いつとも知れぬあの頃に
遠乗りから二日が経過した。私はまだ、あの男が見せた薔薇の紋様の正体を掴めていない。調べられるところは限られていた。図書室には、アスターシャに関わる書物はほとんどなかった。あの男がアスターシャから来たという保証はないけれど。
そこで、私はここ最近で少し親しくなった料理人のハンスに、何か知っていることはないかと尋ねた。しかし、彼は何も知らなかった。どこぞの花屋の印ではないか、と彼は言った。調子が悪ければ、私は卒倒くらいしていただろう。私はすこぶる元気だったので、ため息の代わりにお礼を吐き出し、立ち去った。ハンスは上機嫌に夕食の仕込みを再開した。
何故、いの一番にアンナに質問をしなかったのかと言えば、彼女がユーリにそのことを話すかもしれないと思ったからである。実際、彼女は私が外出したがっているということを、善意か悪意か――おそらく、どちらでもないが――いつの間にか彼に伝えていた。そのおかげで意義深い時間を過ごせたとはいえ、話がすべて筒抜けであるという可能性は、何となく私に彼女と語り合うのを躊躇わせた。というのは、私が女同士の秘密というものを信じているからであり、大した内容でなくても、秘匿性が保たれることに意味を見出しているからである。
けれど、何だかだ言っても、私は結局好奇心に屈した。他に尋ねることのできる相手も、調べる方法もなかった。これだけ広い屋敷なのに、私の世界のなんて狭いこと。そう自嘲しながらも、私は居間の隅で編み物をするアンナにそっと近寄った。
「あなたに聞きたいことがあるの、アンナ」
「はい、何なりと、リタ様」
彼女はわざわざ編む手を休め、親切そうな顔を上げた。その微笑を見るだけで、秘匿性が何であるとか、そういう小さなことを気にしていた自分が馬鹿らしくなった。
「薔薇の紋様を携えた方を知らないかしら?」
「まあ、謎々でございますか?」
「違うのよ」
私は詳細を話したものかと頭を悩ませた。遠乗りしたときの出来事だと言えば、アンナはきっとユーリに私のささやかな質問のことを報告するだろうと思われた。私はこうして嗅ぎ回っていることを彼に知られたくなかったのだ。また愚かな妄想力に自ら振り回されているのだと、教えるようなものではないか。彼がそのようには考えないであろうことはわかっていたけれど、とにかく、私の行動を好ましくは捉えないはずである。
「ユーリにこの話はしないと、約束してくださる?」
「もちろんですわ、リタ様。何でもかんでも旦那様にお話ししなければならないということも、私にはございませんから」
アンナはにこやかに答えた。私は少し疑り深い気持ちになった。
「けれど、外出をねだった件は話したのでしょう?」
「ああ、そのことでございましたか!あれは、何かあなた様に息抜きをと思い、旦那様にお言葉添えをしたに過ぎません。お節介だったやもしれませんが……」
「いいえ!やめてちょうだい、私、とっても嬉しかったのだから。あなたのことをお節介だとか、悪いように思ったことはないの。本当よ」
それは本音であった。私はむしろ、アンナが私を快く思わなくなるのではないかと考えて、愚かなことを言ったと後悔し始めていた。どうしてこうも軽率なのだろう。私は肌馴染みのいい悔恨に身を包み、嫌な汗を誤魔化そうとしたけれど、その汗が出るのは、間違いなく身に纏っている念のせいなのであった。
私が目を泳がせているのに気付くと、アンナは悪戯っぽく驚いたような顔をして、私を宥める手に出た。
「まあ、リタ様!そんな顔をなさらないでくださいまし。それで、薔薇の紋様とは、何のことでございますか?」
私は呼吸を整え、何とか後ろめたい気持ちを脱ぎ捨てた。それから、馬を盗んでいった狼藉者と、彼が覗かせた剣のことを簡単に話した。私の忙しない説明を聞き終えても、アンナはあからさまな反応は見せなかった。私はまたも収穫がないものと肩を落とした。
「諦めるしかないかしら……」
「……いえ、実は心当たりが」
「まあ、本当?」
「ですが、大したことはわかりかねますの。そも、本当に薔薇に関係があったかどうか……ですが確か、アスターシャの騎士団に、薔薇か何かに纏わる話がございました」
