何とも知らぬこの心地
今度土下座するので、ブックマークお願いします
日記の中では、瞬く間に春は過ぎ去り、夏の足音が近づきつつあった。ユーリの祖父君は、頁を繰るごとに心を乱していくようであった。悪筆には磨きがかかり、物憂い愚痴はますます尾を引いた。それに、塗り潰した後の多いこと。不安か、後悔か、書き手はわざとらしいまでに話を引き延ばし、おかげで事態の全容は輪郭を歪めるばかりであった。
私はようやく、ユーリがこの日記を退屈だと言ってのけた理由を知り、独り苦笑した。それでも、私はひたすら日記を読み進めた。読み物というのは、些細なきっかけで、人に他では得難い何かを与えてくれるものである。ともすると、失った記憶のほんの一部でも、私は思い出せるかもしれないのだ。そのためには、架空の物語に没頭するよりは、実際の出来事の上で目を滑らせたほうが良かろう。
今のところ、私が日記から学んだことは、国王の崩御からたったの半年で、N――伯とやらの家が見る影もなく潰されたということだけであった。その間に、アスターシャに関わることは一言も出てこなかった。やれ、どこそこの領地で火事があっただとか、やれ、某氏の連れ合いが冤罪で国を追い出されただとか、そういった類のことは、茹だるような日の雨よろしく、私を辟易させた。
しかし、仮面舞踏会という楽しみまでの繋ぎという意味で、日記は素晴らしい役割を果たしてくれた。気付けば、その日は翌日に迫っていた。この朝、衣装がようやく届いたので、私はそれをアンナと共に確認することにした。それは申し分ない出来栄えであった。その深海のような青は、私の好みではなかったけれど。
アンナは私に衣装を纏わせると、私の周りを数えきれないほど歩き回った。立ち止まるのは、衣装のどこを詰めるか印をつけるときと、どこか恍惚としながら賞賛の言葉を口にするときだけであった。私は面映ゆく、返事もぎこちなくなるほどだったけれど、彼女はひたすら、楽しげに私を褒めそやした。
「実は、リタ様にはきっと青がお似合いになると、私が旦那様に進言いたしましたの。やはり、その見立てに狂いはございませんでした」
「そうなの?私もこの色が好きだわ」
必要のない嘘だったけれど、私はそのように返した。私の答えを聞いて、アンナはやはり喜んでくれた。私は少し胸の内が落ち着くのを感じた。私は改めて鏡の中の自分を見つめた――似合ってはいない、と率直には思う。否、見慣れていないだけかもしれない。どちらにせよ、衣装それ自体が嘆息するほど美しいのは間違いなかった。
「意匠はユーリの好みかしら?」
私は控えめな装飾を指で撫でながら尋ねた。その洗練された感は、いかにもユーリがこだわった形跡であるかのように思われた。けれど、アンナは鏡越しにかぶりを振った。
「旦那様には、衣服の趣味などというものはないと存じ上げます。仕立て屋の気まぐれでしょう。もう少し華やかでも、ようございましたわね」
「ええ……けれど、私はこれくらいのほうが落ち着くわ」
今度は、本心であった。やたらと膨らみを持たせたり、襞飾りを散りばめたりするのは、まったく私の趣味ではないのだ。
衣装合わせが終わると、アンナはさっそく細かい裁縫の作業に取り掛かった。私は横でその様子をじっと眺めていた。多少なりとも気分が良かったので、日記を開いて気持ちを沈めたくはなかった。アンナは私が何かと人の動くところを見る習慣があるのを知っているので、私のことは気に留めずにいてくれた。
しばらくそうして静かに過ごしていると、強調するように部屋の扉を叩く音がした。まず間違いなく、ユーリの作法ではない。ハンスだろうか。否、彼が厨房を出ているところなど、見たことがない。私は誰が来たのやらと訝りながら返事をした。すると、戸口に姿を現したのは、私が名前だけ知っていた彼女であった。
「レナ。どうかした?」
顔を上げたアンナが尋ねた。十一、二歳の侍従見習いは、臆することもなく、むしろ不機嫌そうな様子で私たちを見た。
「旦那様がお呼びです、アンナさん」
「わかったわ。――失礼いたします、リタ様」
