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誰とも知らぬはその人は

ロマンスに舵を切れなかったから棚を変えた小娘

 ゲルトガ邸での私の日々は、瞬く間に過ぎていった。記憶が私の元に帰ってくる気配は依然としてない。しかし、私は居候にしては幸福であった。アンナは変わらず、私によく付き合ってくれた。ユーリとは毎日顔を合わせる機会があった。彼は堅牢だけれど、やはり温情に満ちているようである。彼は宣言通り、私を友人として扱った。だから、ぎこちなさはあれど、私も同じように彼に接した。


 一つ確かなのは、屋敷が私を受け入れてくれなかったのではなくて、私が屋敷に――もちろん心理的な意味で――踏み入らないでいただけだということだ。それは主に、私が寝たきりで部屋に閉じこもっていたことに起因するのだろうけれど。


 それでも、私には理解できない妙な風習が、依然として私の前に立ちはだかっていた。この屋敷に暮らす人々は、滅多に外に出かけないのである。ユーリが夜な夜な遊び回るような人ではないことは容易に想像がつくとはいえ、使用人たちまで、いつ買い物に行っているのかすらわからないという始末なのだ。ささやかな暇を貰うこともしないのではないかと思う。


 だから、当然私も外出はできなかった。決してしようとしなかったのではない。たった二回だけ――最初ははっきりと、その次はそれとなく――私はアンナに、街へ下りることを許してほしいと頼んだ。しかし二度とも、彼女は主人に尋ねるまでもなく、穏やかにかぶりを振った。いけませんわ、リタ様……彼女の言葉はそれだけだった。理由も言わず、尋ねる隙さえ与えてくれなかったのだ。


 私は大人という年齢ではないかもしれないが、それでも子どもではない。だから、駄々をこねるような真似はしなかった。けれど、とても納得するわけにはいかないと、胸の内では呟いた。いくら水面下で貴族同士争っているとはいえ、まさか、突然街中で刺されるわけでもあるまい。暴力沙汰にはならないと言ったのはユーリである。まして、私はゲルトガの人間ではないのだ。私が出かけてはならない理由があろうか。


 そういった時分であった、ユーリが私を茶の席に誘ったのは。普段は、彼が誘いを持ちかけたということをアンナが知らせてくれる。しかし、今回のように直接声をかけられるのは、最初のとき以来であった。私は多少驚いたものの、その誘いを受けた。これまでもそうだったのだが、断る理由は私にはなかった。


 生憎の天気だったので、私たちは庭園には出ずに、客間に入った。客が滅多に来ない分、この部屋はほとんどユーリの書斎のようでもあったけれど、そのことを咎める使用人などいるはずもなかった。私は屋敷の中で最も華美であるこの場所に親しみを覚えていた。言うなれば、この客間は屋敷の中ではなく、外の世界の規律に即しているように思えたからである。


 お茶と茶菓子を置いてアンナが行ってしまうと、珍しく、ユーリがこのように口を切った。


「退屈していませんか、リタ?静かでしょう、この屋敷は」


「そうですけれど、私は満足していますことよ」


 私は答えた。半分ほどは嘘であった。すでに述べた通り、私は外出したいという思いを強く抱いていたのであり、読書や庭園の散歩などには、少々飽きが来ていたのだ。不平不満を言える立場にないとわかってはいたものの、私は変化の目まぐるしい世界を密かに熱望していた。ユーリは持っていた茶器を置いてわずかに首を傾げた。


「アンナに聞いたところでは、あなたは外に出かけることを望んでいるようでしたが」


 私が多少動揺したのは、言うまでもない。それは悪戯が見つかったときのようなばつの悪さであり、また、抜け駆けされたかのような焦燥でもあった。つまるところ、私はアンナが私の要求について――殊にユーリに――他言したとは思っていなかったのである。


「ええ、まあ……」


「この屋敷の習慣が、あなたを足止めしているのだろうと思いまして。私は滅多に出かけないものだから」


「ええ……」


 私は鈍い返事を繰り返した。しばらく忘れていた、彼に対するぎこちなさが再び芽吹いたように思われた。彼は怒ってなどいないけれども、その眼差しは私を委縮させるに十分だった。彼はそのことに気付いたのか、ふと目線を落とした。


