目配せした。
二人ではどうにもならないから、お願いできますか、と。
「先輩二人とミゼル、コイツはオレが引き受けるから、王子と姫さまを連れてさっさと城外まで逃げろ。急げよ!」
「あ、あぁ、頼んだぞ」
「ネーナさんも、頑張ってください」
治療を受けている一人を除いて、近衛隊のもう一人とミゼルは力強く返事をした。
ネーナは風と氷の全身武装鎧を起動させ、レオンへと飛びかかる。
風の反発と肉体強化を組み合わせた移動方法は、昶に迫るほど速く鋭い。
更に指先から氷でできた剣が伸び、大上段から渾身の面を見舞った。
全身運動、速度、肉体強化、質量、重力、飛行力場。
複数の力を組み合わせた一撃は、第五級危険獣魔に指定トロール鬼すら一撃で沈める威力を持つ。
「こんなものだったのか、君の力は」
しかし、レオンは長剣を斜めに構え、衝撃の全てを受け流した。
肉体強化を使えないレオンには、受け流すことすら不可能なはずなのに。
「なんで……」
だが、ネーナの動きは止まらない。
振り下ろした刃を返し、再びレオンを斬り上げる。
「なんでこんなことしてんですか!」
レオンはそれを人間離れした動きで回避すると、バックステップでネーナと距離を取った。
やはり、麒麟児と名高い若手ナンバーワン魔法兵。
自分とは違い、道具の力に頼らなくてもここまで戦うことができる。
そう、自分と違って。
「楽しいか?」
今まで溜まっていた毒を吐き出すように、レオンはぞっとするほど暗い瞳でネーナのそれを見た。
垂れ気味な紫色の、紫水晶のように澄んだ瞳。
きっと濁りきっている自分とは、正反対の瞳だ。
「そうやって、自分より弱い奴を先輩って呼んで、楽しいか?」
ネーナは今まで聞いたことのないレオンの声に、背筋がぞっとなった。
こんなレオン先輩は見たことがない、こんなの自分の知っているレオン先輩じゃない。
「楽しいとか楽しくないとか、そんなんじゃ……」
言い淀むネーナをよそに、レオンは長剣を下段に構えて突っ込んだ。
戸惑う口とは逆に、ネーナの身体は防御の構えを取る。
刃での攻撃は、直接受けてはならない。
斬り上げられる長剣の軌跡、その側面をなぞるようにして、ネーナは氷の刃をぶつけた。
氷の刃は断ち斬られることなく、長剣の一撃を受け流す。
レオンが完全に腕を振り上げたスキを狙い、ネーナは掌底をレオンの顎へ放った。
が、寸前で頭を引いてかわされ、逆にネーナの顎を打ち抜くようにバック転を決めながら再び距離をとる。
ネーナは打たれた顎をさすりながら、背後を見やった。
もはや誰の姿もない。うまくこの場から逃げおおせたようだ。
そのことに関してはひとまず安心しつつ、ネーナは先の一幕から得られた情報を精査する。
強力な肉体強化と、常人の域を超えた反応速度。
本来は持ち得ない二つを、今のレオンは持っている。
原因があるとすれば、一つしかない。
「レオン先輩。その剣、どこで手に入れたんですか」
「ふふ、また先輩、か……」
自嘲するように笑うレオンは、おもむろに長剣を一閃させる。
直後、刃の撫でた壁があっさりと裂けた。
魔法文字と硬化を幾重にも重ねた壁を、まるで綿のように簡単に。
「エザリアっていう、バケモノじみたマグスからだよ。完全再現具の、嚥血の魔剣だってさ」
「エザリア……!」
──うちの名前はエザリア=S=ミズーリー。ほな、やっさとやろうやないか。殺シ合イっちゅう、最高におもろいゲームをな。
ネーナの脳裏に、創立祭の日の出来事が思い起こされる。
今でも忘れることができない、いや、忘れてはならない。殺せないマグスは、確かにそう名乗った。
「こいつは便利だよ。魔力さえ込めてやれば、あとは身体を勝手に動かしてくれる。僕みたいな凡人でも、君みたいな天才と渡り合えるわけだ。ただし……」
今までよりも早く、レオンの身体が動いた。
不意を突かれたネーナは完全にかわしきることができず、左腕に浅い斬り傷が刻まれる。
