心を繋ぐ儀式
国から高品質の砂が消えた。
誰かが仕掛けた陰謀でも、悪魔がもたらした呪いでもない。ただ単純に、この大地を豊かに保っていた「精霊砂」と呼ばれる特殊な鉱床が、何百年もの採掘の末に枯渇したのだ。
現実の世界でも、建築用の良質な砂が不足し、砂マフィアが現れるほどに、水面下で砂の争奪戦が起きているというニュースを見た記憶がある。だがこの異世界での砂不足は、もっと直接的に「死」を意味していた。
精霊砂は土壌の毒素を中和し、作物を育てるための不可欠なフィルターだった。それが失われた途端、かつて黄金の麦畑を誇った私の祖国は、わずか数年でひび割れた荒野へと変貌した。
国は飢え、人々は僅かに残った砂を巡って殺し合い、最後には何もかもが砂塵に飲まれて崩壊した。
王族も貴族も、平民も関係ない。砂がなければ水は腐り、麦は枯れる。
家名も財産も無意味となった死の土地から、私はただ一人、隣国を目指して歩き続けていた。
私の名前は、ルシェラ。
かつては一応、男爵家の令嬢という肩書きを持っていたらしいが、泥と埃に塗れた今の私を見て、貴族だと信じる者はいないだろう。ドレスは引き裂いて包帯や防寒具の代わりにしてしまい、足に巻いた布はとうの昔に擦り切れ、一歩踏み出すたびに血が滲む。
喉の渇きと極限の飢餓。
一週間前、死の淵を彷徨う高熱の中で、私の脳内に突如として「前世の記憶」が濁流のように流れ込んできた。
冷暖房完備の部屋、蛇口をひねれば出る清潔な水、そしてスーパーに並ぶ数え切れないほどの食材。私は現代日本で、食品メーカーの商品開発部に勤める、三度の飯より料理が好きな独身女性だった。
その記憶が覚醒したからといって、手からハンバーグが出せるわけでも、魔法で水を生み出せるわけでもない。
ただ、絶望的な状況下にあっても、「生きたい」という執着と、「美味しいものを食べてから死にたい」という前世の強烈な食への渇望が、折れそうな私の心をギリギリのところで支えていた。
「……あ、」
ひび割れた岩肌の陰に、動くものを見つけた。
『岩甲鳥』だ。前世の知識にはない、異世界特有の生物。岩のように硬い鱗状の羽毛に覆われた、丸々と太った飛べない鳥。
私の目は、獲物を狙う肉食獣のように細められた。
私は音を立てずに身を屈め、道中で拾い集めていた細く強靭な枯れ蔓を取り出す。前世のアウトドアの知識と、この世界の過酷なサバイバル経験が融合し、私の手は淀みなく罠を編み上げた。
鳥が好む、わずかに水気を含んだ苔を囮にし、岩の隙間に括り付ける。
一時間後。焦燥感で胃液が逆流しそうになるのを堪え、岩陰で息を殺して待っていた私の耳に、「ギャッ」という短い悲鳴が届いた。
掛かった。
私は這いずるように飛び出し、暴れる岩甲鳥の首を石で正確に叩いて絶命させた。
ここからが時間との勝負だ。血抜きを怠れば、肉に臭みが回り、ただでさえ体力が落ちている胃腸には毒になる。
私は震える手で、大切に持ち歩いていた欠けたナイフを握り直した。
まずは首の動脈を切り、逆さに吊るして完全に血を抜く。生温かい血の匂いが鼻腔を突くが、躊躇している暇はない。前世でジビエの解体を学んだ経験が、ここで生きるとは思わなかった。
毛を毟るのではなく、硬い皮膚ごと剥ぎ取る。内臓を傷つけないように慎重に腹を裂き、胆嚢を潰さないように取り除く。心臓と肝臓は貴重な栄養源として残し、腸などの処理に手間がかかる部位は諦めて土に埋めた。
肉質は見るからに筋張っていて硬そうだ。このまま焼いても、今の私の弱り切った顎では噛み切れないだろう。
私は周囲を見渡し、荒野の植物を漁った。目当てのものはすぐに見つかった。
『酸棘果』。レモンよりも強烈な酸味と、微かな渋みを持つ赤い実。本来は鳥すらも避ける果実だが、これに含まれる酵素と酸が、肉を柔らかくするための強力な武器になる。
酸棘果を石で潰し、果汁と果肉を岩甲鳥の肉に徹底的に揉み込む。
前世の知識――マリネの原理だ。酸が肉の筋繊維に入り込み、タンパク質を分解して保水力を高める。本来なら数時間寝かせたいところだが、そんな余裕はない。最低限の時間だけ置き、その間に私は火起こしを始めた。
枯れ枝を集め、火打ち石を打ち鳴らす。小さな火種を慎重に育て、炎を安定させる。
直火で焼くのではなく、手頃な平たい石を火の中に入れて十分に熱する。石焼きの原理だ。遠赤外線効果で中までじっくり火を通し、肉の水分と脂を逃さないための工夫である。
石が熱を持ち、水滴を垂らすと「ジュッ」と瞬時に蒸発する温度になった。
私は、マリネした肉の表面の果肉を軽く拭き取り、熱した石板の上に置いた。
――ジューーーーーッ!!