アンナは確信がない様子で、思い出そうとするように部屋の隅をじっと睨んだ。けれど、特に話が詳らかになることはなかった。しかし、騎士団に関係があるかもしれないとわかったのは、これまでのことを考えれば大きな進歩である。それに、紋様があったのは剣の刀身だった。振舞に目を瞑れば、あの男が騎士であっても不思議ではない。
「騎士団……では、あの者は騎士だったのかしら?」
「そうやもしれません。ですが、誰であったにせよ、あなた様や旦那様にお怪我がなかったのは、まったくの幸運でございます」
と、アンナは物憂げに私の顔を見つめた。不運が起きていたら、と想像を巡らせ、私は勝手に身をすくませた。血の気が引くような感覚に、私は両手を擦った。
「あなたもそう思う?」
「ええ、率直に申し上げれば。アスターシャのような野蛮な国の人間が、旦那様の領地に踏み入ったと思うと、どうにも気が滅入ります」
「そんなに酷いの?」
「リタ様のお耳には、とても入れられません。少し前までは、高潔な国でございましたのに」
そう言って、アンナはほとんどわからぬほど小さくため息をついた。おそらく、少し前まで高潔で、今は野蛮な国からやってきた私は身震いした。王族の首が落ちるのを、祭事のように喜ぶ民の姿が目の裏に浮かぶようだった。抽象的な色を想像するだけで怖気が走った。きっと、もっと恐ろしい光景だったに違いない。そして、私は人々と同じように歓喜したのかもしれない。
「記憶を取り戻した私が野蛮人だったら、あなたは私が嫌になるわ、きっと」
「何をおっしゃいます、リタ様!あなた様は善良な方ですわ。その美しいお心が、目に見えるようですもの」
ユーリも似たようなことを私に言った。けれど、人の顔を見てその内面がわかるのなら、どうして人が争おうか。どうして誰かを恐れようか。鏡を見るだけで済むのなら、記憶なぞ失くしても恐れることなどなかったのに。
私はまた考えもせずに厄介なことを言いかけたけれど、その前に、玄関の叩き金が打ち鳴らされた。その音でアンナはさっと立ち上がると、私に一言断り、訪問者を出迎えにいってしまった。私もすぐに部屋を出て、できるだけ急いで階段に向かった。踵を鳴らさぬように踊り場まで上がり、そこで止まって、手摺から下の様子を窺った。
アンナの声は低く柔らかいので、耳を澄ませても、誰が何のためにやってきたのかはわからなかった。しかし、彼女は来客を通すのを少し渋ったようだった。想定外の訪問に違いない。私は物見高さで、ほんの数段だけ階段を下り、何か聞こえないかとじっとしていた。何故こうも気にかけたのかと言えば、屋敷の叩き金が鳴るのを、私はまだ聞いたことがなかったからである。
扉の閉まる音はせず、くぐもった問答が辛うじて聞こえる時間が続いた。私は顔を覗かせてみようかと思ったけれど、見つかるのは御免だったので、大人しくしていた。すると、ようやく扉が閉まった。客人は帰っていったのだろうか、と、私が一段下に踏み出そうとしたとき、大きな物音がした。私は踵を返し、踊り場に戻った。アンナがあのような音を立てるはずがない。彼女は客を通したのだ。
私は何気ない顔をして踊り場を行ったり来たりしていた。それから、客間らしい扉の開閉の音がしたのを確かめてから、階段を下りていった。廊下にはアンナの背中が見えた。私があれだけ静かに階下に戻ってきたというのに、アンナは当然のようにこちらを振り返った。
「隠れていらっしゃらずとも、ようございますのに」
「お客様なんて、珍しいわ」
「本当に。このような形でいらっしゃるとは思いませんでした」
「どなたなの?」
「南のデーングリーズ伯爵でございます。旦那様も、出ていらっしゃらないわけにはゆかないでしょう」
アンナは少々困っているようであった。突然の訪問のせいでもあるだろうが、もう一つの理由も私にはわかる気がした。確か、この時間、ユーリは書斎にいるはずである。そして、書斎にいるときの彼は、何も耳に入らないのではないかと思うほどの様子で、身じろぎもしないのが常なのだ。私はあまり書斎に入らないけれど、用向きが片付かないまま、アンナが部屋から出てくるところなら、何度か見たことがあった。
