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如何にも知らぬあなたなど

 私は振り返った。ほとんど人影のない通りに、その人は立っていた。辺りは仄暗く、相手の顔ははっきりとは見えなかった。けれど、私の本能が、知り合いなどいるはずがない、と手遅れながら熱心に訴えかけてきていた。鋭い後悔の念に飲み込まれ、私は歩き去るという動作を束の間忘れた。もし、すぐに踵を返して馬車に乗り込んでいれば、何とか逃げおおせることもできたかもしれないというのに。


 何故か私の名を知っているその男は、私が目まぐるしい思考の流れに悪戦苦闘していることなど気付きもしない様子で、むしろ私がこの出会いを喜んでいると思っているかのように、足取り軽やかに迫ってきた。


「リタ……リタなんだな?」


「……人違いでございます」


 やっとのことで私は言い、男に背を向けようとした。けれど、彼は不躾にも私の腕を掴んだ。否、不躾なのではない――それはごく当然の成り行きで出た、極めて日常的な動作なのだった。


「人違いなら、君が振り向くはずがない。どうしたんだ、リタ?何故まだ俺を知らないふりをする?」


「あなたのことなど、存じ上げませんわ」


 私にはもうわかっていた。この男は、私が懇意にしていた誰かなのだ。けれど、何故なのか、私はそのことを受け入れがたく感じていた。あれほど探し求めた記憶の手掛かりが、微かに顔を上げるだけでも手に入るというのに、私はその些細な動きさえ拒んだ。彼は腕を掴んだ手を滑らせ、私の手を優しく握った。


「もう逃げる必要はないんだぞ。それとも、まさか聞いたのか、俺のしたことを?」


 と、彼が熱心に顔を覗き込もうとするので、私はでき得る限り顔を逸らせた。私にはそうすることしかできなかったし、口にする言葉さえ、使い回す他なかった。


「いいえ、存じ上げません。あなたのなさったことも、あなたのことも」


「馬鹿を言わないでくれ。せめてどちらかは知っているのでなければ、とても納得できないぞ。それとも、記憶を失くしたとでも言うつもりか?」


 そう言われて、私はつい目を上げた。記憶喪失を認めたかっただけなのか、この見知らぬ知人の顔を確認したかっただけなのかは、自分でもわからぬ。彼の皮肉にしかめられた顔には、何となく見覚えがあるような気がした。その既視感に、私は背骨を揺さぶられるような心地を覚えた。そして、私の引きつった表情は、彼にある程度のことを知らしめるのには十分であった。


「……本当に記憶がないのか?」


 私は恐る恐る頷いた。けれど、私は是が非でも逃げ出したかった。せめて横にユーリがいてくれたなら、どれほど良かっただろう。男は困り果てたようにため息をついた。


「ならば、この前出くわしたときも、俺だとわかっていなかったというわけか」


「この前、とおっしゃって?」


「森で馬を盗ったのは俺だ」


 彼は悪びれもせずに言った。私は拍子抜けして、束の間の活気を手にした。


「な……何ですの?ユーリに突き出してほしいんですの?」


「この剣も、今の君には意味をなさないのだな」


 彼は私の言うことなどまるきり無視して呟いた。彼が物思いに耽っているうちに、ともすると逃げ出せるかもしれない。そう思ったけれど、私が半歩後退ったその瞬間、彼は機敏に目を上げた。


「すまなかった。俺のことがわからないのなら、こう詰め寄られては空恐ろしいに違いない。だが、君はすべてを忘れたままではいけない。目を背けたくなるほど残酷な運命を背負っているがな。許されるなら、俺が君の思い出すべき……君の知りたいことを話そう」


 彼の眼差しからは、先ほどまであった自信が立ち消えていた。まるで、今にも走り去りそうな野良猫に、どうか動かないようにと念じているかのようである。そして、私は自分よりも大きく未知なる存在を、ある種の無垢さでもって見上げているのだった。けれど、私は子猫ほど小さくはないのだ。