「けれど、率直に言って、あまり外出を勧めたくはないのです」


「どうしてですの?」


 ユーリに見つめられていないところを好機と見て、私は思い切って尋ねた。彼は物憂げに茶器から上がる湯気を眺めている。


「この間話しましたね、私の巻き込まれた争いのことは。彼らは私を舞台から蹴落とそうとしている。常に、私や他の相手の弱みも探っているのです。……話は簡潔にしましょうか。あなたのことが、私の弱みだと見做される可能性が十分にある、ということなのです。あなたがこの屋敷を出入りしていると気付かれるだけで」


「ですが、私はあなたの弱みでも何でもありませんわ」


「そうかもしれませんね。だけど、彼らはそうは考えないでしょう。それに、私もあなたを盾にされて、少しも気に留めないなどということはありません。あなたは信じないかもしれませんが」


 私は彼の最後の言葉には答えたくなかった。否、頭では彼を信じているものの、それが心からの信頼かと言われると怪しい。それに、そもそも、私が何かよく理解できぬ「彼ら」の争いの最中に置かれるところなど、少しも想像がつかなかったのだ。


「争いのことが理由で、あなた方も誰一人としてお出かけしないのですか?」


「用がなければ」


「退屈しませんの?」


「習慣ですから。むしろ、用もないのに雑踏の中を歩く必要性を感じません」


 その物言いに私はむっとしたのだが、顔に出る前に何とかお茶を飲むふりをした。けれど、そんな誤魔化しなどせずとも、ユーリは依然として私から顔を逸らしていた。彼は基本的にほとんど動かない人間であった。目線さえ揺らがず、しばらく一つの体勢に留まり続ける。どこか他所を見て物思いに耽る彼は彫刻のようだった――生のない、しかし美しい芸術品のように。


 そんなことを思いながら観察していると、ユーリはふと目を上げた。俯いていたせいで硝子玉のようだった瞳に光が入り、彼は人間に戻って私を見つめていた。私は、彼が散々気を遣っているらしいことがわかっていたので、どぎまぎする心の揺らぎを努めて表に出さないようにした。


「話が逸れましたね。あなたが出かけるのを完全に禁止しようというわけではないのです。乗馬はできますか?」


 乗馬という言葉の響きに、私は早くも心が浮き浮きするのを感じた。記憶を失くしてから馬に乗っていないけれど、きっと上手くできるだろうという気がしていた。


「乗ってみませんと、何とも言えませんわね。けれど、馬は好きですわ、とっても」


「それは良かった。屋敷の西のほうに、あまり人の踏み入らない森があるのです。実は、まさにあなたが倒れていた森なのですが。ともあれ、そこならば、気晴らしに乗馬するのにうってつけですよ。私で良ければ、お付き合いしましょう」


 ユーリはほんの少しだけ微笑んで言った。私は喜びを隠さなかった。ようやく存分に外の空気を吸えることに、この胸は高鳴り、馬こそ無二の知古であるという奇妙な直感に、この手足が震えた。私があまりにはしゃぐので、ユーリは穏やかに息をついた。


「あなたの期待に沿えるか、心配になってきましたよ」


 私たちは早速明日に遠乗りしようと約束した。今日まで何度かこうして彼とお茶を飲んだけれど、このときほどお茶が美味しく、この会が楽しいと思えたことはなかった。または、彼を困らせるほど興奮したことも。


 だから、その夜、私は心躍るままに、アンナに明日の楽しみについて打ち明けた。彼女は一緒になって喜んでくれるだろうと思ったのだけれど、案外その通りではなかった。むしろ、アンナは珍しく眉をひそめたのだ。


「まあ、旦那様が?」


 それが彼女の第一声であった。私は彼女の面持ちと言葉の意味を取りかねた。


「彼は乗馬を普段しないの?」


「いえ、なさいますわ。ですが……」


 アンナはふと眉間に皺を寄せるのを止め、口を閉ざした。それから、私の見慣れた柔らかな笑顔を浮かべる。


「私、どうも勘違いをしていたようです。それよりも、リタ様、どうぞ楽しんでいらしてくださいまし。賑やかではないことでしょうが、見聞きしたことをきっと教えてくださいな」


 と、彼女は何事もなかったかのように言った。私は気にしないことにした。おそらく、彼女が私の外出したいという頼みを断ったのは、何であれその勘違いのせいに違いない。たったそれだけのことを気にするよりも、私は明日見られるであろう景色や、鼻をくすぐるであろう匂いに思いを馳せるほうを優先した。私は少しだけ早く寝台に上がり、子どものようにぐっすりと眠った。