「それなりに、血をやる必要があるんだけどね」
わざわざ血に濡れた刃を見せつけるように、レオンは長剣──ダーインスレイヴ──を掲げて見せた。
ぬらぬらと気味の悪い光を反射していた血は、あっという間に刃の上から消え去る。
より正確には、ダーインスレイヴに飲み込まれたと言うべきだろう。
血が必要というのは、つまりはこういうことらしい。
極上であろうネーナの血を一舐めしたダーインスレイヴは、甲高く脈動する。
魔力とは違う一種異様な気配が、ネーナの感覚を逆撫でた。
「そっちの質問に答えたんだから、次は僕の番だね」
腹部、左胸、眉間と、レオンは急所を狙って三段突きを放った。
三撃とも見事に防いで見せたが、最後の一発は刃に触れてしまい、氷の剣は一瞬の抵抗も許されず切断される。
「人を見下すのって、そんなに楽しいか?」
流れるような所作で、レオンは横薙ぎから魔法を放った。
無言で放たれる石つぶては、呪文に比べれば威力は低いものの、牽制としては十分。
バックジャンプで後方へと飛びながら、ネーナはあるはずのない答えを模索する。
違う。自分は一度だって、そんなことを思ったことはない。
ただ純粋に、先輩のことが……。
「君みたいな天才にはわからないだろうね。凡人である僕の苦しみなんて」
体当たりするように跳びだしたレオンは、直前で身体を回転させてネーナに襲いかかる。
壁に身体を押し付けるようにしてなんとか回避できたが、進路上にあった天井や窓はずたずたに切り刻まれた。
「学院時代は必死だったさ。新しく入ってきた一年生の君は、もう二年生の集団を一蹴するほど強かったんだからね。あぁ、これが本当の天才なんだってつくづく思ったよ」
「違う。そうしなきゃ、生きていけなかったから、オレは…」
しかし、全てを言う前に、レオンの一薙ぎによって中断させられてしまう。
「学院時代はなんとかなったけど、近衛隊に配属されてからはそうもいかなかった。王都奨学制度で学院に通っていた君は、強制的に魔法兵の採用試験を受ける。あんの上、君はとりわけ優秀な魔法兵として、近衛隊に配属された。そこで他人のふりでもしてくれれば、まだ楽だったのに」
レオンは今でも思い出す。
未だに雑用のような地位にいた頃、卒業と同時に入ってきたネーナは、なんといきなり王女の専属護衛官という大抜擢を受けたのだ。
そんな注目の的だったネーナが、自分を見つけた時言ったのである。
──レオン先輩、久しぶりですね!
最下層の自分と、王族護衛官のネーナ。
自分を見る周囲の目が、一気に嘲笑の色を帯び始めた。
それが、レオンには耐えられなかったのである。
「今になって、ようやく若手の部隊を少し任せてもらえるようになったけど……。でも、その間に君は更に上のワルプルギスナハトの一員にまで昇格して。そんな雲の上にいるような人から、先輩先輩って言われて。君は、僕にどれだけ惨めな思いをさせれば気が済むんだい?」
身を引くのがわずかに遅れて、右腕がわずかに斬られた。
だが腕の傷以上に、レオンの言葉がネーナには痛かった。
言葉とは、こんなにも簡単に人の心をえぐるものなのか。
知らなかった。
自分はただ、学院の頃のまま、レオンと接していたかっただけなのに、しかしレオンにはそれが苦痛だったのだ。
自分が傍にいることで、いったいどれだけレオンを苦しめてきたのだろう。
傍にいれば、それだけで周囲の人々は自分とレオンを比較する。
その度に、レオンは苦しみを味わってきた。
慕われる後輩より劣っている、とんでもない後輩に慕われているからといっていい気になるな。
ネーナが知らないだけで、レオンは影でそのように言われてきたのである。
「ごめんなさい。わたし、なにも知らなくて……」
滲む涙を拭いながら、必死でダーインスレイヴの軌道を見極める。
前後左右だけでなく、時には天井近くまで跳び、時には床ぎりぎりまで伏せ、剣戟の間を縫って指先から全身武装鎧を撃ち出す。