「私の、知りたいこと?」


「ああ。俺なら、君の望むだけのことを話せる」


 と、男は悲しげに私を見つめ、私の手を握る力をほんのりと強めた。拘束されているのはこの左手だけ、それも少し引けば簡単に解放されるだろうと言うのに、私はただじっと彼を見つめ返していた。逃げられない――否、まさか、逃げたくないのか。私は己の逡巡に戸惑いながら、何とかなすべきことを見定めようとした。しかし、私のものの良し悪しを図る物差しは、どうにも頼りなく思われた。


「けれど、私、あなたのお名前すら存じ上げませんわ」


 苦し紛れに私は言った。それとなく手を引き抜いてみようとしたけれど、その試みは上手くいかなかった。彼は自虐的に短く笑った。


「そうか……そうだな、名前さえわからないのか。度重なる非礼を許してほしい」


「いえ……」


「浮かない返事だ。無理もないが……いや、まずは名乗ろう。俺の名はヨハン。俺の忠義は君のためだけにある」


 ヨハンと名乗ったその男は、私の手を離し、生真面目に敬礼をした。私はその仕草に――そして、それを撥ねつけようとしない自分自身にむず痒さを覚えた。私は握られていた手を反対の手で包んだ。


「そのように、言われても……」


「わかっているさ」


 彼は指先で腰に提げた鞘に触れた。私は先日森で見た、刀身に掘られた薔薇の紋様のことを思い出した。その花は、まだ彼の持つ剣に咲き誇っているに違いなかった。私は尻込みする気持ちの間から、好奇心が顔を出そうとしているのがわかった。それは新しいことがわかるという予感なのであった。


「薔薇には、何か意味が?」


 私は半ば無意識に尋ねていた。ヨハンは少し驚いたように私を見つめてから、改めて剣の柄を撫でた。


「ああ。君のためだけに剣を振るうという、誓いのようなものだ」


「……私はあなたにとって、何者なのでしょう?」


「それは――」


 彼が答えかけたとき、夜には似つかわしくない子どものよく通る声が響いた。


「ヨハン!どこにいるの?」


 私たちは声のしたほうを見やった。舞踏場の前に、少年期真っ盛りの背の高い男の子が立っている。こちらにはまだ気付いていないようで、今は通りの反対側に目を凝らしているらしい。ヨハンは低く呻くと、慌てた様子で私に向き直った。


「説明はまたいずれしよう。今は……」


「いずれって?」


 私は思わず食って掛かった。私の心に厚かましく居座っていた躊躇はどこへやら、薔薇の紋様という、私にとっての最大の手掛かりのことを思い出した今では、この機会を逃したくないという思いが私のすべてを牛耳っていた。ヨハンは少し考えた。


「……三日後の夕暮れに、あの森の同じ場所で会おう。場所はわかるだろう?」


「ええ、わかります」


 私が答えると、ヨハンは黙って頷き、素早く踵を返した。私も彼に倣い、その背を見送らずに馬車のほうを振り返った。いつの間に、厩番のボーが御者台に座っていた。見られていたのだろうか。もちろん、そうであろう。けれど、屋敷の人々と二回りどころではなく歳が離れているこの従僕が、ここで見たことを子細に彼らに語るとは思えぬ。私は何でもないようなふりをして、馬車に近づいた。厩番が礼儀正しく何も言わずに馬車の扉を開けたとき、私は少し遠いヨハンの声を聞いた。


「サミュエル、こんな時分に大声を出すものじゃない」


 私はそちらを見ないように努めながら、あの子どもは何者なのだろうかと訝った。しかし、座席に座ったところで、疲労で張り詰めていた身体の緊張が一気に解れた。私は眠気に誘われるままに目を閉じたので、何かを考えることはできなかった。できていたのだとしても、目覚めたときには何も覚えていなかった。


 その日、ユーリは夜が深まってもなお帰ってこなかったらしい。正確に、何時に屋敷に戻ったのかはわからない。けれど、私が朝に階下へ下りていったとき、屋敷の空気は朝らしくもなく落ち着きすぎていた。すべき仕事は、夜中に済ませてしまったかのようである。きっと、屋敷の主人が戻ったとき、同時に屋敷が目覚めたのだろう。しかし、その主人は、いつもの時間に食堂にいなかった。