 翌朝、朝食を取った後で、私とアンナは外出の支度をした。アンナは念入りに、私に厚着をさせた。もう冬のため息が感じられる時期だった。外は素晴らしい晴天だったので、あまり着こんでは暑くなるのではないかと心配したけれど、アンナは問題ないと太鼓判を押した。私は安心して階下に下りていった。


 ユーリはすでに支度を終えて、私を待っていた。私とは不釣り合いなほどの軽装である。窓の外の景色を、またも石像のようになって眺めているところは、私のように散歩を特別楽しみにしているようには見えなかった。


「お待たせしてごめんなさい」


 そう私が声をかけると、彼は振り返り、頷いた。


「いいえ。行きましょうか」


 アンナが私をユーリに引き渡した。彼が腕を差し出してきたので、私はそこに手を置いた。ユーリは私を連れて屋敷を出ると、まだ私が行ったことのなかった、庭園の反対側へと向かった。そこには慎ましい厩舎があり、従僕の一人が馬を用意しているところだった。その従僕はユーリに辞儀をし、私に会釈をした。それから、特に何か言うでもなく、黙って引き下がった。


 私は難なく馬に乗ることができた。それは、ひとまずユーリを安心させたようだった。彼は慣れた軽やかさで馬に跨ると、私を先導して進み始めた。彼と同じように馬を繰ることは造作もなく、考えるまでもなかった。これは私の習慣だったに違いない。そのことが予測や希望から確信に変わったことが、私は嬉しかった。


 門を出ると、開放的な空気が私の肺を満たした。屋敷は丘の高いところにあるので、道を下った先の村々や、ずっと遠くの街、そのさらに奥に構える荘厳なる山まで、すっかり見通すことができた。景色を飾り付ける木々は、庭園のそれらほど均整が取れていたわけではないけれど、伸び伸びと枝を伸ばしている感がとても好ましかった。


 私がそうして辺りの風景に気を取られて止まっている間、ユーリは何も言わずに傍に留まっていた。あまりに黙っているものだから、私は彼を待たせていることさえ気付かない有様であった。私がはっとしたとき、彼はそよ風もかくやと思われるほど爽やかに私の謝罪を受け入れた。


「あなたのための遠乗りですから」


 それが彼の返答だった。私は我を忘れたことを少々恥じ入りながら、また馬を歩かせ始めた。私たちは並んで馬に揺られた。ユーリの言っていた森へと続く道のりは、実に閑静であった。街のほうへ下りていけば、もう少し賑やかかしら、と思わずにはいられなかった。


 とはいえ、静謐は必ずしも退屈とは結び付かぬ。二人きりだからと、ユーリが多弁になるわけでもない。けれど、彼の生きた呼吸を聞きながら、心穏やかに粛々と道を進んでいると、自然と心が安らぐのであった。とても懐かしい心地がした……かつて、一体誰が横にこうして並んでいたのだろうと、気にならないといえば嘘になろう。けれど、せっかくの機会を悶々と考えて無駄にするのが嫌で、私は自らに追憶を諦めさせた。


 やがて、垂れ幕のように佇む森の木々が見えてきた。私がちらとユーリの顔を窺うと、彼は顔をわずかにこちらに向けて目線を返してきた。


「あの森の奥であなたを見つけたのです」


 彼は言った。私は胸の中がざわめくのを感じ、不安のままに改めて森を眺めた。森に見覚えも何もないだろうけれど、まんじりともせずに私を待ち受けているその様子を、私は知っているような気がした。乗馬の楽しみは心の片隅に身を潜め、眠っているはずの記憶への渇望がその手足を伸ばした。


「何か思い出させるために、私をここへ?」


「いいえ。この辺りなら、警戒せずに出歩くことができるからです。もちろん、あなたが記憶を取り戻してくれるのが一番ですが」


「けれど、どこで私を見つけたのかは教えてくださるでしょう?」


「あなたが望むなら、そうしましょう」


 そう言うと、ユーリは前を見据え、馬の歩みを進めた。私たちは森に分け入った。人の通った跡はあれ、木々の間は少々窮屈だったので、私はまた彼の後ろについていった。


 葉叢があらゆる音を閉じ込めているかのように、森の中はしんと静まり返っていた。私の思索が巡り巡るのも不思議ではない。私は見たり聞いたりした覚えのあるものがないかと、必死に辺りを探った。けれど、私が知っていると思うすべてのものは、そうあるべきものであって、殊に私にとって肝心であるというようなことはなかった。奥に踏み入るほど、私は落胆を募らせた。この遠乗りをあれほど心待ちにしていた昨夜の私とは、一体何という違いだろう。