しかしダーインスレイヴの性能は凄まじく、ネーナですらできないような高速回避をレオンに強いらせた。
「あの時、本当のお兄ちゃんができたみたいで、嬉しかったんです。でも、レオン先輩には、辛かったんですね」
ネーナはいったん大きく距離を取り、姿勢を低くして構える。
好意を持っていたのは自分だけで相手からは嫌われていたなんて、片思いもいい所だ。滑稽すぎて笑い話にもならない。
でも、こんな自分でも必要としてくれる人がいる。
ネーナが魔法学院へ入学するのを決意させた、まだ幼かったあの子。
自分がいなくて、きっと心細いことだろう。
すぐに行くから、待っててくれ。
「レオン先輩って呼ぶの、これで最後にします」
全身武装鎧を足だけ残し、両腕にそれぞれ違う魔力を込める。
複数の術を苦もなく同時に起動させるその技量は、確かに天才の成せる業かもしれない。
肉体強化の脚力と全身武装鎧の反発力で床を蹴り、飛行術で更に加速させ、ネーナは一瞬にしてレオンの懐へと飛び込んだ。
容赦なく振り下ろされるダーインスレイヴ。
嚥血の魔剣は文字通りネーナの血を求め、大きく脈動する。
だが不意に、ネーナの左手を紫色の光が覆った。
瞳と同じ紫水晶を思わせる紫色のそれは、ネーナが魔力を物質化させて作り上げたものだ。
左手を大きく斬り裂かれながらもダーインスレイヴの根元をがっちりとつかみ、ネーナは右手に込めた魔力で精霊を牽引した。
レオンに見せるのは、もしかしたらこれが初めてかもしれない。
水精霊、火精霊、風精霊、地精霊を集め、束ね、顕現させる。
「今まで、ありがとうございました」
暗い廊下が、ぱっと明るくなった。
月明かりよりも、質としては日光に近い。
全力で振られた拳は、レオンの身体に当たる直前で止められている。
だが、それで十分だった。
弾けた光はまるで細胞の一つ一つを貫くように、レオンの身体へと牙を向く。
しかし、身体が傷付くようなことはない。
四大属性の上位に位置する光精霊が生を司るからこそ可能な、肉体に損傷を与えずに魔力だけを破壊する超絶技巧。
魔力という支えを失ったダーインスレイヴは効力を失い、過剰な魔力放出で傷付いた魔力循環系が悲鳴を上げる。
完全に脱力した身体は、もう立つことすら叶わなかった。
レオンはろくに受け身も取れぬまま、後方へと倒れ込む。
ネーナは治癒の魔法ですぐさま治療を始めながら、仰向けのレオンを見た。
たった今、決定的な決別を果たした、心の底から慕っていた魔法兵を。
「……………………」
ネーナは肉体強化と飛行術を駆使して、エルザ達を追いかける。
その後ろ姿を眺めながら、レオンはほくそ笑んだ。
「もう手遅れさ。あの戦闘狂が、緊急避難用の通路で待ち伏せてるんだからな」
循環系の激痛と疲労から、レオンの意識は急速に薄らいでゆく。
意識の完全に途絶える瞬間、視界の端に一組の男女が映っていたが、もはやレオンにろくな思考力は残されていなかった。
「さーッてと……。護衛の二人はのびちャッたケド、どうする?」
レオンからの襲撃からなんとか生還したライトハルトとエルザは、その後運良く襲撃に遭うことはなかった。
通路を反響して聞こえる悲鳴と怒号は、城内にも反対勢力がいることを如実に語っていた。
レオンだけとは思っていなかったが、ライトハルトの思っていた以上に多い。
そんな中、誰にも遭うことなく出口までたどり着いたのは、僥倖といっていいだろう。
だが、運は最後になってライトハルト達を見放した。
表面を黒いエナメル質の魔法文字が踊る漆黒のローブを着た少年が、壁にもたれかかるようにしてライトハルト達を待ち構えていたのである。
少年はローブの内側から刀身の欠如した柄と鍔だけの剣を取り出すと、またたくまに近衛隊の二人をノックダウンさせた。
滑るように床の上を駆け、柄で二人の後頭部を強打、更にそれぞれの腹に膝蹴りを見舞ったのである。