 一人で朝食を取ることになった私は、疲弊をひしひしと感じながら、ぼんやりと物思いに耽った。昨日の出来事は、初めから終わりまで幻であるように思われた。そうであったらいい、とさえ思う。変化とは常に未知であり、未知とは常に恐怖を孕むものだ。けれど、私はその恐怖諸共、すべてを知り、飲み込み、我がものにしたい欲求を抱えていたし、そのことを見ていながら、見ぬふりをするわけにもいかなかった。


 ともあれ、今の私にできることはない。二日後の夕暮れ時に、あの森に行く必要がある。それならば、何か馬を借りる言い訳を考えなければならないだろうか。少し散歩をしたいだけ、とでも言おうか。否、ユーリについていこうと言われたら、断りきることができないかもしれない。


 そういったことを考えつつ、私は部屋に戻った。顔を上げれば、昨日の支度の慌ただしさが窺える、あまり整然としていない部屋の様子が目に飛び込んできた。昨日帰ってきたときは気にする余裕もなかったけれど、特に予定もない今日の私なので、やるべきことが見つかったのは好ましいことであった。


 しかし、いざ整頓を始めようとしてみると、一体どこから手をつければいいものか、不思議とわからないものである。アンナはいつも何ということもないかのように手を動かしているというのに。アンナと言えば、彼女はきっと私の部屋を整えてくれるのではないか。だとすれば、私がわざわざ部屋を余計に乱すというのも、野暮というものかもしれない。


 私は早くも整頓を諦めて、退屈まぎれに部屋をゆっくりとうろついた。一体何が、部屋を落ち着かせずにいるのかを見極めようとしたのである。それは、例えば、ほんの少し開いたままになっている抽斗や、鏡台の上、いつもと位置の異なる香水瓶であった。抽斗を閉じることは私にでもできるけれど、香水瓶が正確にどこに置いてあったのかを思い出すのは難しかった。そこここに動かしてみたけれど、どれもしっくりせず、結局諦めた。


 それから、私は衣装棚に隠しておいた、ゲルトガ一族の日記を取り出した。それを宝物のように隠しておいたことに、大した理由はない。辺りに放り出しておいて失くしでもしたら、ユーリに対して面目が立たないと思っただけである。


 どこまで日記を読み進めたのかは、正確に覚えていた。私が指で辿るのはもう十月も半ば、国王の遠い親族の行方は杳として知れず、貴族たちの争いは辛うじて華麗に行われていた頃である。


『十月十七日――


 連日続く晴天が、唯一この心を癒す。しかし、この頃、マウアス侯の様子がおかしい。彼は長年、フィリップ殿と懇意にしていたはずだ。今更になって私に微笑みかける理由がどこにあろうか?私の聞き及ばぬところで、かの二人に不和があったのやもしれぬが。少々調査の手を伸ばしてみなければ。ああ、この土地がアスターシャのものであったなら!』


『十月二十日――


 しばらく屋敷を留守にしようと思う。我が国の王位を継ぐべきは、八貴族のうちの誰でもあり得ぬ。彼らはあまりに他を顧みぬではないか。王座を得たとて、国益に適う判断を下せるとは冗談でも言えまい。私は行く。姿を消したとはいえ、私の探すべきお方はいまだアスターシャに留まっているはずである。探さねば。そして、この争いに終止符を打つのだ』


 この日を境に、記録はしばし途切れる。彼は宣言通り、アスターシャに旅立ったのだろう。再び記述が始まるのは年の瀬、想像するに寒々しい雪の日だという。が、私が続きに目を走らせようとしたとき、アンナが部屋にやってきた。


「精が出ますね、リタ様」


 私の膝の上に日記が広げられているのに目を止めて、彼女は言った。まるで、私が何か勉学にでも励んでいるかのような物言いである。


「アンナ。朝のお仕事は済んだ?」


「はい。何かお言いつけがございますか?」


「大丈夫……いえ、少しだけ。私、あなたのように部屋を整えられないようで。やってみたのだけれど、どうにも落ち着かないの」


「目立って散らかっているということもないように思われますが……」


 そう言いながら、アンナはぐるりと部屋を見回した。彼女の言うことは正しかった。明らかに目立っていた抽斗はもう閉めてしまっていたし、物が落ちているわけでもないのだから。アンナは帳の形を整え、雑貨の位置をほんの少しだけ調整した。それだけで、部屋はすっかり元通りになったように思われた。私は何とはなしに気恥ずかしさを覚えた。


