もしも、の続き
夜の机は、昼より少しだけ正直だ。蛍光灯の白さが引くかわりに、スタンドの丸い光が、手元だけを照らす。部屋の隅は暗いまま残り、暗いところに置いたものは、そこにあるのに、ないふりができる。
私はその暗さに助けられてきた。
仕事のバッグを床に置き、上着を椅子の背にかける。湯を沸かし、コップに白湯を注ぐ。湯気の立つ間だけ、今日は今日のままでいてくれる気がする。冷めてしまえば、また明日が勝手に始まる。
スマートフォンを伏せたまま、机に置く。画面を上に向けると、たぶん何かが来ている。来ていなければ、それはそれで怖い。どちらにしても、今は見ない。
代わりに、引き出しから古い便箋を取り出した。何年も前にもらった、薄いクリーム色の便箋。端に小さな花の模様がある。可愛すぎると思って使わなかった。使わなかったものは、綺麗なまま残る。その綺麗さが、少し、痛い。
ペンを握る。
こういうとき、言葉はなかなか出てこない。頭の中では何度も言ってきたのに、紙の上に載せようとすると重くなる。言葉が重いのは、きっと嘘が混ざっていないからだ。
私は便箋の上に、いきなり書き出した。
「もしも、」
たった二文字と一つの読点で、胸の奥のどこかが薄く鳴った。
もしも、もう一回人生があるとしたら。
もしも、あのとき別の返事をしていたら。
もしも、違う駅で降りていたら。
もしも、告白していたら。
もしも、あの仕事を断っていたら。
もしも、辞めなかったら。
もしも、辞めていたら。
いつからだろう、こういう仮定が、眠る前に勝手に湧いてくるようになったのは。日中はちゃんと笑える。ちゃんと返事もできる。ちゃんと資料も作れる。ちゃんと日々は回る。
なのに夜になると、回らなかった部分だけが回り始める。後悔の歯車は油を差さなくても滑らかだ。少し触れただけで勢いよく回り、音もなく、心の中を削っていく。
私は便箋を見つめながら、苦笑した。
誰に宛てるんだ、これは。
宛先は決めていない。住所もない。郵便局に持っていくつもりもない。ただ書くだけだ。書いて、折って、封筒に入れて、引き出しにしまう。それで何かが変わるはずもない。
それでも、今夜は書きたかった。
書かないと、仮定だけが増えて、現実が薄くなる。
私はペンを進めた。
「もしも、の続きへ」
続き、という言葉を置くと、そこに道ができる。未来でも過去でもなく、続き。続きなら、今の延長線に置ける。遠い世界ではなく、今の隣に置ける。
私は便箋の上に、宛名の代わりに、こう書いた。
「別の私へ」
その瞬間、胸の中で何かが決まった。
この手紙は、二周目の自分宛てではない。生まれ直した自分宛てでもない。選ばなかった道を歩いた“別の私”へ宛てるのだ。
現実では、会えない。けれど、夜の机の上なら会える。紙の上なら、話せる。私はそういう嘘に、少しだけ救われたい。
便箋は静かに待っている。
私は息を吸い、吐いた。
⸻
別の私へ。
元気にしていますか、と書いて、私はいったん止まった。元気なわけがないだろう、と自分で突っ込む。元気だったら、こんな手紙は書かない。元気じゃないから、あなたに聞いているのだ。
私は書き直した。
別の私へ。
あなたは、今どこにいますか。
私の“今”は、平日の夜です。
帰宅して、白湯を飲んで、机に向かっています。明日は朝から会議があって、資料はだいたいできている。服はたぶん、あの無難なやつを着る。電車は混む。駅の階段の右側はいつも詰まる。いつものことです。
いつものこと、っていう言い方が、少しだけ安心です。
いつものことがあるから、崩れずにいられる。
でも、あなたは違うでしょう。
あなたは「もしも」の続きにいる。
私が選ばなかった道を歩いたあなたに、聞きたいことがある。
あのとき。