一瞬の抵抗すら許されなかった二人は床にひれ伏したまま、それでも懸命に手を伸ばす。
しかし、残念ながらその手が少年に触れることはない。
ライトハルトはエルザとミゼルを庇って、一歩前へ出た。
「ウ~ん。嫌いじャないんだケどなァ、そウいうの」
しかし、少年の方は少しばかり面白くない。
二人を守ろうとする心意気は天晴れの一言なのであるが、さして大きな魔力も、強そうな気配も感じない。
これなら、今後ろの方で悶絶していた二人の方が強い。
──弱い者イジメッて嫌いなだケどなァ。別にボク、“アンラ”と違ッて殺シたいわけじャないし。
「じゃあ、君からでいいや。とりあえず、ボクの担当だし」
少年は物足りなさそうに、ライトハルトの目を見て言う。
まるで玩具を取られてがっかりしている子供のようだと、ライトハルトは思った。
殺気など欠片も持ち合わせてなく、無邪気としかいいようのない雰囲気からは、とても人を殺せるような感じがしない。
だが、騙されてはだめだ。
この少年はたった今、近衛隊の二人を一瞬にして戦闘不能に追い込んだのである。
「止まれ!」
足音もなく一歩一歩近付いてくる少年に、ライトハルトは片腕を掲げた。
手首には発動体である、各種宝石を散りばめたバングルがある。
だが、少年に臆した様子は全くない。
歩調を緩めることなく、着実にライトハルト達へと近付いていく。
「ウォータースプラッシュ!」
ライトハルトは、下位の攻撃呪文を唱えた。
掲げた腕を軸に収束した水流の一撃が、少年へと迫る。
「残念デした。さァ、次いッてみよォか?」
しかし、少年は身体を半身そらしただけで水流を回避した。
着弾までコンマ数秒という距離にも関わらず。
ライトハルトは次を放とうと魔力を込めるのだが、残像すら残す勢いで動いた少年は、ライトハルトの腕をひねり上げた。
そのまま足を払われ、ライトハルトも先の二人同様、呆気なく地面に組み伏せられる。
頬に堅く冷たい床の感触が広がる中、ライトハルトは自分の無力さに歯噛みした。
「ハイ、ゲームオーバー」
少年の持つ柄だけの剣から、漆黒の刃が伸びた。
ライトハルトの喉元まで迫った刃を、少年は思い切り振り上げる。
「やめてください!」
「ダメです、姫様!」
今まで恐怖ですくんでいたエルザが、全てを振り払って動き出した。
華奢な手で振り上げられる少年の腕をつかみ、兄の命を奪おうとする刃を必死で押さえる。
だが、肉体強化の使える少年からすれば、その程度なんてことはない。
特に力を入れることもなく、か弱い拘束を振り切って漆黒の刃を振り下ろせる。
だが、少年はそれをしなかった。
どこか冷めたような目でエルザを見つめていたかと思うと、不意にギロリと両目を釣り上げた。
「ナニ偽善者ブッテルンダヨ?」
「やめろ!」
ライトハルトの制止もむなしく、少年はつかまれたままの腕でエルザを肘打ちした。
肉体強化によりくまなく全身凶器と化した少年の肘打ちに、エルザは耐えきれずに後ろにすっ飛ぶ。
額からは鮮やかな血がたらりと流れ、かすむ視界の中必死に目を開ける。
「ヤめてくれなイカな、そウいウの。見テいテ虫酸が走るんだヨ」
少年はライトハルトの腹を思い切り蹴り飛ばし、かつかつとエルザの目の前まで歩み寄った。
ライトハルトはエルザへと必死に手を伸ばすも、激痛に身動き一つとることができない。
「力もなイのにボクを止めヨうとするから、コんなことになるんだョ」
眉間いっぱいにしわを寄せ、少年は漆黒の刃を振りかぶる。
あまりの殺気と圧力に、振り払ったはずの恐怖が再びぶり返してきた。
小さな肩が小刻みに震え、目からはひとりでに涙が溢れ出す。
「先ニ死ネ!」
「姫様ッ!!」
少年は刃を振り下ろし、直前にミゼルが走り出す。
間に合うかどうか、完全にギリギリのタイミング。
でも、この人だけは、絶対に守らなければならない。
例え、この命に代えようとも。
宙を漂う純白のヘッドドレスが、鮮血に染まった。