「何だか、すっきりしたわ」


「そうでございますか?」


 アンナは不思議そうではありながら、満足げに微笑んだ。けれど、私はその顔つきに、屈託の影が差すのを見た気がした。よく見てみようと思ったときには、その不穏さは消えていた。きっと、早朝に帰ってきたユーリに起こされて、すでに疲労を感じているのだろう。


「ユーリは早くに帰ってきたのね?」


「いいえ、それが、ようやく日が昇ろうかという時分にお帰りになったのでございます」


 私はまさにその通りのことを聞いたつもりだったのだが、訂正はしないでおいた。


「彼にも困ったものね」


「仕方のないことでございます。その旦那様ですが、これからお茶でもどうだろうかとおっしゃっておりました」


「ご一緒させていただきますと伝えてちょうだい」


「かしこまりました。それでは、失礼いたします」


 アンナはさっと引き下がっていった。私は日記を閉じると、鏡台の前に座り、自分の顔を覗いた。昨日の疲れは特に表れてはいない。けれど、心なしか歪んだ眉や、強く噛んだ跡のある唇は、余分に何かを語っているように見えてならなかった。思えば、アンナが見せたのも似たような顔つきであった。彼女も人間である。悩まないはずがない。


 私が彼女の悩みを聞き、私も彼女に昨日の出来事を打ち明けるようなことはできるだろうか。ああ、とてもそうは思えぬ。アンナは善人だが、私に対して心の門戸を完全に開いてはいない。それはきっと、私も同じことなのだろうけれど。しかし、彼女はユーリの手足であり、目であり、耳なのだ。彼女は一度否定したけれど、私の話すことは、すべてユーリに筒抜けだろう。ヨハンのことは、ユーリに知られたくないというのに。


「……どうして、知られたくないのかしら?」


 ふと私は独り言ちた。そうだ、疚しいことなど何もないではないか。ヨハンのほうから接近してきて、私の記憶に関わる手がかりを与えようとしているだけなのだ。私の記憶が戻って、ユーリが悲しむということもないだろう。素直に白状してしまえばいい。いっそ、二日後の約束にもついてくるよう頼んでもいいかもしれない。ヨハンのことを隠し立てしようなどと、余計なことを企てて、勝手に疲弊するほど馬鹿馬鹿しいこともない。


 そう思うと、突然肩の荷が下りたような気がした。いらないことばかり気にするのは、私の悪い癖である。気分が晴れやかになった私は、唇にそっと口紅を乗せ、鏡の中の自分に対して微笑を浮かべた。そこにいるのは、ごく普通の、いつも通りのリタであった。


 少しして、アンナが私をお茶に呼びに来た。良く晴れた日なので、ユーリは庭園で私を待っていた。一目見ただけで、彼がほとんど眠らなかったことが窺えた。けれど、彼はくたびれているというよりも、どこか辟易したような様子であった。昨夜の用事というものが、楽しいものではなかったのだろうか。


「おはようございます、ユーリ」


「ああ、リタ。昨日は申し訳ありませんでした。何事もなく帰れましたか?」


「ええ、この通りですわ」


 私は先ほど鏡に向かって作った微笑みを浮かべた。ユーリは私を座らせると、自らはいささか無造作に腰を下ろした。


「長くかかるご用でしたのね」


 私はそれとなく尋ねてみた。どうせ、それは複雑な権力争いの一部に過ぎない用件だったのだろうし、私もさして興味はなかった。しかし、会った途端にヨハンのことを切り出すのは、何か不作法であるような気がしたのだ。俯きがちなユーリは目だけを上げた。


「時間がかかるだけのことです。そう労力が必要なことではありません」


 そう言い切るには、彼には活気が足りないけれど。それはいつものことだろうか。彼は見るからに世間話をする気力がないように思われたので、私は早いところ問題を片付けてしまおうという気になった。今ならユーリも、大した興味を示さずに聞き流してくれるかもしれない。そう思って、私が口を開きかけたとき、ユーリは思いがけず顔を上げた。