「けれど、今のユーリは話しかけられても気付かないのではなくて?」
「気付かないのではなくて、私の言うことは気にする必要はないと考えておいでなのです。リタ様、よろしければ、旦那様をお呼びしてきてくださいますか?旦那様も、あなたの言うことにならきっと耳を貸してくださいますから」
そうかしら。逆らう理由はなかったので、ひとまず私は諾って、二階に上がった。書斎の扉を叩いたけれど、案の定返事はなかった。私はアンナがいつもするようなやり方を真似て、静かに部屋の中に滑り込んだ。ユーリは机に書物を広げ、退屈そうに指を頁の上に滑らせていた。いかにも集中しているかのような動きだが、むしろ彼は上の空であるように見えた。だからか、彼はすぐに顔を上げた。
「あなたでしたか。アンナのように入ってくるのですね」
「真似事は得意ですの。お客様だそうですわ」
私が言うと、ユーリはほんの一瞬眉をひそめた。彼は本を無造作に閉じ、ゆったりと椅子にもたれた。
「来客の予定はなかったのですが。どなたか聞きましたか?」
「デーングリーズ伯爵なる方ですわ。仲のよろしい方ですの?」
「私に仲のいい相手は多くありません。彼をそのうちの一人に数えるのは、失礼というものでしょうね」
そう言って、ユーリは気乗りしない様子で腰を上げた。彼が机を回ってくる間に、私は置かれたままの本の表紙に目を落とした。古びていて、題目も擦れて読めなくなっていた。帳簿だろうか。
「気になりますか」
私の目線に気付いたユーリが言った。私はばつが悪くなって目を逸らした。
「いえ……ごめんなさい」
「そうしたければ、中を読んでも構いませんよ。眠気が来る程度には面白いですから」
私が笑うと、ユーリは彼なりのやり方で微笑を返した。私たちは連れ立って部屋を出た。客間についていくわけにもいかないので、階段のところで彼とは別れた。
さて、どうしたものか。部屋に戻って大人しくしているべきなのだろうけれど、このところ調べものばかりしていたから、何もせずにいるのも落ち着かない気がした。そこで、私はこっそりと書斎に戻った。机に置かれたままにされている分厚い書物に手を伸ばす。何も疚しく思うことはない。ユーリが許したのだから。冗談だったのかもしれないけれど。
思いきって表紙をめくると、それは誰かの日記だとわかった。ユーリではないことは確かだった。彼が老いぬ吸血鬼か何かでない限り、ここまで古びた日記を抱えているはずがない。私は少々読みづらい字で書かれた最初の数行に目を通した。
『二月十日
快晴の空に似つかわしくないことが起きた。陛下が崩御なさった!若々しく壮健でいらっしゃったあのお方が、病に膝を突かされようとは、一体誰が想像できたことだろう?悪いことに、あのお方には世継ぎがおらなんだ。今に争いが始まろう。どこか遠くに、血縁者がいらっしゃればいいのだが!』
確か、争いの火種となった王位継承権が宙吊りになったのは、ユーリの祖父君の時代だと聞いた。つまり、これは二代前のゲルトガ辺境伯の日記だというわけである。私は興味をそそられ、続きを追った。
『二月十三日
素晴らしい知らせが届いた!アスターシャに、陛下のご親戚がいらっしゃるとわかったのだ!その血の繋がりは、これ以上ということはないほど遠いようだが、この際気にするまい。今のところは、フィリップ殿が混乱を抑えてくださっている。すぐにでも発ち、ご親戚のお迎えにあがろう』
『二月十八日
まずい事態になった。ご親戚の元に辿り着いてみれば、そのお方はすでに雲隠れした後であったのだ!先んじて書簡を出したはずだが、それは受け取っていただけたのだろうか?受け取った上で、逃げてしまわれたとでもいうのか?もう少し追ってみるつもりだが、もし他に継承権のある者が見つからなければ、一体我がゴートルーはどうなるのだ?』
『二月二十五日