激しい音と共に、白い煙が立ち上る。
瞬間、荒野の死の匂いを完全に塗り替える、暴力的なまでに香ばしい匂いが弾けた。
肉の表面のタンパク質と糖がアミノカルボニル反応――いわゆるメイラード反応を起こし、見事な琥珀色の焼き目へと変わっていく。
岩甲鳥の皮下脂肪が熱で溶け出し、石板の上で小さな気泡を作ってチリチリと音を立てる。その脂が肉自体を揚げるように焼き上げ、表面はパリッと、中はしっとりとした状態を作り出していく。
味付けは、道中で削り取っていた岩塩の欠片を砕いて振りかけるだけ。だが、それがいい。極限まで引き出された肉の旨味には、過剰な装飾など不要だ。
肉の焼ける匂い、焦げた脂の匂い、岩塩の微かな鉱物の匂い。
それらが混ざり合い、私の理性はもう限界だった。
焼き上がった肉塊に、私は躊躇うことなくかぶりついた。
「っ……!」
熱い。だが、そんなことはどうでもよかった。
パリッという心地よい音と共に表面の皮が弾け、その直後、想像を絶するほどの豊潤な肉汁が口の中いっぱいに溢れ出した。
硬いと思っていた肉は、酸棘果の酵素によって驚くほど柔らかく解け、噛むたびに野性味溢れる濃厚な旨味が脳髄を直撃する。
酸棘果の酸味は火を通したことで角が取れ、まるで高級なバルサミコ酢のソースのように、脂のくどさを中和し、さっぱりとした後味を残していく。
美味い。
ただただ、美味い。
自分が今、死と隣り合わせの荒野にいることすら忘れ、私は一心不乱に肉を貪った。骨の周りの肉までしゃぶり尽くし、指についた脂まで舐めとる。
胃袋に熱い食べ物が収まっていく感覚が、命の炎に薪を焚べられているようで、自然と涙が溢れてきた。
「……ごちそうさまでした」
前世からの習慣である言葉をポツリと呟き、私は立ち上がった。
最高の一食だった。間違いなく、私の人生で一番美味しい肉だった。
この熱量があるうちに進まなければならない。隣国、ファルガルド領の国境線までは、あと少しのはずだ。
しかし――現実は、どこまでも残酷だった。
素晴らしい食事で得た一時的な活力など、過酷な自然環境の前では、焼け石に水に等しかった。
昼夜の寒暖差が激しい荒野の気候は、夕闇が近づくにつれて急激に牙を剥き始めた。
風が冷たくなる。空には厚い鉛色の雲が立ち込め、やがて冷たい雨が落ちてきた。
雨は容赦なく私の体温を奪っていく。先ほどの食事で得たカロリーは、ただ震えを抑えるためだけに瞬く間に消費されてしまった。
一歩が、鉛のように重い。
擦り切れた足の裏からは再び血が流れ、泥と混ざって不快な音を立てる。
息をするたびに肺が凍りつくように痛み、視界は雨と霧で白く霞んでいく。
「あ……」
不意に、霧の向こう側に巨大な黒い影が見えた。
天まで届くかのような高い城壁。そして、その所々でぼんやりと滲むように輝く、魔力灯のオレンジ色の光。
隣国だ。豊かな精霊砂の鉱脈を隠し持ち、結界によって守られた豊穣の地、ファルガルド領の国境砦。
着いた。ついに、辿り着いたのだ。
あそこに行けば。あの門を叩けば。
希望が胸をよぎった瞬間、張り詰めていた糸がプツリと切れた。
「……え?」
足が、前に出ない。
感覚がない。自分が立っているのかどうかも分からない。
視界が急激に傾き、次の瞬間、私は冷たい泥の中に顔から倒れ込んでいた。
泥水が口に入る。吐き出そうにも、顎が動かない。
雨の音が、遠ざかっていく。
国境の門はすぐそこにあるのに。魔力灯の温かい光は、手を伸ばせば届きそうな距離で瞬いているのに。
(ああ……ここまで、か……)
最後の力を振り絞って伸ばした指先は、虚しく泥を掻きむしっただけだった。
美味しいお肉、もっと食べたかったな。
そんな、未練がましい前世の食い意地を最後に思い浮かべながら。
私の意識は、深い、深い闇の中へと沈んでいった。