駅の改札を抜けた後、雨が降りそうだった日。
私はコンビニの前で立ち止まって、結局、傘を買わなかった。
あなたは買いましたか。
買ったなら、濡れませんでしたか。
濡れなかったなら、その日の気分は少しだけ軽かったですか。
そういう、くだらないことを聞いてしまう。
私の後悔はいつも、そういう小さなところから始まるから。
あなたが羨ましい、と正直に書くのは、少し怖い。
羨ましいと書いた瞬間、私は今の人生を否定する気がする。
だから先に言います。
私は今の人生を、嫌いきれません。
好きだと言うには、まだ痛いところが多い。
でも、嫌いきれない。
嫌いきれないから、やり直しを望むのだと思います。
全部壊したいなら、もしも、なんて考えない。
もしも、を考えるのは、今の延長線上で、少しだけ違う景色を見たいからだ。
あなたは、どうですか。
もしも、の続きにいるあなたは、満足していますか。
⸻
ここまで書いて、私はペンを止めた。
満足、という言葉が少しだけ固い。人生を点数みたいに扱っているみたいだ。けれど、私たちはいつも点数に追われてきた。点数を追わないふりをしながら、点数を気にしている。
便箋の上で、インクが乾いていく。
乾くと、言葉はもう戻らない。消そうと思えば消せる。でも、消すことの跡が残る。それが怖い。だから私は、消さない。消さないで、続きを書く。
⸻
こちらの私は、あの人に連絡しないままです。
連絡を取れば、たぶん返事は来る。優しい人だから。
でも、返事が来たら困る気がして、連絡できない。
困る、って変ですよね。
返事が来たら嬉しいはずなのに。
たぶん私は、嬉しいものを受け取る準備ができていない。
嬉しさのあとに来る責任が怖い。
嬉しさに見合う自分でいられるかが怖い。
あなたは、連絡しましたか。
あの人と話しましたか。
話したなら、何を言いましたか。
変わらないことも、変わったことも、ありますか。
私は、たぶん、あなたの答えが怖いです。
うまくいっていたら、羨ましくて苦しくなる。
うまくいっていなかったら、結局どこにいても同じだと感じて、虚しくなる。
どっちに転んでも、私は自分の心を扱いきれない。
それでも、聞きたい。
私はね、ずっと「何か」を後回しにしてきました。
やりたいこと。言いたいこと。選びたい道。
全部、後回しにして、その代わりに「無難」を積み上げた。
無難の塔は、倒れにくい。
倒れにくいけど、景色が変わらない。
あなたは景色が変わりましたか。
もしも、の続きの景色は、どうですか。
胸が痛くなるくらい眩しいですか。
それとも、想像よりも普通ですか。
普通だったら、少し安心してしまいそうで、それも怖いです。
⸻
不思議だ。
自分が自分に手紙を書いているだけなのに、私は相手を気遣っている。傷つけないように言葉を選ぶ。よく思われたいわけではない。ただ、怖がらせたくない。
別の私が怖がるのは、結局、私が怖がるのと同じことだ。
私は私の弱さを知っている。だから優しくしてしまう。
私は便箋の端に、湯気の水滴が落ちないようにコップを遠ざけた。
白湯はもう冷めている。冷めても飲める。冷めたものを飲むのが、今の私にはちょうどいい。
ふと、机の上の小さな写真立てが目に入った。
引っ越しのときに持ってきたのに、飾る場所が決まらず、机の端に置いたままの写真。写っているのは、昔の私だ。笑っている。笑っているのに、どこか無防備で、見ていると胸がむず痒い。
この頃の私は、もしも、を知らなかった。
未来は白く、白いことを怖がるより、白いことを信じていた。
私は写真を伏せた。
見つめ続けると、今の自分が薄くなる気がした。
ペンを握り直す。
別の私へ、最後にひとつだけ、聞きたいことがある。
⸻
