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0と1の間  作者: メンキチ
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第一話

「……真衣さん、心拍数の上昇を推奨します。現在時刻は07:15。出社推奨時刻を大幅に超過しています」


耳元のインカムから響く、いつもより少し焦ったようなAIの合成音声に、私は弾かれたように瞼を開けた。 視界に飛び込んできたのは、天井に投影されたデジタル時計の赤い数字。


「えっ……嘘でしょ!?」


私はベッドから転がり落ちるようにして飛び起きた。 私の生活を管理しているパーソナル・エージェント(PA)の「アイリス」は、私が余裕を持って行動したい性格であることを学習済みの優等生だ。いつもなら6時30分には優雅なクラシック音楽と共に私を起こすはずなのに。


「アイリス! なんで起こしてくれなかったの!」 「システムログに不明な遅延が発生しました。原因は調査中です。それよりも真衣さん、朝食の時間はスキップされます」


淡々とした返答に文句を言う暇もない。 私は月本真衣つきもと まい、22歳。製菓メーカーに入社してまだ半年の新米社員だ。今日は担当エリアのスーパーを回るルート営業の日。ただでさえ気が弱い私が遅刻なんてしたら、先輩社員になんて言われるか想像しただけで胃が痛くなる。


慌ただしくスーツに着替え、髪を適当にまとめる。いつもの丁寧なメイクは諦めて、最低限の身だしなみだけ整えて部屋を飛び出した。


息を切らして駅前のコーヒーショップに滑り込む。 どんなに時間がなくても、ここのブラックコーヒーを飲まないとスイッチが入らない。これも私の、少し融通の利かない性格が作ったルーティーンの一つだ。


「ブレンドのS、お願いします」


列に並び、なんとか注文を済ませる。 心臓はまだ早鐘を打っている。スマートリングを端末にかざし、決済を済ませようとした、その時だった。


『エラー。決済できません』


無機質な警告音と共に、端末が赤く光る。


「え?」


もう一度かざす。


『エラー。承認できません』


「なんで……? 残高はあるはずなのに」


後ろに並んでいる人たちの視線が背中に突き刺さる。冷や汗が一気に噴き出した。 財布? 現金なんて、ここ数年持ち歩いたことがない。どうしよう、キャンセルする? でも店員さんはもうカップに注いでしまっている。 パニックで視界が狭くなる。泣きそうな声が出そうになった時、不意に横から男性の手が伸びてきた。


   ***


朝のコーヒーショップは、秒単位で管理された人間たちの補給基地だ。 僕もその一人。秋月蓮あきづき れん、25歳。鉄鋼商社の営業3年目。今日もこれから担当の工場地帯を回る、代わり映えのしないルート営業が待っている。


列の前に、小柄な女性がいた。 スーツの背中が強張り、指先が微かに震えている。僕のPA「オメガ」が、彼女の生体反応から微弱なストレス値を検知していると告げてくる。余計なお世話だ。


彼女が端末にリングをかざした瞬間、エラー音が鳴り響いた。 一度、二度。彼女の小さな肩がびくりと跳ねる。


(……まずいな)


彼女の後ろに続く列がざわつき始めている。彼女はパニック寸前だ。 普段の僕なら、他人のトラブルに関わることなんて絶対にしない。極度の人見知りだし、どちらかといえば影のように目立たず生きていくのが信条だ。 でも、彼女の今の姿は、新人の頃に客先で言葉に詰まり、立ち尽くしてしまった自分と重なった。


「急いでいるようですので」


思考するよりも先に、声が出ていた。 僕は自分のスマートリングを、彼女の端末の横にある予備リーダーにかざした。


『決済完了』


軽快な電子音が鳴る。


「えっ、あ、あの……」


彼女が驚いた顔でこちらを振り向く。大きな瞳が不安げに揺れていた。 やってしまった。目立ってしまった。顔が熱くなるのを感じる。


「僕の分と一緒に払っておきました。行ってください」


できるだけぶっきらぼうに、でも努めて冷静に言ったつもりだった。 彼女はコーヒーを受け取ると、申し訳無さそうに僕の方へ向き直った。


「す、すぐに返します! ……あ、でも現金がなくて……」


当然だ。今どき現金なんて骨董品みたいなものだ。


「じゃあ、これで」


僕は自分のID情報を共有するためのQRコードを空中にホログラムで表示した。 彼女は慌てて自分の端末でそれを読み取る。


「ありがとうございます! 後で必ず送金します! 私、月本と言います!」 「……秋月です。それじゃ」


これ以上会話を続けるスキルは僕にはない。逃げるように自分のコーヒーを受け取り、店を出た。


   ***


その夜。 私はベッドの中で、天井のスクリーンに映る古い映画――20世紀の白黒映画『ローマの休日』をぼんやりと眺めていた。


オードリー・ヘプバーンが演じる王女と、新聞記者の出会い。 計算も予測もない、偶然の出会い。


「秋月さん、か……」


端末には、朝の彼のアドレスが表示されている。 送金はすぐに済ませたし、丁寧な謝罪とお礼のメッセージも送った。彼からは『気にしないでください。入金確認しました』という、短く事務的な返信が来ただけだ。


「アイリス、今日の朝のアラームエラーと、決済エラーの原因は分かった?」 「はい。中央サーバーの一時的な同期ズレによる稀有な事象です。発生確率は0.0001%未満です」


0.0001%未満。 限りなくゼロに近い確率。 もし、アイリスが正確に私を起こしていたら、私はあの時間にあの店にいなかった。 もし、決済システムが正常だったら、彼と言葉を交わすこともなかった。


すべてが完璧に管理された「1」の世界で起きた、ほんの少しの「0」に近いバグ。 でも、そのバグのおかげで、私は彼の少し不器用そうな、でも温かい手の動きを覚えている。


映画の中のロマンスみたいだ、なんて思うのは、私の趣味のせいだろうか。


   ***


一方、同じ時刻。 狭いワンルームのベッドに寝転がり、僕は電子書籍リーダーで70年代の少女漫画を読んでいた。 「オメガ」が、明日のスケジュールと睡眠導入のための環境音を流し始める。


漫画の中では、食パンを咥えた少女と少年が街角でぶつかって恋に落ちていた。 あまりにもベタで、非論理的な展開。でも、僕はこういう「理屈じゃない」物語が好きだ。


(月本さん……だったな)


彼女から送られてきたメッセージの文面は、とても丁寧で、少し堅苦しかった。 アイコンに使われている写真は、おそらく彼女が焼いたであろうクッキーの写真。


なぜあんなことをしたんだろう。 自分の行動がいまだに信じられない。 でも、彼女が最後に浮かべた、安堵と感謝が混じったような笑顔を思い出すと、悪い気はしなかった。


「オメガ、明日の朝のコーヒーショップの混雑予想は?」 「通常通りです。しかし、今日のような偶発的な接触を期待しているのなら、その確率は極めて低いと推測されます」


「……うるさいな。寝るよ」


AIには、僕の心拍数が少しだけ上がっていることなんて、単なるノイズとして処理されるのだろう。 0と1のデジタル信号の隙間に、何かが芽生えたような気がした。


それはまだ恋と呼ぶにはあまりに不確かで、名前のない感情だったけれど。

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