「そういえば、昨日は誰かに声をかけられましたか?何か特別なことを聞かれるようなことは?」


「変わった女性なら。あなたの連れなのだろうと、執拗に尋ねてくる方でしたわ」


 私が言うと、ユーリはさっと目の色を変えた。姿勢を伸ばして座り直すことまでしたものだから、私は思わず身を引きかけた。


「何と答えを?」


「特に何ということも……その、私、逃げてしまいましたの。賢明ではなかったかしら?」


 ユーリの表情が翳ったので、私は早口に尋ねた。彼は厳めしくなりかけた顔つきをふと和らげた。


「いえ、そのようなことはありません。いずれにせよ、彼女はあなたが私の同伴者だと知っていたに違いないですから」


 そう言いながらも、彼はいらいらと机を指先で叩いていた。辛うじてしかめ面はしていないけれど、いつになく神経質になっていることを疑う必要はなかろう。問題は、その矛先なのである。きっと私ではない。私は彼の気に障るような真似はしていないはずなのだから。


 ユーリはあの喧しい女を知っているのだろうか。格式高い家の娘であるのは間違いない。私や彼とそう歳も変わらない様子であった。身分と歳の近い友人がいることはまったくおかしなことではない。もっと悪いのは……否、悪いことでは少しもなかろう。


「他にはいましたか?」


 彼は私の思考を遮って尋ねた。ヨハンとの出会い――あるいは再会――について話すなら格好の機会であろうと、私は目を上げた。そして、見た。ユーリの目に閃く鈍い光、おぞましいほどに歪んだその輝き。単なる苛立ちとは片付けられぬ。憤怒以上に貪欲であり、悲哀以上に昂揚した、地揺れのごとく彼を芯から揺さぶる情動を。


 私は用意していた言葉と自信が引っ込んだことを激しく自覚した。絶対にヨハンのことを口にしてはならないと、ユーリの周囲に立ち込める暗雲が囁いていた。その雲合いの隙から差す太陽たる彼の眼光は、まったく希望に満ちたものではないのだから。


「……いえ、誰も」


 私の答えに、彼の緊張した眼差しはふと力を失った。普段の無表情が立ち返ったが、そこに近頃見えてきた柔さはなかった。疲れが隠れず表れるようになったのは、おそらく彼が一つ安堵した証であろう。彼はお茶をゆっくりと口に注いだ。私に向き直ったとき、その顔つきは少なくとも無頓着ではなかった。


「あなたをあまり煩わせることにならずに済んだのであれば、それ以上に安心することはありませんね」


「あなたらしくもなく大袈裟ですこと」


 私は取り繕うように言った。まだ間に合う、告白するならば今だ。そう囁いているのは、私の理性なのだろうか、あるいは本能なのか。何でも話してしまうのが正しいことなのか、私は最早確信が持てなかった。そも、私は彼のことをほとんど知らないではないか。それなのに、どうしてこちらだけが素直にならねばならないのか。そうである。そのようないわれはない。断じてないのだ。


 言わないほうがいい。その必要がないなら、なおさらである。殻が閉ざされていくことに、私は抵抗しなかった。だから、その後の私たちの会話は月並みで、ぎこちなさを覚えるまでもなかった。茶会が終わる頃には、私の気分は晴れやかであった。それは間違いなく、ユーリに会う前に感じていたものとは異なっていたけれど。


 何にしても、再び部屋に一人になったとき、私は知っている二人の男性のいずれのことも考えなかった。ただ、何も持たずに階下に下りていって、ひょっとしてアンナが編み物の道具でも貸してくれるかしら、と胸の内で呟いた。


 居間にはアンナとハンス、そして小さなレナの姿があった。彼らがちょうど時間を持て余す時間帯である。主人が大抵は書斎に引き籠っているので、よくこうしてここに屯するのだ。といっても、何かを話すというわけでもなく、レナなどは部屋の隅で置物のようになっているばかりだが。アンナとハンスは辛うじて傍に座っているが、互いを見交わすこともなく、一方は編み物に、もう一方は木彫りに向き合っている。ハンスの足元には木屑が散らばっており、それがひらひらと落ちるのを、レナが遠くから眺めているのだった。