何たることだ!恐ろしいことがわかった!陛下のご親戚が行方を眩ませたのは、まさに我が国の人間の仕業だったのだ!それが誰なのか、今はまだ判然としない。だが、私は東のマウアス侯を疑っている。彼は権力を狙っていることを隠そうともしていないではないか。根回しをしていてもおかしくはない。調べてみなければなるまい』
そこで私は一息ついた。見たところ、崩御から数日のうちに水面下の争いが始まったらしい。きっと、ゴートルーの八貴族は、今か今かと権力の座に就く機会を窺っていたに違いない。しかし、その点、ユーリの祖父君は争いを望んでいないようである。私は、祖父君がユーリと同じような穏やかな気質の方であったのだろうと想像した。
いやはや、ユーリは退屈だと言っていたけれど、私はこの日記の内容を心底楽しんでいた。遠い昔、遠い場所の話のようなこの出来事は、まるで寝る間も惜しんで頁をめくりたくなる御伽噺のように、私には思われた。実際は、ほんの数十年前にこの国で起きた、少々湿っぽく生々しい話なのだけれど。
私は黙々と日記を読み進めた。先々代のゲルトガ辺境伯は、かなり事細かに争いの動向を記録していた。彼の書き記したことを信じるならば、物事が決定的に動き出したのは、四月に入ってからのことのようだ。私は紙の間に閉じ込められた、陰鬱な湿気を嗅ぎ取れる気がした……
『四月五日
酷い天気だ。雨風の音が耳におぞましい。まるで、亡者の嘆きを聞いているようだ。
陛下の崩御からふた月が経とうとしている。いまだ、王座に座るべき者は一人としておらず、国内は日増しに殺伐としていくようだ。八貴族の睨み合いは激化してはいない。が、手袋をしないことには、とても手を取り合ってはゆけぬだろう。我々のうちの少なくとも半数の手は、見えない赤に染まっているのだ。
だというに、昨日、フィリップ殿は八貴族を招聘した。その彼が提案したことと言ったら!一体どうして、我々八貴族の中から国王を選び出そうと言うのか?民の混乱を鎮めることもせず、泥水を掛け合って時間を弄しようと言うのか?
だが、私は知っている!すべてはフィリップ殿の策謀なのだ!早くも、マウアス侯はN――伯を騙し、社会の笑い種にしたそうではないか。おかげで、彼は屋敷から一歩も外に出られないだろうという噂まで立っている。今に、そこここで蜘蛛の糸が張り巡らされるぞ!かかれば最後、地に足をつけられなくなった獲物は、己が貪られていくのを黙ってみているしかない。N――伯のことは実に嘆かわしいが、明日は我が身である。私は私の愛するものを守らねば』
私は長いため息と共に顔を上げた。おかしな高揚感に包まれていた。私は争いの不穏な影を熱心に追っていたし、ユーリの祖父君の書きぶりが好きだった。これが現実に起きたことではなかったなら、もう少し気兼ねなく楽しめたのに。
しかし、フィリップとは、一体何者なのだろうか。もちろん、八貴族のうちの一人だったことは間違いない。祖父君とも、疎遠ではなかったようである。だが、いつの間にその信頼は薄れていったらしい。その心変わりの理由を、書き手はまだ記していなかった。そのうちにわかるといいのだけれど。
私が気を取り直して頁を進めようと思ったとき、書斎の扉が開いた。見ると、ユーリが疲れた顔をして立っている。彼は私に気付くと、不機嫌をさっと隠してこちらに歩み寄ってきた。
「気に入ったのですか?」
と、目で日記を示しながら尋ねる。私は椅子から立ち上がった。
「ええ、とっても。私、これだけで夜を明かせますわ」
「まあ、史料的価値はあるでしょうが……」
ユーリは鬱々と答えた。私は無神経な微笑を咄嗟に引っ込めた。一家の積み上げた敷居に土足で踏み込み、あろうことかそこで小躍りしているところを、何とはなしに咎められたような気がした。
「お爺様に関わると思うと、きっと気持ちの良い話ではありませんわね。ところで、お客様は……その、いかがでしたの?」
我ながらおかしな質問だった。話題を逸らそうとしたことが見え透いていて、なおのこと気恥ずかしい。私が気まずさのまま、いそいそと机に沿って部屋の中央に出てくるのを、ユーリは何故かじっと見守っていた。私が扉の前の、相応しいと思える場所に立ち止まったとき、彼はぼんやりとした顔をして髪を掻き上げた。