「この辺りで休みましょうか」


 ユーリの声がして、私の意識は引き戻された。気付けば彼の馬は足を止めていて、私の乗っている馬も、私が手綱を引く必要もなく悧巧であった。目を上げると、すぐそこに小さな泉があった。無論、休息を取るべきだと思われた。


 私たちは馬を降り、近くの木に繋いだ。ユーリは馬に持たせていたらしい敷物を広げ、私をそこに座らせた。それでいて、自分は太い木の幹へ寄っていって、そこに跪いた。何かと思えば、彼は木の根元に生えていた植物を観察しているのであった。


「植物にはお詳しいの?」


 私は何とか頭の中の空白のことを腹の奥底に抑え込もうとしながら、ユーリに声をかけた。彼は草花を指先で撫でていて、目は上げなかった。


「子どもの頃に得た知識だけです」


「お好きでしたのね」


「そうですね」


 彼の返事は鈍かった。集中しているのだろうか。せめて彼が何か話していてくれれば、余計なことを考えて焦るようなこともないのに。疎ましく思われるのが嫌で、私は泉に目を移した。水面は平静であった。耳を澄ますと、どこかから水の流れる微かな音が聞こえてきた。どこへ流れていくのか、辿ってみたいと心が囁く。けれど、私の身体は憂鬱に支配されて、岩のように重くなっていた。


 どうして何も覚えていないのか。私はそのことで己を責め苛んだ。屋敷の中でなら考えもしなかったことが心に浮かんでいた――この外の世界で、誰かが私を探しているのではないのか。父か、母か。友か、あるいは恋人か。どこにも属さぬ、名前の足りないリタは、偶然にもゲルトガ邸に落ち着いた。このまま、記憶を取り戻せないままだったら。このリタは、ゲルトガ邸に根を生やすことになろうか。私を待つ人がいるかどうかも知らずに。


 縁故を求める心が疼き、それは塩辛い涙になって、目から溢れ出した。私は声を押し殺し、何とか滴を零さないようにしたかったけれど、上手くいかなかった。ゲルトガ邸という防壁はあれ、私はこの広大な世界にただ一人で立っているのである。孤独だ。私は孤独だ。屋敷の中ではほとんど気にならなくなっていたこの事実が、肺を思いきり押し潰すようだった。


 ユーリが私を見つけた日、私が傷を負って倒れていたということも、慰めになるはずがなかった。良からぬことが起きたのは間違いない。私に傷を負わせた人間は、私をまだ狙っているだろうか。そのような人間に待たれていたくはなかった。


 私は息苦しさに喘ぎ、とうとう声を堪えきれなくなった。嗚咽を聞きつけてか、それともその前からいたのか、ユーリは気付けば私の隣に跪いていた。触れもせず、黙り込み、じっと私を見守っている。この馬鹿らしい激情を恥ずかしく思い、私は顔を上げることができなかった。べそをかく私を見て、ユーリが困ったり呆れたりしているところを見るのも怖かった。


「……どうして泣いているのですか、リタ?」


 やがて、彼は落ち着いた声でそう言った。どうしていいかわからず、私はかぶりを振ることしかできなかった。溢れる涙を止めるためなら、自身を呪うことさえ厭わないと思った。だのに、恥を晒すことが嫌で仕方ない私は、一層涙を流すのだった。


「リタ、私はあなたを悲しませるつもりなどありませんでした。どうか、話してください。私の行いの何が、あなたに涙を流させるのかを」


 ユーリは彼のせいで私が泣いていると思っているのだ。それならば、なおのこと私は情けない。私はまたかぶりを振ろうとしたけれど、それでは伝わらないだろうと、何とか震える口を開いた。


「私が……私がいけないのです。あなたではありませんの……」


「では、何故あなたがいけないのですか?」


 根気強く彼は尋ねた。私はこの胸に抱えた不安の種を、どのように言葉にしようかと、必死に考えを巡らせた。しかし、思念は縺れ、足を引っ張り合い、ついには纏まらなかった。それでも私は何か言わねばならなかった。