 私が扉を開けて、最初に目が合ったのはやはりアンナであった。彼女は床の木屑を冷ややかに一瞥しながら立ち上がった。


「リタ様。散らかっておりまして、大変申し訳ございません」


「いいのよ。ハンスが彫刻をするなんて知らなかったわ」


「屋敷を滅多に出ない生活なもんで、手持ち無沙汰でしてね。もっと手先が器用だったら良かったんですが」


 そう答えながらも、ハンスは顔を上げず、手元に集中していた。私は近づいていって、作品の途中経過を確かめた。それは四足の動物であった。しかし、正直なところ、それが一体何なのかは判然としなかった。犬か、あるいは馬だろうか。下手な作品ではないけれど。


「可愛いわね」


「悪くないでしょう?レナに頼まれましてね。こんなんで本当にいいのかわかりませんが」


 私は振り返ってレナの様子を確かめた。けれど、彼女は私の視線に気付かないふりをして、じっとハンスの手元を見つめるばかりであった。少なくとも、何か期待するところがあるのは確からしい。


 私は断ってからハンスの隣に腰掛け、レナと同様熱心にその作業を見守ることにした。二人分の監視も意に介さないとは、彼もなかなか豪胆である。私たちがそうしている間、アンナはどこかから箒を持ってきて、足元の木屑を集め始めた。文句を言うでもなく、ごく当たり前のことのように。彼女はそつなく雑用をこなしながら、私のほうに顔を向ける。


「あら、日記をお持ちではないのですね」


「あれを読んでいると、神経が削られていく感じがするのよ。良かったら、何か編み物の道具でも貸してもらえないかと思ったのだけれど」


「もちろん、構いません。すぐに新しい毛糸をお持ちしましょう」


 アンナが答えると、そのときようやくハンスは手元から顔を上げた。作業が一段落ついたようで、少々誇らしげに四足動物をつまみ、私に見えるように掲げてみせる。


「彫刻はどうです、リタさん?やってみると案外楽しいですよ」


「駄目ですよ、ハンス。リタ様のお綺麗な手に、傷がついたらどうするの?」


 アンナは私が答えるよりも早く、つっけんどんに言った。ほんの少しだけ、木彫りに興味を持ち始めていたのだけれど、私は同意も否定もせずに言葉を飲み込んだ。ハンスは残念ぶって口角をぐっと下げてから、穏やかな笑みを取り戻し、木彫りを完成させるべくまた背中を丸めた。


 編み物道具はそこにあったけれど、まさかアンナの作りかけを解くわけにもいかないので、私はやはりハンスの指先を注視することにした。と、そこへ、音もなくレナが近寄ってきて、影のように私たちの傍に立った。


「日記って?」


 彼女はおもむろに口を開いた。それが案外大きな声だったので、驚いたハンスの手元が少しだけ狂った。彼は仄かに渋い顔をして顔を上げた。


「旦那様方の日記なんだとよ」


「旦那様方?」


 そう発したレナの声は、今度は小さくなっていた。おかしな娘である。アンナが答えを引き継いだ。


「二つ前の代の領主様の日記だけど、先代が引き継いで書いていらっしゃったのよ」


「今の旦那様は?」


「さあ……そうまめな性格ではないと思うけど」


 アンナは困惑したように言った。レナはその答えに満足したようには見えなかった。少女は首を巡らせ、丸い目で私を見た。座っている私は、彼女と目線が同じ高さだった。


「どうしてリタさんが領主様たちの日記を持ってるんですか?」


「少し借りているだけよ。許してもらったから……」


 私は何故かしどろもどろになって答えた。この娘にはどこかこちらを委縮させるところがあるのだ。その硝子のような瞳のせいか、色のない声のせいなのか。私がまごついているのに気付いてか気付かずか、レナはふと興味を失ったように引き下がった。隣でハンスが四足動物に優しく息を吹きかける音がした。仕上げが済んだと見える。彼はそれをレナに投げて寄越し、レナはそれを危うく取り落としそうになった。