ああ、質問が聞こえなかったのか、あるいは、答えたくないことを私が聞いてしまったのか。私はまさに立ち往生した。できることなら、今すぐに廊下に飛び出したかった。けれど、ユーリが何か言いたげな顔をしていて、私は動き出すことができなかった。
「ユーリ?」
私はできるだけ小さな声で呼びかけた。すると、彼は夢から覚めたような顔をして、動揺したように一歩後退った。その様子にぎょっとして、私も足を半歩引いた。私たちは唖然として見つめ合った。何かとんでもないことを言ってしまっていたのではないかと、私は己の鼓動が速まるのを感じた。一年ほども経ったかと思われる数秒の沈黙の後、ユーリはようやく軽い咳払いをした。
「すみません。考え事をしていたもので」
「いえ……こちらこそ、お邪魔ばかりしていますわね。失礼いたしますわ、私」
私は膝折礼をして、急いで扉に身体を向けた。取っ手を掴んだとき、私は肘にユーリの指先が触れるのを感じた。
「リタ、あなたに話があるのですが」
「何ですの?」
私は思いがけず、猛然と振り返った。そうでもしなければ、許しを請う間もなく屋敷を叩き出されるとでも考えているかのように。ユーリは私の勢いに気圧されたように見えた。彼は注意深く私の顔を眺め、私の神経がそこまで昂っていないのを確かめてから、注意深く口を開いた。
「もう一度、私と出かける気はありますか?」
そう聞いて、私はいつの間に力が入っていた肩を休めた。彼のほうから誘いをかけてくれたことに、自然と頬まで緩んだ。
「もちろん、ございますことよ。また遠乗りに連れ出してくださるの?」
「ええ、遠乗りにも。ですが、今回はそのことではないのです」
ユーリはどこかきまり悪そうに言い、私の目を覗いた。彼は何かしら相槌を打ってほしかったのかもしれないけれど、私は何となく不安になって、彼が話を再開するのをじっと待った。彼は気が進まぬ様子であった。
「……あなたは客人のことを尋ねましたね。実は、彼の用件というのは、私が一度断った仮面舞踏会の招待に応じるよう、確かに念押しすることだったのです。どうやら、偶然近くに立ち寄ったついでのようですが」
「まあ、舞踏会ですの?素敵ですわ」
私は胸の奥がふっと浮くようにときめいた。もちろん、仮面舞踏会という語の放つ神秘めいた響きに心を奪われたのもある。けれど、本当に私を強く揺さぶったのは、その先に来るはずの言葉がかなりの確度で予想できてしまったからだ。自分でも呆れるほど身勝手な期待だったが、それは見事に的中した。
「それが本音ならいいのですが。……リタ、私に同行してくれませんか?」
「喜んでお相手いたしますわ。けれど、私でよろしいの?」
「むしろ、あなたがいてくれて良かったほどです。普段ならば、出向くにしても一人で行くのですが、今回ばかりはそういうわけにはいかないようですから」
「あら、どうして?」
「デーングリーズ伯が直々に、同伴者と共に招待に応じるように言ったのです。あれは警告であり、制約でもあります。大人しく従うのが最も安泰でしょう」
私はその意味を掴みかねた。けれど、ユーリは私の当惑に気付かない様子で、淡々と続けた。
「そういうわけで、あなたに付き合っていただく他ないのです。舞踏会が開かれるのは来週の末だということですから、お忘れなきように。衣装などは、アンナに準備させましょう」
私は恭順に頷いた。彼が何を考えているかわからないなど、今に始まったことではない。それに、戸惑い以上に、新たな約束に湧き出てきた興奮を味わうほうが、ずっと気分が良かった。
ユーリは生真面目に頷き返すと、机に半分ほど身体を向け、目についたのか、あの日記を指先で撫でた。私はその中に紡がれた物語の続きを読みたいという、静かだが忙しない疼きを思い出していた。この好奇心というものを、彼は嫌悪するだろうか。否、しないだろう。私にはそれがわかっていた。
彼は他の人々とは違う。私には誰ともわからぬ他の人々と、私がかなり知るところとなったユーリとが、同じであると考える根拠はない。この悩める紳士の胸の奥で、熱を持った心臓が鼓動していることを、私は知っているのではなかったか。だから、何も問題はない。彼に対して怯えるなど、冷静に考えれば馬鹿げている。私は己の欲求を曝け出すことを自ら許可した。
