表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/5

第二章 中国・上海・根季総合病院

目の前に血が広がっていた。


怒号が飛ぶ。

「ジャック! そこを強く押さえてって言って――くそっ! なんでこのタイミングで入れ替わるんだよ! あんた、そこを押さえろ!!」

言われるがまま、目の前の血の塊に手を突っ込む。

生ぬるい感触に、生理的な嫌悪が沸き上がる。


端末から機械音声が響く。

「緊急――条約第8条に従い、あなたに人命救助の義務が発生しています。繰り返します。あなたに人命救助の義務が発生しています。音声ガイダンス並びに先任の職員に従い、直ちに人命救助を行ってください」

話では聞いていたが、初めて聞く緊急音声だった。

先ほどと同じ人の声が聞こえる。

「傷口を焼け! その装置を使え!」

その装置とはどれだ、と混乱する私をモニターした端末から音声が流れる。

「当該装置は、棒状、または鉛筆状と形容されるものです。端末に表示された装置と類似するものを探してください」

これだ。私は手に取る。

間髪入れずに機械音声が続く。

「焼灼止血法を行います。まず患部を確認し――」

ひたすらに、音声ガイダンスと怒号に従う。


永遠とも思われた時間が流れたあと、機械音声が告げる。

「処置は完了しました。条約第8条による、あなたへの人命救助の義務は解除されました。ご協力ありがとうございました」

もういいのか、そう思った途端、目の前が暗くなった。


目が覚めると白い天井だった。所々に、薄汚れた染みが見える。

頭の方から声が聞こえる。

「お疲れ様。いい仕事だったよ」

重い頭を、ゆっくりと声の方に傾ける。

五十代くらいの、無精ひげのおじさんだった。

どうやら病院のベッドに寝かされているらしかった。


おじさんは、ぶっきらぼうに説明をしてくれる。

「ここは上海・根季総合病院、救急外来外科。俺はスノー。残りのメンバーはセツさんっていう女性だけで、今は別の患者の対応中。他の奴は逃げた」

全然話が呑み込めない中で、引っかかった言葉を自然と反芻する。

「逃げたんですか?」

「ああ、逃げた」

関心がなさそうにつぶやく。


「起き上がれるか? 水だけでも飲んだ方がいい」

そう言って、彼は私の背中を支えて起こし、水の入ったペットボトルを差し出してくれた。

一口飲むと、猛烈に喉が渇いていたことに気づき、一気に飲み干した。

彼は空になったペットボトルを受け取りながら言った。

「しかし、お前は大したもんだ。あの場面で、よくあれだけの対応をやってくれた」

「いえ、緊急ガイダンスと、あなたに従うのに必死で。ところで、あの時の方は――」

声に詰まる。

どう聞くのが正しいのか、言葉が出てこない。

「ちゃんと生きてるよ。お前のお陰でな。今は下の階の病室にいる。会いたいなら、早めに会った方がいい。いつ会えなくなるか、分からんからな」

そう告げると、彼は足早に病室から出て行った。


私は再び力を失い、ベッドに倒れ込んだ。

まどろみの中、彼の怒号が聞こえる。

また患者が運ばれてきたのだろう。


あれから二日が経った。

戦場のような外来診察の業務に、少しだけ慣れていた。

スノーはとても優秀な人だった。

元々は田舎の市会議員だったというが、その判断力と人を動かす力は圧巻だった。

この厳しい職場に、彼という人がいたのは、とても幸運なことだった。


コンコン。

診察室の扉が、弱々しくノックされる。

「はい、どうぞ」

と私が告げると、右足の太ももから先がなくなった、痛々しい姿の男性が入ってきた。

左手の端末に目を落とし、カルテを呼び出す。


患者:ダニエル・カールソン

四十二歳 A型 オランダ人

状況:交通事故に遭い当院に救急搬送。右足の切除手術を実施。

執刀担当医:スノー、ジャック、ジン。


あの時の人だ。


カルテから目を上げられない。

手が震える。心臓が痛い。


短い沈黙を破ったのは、彼の言葉だった。


「先生が、私を助けてくれたんですよね。ありがとう。本当にありがとう」


私は顔を上げる。

そこには、涙を浮かべ、手を差し出す男性の姿があった。

私も涙を流しながら、彼の手を取った。


それ以降、私はダニエルさんの病室を尋ねるようになった。

彼は、私が訪れると、いつもコーヒーを入れて歓迎してくれた。


いつものようにダニエルさんの病室を訪ねようとしたとき、中からダニエルさんと女性が話す声が聞こえてきた。

「ダニー、あなたの声が聞けて、とても嬉しいわ。本当に、あなたがいない世界なんて考えられない」

端末を使って話しているのだろう。

おそらく相手は、よく話に出てくるダニエルさんの怖い女房だ。

なんだ、優しそうな人じゃないか。

そう苦笑して立ち去ろうとしたとき、聞こえてきた。


「ダニー、もうあなたと一緒に歩けないのは寂しいわ。いつもお世話になっていたシュミッツ先生だったら、足の切除だなんてこと、絶対にさせなかったでしょうに」

「いいんだ、メアリー。私は生きて、お前と話せている。それだけで十分なんだ」


それ以降、私は仕事に没頭した。

彼から逃げるように。


一週間ほど経ったころ、

「彼は飛ばされた」と、病院のスタッフから聞かされた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