 掃き掃除に満足したアンナは、おそらく毛糸を取りに部屋を出ていった。それを見るや、ハンスは葉巻を取り出した。


「いいですかね?」


 彼がいたずらっぽく笑いながら尋ねたのを、私は何ということもなく承諾した。彼が葉巻に火を点ける間に、私は窓を大きく開けた。その窓の傍に座っていたレナは、木彫りの動物を鑑定するかのように眺めていて、むしろ彼女が彫刻作品になったようにさえ見えた。私はハンスの隣に戻った。


「アンナの奴はうるさくてね。旦那様はちっとも気にしないでくださるんですが」


「吸うのはあなただけ?」


「いやあ、それが、実はアンナも好きなんですよ。ただ、絶対に中じゃ吸わないんです。おかしいでしょう、主人に咎められるならまだしも」


「習慣じゃないかしら」


 そう私が言うと、ハンスは何か私が素晴らしい冗談でも言ったかのように、大袈裟に声を上げて笑った。


「確かに、あいつは習慣の女ですね。リタさんは吸わないので?いや、いいとこのお嬢さんは吸わないのかな」


「どうかしら。親しみはあるような気がするけれど」


「試してみます?」


 と、彼は葉巻を私に差し出した。私は少し躊躇ったけれど、吸ってはいけないということもないだろうと思って、そっと葉巻を受け取った。私はハンスがどうしていたか思い出しながら、吸い口をゆっくり顔に寄せた。


「吸い込みすぎないようにしてくださいね」


 その忠告もあったし、何となくどうなるか察しがついたので、私は実に注意深く煙を吸い込んだ。だのに、私がほんの少量だと思ったその煙は、獅子の咆哮もかくやと思わせるほど、見事に私の肺を驚かせた。


「はは、だから言ったじゃないですか」


 ハンスは咽る私の手から優しく葉巻を取り返しながら言った。私の咳には徐々に笑いが混ざり始め、私たちは間抜けのように身体を揺すった。そうしている間にアンナが戻ってきて、彼女は屋敷に見合わず活気のある居間の様子に面食らったように戸口で立ち止まった。それから、葉巻を目にして気を取り直す。


「中で吸わないでと、あれほど言ったじゃないの」


「悪かった。僕の楽しみに興じたりして」


「私が悪いみたいに言うのはよしてよ。リタ様のお召し物に匂いがつくでしょう」


「私はいいのよ、アンナ」


 私が口を挟んだのを、アンナは若干不服そうに受け止めた。彼女はどう態勢を立て直そうか思案し始めたが、ハンスはお構いなしに立ち上がった。


「まあ、僕はもう行くさ。そろそろ、夕食の支度をしなきゃならない。――レナ、手伝う約束だぞ」


「わかってますけど」


 と、レナは小生意気に答え、ハンス共々居間を出ていった。私はアンナから新しい毛糸と道具を受け取り、彼女の隣で思いつくままに手を動かし始めた。編み物には自信があるような気がしていたけれど、彼女の横では、そのことで誇らしく思うのはとてもではないができない話であった。私たちは黙々と毛糸を編んだ。何となく、アンナがくたびれているように見えたので、私は彼女に話しかけなかったのだ。しかし、その時間は心地良かった。夜は瞬く間に訪れた。


 その夜であった。


 この夜、屋敷は昨日と、それ以前と、何一つとして変わらない様子だった。どの部屋も整然としていた。夕食は美味であった。ユーリは幾分か活気――あの静かな生気をそう呼べるなら――を取り戻していた。アンナは振舞や支度に余念がなかった。ハンスとレナの姿は見なかった。厩番のボーの姿も。つまり、何も変わりはしないゲルトガ邸の夜だったのだ。


 いまだ前日の疲れを引きずっていた私は、普段よりも早く寝台に上がった。それでも、身を起こして少しだけ編み物の続きをしたけれど。そのうち、耐え忍ぶには重すぎる眠気がやってきて、私はようやく毛糸を日記の上に置き、身を横たえた。月の出ていない夜で、蝋燭を吹き消すと、ほとんど何も見通せないほど暗くなった。私は眠った。