「ね、ユーリ。よろしければ、その日記を私に貸し出してくださいませんこと?」
ユーリは愚鈍に顔を上げた。表紙の上に置いていた指先を軽く弾ませ、いつも緊張している顔を緩ませる。
「あなたは余程これを気に入ったようだ」
「そうなんですの。もちろん、無理にとは――」
「いえ、構いませんよ。次に出かけるときまで、何とかこれで凌げるといいのですが。他に楽しみもない屋敷です」
彼は私に日記を手渡した。そのずっしりとした重みを両手に感じ、私はそれを喜びと知った。私は彼に丁寧にお礼を言って、書斎を出た。すると、突然世界が彩られたような感覚に陥った。元々色がなかったなどと言うつもりはないけれど、全身を駆け巡る昂揚は、幾許か強烈にあらゆるものを映し出し始めた。
私は日記が与えてくれる、戦慄さえ起こす刺激的な遠望を心待ちにし、まだ見ぬデーングリーズ邸の絢爛たる様相に恋焦がれた。このたった二つだけのことが、すっかり私を満たしてくれた。欣喜雀躍とはまさにこのことであり、弾みそうになる足取りを何とか抑えようとする私は、薔薇の紋様のことなど、すっかり忘れてしまったのだった。
私は気に入りの客間で日記を読もうと思い、階下に下りていった。すると、廊下に、ちょうど片づけを終えたらしいアンナの姿があった。私は彼女がきっと編み物に戻るのだろうと思い、階段を下りきる前からアンナに声をかけた。彼女はのんびりと振り返った。
「そう急いで階段を下りては、お怪我をなさいますよ」
私はほんの少し面映ゆくなって、足取りを緩めた。私が近づいていくと、アンナは私が胸に抱えた本に気付き、目を細めた。
「今度は何という本でございますか?」
「これは日記よ。ユーリが貸してくれたの。彼のお爺様のものなんですって」
私の答えに、アンナはどこか驚いたようであった。その表情は珍しく、また若い女性らしい可愛らしさがあった。けれど、彼女はすぐに鉄壁の侍女に戻ってしまった。
「まあ、そうでございましたか!お紅茶を用意いたしましょうか?」
「嬉しいけれど、お片付けをしたばかりなのではないの?大変でしょう」
「それが私の仕事でございますから。では、お待ちくださいまし。客間にいらっしゃいますか?」
私が諾うと、アンナは嫌な顔一つせずに厨房へ向かった。私は客間に入っていって、一度は長椅子に腰を下ろした。けれど、ふと思い立ち、日記を傍の机に置いて、アンナを追いかけた。戸口から覗いてみると、夕食を作るハンスと話しながら、手際良くお茶の支度を進める彼女の姿が見えた。彼らは驚くほど早く私に気付いた。
「あら、リタ様」
「おや、リタさん」
二人は同時に言って、さらに私を驚かせた。彼らは互いをからかうように目線を交わした。ハンスは作業に、アンナは私に向き直った。
「何かご入用でございますか?」
「お手伝いしようかと」
私が言うと、アンナは厄介な頼みでもされたかのように、困った微笑でかぶりを振った。
「何をおっしゃいます。お気になさらないでくださいまし」
「いいの。私はあなたの主人ではないことよ」
「はは、リタさんはお優しい」
ハンスは鍋に向けていた目を私たちに向けて言った。アンナはわざとらしく彼を睨む。
「お黙りなさいよ、ハンス。早く作ったらどうなの」
「あまり早く作っては、出す頃には化石になってしまうよ。いつから侍従長みたいに振舞うようになったんだ、アンナ?僕のほうが従者としては長いんだがな」
料理人はさして気を悪くしてはいないようで、むしろ、花を弄ぶ蝶さながら、言葉で器用にアンナの周りを飛び回っているのだった。アンナは毅然と花弁を逸らし、あえて気にならないふりをして鼻を鳴らした。
「ここでは私のほうが早いでしょう。――あら、いけない。旦那様がお越しになるわ」
私には、足音などは一つも聞こえなかったけれど、途端に二人は黙々と仕事に戻ってしまった。するとどうだろう、本当に廊下からユーリがやってくるではないか。彼は戸口に突っ立っている私を見て、怪訝そうに首を傾げた。
「そんなところで何を?」