「怖いのです……私は一人きりなのではないかと」


「それは、あなたに記憶がないからですか?」


 私はしきりに頷いた。ユーリは短く息を吐き出した。呆れているに違いなかった。穴があるなら入りたい気分であった。いっそ、泉にでも飛び込めば、この涙も気にならなくなるだろうか。


「呆れていらっしゃるでしょう?もう私が嫌になったでしょう?どうぞ、そうおっしゃって。それから、私が見つかったときのように、どうぞこの森に私を打ち捨てていってくださいまし」


 私は泣きじゃくり、両手で顔を覆って、何もかも見ないふりをした。そうすれば、ユーリが立ち去ったとて、私も気にしないで済むかもしれない。彼は、私の願いに反して、私を置いていくことはおろか、立ち上がることもしなかったけれど。


 私は本気でこの場所に残るつもりだった。ユーリに嫌々私を屋敷へ連れ帰らせ、今後も面倒を見ようと言わせるくらいならば、この森の中で大地に還るほうが格段に良かった。涙が引いてきて、虚ろな心が私の思考を妨害し始めた頃、再び彼は――それまで身じろぎもしなかった彼は――口を開いた。


「やはり、あなたは少し大袈裟ですね。わかりません、どうして私があなたを置いてゆかねばならないのか」


「私はお荷物ですもの。私などを匿っていては、笑われますことよ」


 考えるまでもなく、私は言葉を繋いでいた。それは明らかに、私という人間に染みついた性質なのであった。理解を越えた感覚であり、私に付随するのではなく、私の一部なのだ。私はそれをおぞましく思った。けれど、そのように口にせずにはいられなかった。ユーリがまた息をついた。


「卑屈なのですね」


「……ごめんなさい」


「謝らないでください。記憶がないことも、孤独を感じていることも、あなたが悪いわけではないでしょう」


「けれど、あなたを辟易させていますわ」


「誤解ですよ、リタ。……隣に座っても?」


 私が諾うと、彼は敷物の隅に腰を下ろした。私の前に跪かせていたことは、彼の足を疲弊させただろうと思われた。私はいよいよ顔を上げられなかった。謝罪や感謝を打棄り、私は俯いてばかりいたのだ。ユーリが責めてくれたなら、どれだけ良かったか知れない。


 彼は私の隣にいたけれど、でき得る限り間隔を空けて座っているようで、私には彼の温度をはっきりと感じることができなかった。優しい気持ちでいてくれているのか、はたまた怒っているのかさえ。


「……幼い頃の夢は、狩人になることでした」


 そう唐突に彼が言ったので、私は驚き、恐る恐る顔を上げた。彼は遠くを見つめていた。


「ある童話の中に出てくる人物に憧れたからです。極悪非道の熊を倒し、か弱く無垢な森の動物たちと、小さな少女を助ける彼は、私には何よりも気高い存在に見えたのです。彼のようになりたかった幼い私は、アンナを連れ回して、よくこの森までやってきては、窘められるまで遊び続けたものでした。植物に関する本を読み漁り、弓を習わせてもらい、いつか本当に狩人になるつもりだったのです。見ての通り、その夢はすでに破れましたが」


 そこで言葉を切ると、ユーリは私の様子を横目で確かめた。私は御伽噺でも聞いているような顔をしていたに違いなかった。私が大人しく話を聞いているとわかると、ユーリは今度はまっすぐに私の目を見つめた。


「今でこそ、堅物で心無い人間に見えるかもしれませんが、あの頃の私は夢を持った、ごくありふれた少年でした。そして今も、私はありふれた人間です。考え、感じる、生きた人間なのです。……すみません、このような自己主張がしたいわけではないのですが」


 彼は少し俯いて、考え込んだ。私は続きを待った。この人を理解したいという衝動に、身体中が麻痺しているようだった。私は私自身に近しい性質を、ユーリから嗅ぎ取っていた。愚かに聞こえるかもしれないが、私は初めて、彼が私と同じ人間だということを知ったのだ。彼が顔を上げ、私たちの目が合ったとき、私は共感の稲妻をそこに感じ取った。


「私は今こうしてあなたの傍にいます。あなたの不安を消してしまえるような、大した人間ではないのは嘆かわしいことです。それでも、私はあなたの感じる孤独を減らしてみせたい。いつか岐路を分かとうとも、今は一人の人として、あなたの隣にいるのですから」


