第二章 中国・上海・根季総合病院
目の前に血が広がっていた。
怒号が飛ぶ。
「ジャック! そこを強く押さえてって言って――くそっ! なんでこのタイミングで入れ替わるんだよ! あんた、そこを押さえろ!!」
言われるがまま、目の前の血の塊に手を突っ込む。
生ぬるい感触に、生理的な嫌悪が沸き上がる。
端末から機械音声が響く。
「緊急――条約第8条に従い、あなたに人命救助の義務が発生しています。繰り返します。あなたに人命救助の義務が発生しています。音声ガイダンス並びに先任の職員に従い、直ちに人命救助を行ってください」
話では聞いていたが、初めて聞く緊急音声だった。
先ほどと同じ人の声が聞こえる。
「傷口を焼け! その装置を使え!」
その装置とはどれだ、と混乱する私をモニターした端末から音声が流れる。
「当該装置は、棒状、または鉛筆状と形容されるものです。端末に表示された装置と類似するものを探してください」
これだ。私は手に取る。
間髪入れずに機械音声が続く。
「焼灼止血法を行います。まず患部を確認し――」
ひたすらに、音声ガイダンスと怒号に従う。
永遠とも思われた時間が流れたあと、機械音声が告げる。
「処置は完了しました。条約第8条による、あなたへの人命救助の義務は解除されました。ご協力ありがとうございました」
もういいのか、そう思った途端、目の前が暗くなった。
目が覚めると白い天井だった。所々に、薄汚れた染みが見える。
頭の方から声が聞こえる。
「お疲れ様。いい仕事だったよ」
重い頭を、ゆっくりと声の方に傾ける。
五十代くらいの、無精ひげのおじさんだった。
どうやら病院のベッドに寝かされているらしかった。
おじさんは、ぶっきらぼうに説明をしてくれる。
「ここは上海・根季総合病院、救急外来外科。俺はスノー。残りのメンバーはセツさんっていう女性だけで、今は別の患者の対応中。他の奴は逃げた」
全然話が呑み込めない中で、引っかかった言葉を自然と反芻する。
「逃げたんですか?」
「ああ、逃げた」
関心がなさそうにつぶやく。
「起き上がれるか? 水だけでも飲んだ方がいい」
そう言って、彼は私の背中を支えて起こし、水の入ったペットボトルを差し出してくれた。
一口飲むと、猛烈に喉が渇いていたことに気づき、一気に飲み干した。
彼は空になったペットボトルを受け取りながら言った。
「しかし、お前は大したもんだ。あの場面で、よくあれだけの対応をやってくれた」
「いえ、緊急ガイダンスと、あなたに従うのに必死で。ところで、あの時の方は――」
声に詰まる。
どう聞くのが正しいのか、言葉が出てこない。
「ちゃんと生きてるよ。お前のお陰でな。今は下の階の病室にいる。会いたいなら、早めに会った方がいい。いつ会えなくなるか、分からんからな」
そう告げると、彼は足早に病室から出て行った。
私は再び力を失い、ベッドに倒れ込んだ。
まどろみの中、彼の怒号が聞こえる。
また患者が運ばれてきたのだろう。
あれから二日が経った。
戦場のような外来診察の業務に、少しだけ慣れていた。
スノーはとても優秀な人だった。
元々は田舎の市会議員だったというが、その判断力と人を動かす力は圧巻だった。
この厳しい職場に、彼という人がいたのは、とても幸運なことだった。
コンコン。
診察室の扉が、弱々しくノックされる。
「はい、どうぞ」
と私が告げると、右足の太ももから先がなくなった、痛々しい姿の男性が入ってきた。
左手の端末に目を落とし、カルテを呼び出す。
患者:ダニエル・カールソン
四十二歳 A型 オランダ人
状況:交通事故に遭い当院に救急搬送。右足の切除手術を実施。
執刀担当医:スノー、ジャック、ジン。
あの時の人だ。
カルテから目を上げられない。
手が震える。心臓が痛い。
短い沈黙を破ったのは、彼の言葉だった。
「先生が、私を助けてくれたんですよね。ありがとう。本当にありがとう」
私は顔を上げる。
そこには、涙を浮かべ、手を差し出す男性の姿があった。
私も涙を流しながら、彼の手を取った。
それ以降、私はダニエルさんの病室を尋ねるようになった。
彼は、私が訪れると、いつもコーヒーを入れて歓迎してくれた。
いつものようにダニエルさんの病室を訪ねようとしたとき、中からダニエルさんと女性が話す声が聞こえてきた。
「ダニー、あなたの声が聞けて、とても嬉しいわ。本当に、あなたがいない世界なんて考えられない」
端末を使って話しているのだろう。
おそらく相手は、よく話に出てくるダニエルさんの怖い女房だ。
なんだ、優しそうな人じゃないか。
そう苦笑して立ち去ろうとしたとき、聞こえてきた。
「ダニー、もうあなたと一緒に歩けないのは寂しいわ。いつもお世話になっていたシュミッツ先生だったら、足の切除だなんてこと、絶対にさせなかったでしょうに」
「いいんだ、メアリー。私は生きて、お前と話せている。それだけで十分なんだ」
それ以降、私は仕事に没頭した。
彼から逃げるように。
一週間ほど経ったころ、
「彼は飛ばされた」と、病院のスタッフから聞かされた。




