序章 スイス・マイエンフェルト・カール牧場
まどろみの中、カランカランという軽やかな音が聞こえてくる。
風が吹き抜けていく。野外だ。
わずかにちくちくとした感覚を背中に感じる。
ふと鼻先に、猛烈な湿気と獣臭さを感じて、飛び起きた。
牛が私の顔を、不思議そうにのぞき込んでいた。
周囲を見渡すと、十数頭の牛たちに囲まれている。
左手に付けた端末を見る。
世界標準時 7:00
現地時間 6:00
現在地 スイス・マイエンフェルト・カール牧場
「今度は牧場かあ」
寝起きの頭で、ぼんやりと思う。
とりあえず起き上がり、近くにある美味しそうな匂いのする民家に向かった。
扉を開けると、恰幅の良い、肌の黒い女性が食事の準備をしていた。
「ああ、新しい人か。おはよう。ごはん、食べるかい?」
そう言って、器に豆の入ったスープと堅焼きのパンをよそい、差し出してくれる。
「ありがとうございます」
お礼を言って席に着く。
結構スパイシーな味がした。
女性が緩やかに笑いながら話しかけてくる。
「うちの味でね。アジア人の口に合うかな?」
「ええ、とても好きな味です」
「それは良かった」
そう告げて、女性は自分の食事の準備を始めた。
食後のコーヒーを飲みながら、軽く今後の打ち合わせを始める。
「あんたは『日雇い』をやる人かい?」
「はい。学生と両立ですが、できる限り働きたいです」
「そうか、学生さんか。じゃあ、無理はさせられないね。牧場の経験はあるかい?」
「馬と鶏の世話はありますが、牛は初めてですね。ただ、『マニュアル』があるので、ある程度はできると思います」
「私も同じような感じだね。まあ、三日もあれば慣れるさ。私は一週間前に、ここに飛ばされてきた。地元では食堂をやってた。名前はジュナ」
「よろしくお願いします、ジュナさん。私はジンです」
「よろしく、ジン。それじゃあ、さっそく仕事の話をするかね」
そう言いながら、ジュナさんは腕に付けた端末を操作し、「カール牧場・マニュアル」を表示した。
穏やかな日々だった。
朝日とともに起き、牛の世話をして、朝食を取り、リモート授業を受ける。
昼食を挟んで再び牛の世話をし、夕食を取って、またリモート授業を受ける。
ジュナさんとは交互に食事を作り、感想を述べ合ったり、この地方の食材について語り合った。
ジュナさんは二週間ほどで飛ばされたが、代わりに来たニコラさんも、とてもいい人だった。
彼は元々プログラマーだったが、趣味で畑をやっていたとのことで、牧草の管理がとても上手く、大変勉強になった。
食後、彼と新鮮な牛乳がたっぷり入った紅茶を飲みながら、クラシックカーについて語り合っていたときだった。
ふと視界が途切れ、気づいたら目の前は海だった。
足元は砂で、振り返るとビルが建っている。
体に染みついた習慣で、左手に付けた端末を見る。
現在地 オーストラリア・シドニー・ナディアビーチ
「次は海かあ」
期待と諦観が混じった声が、自然と漏れた。