アンナは立ち上がった。私には彼女がため息を押し殺したことがわかった。裁縫や編み物は、彼女の無二の楽しみなのである。アンナが行ってしまったので、私は日記の続きでも読もうかと腰を上げた。そのとき、私はレナがまだ部屋の中に立っていることに気付いた。てっきり、アンナと共に出ていったものと思ったのだが。少女が物問いたげな目をこちらに向けているので、私も放っておくわけにはいかなかった。
「何かご用?」
そう尋ねたけれど、レナはむっつりと黙り込んで答えなかった。私は何秒か待った。それは沈黙を走らせるばかりだったので、私は待つのを諦め、日記を手に取った。どこまで読んだかと頁を繰っていると、レナがようやく口を開いた。
「舞踏会に行くんですよね」
私は顔を上げた。レナは自ら少し当惑したように、私の顔とあの衣装を交互に見ている。この娘も、年相応に、煌びやかなものへの憧れを抱いているのだろうか。私は彼女に親しみを覚えた。
「そうよ。衣装がようやく届いたの。素敵でしょう?」
「着物というより、置物みたいですね」
レナは淡白に言った。私の彼女に対する共感は途端に地に落ちた。横たえられた華奢な意匠の青を、どうして置物と吐き捨てられようか。それに、彼女のほとんど小馬鹿にしたような物言いと言ったら、率直に、とても我慢ならないものであった。けれど、子どもに対して憤激することは間違っている。私は深く息を吸った。
「変わっているのね、レナ」
「そうなんでしょうか」
彼女はまったく子どもらしくない。私は気味悪さまで覚え、それ以上どう話しかけたものかと頭を悩ませた。ぜひとも日記に戻りたかったけれど、レナはいまだ部屋を出ていく気配を見せなかった。
「リタさん、どうしてお屋敷に滞在してるんですか?」
「行く当てが思い出せないの」
「私には行く当てがないんです。あなたにはあるんですね、思い出せないだけで」
「ええ、きっと……あなたには何があったの?」
「両親は死にました。村の針子は間に合ってるみたいです。あなたが召使にならないのはどうしてですか?」
「私は召使ではないもの」
「私やアンナさんは召使だということですか?」
「その……違うの?」
「違いませんけど」
私は苛立つ以上に混乱し、その混乱を越えて少女を畏怖した。的を射た会話が成立しているとは思えなかった。子どもとは、このようなものだっただろうか。ともすれば、私の返答が間違っているのかもしれない。本気でそう思うわけではないけれど。
「だけど、確かにリタさんは召使じゃありませんね。言葉遣いがずっと上品です」
「アスターシャの方言だと思うわ」
「じゃあ、あっちの人なんですね」
「そうだと思うわ」
私は何か問いかけられる度に、自信が損なわれていくような気がした。それが、記憶という地盤がないせいなのか、元々そういう気質なのか、とても判断することはできない。とにかく、私は早くレナに去ってほしかった。すでに彼女は、私には大柄な人格を持った一人の人間でしかなかった。
「レナ、あまりとやかく人のことを聞くものではないことよ」
相手がまた口を開きかけたところを見て、私は苦し紛れに言った。すると、レナは大人しく引き下がり、退室していった。私は乱れた心を鎮めるべく、日記という武器を取った。しかし、私の心はそのようなものには臆さなかった。結局、私は日記を抱えて庭園に出た。日記を読みもしなければ、庭園を歩きもしなかったけれど、肌身離さず日記を持ち歩くことも、庭園を毎日散歩することも、私の習慣なのであった。
あくる日、アンナは張り切って私を飾り立てた。彼女の手によって、私の長い髪は寸分の狂いなく纏め上げられ、そのために露わになった首元には、緑碧の宝石が鎮座することとなった。
アンナは、今更言うまでもないことだが、本当に手際が良かった。本来世話をしなければならない女性などいないはずのこの屋敷で、どうやってその技量を身につけたのか、首を傾げずにはいられない。あるいは、いたのかもしれない。例えば、いたことさえ疑わしいほど影も形もない、ユーリの母親。それとも、もっと若い、彼と同年代の――。
