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0と1の間  作者: メンキチ
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第三話

「オメガ、配送状況の再確認。……まだ『配送中』? ふざけるな!」


鏡の前で、僕は人生最大の危機に直面していた。今日のために、清水の舞台から飛び降りる覚悟でポチったビンテージ風レザージャケットが届かない。 代わりに袖を通したのは、オメガが「清潔感と好感度の最適解」として選出した、何の面白みもないネイビーのジャケットとチノパンだ。 ちくしょう。もしあのジャケットが届いていたら、僕はもっとワイルドで頼りがいのある男に見えたはずなのに。


待ち合わせ場所に向かう途中、焦りからか、ショーウィンドウのアクセサリーに目が止まった。初デートの記念に、何か形に残るものを。 しかし、スマートリングをかざした瞬間、無情なエラー音が鳴り響いた。


『決済エラー。通常購買パターンから逸脱した高額支出のため、セキュリティロックがかかりました』


「……余計なことを!」


オメガの過保護さにギリリと歯噛みする。今日という日を、完璧な一日にしたかったのに、出だしから躓きっぱなしだ。


映画館の前で待っていた月本さんは、柔らかい素材のブラウスにロングスカートという、これまたAIが選びそうな、非の打ち所がない「清楚」な装いだった。 ……可愛い。 いや、見とれている場合じゃない。僕のこの無個性なファッションで、彼女の隣を歩く資格があるのか?


「あの、予約の時間、夕方になっちゃってすみません。朝一で取ろうとしたら、システムエラーで……」 「いえ、私も朝はバタバタしていたので、ちょうど良かったです」


彼女がふわりと笑う。夕暮れの街並みが、彼女の笑顔を優しく照らしていた。 怪我の功名か。朝の映画デートより、夕方からのほうが雰囲気はある。そうだ、これは計算外のラッキーだ。そう思うことにしよう。


夕暮れの映画館前。そこには、まるでAIのファッションカタログから抜け出してきたような、無難で、清潔で、そして絶望的に個性のない服を着た男女が立っていた。


もし、彼らの注文した服が予定通り届いていたら、男は時代錯誤なロックシンガーのような革ジャンで現れ、女は森ガールを意識しすぎた奇抜なレイヤードスタイルで現れ、互いに(心の中で)ドン引きしていた可能性が高い。 彼らを管理するAIたちは、主人のファッションセンスの欠如を正確に予測し、わざと配送を遅らせたのかもしれない。だとしたら、非常に優秀な仕事ぶりである。


二人は、互いの目を見ることもできず、かといって視線を逸らすのも不自然だと感じ、結果として相手の喉仏や鎖骨あたりを凝視しながら、ぎこちなく会話を交わしていた。 彼らの周囲だけ、空気が重い。まるで初めてお使いを頼まれた子供のように、彼らは「デート」というミッションにガチガチに緊張していた。


映画は、奇跡のように素晴らしかった。 私たちの緊張を吹き飛ばすほどに。


「あのシーンのカメラワーク、原作のコマ割りを意識してましたよね!」 「そうなんです!それに、劇伴が当時のシンセサイザーを使っていて、雰囲気が……」


映画館を出た私たちは、興奮冷めやらぬまま語り合っていた。 気がつけば、あたりは完全に夜。


「あの、もしよかったら、このまま食事でもどうですか?」 「はい、ぜひ!」


秋月さんがスマートリングで検索を始める。 そして案内されたのは、私が普段絶対に足を踏み入れないような、照明を落としたムーディーな隠れ家レストランだった。


(えっ、いきなりこんな大人びたお店!?)


内心動揺したけれど、もし映画が朝の時間だったら、きっとカフェでお茶をして解散だっただろう。そう思うと、システムエラーも悪くない。


私たちは映画の話で盛り上がり続けた。 お酒は苦手なので、「ノンアルコールのフルーツカクテル」を頼んだはずだった。でも、なんだか体がふわふわする。いつもより声が大きく出るし、彼の顔を直視できている気がする。


「あの、これ……ノンアルコールですよね?」 彼がグラスに残った赤い液体を指差した。


「え? ……あ」


メニューの端っこに、米粒のような文字で書かれていた。『※風味付けのため、微量のアルコールが含まれています』 顔が一気に熱くなった。アイリス! あんた、いつもカロリー計算は細かいのに、こういう重要な情報をスルーするなんて信じられない!