あなたは、「後悔」と仲良くなれましたか。
私はまだ、うまくいきません。
後悔はいつも、夜に来る。
昼の私の肩に、静かに乗って、夜になると重くなる。
でも、最近少しだけ気づいたことがあります。
後悔は、過去の私からの連絡みたいだということ。
「まだ大事にしてる?」
「まだ覚えてる?」
「まだ、諦めてない?」
そう聞いてくる。
うるさい、って思う日もあります。
黙ってほしい日もある。
けれど、完全に黙ったら、それはそれで寂しいのかもしれない。
あなたは、後悔に何て答えていますか。
私は今夜、こう答えてみようと思います。
「まだ、続きがあるよ」
もしも、の続きじゃなくていい。
今の続きでいい。
続きがあるなら、後悔も少しだけおとなしくなる気がする。
あなたがどう答えているのか、いつか知りたい。
けれど、返事が来なくても、たぶん大丈夫です。
この手紙を書いた時点で、私の中で何かが続き始めたから。
別の私へ。
どうか、今日を生きてください。
あなたの続きも、私の続きも、どこかで繋がっている気がします。
おやすみ。
⸻
最後の言葉を書き終えた瞬間、私はペンを置いた。
胸の中に、妙な静けさが広がる。すっきり、というより、落ち着いた、という感じ。大きな荷物を下ろしたわけではない。荷物の持ち方が、少しだけ上手くなった。
便箋を折る。
三つ折りにして、封筒に入れる。封筒は白で、何の模様もない。宛名も書かない。切手も貼らない。送らない手紙だ。
送らない手紙を、私は引き出しの奥にしまった。
しまうと、手紙はそこにいる。けれど、机の上からは消える。暗い隅に置いておける。暗い隅に置くのは、逃げではなく、保管だと自分に言い聞かせる。
スマートフォンを持ち上げる。
恐る恐る画面を見る。
通知は、ひとつだけだった。
母からの、短いメッセージ。
「体調どう? 寒いからあったかくしてね」
私は思わず笑ってしまった。
世界は大きな答えをくれない。けれど、こういう小さな手当てはくれる。私が望む「もしも、の続き」とは違うかもしれない。それでも、続きの中に入っている。
私は「大丈夫。ありがとう」と返し、スマートフォンを置いた。
そして、机の上のノートを開いた。
新品のノートではない。いつか買って、途中で止まったノートだ。中途半端なページが、何枚も残っている。最初の余白はもうない。だから、怖くない。怖くないから、書ける。
私は今日の日付を書き、短く書いた。
「送らない手紙を書いた」
それだけで、今日は十分だと思えた。
窓の外では、風が一度だけ強く吹いた。
カーテンが揺れ、部屋の空気が動く。私はその動きを見ながら、明日のことを少しだけ考えた。
明日も、もしも、は浮かぶだろう。
浮かんでもいい。
浮かんだら、その続きを、今日みたいに書けばいい。
もしも、の続きは、遠い世界にしかないわけじゃない。
今日の机の上にもある。
今日の一行の先にもある。
私はスタンドの明かりを消し、布団へ向かった。
暗闇はまだ、完全には優しくない。けれど、今夜は少しだけ、底が見える気がした。
目を閉じる直前、私は心の中で別の私に言った。
――おやすみ。続きは、明日。
ここまで読んでくださり、ありがとうございました。
「もしも、もう一回」が頭に浮かぶ夜は、今の人生を否定したい夜ではなく、むしろ“まだ諦めきれていない”夜なのだと思います。手紙の相手は別の自分であり、実は自分の中に残っている「続けたい気持ち」そのものです。
この物語で描きたかったのは、後悔を消す方法ではなく、後悔と同じ部屋にいながら呼吸する方法です。送らない手紙でも、書いた瞬間に何かが始まる。大きな答えがなくても、日付と一行が残れば、続きは作れる――そんな感覚を、あなたの夜にもそっと置けたら嬉しいです。