くだらないことを考えるのはやめるにせよ、アンナは実に精緻な侍女というわけである。彼女のおかげで、私は随分な余裕を持って支度を終えることができた。けれど、この青を纏って下りていくのは、どうにも気が引けた。ユーリは、この衣装に私が見合わないと思うのではなかろうか。その嫌な考えが繰り返し頭を過ぎるので、いよいよ私は鏡に目を向けないよう努めなければならなかった。
そのうちに、部屋でまごつく理由も尽きて、私はアンナに付き添われながら階下に向かった。踊るために作られたことだけあり、衣装は軽く、動きやすかった。けれど、それはそれで、どうにも落ち着かないものである。私が慎重に階段を下りようとするのを、布地が可愛らしく笑っているかのように。
しかし、そのような些事も、すぐに気にならなくなった。というのは、下で待っていたユーリに仰天させられたからなのだが。一目彼を見た瞬間、私は言葉を失ったし、アンナは卒倒するのではないかと思われた。そこにいたのは、まったくいつも通りのユーリだったのだ。とても舞踏会に行くようには見えない彼は、私たちの驚愕にはまるで気付かずに、穏やかに目を細めた。
「よくお似合いです、リタ」
私はできることなら返答したかったけれど、開いた口が塞がらず、鈍い相槌しか出てこなかった。アンナはユーリに向かって、震える手をそっと差し伸べた。
「旦那様、お支度のほうは……?」
「いつでも発てるが」
何ということ。私はつい一驚の声を漏らした。アンナが文字通り頭を抱えたので、ユーリは事の重大さとまではいかないまでも、事があるとは察したようである。
「何かまずいのか?」
「何か、どころでは済みませんわ、旦那様……ご自分で万事整えられるとおっしゃるから、お任せしてみれば!一体何です、その髪は?」
アンナは沸々と湧き出てくる呆れ――そしておそらく、些細な苛立ち――に語気を強めながら、ユーリのほうへつかつかと歩み寄った。彼は困惑して頭に手を当てる。
「何と言われても――」
「お召し物も着替えていただかなくては。上着は問題ございませんが。まったく……どうして普段着のような恰好なのですか?いくらでも、上等のものがございましょうに」
「十分上等だろう」
「いいえ、十分ではございません!――リタ様、少々お待ちいただきとうございます。できるだけすぐに戻って参りますので。――さあ、旦那様!」
アンナはすでに階段の中ほどまで、ユーリを引き立てていた。彼は勢いのままに進みながら、ちらりと私を振り返った。そのいつもとほとんど変わらない表情には、ささやかに当惑が浮かんでいた。きっと、アンナが大袈裟だと思っているのであろう。私はゆっくりと首を振ることで、アンナを擁護した。
さて、嵐のように二人が去っていったことで、着飾った私は独り取り残されてしまった。何に対してということもないのだけれど、私はほんの少しだけむっとした。心も身体も落ち着かず、踊りの練習でもしようかとも思った。が、そこへ、ありがたいことにハンスが現れた。
「僕も言ったんですよ。その格好ではアンナが白目を剥きますよってね」
「もっと強く言わなくてはいけないことよ」
「お忘れですか、リタさん?僕はただの料理人で、少なくとも旦那様の友人ではないんですよ」
ハンスはいかにも愉快そうに笑った。私はつられて笑みを浮かべた。私は彼の正直な気質を買っていたので、一つ、彼の考えを仰いでみることにした。
「どうかしら、正直に教えてほしいのだけれど、私は不格好に見えていないかしら?」
「僕のほうが白目を剥かなきゃならないかと思いましたよ。あんまり綺麗なものを見ると、罰が当たる気がするんです」
素直で小気味いい性分のハンスが、巡り巡って気障に聞こえる台詞を口にしたので、私は危うく吹き出しそうになった。
「おかしな人。お友達は多いの?」
「さてね。僕と同じような身分の、気のいい連中は、大体仲良くなれますよ。そして、僕はリタさんのことも友人に数えたいですね、ぜひ」