静かで上品なレストランの一角だけ、明らかに異質な空気が流れていた。


周囲のカップルがグラスを傾け、囁くように愛を語り合う中、この二人――秋月と月本――だけは、身を乗り出し、目を血走らせ、50年前のSF映画の演出技法について熱弁を振るっていたのである。 彼らは気づいていない。自分たちの声が、店のBGMよりも大きくなっていることに。


彼らのテンションを底上げしていたのは、間違いなく「微量なアルコール」だった。 普段なら絶対に口にしない「毒」が、彼らの理性のリミッターをほんの少しだけ解除していた。AIが推奨する健全な生活を送る彼らにとって、この微量なアルコールは、劇薬にも等しい効果を発揮していたのだ。


店員が遠巻きに苦笑していることにも気づかず、二人は上機嫌で店を後にした。


酔いが回った頭で、僕は重大な事実に直面していた。 互いの最寄り駅が、同じ路線だった。しかも、降りる駅まで一緒だった。


「え、月本さんも〇〇駅なんですか?」 「はい、駅の北側のマンションで……」 「僕は南側です。……こんな近くに住んでいたなんて」


0と1の広大なデジタル世界で奇跡的に出会ったと思っていたのに、物理的な距離は最初から徒歩圏内だったのだ。なんだそれ。運命ってやつは、ずいぶんと効率的な悪戯をする。


駅に着き、酔い覚ましの水を買おうと自販機に寄った時、彼女が小さな悲鳴を上げた。 彼女のスマートリングが沈黙している。充電切れだ。


「……入れません。マンションのエントランスも、部屋の鍵も、全部このリングなので」 彼女の顔が青ざめる。


チャンスだ、と僕の中の冷静な部分が囁いた。 ここでスマートに助ければ、今日の評価はうなぎのぼりだ。


「あの、僕のリングのバッテリーを、少し分けましょうか? 『バッテリーシェアモード』で」


僕は努めて冷静に提案し、彼女をマンションまでエスコートした。 エントランスで、彼女のリングに自分のリングを重ねる。 近い。彼女の髪の匂いがする。心臓が破裂しそうだ。


エレベーターで彼女の階へ。廊下の突き当たり、彼女の部屋の前。 もう一度、リングを重ねる。 カチリ、と電子ロックが外れる音が、静かな廊下に響いた。


任務完了。これで彼女は無事部屋に入れる。 さあ、スマートに別れの挨拶を。気の利いた一言を。


「あの、秋月さん、今日は本当に……」


お礼を言おうと振り返った彼女の顔が、すぐ目の前にあった。 うるんだ瞳。少し赤い頬。


(……え?)


脳の処理速度が追いつかない。 本能が警報を鳴らす。これ以上近づいたら、後戻りできないぞ、と。


「……っ!」


次の瞬間、僕は弾かれたように後ずさっていた。


「そ、それじゃあ、僕はこれで! おやすみなさい!」


自分の口から出たとは思えない裏返った声。 僕は、彼女の返事も待たずに、階段の方へと駆け出していた。


深夜のマンションの廊下に、静寂が戻った。


月本真衣は、呆然と立ち尽くしていた。 彼女の視線の先には、誰もいない。ただ、非常階段の重い扉が、バタン、バタンと無情な音を立てて閉まろうとしていた。


秋月蓮は、逃げた。 文字通り、脱兎のごとく。 まるで幽霊にでも遭遇したかのような凄まじいスピードで、彼は愛しいはずの女性の前から姿を消したのである。


もしこれがドラマなら、ここでキスシーンの一つでもあっただろう。 しかし現実の彼らは、恋愛経験値が著しく低い、哀れな子羊たちだった。 AIのサポートが切れた瞬間、彼らの行動はバグを起こし、最も情けない選択肢――「逃走」を選んでしまったのだ。


お風呂から上がっても、まだ顔が熱い。 ベッドの中で、今日の出来事を何度も反芻する。


楽しかった。すごく、楽しかった。 映画も、食事も、彼との会話も。 でも、最後のあの瞬間。


彼が逃げていったのは、私が何か変な顔をしていたから? それとも、部屋の前まで送らせて迷惑だった?


「アイリス、今日の私の行動、何点だった?」 「行動ログの分析結果は『良好』です。しかし、最終フェーズにおける情緒パラメータの乱れが顕著です。俗に言う『ヘタレ』という状態ですね」


「……うるさい。充電切らしたあんたのせいでしょ」


枕に顔を埋める。 AIのエラーやトラブルのおかげで、ここまで近づけたのに。 肝心なところで、私たち人間側の「バグ」が発動してしまった。


もし、あそこで私が勇気を出して「少し、上がっていきませんか?」って言えていたら。 そんなたらればを、朝まで繰り返すことになりそうだ。


「うああああああ!」


自分の部屋のベッドに顔を埋め、足をバタバタさせる。 何やってんだ、僕! なんであそこで逃げてくるんだよ!


「オメガ、僕の心拍数が異常値を示している。これは不整脈か?」 「いいえ。極度の緊張と、自己嫌悪によるストレス反応です。今日のデートの総合評価は、途中経過までは『A』でしたが、最終行動により『Cマイナス』へと修正されました」


「Cマイナス……」


AIの冷酷な評価が胸に突き刺さる。 映画も、食事も、最高だった。 でも、最後の最後で、僕は究極のチキンぶりを露呈した。


あそこで、一歩踏み込める男だったら。 いや、せめて普通に「また会いましょう」と笑顔で言える男だったら。


「……次、あるのかな」


ビンテージジャケットが買えなかったことよりも、はるかに重い後悔が、僕の夜を塗りつぶしていった。

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