「アンナに付き纏っておりますの」
「彼女を侮ると、そのうち取って食われますよ。――ハンス、もうほとんどできあがってしまっただろうか?」
「その通りで、旦那様。ご気分が優れないようでございますね」
ハンスは真剣な顔つきで言った。ユーリはおぼろげにはにかんだ。
「わかるのか」
「お顔色を見れば、僕のような間抜けにもわかりますとも」
なるほど、私は間抜けですらないらしい。私がユーリの横顔から不調の色を見抜こうとしている間、アンナは少し進み出て、彼らに口を挟んだ。
「後ほど軽食をお持ちしましょう。レナが二階におりますので、何でも彼女にお言いつけくださいまし」
レナとは、年端もゆかぬ侍女見習いだったはずである。彼女はほとんど私の前に姿を現さないので、詳しいことを私は知らない。
「すまないな、アンナ。食堂はお前たちのものだ。――では、リタ」
ユーリは私に温い目線を投げた。そのときには、凝視の甲斐あって、私は彼が十分心配するに値するほど調子が悪いのだと確信し、不安を覚えるに至っていた。私はいても立ってもいられぬ思いで、今にも立ち去りそうな彼に詰め寄った。
「あなたに何かしてあげられませんかしら?」
「私の分まで食事を取り、温かくして休んでください。それで心配の種が一つ減りますから」
と、彼は答え、おもむろに踵を返した。私は少々がっかりした。何か本当にできると思っていたわけではないけれど、それでも所詮小娘と突きつけられたようなもので、この非力さを憎むことになるのだった。
「ご自愛くださいまし!」
私は去りゆく彼の背中に声をかけた。彼は足を止め、親切にも身体ごと振り返った。
「ありがとう。いい夜を」
ユーリは今度こそ歩き去った。私は彼の姿が階段に消えていくまで、戸口で彼の背中を見送った。それが済んでから、厨房に目を戻すと、すっかりお茶の支度を終えたアンナが、私が動き出すのを待っていた。ハンスは興醒めしたように鍋に目を落とした。
「旦那様もお若いのに大変だな」
ハンスがそう言うのは少しおかしかった。確かにユーリのほうが年若いけれど、ハンスはハンスで、決して、少しも年寄りではないのだ。彼と同じくらいに見えるアンナは物憂げに、ほとんどない服の皺を伸ばした。
「心労でお腹を膨れさせるのは、旦那様の悪癖ね」
「貴族たちの争いはこれから酷くなるのかしら?」
私はそれとなく尋ねた。ユーリの言う、デーングリーズ伯からの警告かつ制約なるものの意味を、この二人から聞き出せるかもしれないという期待があった。アンナは茶器を乗せた盆を持つと、私に親しみ深い眼差しを投げた。
「なりましょう。舞踏会はまさにその開幕に相応しく思えますわ」
そう聞いて、私は息の詰まるような感覚を味わった。アンナの表情も、物言いも、直接的ではないにせよ、私の愚かさを窘めているかのようであった。私は、後退りをして果ては逃げ出したいと願う己の身体を引き留め、懺悔の気持ちで溢れ返るこの心を、何とか言葉にしようとした。
「私、彼からお誘いを受けて、喜んでしまったわ」
「リタさんはそれでいいでしょう。良くも悪くも……というより、まったく悪いことではありませんから、渦中にいないということは」
ハンスは気楽に笑った。それは慰めだろうか。もしそうであるなら、私はそれが気に入らない。
「そうかしら。ただ空気を読めずに右往左往して、邪魔立てしているだけだわ」
「僕だってそうですよ。アンナでさえ、あの争いには関係ないのですから」
私は疑り深くアンナに目をやり、真偽のほどを確かめようとした。アンナは微笑み、歩き出しながら言う。
「事実、そうでございます。旦那様はほとんどの苦悩を私共には教えてくださいません。ですから、リタ様も、感じる通りに感じていいのでございますわ。さあ、参りましょう。お茶が冷めてしまいます」
私はあまり合点がいかなかった。けれど、アンナが立ち止まる気配を見せないので、話の続きをするのは諦めた。出ていく前にハンスを見やると、彼はすでに調理の別の工程に取り掛かっていた。私は改めて、争いについて深掘りするのを断念した。
ありがとうございます