ユーリやアンナと違って、ハンスは初めから、割に気さくな態度で私に接してくれていた。私にはそれが、彼にはきっと想像もつかないほど喜ばしいことだった。だから、この間柄を名づけるものとしての友人という響きは、清々しく美しいものであるように思われた。
「そんなことを言う前から、私たちは友人同士だわ」
「やっぱりお優しい方だ。かれこれ三十年は生きてきましたが、あなたのように気品のある友人を持ったのは初めてですよ」
「たったの三十年を、随分長いことのように言うのね」
「実際、長いもんです。僕はこの屋敷に、人生の最終形態を見てますから」
その物言いに悲観的なところは一つもなかった。ハンスは、実際にそうではないにせよ、この屋敷に生まれたようなものなのであり、植物が根を生やした場所で枯れていくのと同様に、きっとこの屋敷を生涯の褥にするのだろう。その生き様は、否定されるべきものではない。けれど、また、輝いているとも限らぬ。
「三十なんて、きっとまだこれからよ。まさか、奥様を見つけることもしないつもりではないでしょう?」
「ところがどっこい、そのまさかですよ。どこに出かけるわけでもないので、嫁としてこの胸の中に飛び込んできてくれる女性を探すこともありません。まあ、屋敷に閉じこもってると言うと聞こえは悪いですが、そういう生活にも、僕は満足してるのでね」
ハンスは本心からそう言っているようであった。私は少し考えた。彼はとてもいい人間である。彼の満悦や不満はさておいても、もう少し報われてもいいではないか。
「アンナは素敵な人よ」
「確かにね。だけど、あいつはきっと僕を早死にさせます。いや、しかし、僕なんかのことはいいんです。問題は、旦那様ですよ。早いところ身を固めないと、先に意固地になっちまって、僕みたいなのとひっそり寂しく生きていくことになるんじゃないかってね」
そう言って、彼は私に意味深な目配せを送ってきた。その意味するところがわからないと言うのは、いくら何でも馬鹿馬鹿しいことである。それでも、私は知らないふりをすることにして、適切に微笑んでおいた。そうすれば、顔が赤らんだことも誤魔化せると思っているかのように。
「ね、やはり、世話を焼くには、あなたは年若いのではなくて?」
「何、僕はあなたより一回りほど歳が上なだけですがね、この屋敷じゃ、厩番のボーの次に年長者なんですよ。ボーは僕の二倍くらい生きちゃいますが。そりゃ、旦那様を心配する側に回りますとも」
「あなたはここではおかしいくらい人間らしいのね」
「誉め言葉だといいんですが。――おや、戻ってきましたよ」
ハンスの言う通り、ここでちょうどユーリとアンナが階段の上に姿を現した。ユーリの変化は些細であったかもしれないが、しかし確かに彼は見違えた。アンナの手によって、その伸ばしたままの髪は品良く結わえられ、身なりは絢爛と麗しい。普段の質素さは、今夜は置いていく必要があった。それは彼を落ち着かせないようであったけれど、アンナは見るからにその出来に満足していた。ユーリはすでにどこか疲れたような顔をして、私の前までやってきた。
「お待たせして申し訳ありません。上でアンナに懇々と道理を説かれていました」
「普段しっかりしていらっしゃる分、このように突然驚かされては心臓に悪いと申し上げただけでございます」
つんとしてアンナが言うと、ユーリは呆れたような、しかし親しみ深い目線を彼女に投げた。ハンスのよく通る笑い声が玄関に響く。
「張り合うのは程々にして、早いところ出発してはいかがです?リタさんが待ちぼうけですよ」
「ああ、そうだな。――リタ、行きましょうか。まだ私に愛想を尽かしていないのであれば」
ユーリは私に腕を差し出した。この人に愛想を尽かすなどということは、これまで考えたこともなかったけれど、何だかそれも悪くないような気がした。ともあれ、私は何一つとして気を悪くしていなかったので、当然彼の腕を取った。
「もう少しのところでしたわ」
そう一言添えると、ユーリは凝り固まった頬を少し緩めた。その少し不格好な表情は、私を安堵させた。