 ユーリは決然としていて、どこまでも静謐だった。私は言葉に詰まった。彼の意志に対して何と返すべきか、私は知らなかった。単なる言葉では、かえって浅はかに聞こえてしまうだけであるように思われた。


「ユーリ、あなたは何という方なの……」


「……大丈夫だとは言いません。我慢しろとも言いません。ただ、私やアンナがあなたと共にいることを忘れないで」


 彼の眼差しは雲間から差した陽光のように温かで、希望に満ちているように私には感じられた。再び溢れた涙を、私は隠しはしなかった。ユーリは黙って私に手巾を差し出した。私はそれを受け取り、慟哭が己に対する失意をゆっくりと押し流していくに任せた。私の涙がすっかり涸れたとき、私とユーリの間にあった見えない障壁はすっかり取り払われていた。彼はつと立ち上がった。


「その手巾はあなたが持っていてください。また孤独を感じたとき、この日のことを思い出せるように」


「そうしますわ。ありがとうございます、ユーリ」


「礼には及びません。……さて、どうしましょうか。屋敷に帰りますか?」


 と、彼は私が立ち上がるのに手を貸しながら尋ねた。私は静かな森の中を流れゆく、微かな水の音を再び耳にした。


「ね、聞こえますか?水の音がしますでしょう。私、それを辿ってみたいのです。ほんの少しだけでも」


「ぜひ、そうしましょう。まだ日暮れは遠いですから」


 私とユーリはささやかな小川を辿り歩いた。それはそう遠くないところで、力強い流れへと変わっていった。私が見届けずとも、潰えることなく大海へ流れていくだろうと、自然と思われた。だから、私はその辺りで満足した。ユーリも同意した。


「アスターシャを流れる川でしたか」


 彼は川の流れを見送りながら呟いた。アスターシャ……聞いたことのない響きではなかった。


「それは、件の隣国のことですの?」


「ええ、その通りです。この森は、便宜上アスターシャと我が領地で共有していることになっています」


「では、あちらの方々がこの場所を歩いていることも、よくありますの?」


「時々は見かけますが、散歩に来るには少々遠いそうです。我が国に入る正式な道は別にありますから、ここを通り抜けようとする者もいません。逃亡者くらいでしょう」


 逃亡者。私がその一人である可能性は大いにあった。というよりも、状況を鑑みるに、おそらくそうなのだろう。何故逃げねばならなかったのか、それが問題である。戦火を免れるためか、あるいは、罪から……


「私が罪人で、国を逃れてきたとしても、おかしくはありませんことよ」


「まさか。あなたの魂が清らかなのは、一目見ればわかります」


 と、ユーリは柔らかく小さな笑い声を立てた。彼の言う通りだといいのだけれど。そう思ったことは、口には出さなかった。


 私たちは踵を返し、また水脈を辿って泉に戻っていった。美しい模様の大きな蝶が飛んでいたけれど、さすがに追いかけていくのは憚られた。私はユーリの顔を窺った。彼もまた、蝶を目で追いかけているようだった。きっと、この森は目や耳を喜ばせるもので満ちているに違いない。ぜひにまた、ここに来たかった。できれば、この人と共に。


 そんな穏やかで幸福な散歩が終わろうとしたとき、事は起きた。泉の傍までやってきたとき、ユーリはふと足を止めた。それに従って私も立ち止まったけれど、彼が息を詰めて立ち尽くしている理由はわからなかった。私がものを尋ねようとして口を開きかけると、彼は手で私を制した。


「……誰かいます」


 彼は小声で言った。私は目を凝らした。するとなるほど、木の陰に、頭巾を被った人物が立っているではないか。その人影は、私たちが乗ってきた馬に触れているようであった。一体何をしているのか。様子を窺っていたユーリは、注意深く馬のほうへ近づいた。


「そこの。何をしているのです?」


 頭巾の人ははっとしてユーリを見た。顔は見えない。しかし、どうやら服は良質のようで、そのおかげか、ただの賊には見えなかった。その人は腰に提げた剣に素早く手を伸ばした。ユーリは警戒に足を止める。