 目が覚めたのが、一体何時頃だったのかはわからぬ。しかし、薄ぼんやりとした視界は暗黒であり、夜はこの上なく深まっていた。圧力のある疲れのために、私は瞼を押し上げることを諦めようとした。しかし、何かがおかしいような気がしていたのである。


 それは、そう、物音であった。すぐ傍で、誰かが几帳面に動いている気配があった。夢魔の類だろうかと、私はおぼろげな意識の中で考えた。このまま目を閉じても構わないような気がしていた。しかし、寝ぼけていたせいか、私は何としてもその夢魔の姿を目にしてみたいと思ったのである。このような機会はそうあるまい、と。


 磁力でも身についたかのような瞼を何とかこじ開けながら、私は気配のするほうへ寝返りを打った。暗闇の中に立ち上がった影は、私の想像とはまったく異なる姿をしていた。いつか何かの絵画で見たような、怖気のするような尾も角もない。それは人間のようであった。否、人間であった。それが誰であるのかを考える時間は、私には与えられなかった。


 その人物は、私が身動きを取ったことに気付き、私を見下ろしていた。目が合った途端、その人は私に躍りかかってきた。驚く間もなかった。毛布が素早くめくられ、私の顔を覆った。それは恐ろしいほど力強かった。私がもがくのもものともせず、そのがっしりとした両手は無限の圧力を私に与え続けた。そのような状況だというのに、私の身体は睡眠を求めていて、一層力が入らないのだった。


 息苦しさに、私はいよいよ意識を手放しかけた。いつまでこの時間が続くのだろうかと、私は無感覚に考えた。抵抗する気力を失い、力が抜けたその瞬間、ふとのしかかる力が霧散した。何かが床に落ち、雷のような金属音が響いた。そして、すぐに慌ただしい足音と、存外静かな扉の開閉音がした。私は毛布を払いのける気にさえなれず、したがって襲撃者の後ろ姿を見ることも叶わなかった。


 私は茫然と毛布の裏地を見つめていた。力強い両の手の感覚がまだそこに残っていた。漠然とした恐怖が這い回って、私に寒気を起こさせていた。徐々に震えは大きくなり、私は自らの手を固く握った。冷えきっていた。その氷のような感覚は、孤独と無防備の感をひどく強めた。私は毛布の下で子どものように縮こまった。顔を上げれば、そこにまだ誰かの人影があるのではないかという気がして、とても動こうというつもりにはなれなかった。


 鈍い身体のまま、私はぜひとも眠りに就きたかった。しかし、あの圧迫感と息苦しさが繰り返し私を覚醒させた。夢だ。夢に違いなかった。動けなかったのは金縛りのせいであって、誰かに押さえつけられたからではない。何故なら、そのようなことをする人間がこの屋敷にいるはずがないからである。それ故に夢なのだ。


 そう呪文を唱えているうちに、朝日が窓から差し込んできた。私は眠ったのかもしれないし、そうではないのかもしれないけれど、どちらにせよ身体は幾分かすっきりと軽かった。私は毛布を押し退け、部屋を見回した。落ち着いた部屋であった。闖入者がいたとはとても思えぬ。私はあまりのくだらなさに思わず苦笑しながら、寝台から足を下ろした。


 すると、足先に何か冷たいものが触れた。私は自然と床に目を落とした。それは鉤針であった。途端に、昨夜聞いた金属音が耳で反響した。私ははっとして、それを置いていた小卓を見た。私は昨日、日記の上に鉤針と毛糸を乗せたはずだ。しかし、日記はそこになかった。鉤針は私の足元にあり、扉のほうを見ると、もつれた毛糸がもう一本の鉤針と共に床に落ちていた。


 私は誰かが慌てて走り去っていく、透明な影を目にしているような気がした。夢ではなかった。やはり、夢ではなかったのだ。そう悟った瞬間、喉から胃までが強く締め付けられるような感覚に陥った。私は唐突に文字通り錯乱して、猛然と扉へ駆けていった。毛糸を踏んづけたのも気にならなかった。私は勢い良く扉を開け、がむしゃらに色々な人の名前を叫んだ。広い廊下にどれだけこの声が響いても、まだ足りないのだと私は確信していた。誰かが忙しく動き始めた音を聞いてもなお、私は怒鳴るのをやめなかった。

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