御者の役割を厩番が担い、私たちは早速出発した。馬車の外装は慎ましく、内装は豪華であった。揺れを気にせずに熟睡できそうなほどには。窓は小さく、帳までかかっているので、内部は完全なる密室という感が強い。ユーリは帳を開けて外を眺めてもいいと言ってくれたけれど、私は何ということもなく遠慮した。
黙って馬車に揺られているうちに、私はユーリに衣装の礼をはっきり伝えていなかったことを思い出した。私はユーリの様子を窺った。彼はどこを見るというわけでもなく、何か考え事をしているようであった。しかし、きっと、声をかけてはいけないなどということはなかろう。
「衣装のこと、まだお礼を言っておりませんでしたわね。用意してくださってありがとうございます。とっても素敵ですわ」
私が言うと、ユーリはさっと目を上げて、小さく頷いた。
「気に入ってもらえたのなら良かった。相談もなしに取り寄せたのは、失敗だったのではないかと思っていたのです」
「まあ、とんでもない。見ているだけでも心が弾みますわ」
少し大袈裟にものを言っている自覚はあった。実際には、何とはなしに心が沈むのだから、少し大袈裟というのも間違っているだろうか。けれど、それはわざわざ口にするまでもないことなのであり、またこの嘘も、何一つとして罪のないものなのであった。そのことを証明するように、ユーリは優しく目を細めた。
「それはあなたに差し上げますよ。私が持っていても仕方がない」
「えっ?けれど……」
「何かの縁の名残だと思って、どうかあなたが持っていてください。私の目につかないところでなら、捨ててくださっても構いませんが」
「その……そのようなこと、いたしませんわ」
私は思わず目を逸らしながら答えた。私は激しく動揺したのだ――そもそも、貰う貰わないなどということを、私は考えていなかった。人も物も、屋敷にあるものはすべてゲルトガ邸に属している。だから、ユーリからの贈り物であるこの衣装も、間違いなく屋敷のものだ。もし、私が屋敷に内包されるなら、衣装が誰のものであるかなど、考える必要はないはずである。だが、私は外の人間なのだった。その事実は、どうしても覆せないのだ。
また、ユーリの言葉は、終わりの宣告でさえあった。いずれ、私は身体的にも屋敷の外に出ていくことになるという、変わらぬ未来の確認。きっと、そのときは私の記憶が戻るか、私が偶然知古を見つけるか、何かしら良い兆しがあったときであろう。私はその瞬間に、ゲルトガ邸を去ることを名残惜しく思うだろうか。それとも、何か理由あって、屋敷自体を蔑むのだろうか。屋敷にやってきたときの私と、去るときの私は、同じ人間でいられるのだろうか。
「リタ、一つ頼みがあるのですが」
ユーリの声で、私は不信の影を慌てて追い払った。彼は私が眉間に皺を寄せていたことになど、まるで気付いていないようであった。あるいは、気付いていても、見ないふりをしているのか。
「ええ、何ですの?」
私は用心深く答えた。声がわずかに震えたのは、咳払いで誤魔化した。おそらく、ユーリは何も気にしてはいないだろうけれど。
「会場では、できるだけ人と口を利かないでほしいのです。彼らは、あなたが私の同伴者だということを目ざとく確かめるでしょう。ですが、私やあなた自身のことを尋ねられても、何も認めてはいけませんし、答えを与えてはいけません。そのことだけ約束していただけるなら、後は存分に舞踏会を楽しんでいただいて結構です」
なるほど、それだけのことか。私は奇妙な笑いが込み上げるのを我慢して、代わりに姿勢を軽く崩した。
「造作もないことですわ。けれど、お約束しないと私が言ったら、どうなりますの?」
「それなら、私は一晩中あなたを監視していなければならないでしょう」
彼の返しに私は微笑もうとした。けれど、何となく察したところでは、ユーリは冗談のつもりではないようであった。結果、私は曖昧な表情を不用心に浮かべることとなった。
「それも悪くはありませんけれど。ともあれ、お約束いたしますわ」