「それは私たちの乗ってきた馬です。盗もうと言うのなら、見逃すわけには参りません」


「すまないが、こちらにも事情がある」


 盗人のくせをして、何を偉そうに。私は名も顔も知らぬその男を軽蔑した。


「ならば、その訳を話してください」


「できない相談だな」


 その高慢ちきな物言いに、私は思わず、呆れ果てたため息を漏らした。それを聞いて、頭巾の人はこちらに顔を向けた。それから、急いたようにユーリに目線を戻す。


「貴様、何者だ?」


「それはこちらの台詞ですが……私はこのゲルトガの地の領主です。狼藉の廉であなたを追及する、正当な権利を有しています」


 ユーリは淡々と言った。盗人は落ち着きなく私たちの顔を見比べ、それからさっと背後を振り返った。まるで、追手か何かを探しているように。男は私たちに向き直ると、剣の柄を掴んで、少し引き抜いた。木漏れ日が刀身に当たり、そこに施された彫刻を照らした。それは薔薇を模したような流麗な装飾だった。私はそれに見覚えがあるような気がした。けれど、よく観察する前に、男は剣を納めてしまった。彼は身勝手にも馬に跨ると、何も言わずに走り去った。


 ユーリは深々とため息をついたけれど、追いかけようとしたり、怒鳴ったりはしなかった。ざっと検めたところ、馬に傷などはつけられていなかった。彼はひとまず安堵のため息をついた。


「二人で乗って帰るしかないようですね」


「一頭差し上げてしまうなんて、親切な方」


 私はユーリがあまりに冷静なので、思わずそう口走った。彼は何とも言えない表情で首を振った。


「一頭置いていったあの男のほうが親切ですよ」


 その言葉に私は苦笑した。しかし、冗談ではなく、あのような野蛮な男がいて、それをあっさり見逃してしまうなど、私にはとても信じられなかった。


「あれは何者だったのかしら?」


「やはり、アスターシャの人間でしょう。ですがあの様子、ただの難民だとはとても言えません」


「逃がしてはいけない方だったのではありませんこと?」


「さて。何にせよ、隣国の事情にかまけている余裕は私にはありません。あるいは、その必要も」


 無表情に言うと、ユーリは先に馬に跨った。このまま帰ろうとすれば、彼はもうこの話をしようとしないだろう。直感的にそう思われ、私は地面に立ったまま、戸惑ったように彼を見上げていた。彼は急かそうともせずに私を見つめ返した。


「あの刀身の紋様に見覚えがあって?」


 私が尋ねると、ユーリは目を閉じてしばし考えた。


「いえ、ありません。知っているものでしたか?」


「そんなような気がしますの。……何だか、胸騒ぎがしますわ」


 実際、一連の出来事を思い出すにつけて、私は頭蓋を撫でられているかのような、奇妙な不快感を覚えた。また恐怖が這い回っている。あの男が私を追ってきたのだという考えが脳裏を掠め、それからすぐに頭の中を覆い尽くした。落ち着け、とどれだけ己に言い聞かせても、私の鼓動は早まるばかりだった。


 そのとき、冷えた指が頬に当たり、私ははっとした。ユーリの手だった。彼は馬上から手を伸ばし、私の耳の傍にそっと触れていた。


「リタ、落ち着いて……落ち着いてください」


「けれど、ユーリ、あの方が私を探しにきたのだとしたら、どうしましょう?どうすればいいの?」


 いつの間に、私は彼が伸ばした手に縋りついていた。彼はそっと私の手を握り返した。


「もしそうだとしたら、私は今頃切り捨てられているし、あなたもとっくに攫われています。彼の狙いはあなたではありません。さあ、とにかく落ち着いてください」


 ユーリの言うことはもっともだった。私は深く息を吸い、吐いた。閃光を浴びたように混乱していた頭は、森の澄み切った空気で、段々と正気を取り戻した。


「……ごめんなさい。私、また取り乱して」


「仕方ありません。無骨者に驚いたのでしょう。……乗れますか?」


 私はその問いに頷き、ユーリの後ろに落ち着いた。彼は馬を走らせ始めた。彼の背の温度を感じ、馬の背には揺られ、私は考えた。今日のように我を忘れるような真似はもうするまい。何はともあれ、私がすべきは、少しでも身辺のことを知ることだ。そうすれば、未知という恐怖に慄かなければならないことも減るはずだから。私は手始めに、あの薔薇の紋様について、何とか調べてみようと心に決めた。

読了感謝

待たれよ

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