いらぬ焦りに誑かされ、私は我ながらおかしなことを口走った。気恥ずかしさに、なおのこと顔が引きつる。しかし、ユーリは慣れ親しんだ無表情で私を迎撃し、それから頷いた。彼がそうするまでに間があったのは、私の気のせいだろうか。妙な女だと思っているのなら、いっそそう言ってくれたらいいのに。彼が何であれ不躾なことを言わないのは、むず痒く、また残念でさえあった。私がアンナやハンスだったら、ユーリも踏み込んだ軽口を叩いたかもしれない。けれど、どうしても、そうはならないのだろう。
そう考え始めてからは、私は衣装に負けぬほど暗く冷めた色の不安に苛まれた。一歩間違えれば、涙が滲んでもおかしくはない心境に戸惑い、私はひたすら思考を空回りさせた。ユーリが何事か話しかけてきた内容さえ思い出せぬ。それでも、何とか立ち上がろうとする理性に加勢し、私は心を落ち着けるようと努めた。
深呼吸の甲斐もあってか、馬車が止まる頃には、私の心は静かな森の水面のように泰然としていた。御者が扉を開けるのを待つ間、私は帳をめくって外に目をやった。そして、静謐なる水面下を、興奮という大魚が泳ぐのを感じた。
その建物は実に壮麗であった。鷲を模した外壁の彫刻が、瞠目するほど美しい。私は雷に打たれたように、車窓から舞踏場に見入った。一体、内装はどうなっているだろう。豪華絢爛か、あるいは軽妙洒脱か。どちらでもおかしくなかった。私は建物の中の雰囲気と、行き交う色とりどりの踊り手たちの姿を想像した。私の楽しみにしていたものたちである。そう、私は仮面舞踏会のためにここにいるのだ。衣装が何色であろうと、相手が誰であろうと、何も気にすることはないではないか。
窓から顔を離すと、ユーリが私を見つめているのに気が付いた。その顔つきは、どこか子どもを見るかのように温かである。私は途端に面映ゆくなり、慌てて仮面を身に着けた。
「アンナのように私を見ますのね」
「そうでしょうか。しかし、アンナの気持ちならわかります。あなたは心置きなく過ごして然るべきだと、そう思ってしまう。どうぞ、舞踏会を楽しんでください」
「ええ、そうしますわ。けれど、ユーリ……」
私は思いつくままに言葉を繋ごうとしたのを、はっとして躊躇った。お前は赤の他人に過ぎないという考えが、喉元を通り抜けようとした願いの足を掴んで引き戻した。厚かましい、厚かましいと囁くのは誰の声なのか。
私が凍り付いて生み出した不自然な間は、御者が扉を開けて埋めてくれた。ユーリは先に馬車を下りた。彼の手を借りて地面に降り立つと、城と見紛うような舞踏場の影が私たちを覆った。私が改めて建物に目を奪われている間、ユーリは御者と頷き合い、私の知らない意味の合図を出していた。馬車が移動し始めると、ユーリは仮面を着けて私に向き直った。
「行きましょうか」
私は素直に返事をして、彼の腕を取った。かすかに聞こえる音楽が、私たちが入っていくのを今か今かと待ち構えているようだった。鼓動が早くなるのがわかって、私はユーリから手を離したくなった。そうしなければ、何もかもがこの手から伝わってしまうような気がした。
そのとき、ふとユーリが足を止めた。まさか、本当にこの馬鹿げた緊張が伝わったわけではあるまい。そう思いつつ、戸惑いながら見上げると、彼は私にじっと目を注いでいた。仮面のせいで表情はわからないけれど、良くも悪くも、わかる必要はなかった。私は彼が話し出すのを待った。
「……先ほどは、何を言いかけたのですか?」
ユーリは言った。私は咄嗟に目を逸らしたくなったけれど、お互いの仮面がそうさせてくれないように思われた。もう誤魔化しは効かないとわかっていながら、なおも私は尻込みした。けれど、舞踏会へと私を誘う旋律が私の背を支えていた。それは私の心の嫌な囁きを掻き消してくれた。
「その……きっと、私とも踊ってくださいますか?」
尋ねてから、私は目を伏せ、すぐにまた視線を戻した。ユーリの瞳が閃き、私は彼が目を見開いたのだとわかった。ユーリはふと俯き、小さく咳払いをした――かと思うと、彼は肩を震わせ、小さく笑い声を上げ始めた。私は彼が笑っていることに拍子抜けしつつ、一体何に対して笑っているのかと困惑した。彼はすぐに笑いを収めた。
「いえ、すみません。笑うつもりはなかったのですが」
と、普段よりいくらか楽しげな声で言う。
「そのように不安げに尋ねる必要など、少しもないのですよ。こちらから誘いをかけておいて、あなたを放っておくということもありません」
彼の言うことはもっともで、私は自分が血迷っていたかのように思えてならなかった。またも、私は勝手に混乱し、勝手に我が身を嘆いていたというわけである。まだそこに馬車が止まっていたら、きっと私はそこに飛び込んでいたに違いない。
「おかしなことを聞いてしまったかしら?」
「それも、偏に私の態度があなたを困らせているせいでしょう。ですが、時折表れるその大袈裟なところが、あなたを可愛らしくも見せている。――では、今度こそ行きましょう。私の一曲目は、あなたのものですよ」
そう言ったユーリの仮面の奥にある瞳は、孕んだ光をさっと掻き消した。彼は今、目を細めて、彼なりに微笑んでいるのだった。私は最早、彼から手を離したいとは思わなかった。むしろ、彼の腕に触れていても、その鼓動を知ることができないことが残念でさえあった。
私たちは建物の中へと入っていった。花咲き乱れるような色彩の衣装と、無機質な仮面で埋め尽くされた隙間を、管弦楽の音色が縫うように泳いでいる。会場は十分すぎるほど広かったけれど、私の想像をゆうに超えた数の客人がいたので、空疎といった感はない。数名いる、仮面をつけていない人々は、護衛官の類だろうか。
ちょうど、今流れている曲は終わりに差し掛かっていた。私は足よりも早く心が躍り出すのを感じた。私は強く舞踏というものを愛しているようであった。ユーリの顔を覗き見ると、彼はまっすぐに、遠くにいる誰かを見つめていた。この広い会場では、誰が誰を見ているかなど、とても特定できないけれど。
音楽が途切れると、ユーリは私に向き直り、しっかりと手を取って、私を舞踏場の中央へ連れ出した。向き合って立ったとき、私は彼の眼差しがこの身だけに注がれていることを強烈に意識した。胸の高鳴りが耳を支配し、手が微かに震える。これほど緊張するようなことではないのに。
私は危うく、曲の踊り出しに出遅れるところであった。けれど、足は驚くほど自然に動いた。張り詰めた力は音に乗せられて消えていった。私とユーリは幾度もそうしたことがあるかのように、一体となって踊った。彼の相手をする心地は安らかであり、眠っていても踊っていられるのではないかと錯覚するほどであった。とはいえ、私は恍惚とするあまり、足の運びを間違えた。けれど、ユーリはいとも容易く私に動きを合わせてみせた。おかげで、一心同体の感はなおも強まった。
その一曲はあまりにも早く終わった。私は何曲でもユーリと踊っていたかった。一度中央からはけて、舞踏場の隅に立ったとき、私たちはほんの一時見つめ合った。私は彼の仮面を取りたかった。仮面を取ってしまって、その読めない表情を読み解きたかった。彼が私と同じように昂揚しているか、それだけでも知りたかった。
けれど、そうするわけにもいかず、私は匿名の人間になろうとするユーリを見送るほかなかった。彼は去りゆく前、繋いでいた私の手を一瞬だけ強く握った。その意味など、わかるはずもない。私は途端に帰りたくなった。屋敷でなら、彼の背中が遠ざかっていくところなど、見ないで済む。
気を紛らわせようと、私は誘われるままに、代わるがわる踊った。相手には、何とか自分を身分のいい人間に見せようとしている民もいれば、異性装で非日常の楽しみに興じる人もいたし、極々真面目に舞踏に勤しむ者もいた。誰と向き合っていても、踊ることそれ自体は楽しいものであった。けれど、とても身を委ねられる相手はいなかった。
そうして立て続けに踊るのは、さすがに私を疲れさせた。私は人の少ないところへ逃げた。落ち着いてから、辺りを見回してみたけれど、ユーリがどこにいるのかはわからなかった。彼は何人の女性と踊ったのだろう。そのようなことを考えるのは不毛であった。しかし、やめようにもやめられなかった。そのとき、私は背後に気配を感じた。
「ゲルトガ辺境伯のお連れ様でしょう?」
それは女性の声だった。私は振り返ろうとしたけれど、馬車でのユーリとの約束を思い出し、声に気付かないふりをすることにした。しかし、声の主は、私が気付いていると知っていた。
「当てて差し上げましょうか?領内の麓の村からいらしったのでしょう?それにしては、随分踊りがお上手ですこと」
その人が、あまり耳元で甲高い声を上げるものだから、私は堪らず彼女のほうを向いた。やはり、仮面で顔はわからぬ。これでは、どちらを見ていても同じことであった。
「ご機嫌よう」
私は一言、そう返した。何を聞かれても、肯定も否定もしてはいけないからである。その女性は赤く綺麗な形の唇の両端を持ち上げた。
「ええ、ご機嫌よう。それで?」
「それで?」
「あの方とはよくお会いになるのかしら?」
「どなた?」
「おわかりでしょうに!」
彼女が酷く強気なので、私はそろそろ言い逃れできないのではないかと思い始めた。けれど、私はどうしても、ユーリを裏切るようなことは――何がいけないのかわからないとはいえ――したくなかった。そこで、私は苦し紛れに言った。
「踊りませんこと?」
すると、彼女の微笑みは掻き消え、驚き呆れた表情がその口元に表れた。
「私が?あなたと?」
「いけませんの?私の踊りがお気に召したのかと思いましたわ。けれど、踊ってくださらないなら、他の方と踊りましょう」
と、私は彼女の元を離れて、偶然通りがかった男の人に目を合わせた。その男性は私からの暗黙の誘いを受けてくれた。そうして、私はおかしな詮索から逃れることができたけれど、またあの手合いに突かれるのが嫌で、結局踊り通しになってしまった。そうこうしているうちに、軽やかだった音楽はやや緩慢になり、私の足も重さを増していった。
そう、そろそろ、舞踏場全体にそれとない倦怠感が生まれてくる頃合いだった。私はそっと柱の陰に身を潜めた。踊り回る人々をぼんやりと眺めていると、疲れに蝕まれているせいか、またこの場所を去ってしまいたい衝動がぶり返してきた。
ユーリはどこへ行ってしまったのか。私は目を凝らして彼を探した。しばらく見ていると、それらしい人影が見えた。否、あれはユーリでは――否、彼である。彼はあちこちに視線を彷徨わせているようであった。呼びに行くのもおかしいので、私はじっと柱の横に立っていた。ふと、彼は柱に目を向けた。そして、私を見つけた。彼はこちらに歩いてきた。ああ、やはり、私を探していたのだ。ユーリは私の横に、何でもないふりをして立ち止まった。
「すみませんが、先に屋敷に戻っていてくれませんか?」
彼は低い声で言った。私は正面を見据えたまま、できるだけ小さな声で答えた。
「あなたはどうしますの?」
「少し、片付けなければならないことが。もちろん、いたいと思うだけここにいてくださって構いません」
「いえ、もう十分ですわ。けれど、本当に私だけで帰りますの?」
「夜中まであなたを待たせたくはありませんから。馬車は道の先に停まっているはずです」
そう言うと、彼はさっと私から離れていってしまった。また、と言うべきであろうか。しかし、駄々をこねても仕方がない。それに、私は実際、今すぐにでも帰りたかった。そう、素直に帰るべきなのである。引き留めたい人の姿は、すでに見失ってしまったのだし。
私は人々の間を抜け、無心で会場から出た。背後で扉が閉まった瞬間、外気の冷たさが身に染みた。私は仮面を外すのも忘れて、馬車の群れの横をおもむろに歩いた。街灯の下に、ユーリの馬車があるのが見えた。御者のボーの姿はない。車内にでも入っているのだろうか。
とにかく、早く帰ってしまおうと、私はくたびれた足を速めた。が、そのときであった。暗く、静かな通りに、よく澄んだ声が響いたのは。
「リタ!」
それは、間違いなくユーリの深い声ではなかった。だから、私は振り向くべきではなかった。だのに、私は呼ばれた名前に反応してしまった。私の名を知る人がいるはずがないことを忘れて、振り返ったのだった。
読了感謝
土下座はしません




