表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
12/12

その花が咲くのは何処なのか

 翌朝、私は早くに目を覚ました。ヨハンの激昂がまだ耳に反響している気がする。しかし、私はあの追及――あるいは追求だろうか――を頭から追い出し、代わりにこれまでは押し殺していたユーリに対する思慕の念を思考の中心に据えた。それは必ずしも、ヨハンが糾弾したような類の愛情ではなかった。確かに、ユーリについて知らない部分は山ほどあった。けれど、その眼差しに嘘がないと信じられるのは、彼ただ一人だったのだ。


 私はできるだけ静かに身支度を始めた。衣服を着替えようとして、私はごく自然と赤い衣装を目で探した。しかし、ほんの一部分でも赤の差し込まれたものは一着もなかった。私が赤薔薇姫たる所以となった衣装を彷彿とさせるものを、ヨハンは用意させなかったのだろう。それは優しさだったのだろうか。いずれにせよ、私が好んだのは赤だった。


 仕方なく、私は飾り気のない白い一着を手に取った。他の色よりはずっとましに思えた。時間を掛けてそれに着替えてから、私は髪を梳き始めた。指の通りが文句なしに良くなるまで、ひたすら櫛を通し続ける。そうやって私が時間をつぶすのを、ヨハンは黙って見守ってくれていたものだった。嫌な罪悪感が膨らみ始める前に、私は再び幼馴染を頭の中からつまみ出した。


 身支度に気が済むと、私は部屋の中を見回した。私物はほとんどなかった。お守り代わりにはなるかと、魔草を懐に仕舞い、外套を羽織る。それから、私はこっそり廊下に出た。使用人の動く気配がする他は静かなものだった。朝は早いヒルダもまだ寝ているだろう。しばし考えてから、私は彼女の部屋に向かった。音を立てぬように扉を開けて中を覗くと、彼女は両手を胸の少し下で組んで仰向けに眠っていた。わざわざそう死人のような姿勢で眠るなんて、酷く趣味が悪い気がした。私は彼女の寝台の端に腰掛けた。寝台は沈み、軋み、麗しの死者を目覚めさせた。彼女は夢でも見ているかのような顔で私に目をやった。


「……あら、リタ」


「おはよう、ヒルダ」


「何か約束でもしていた?悪いけれど、私まだ眠いの……後回しにしてくださる?」


 閉じていく瞼に抵抗しようともせず、ヒルダは口の中でそう呟くように言った。私は彼女が眠らないようにその手を少し強く握った。


「……私がアスターシャの王女よ」


「そ。何となくわかっていたような気がするわね……おかしいと思ったのよ、色々と……」


 ヒルダの目はやはりほとんど開いていなかったけれど、口元には微かな笑みが浮かんでいた。彼女は私の手を握り返した。私はさらにもう一方の手を重ね、彼女の華奢な手を揺すった。


「ユーリは本当に私を利用しようとしていた?」


 そう尋ねると、彼女は寝ぼけ眼を私に向けた。何故そのようなことを聞くのかと言いたげな顔をしている。


「人聞きの悪いこと。誰に吹き込まれたの?ああ、ヨハンね……無理もないわ」


「教えて、ヒルダ」


「……彼、本当にあなたを愛しているのよ」


 ヒルダが誰を指してそう言ったのか、私にはわからなかった。


「けれど、皆嘘ばかりだわ」


「馬鹿ね、リタ……ほしいものを手に入れるには、嘘を使うのが一番手っ取り早いのよ。そこに男も女もないわ。だから、真実なんてかなぐり捨てて、心が向かうほうに従えばいいの。真面目に生きるのって辛いもの」


「そんな世の中で生きていたくないわよ」


 私の言葉に、ヒルダはからかうような、同時に非難がましい眼差しを返した。彼女は二度寝を諦めたのか、つと起き上がった。先ほどまでの眠気はどこへやら、覚醒した顔つきをこちらに向ける。


「それなら大地に還るしかないわね。ね、難しく考えることないわ。気に入らない嘘を断罪して、気に入った嘘を信じるだけ。そして、あなたも好きなだけ嘘をつけばいい。愛も幸せも、あなたの舌の上よ。そういうわけだから、誰を信じればいいかなんて聞くのはよして。やりたいようにおやりなさい。誰も文句なんか言いやしないわ」


 そう言いきると、彼女は寝台を抜け出して鏡の前に向かった。私は寝台の淵に腰掛け、彼女の身支度を見守りながら、彼女の言ったことをぼんやりと考えた。この心を覆う圧倒的虚無の中では、己が何を求めているかなどわかるはずもなかった。しかし、求めていないことならば漠然と見えていた。それは個人の行いの言い訳にされないことであり、愛という剣、責任という切先を向けられないことであった。大勢が自分で理解してもいない大義のために血を流すのを、何であれ目撃しないことも。


「……私、ユーリのところへ行くわ」


「私もそうしたいものね!ま、いいわ、これから忙しくなるから。彼によろしく伝えて!私もけじめをつけるときが来たみたいだわ」


 ヒルダは活発な笑みを鏡の中の彼女に向かって浮かべると、猫のように背中を反らせて伸びをした。何か悪い予感がして、私は思わず立ち上がった。


「けじめって……」


「言ったでしょう、気に入らない嘘を断罪すると。いつまでも思いのままにできるわけではないと、そろそろ誰かが教える頃よ」


「お父上を止めるのね。そうなんでしょう?」


 私は確信めいて尋ねた。けれど、ヒルダは鼻で笑っただけで、肯定も否定もしようとしなかった。ふと、私は彼女に対する憐憫を覚えた。彼女が抱える果てない孤独を、肌で感じたような気がしたのである。何故これまで、彼女が自由を謳歌することばかりを考えているとばかり思い込んでいたのだろうか。彼女は私の想像よりはるかに思慮深かったし、力強く翳りない魂の持ち主だったに違いない。彼女が私の立場にいたなら、きっと上手く事を収めていただろう。今更そのようなことを考えても手遅れで、もう彼女に助けを求めることはできないけれど。


「私にできることはない?」


「何をするの?あなたが私の食事を食べるとか?それはなさそうね!いいこと、私のなすことは私の所有物だし、あなたのなすことはあなたの所有物なのよ。魂の問題だわ!だから、私の朝食をあなたにあげるつもりはないし、あなたの夕食を食べるつもりもなくてよ!」


 それは理に適っているようにも聞こえたけれど、やはり支離滅裂であった。ヒルダは馬鹿げた自由を謳歌する幸福な女性に戻ってしまったらしい。すっかり目が覚めたということだろう。しかし、彼女が何か行動を起こすつもりであることに変わりはないはずである。それが伯爵の計画を阻み、願わくはヨハンのまでをも思い止まらせてくれるのなら、私は喜んで手を貸すつもりだった。が、彼女が拒む以上、私に首を突っ込む権利はない。


「……それなら、せめてこれをあなたにあげるわ。何にもならないかもしれないけれど」


 私は滑稽なほど生真面目に嘘つき殺しの野草を彼女に差し出した。ヒルダは母性的な眼差しを私の手と小袋に注ぎ、指先でそれを摘んだ。


「あら、お守りか何か?とっても好きよ、こういうの!偶像よりもずっとましで。何のお呪いがかかっているのかしら?あなたの髪の毛でも入っているの?」


「違うわ、ただの野草よ。けれど、嘘つきを退けるんですって。……わかっているわ、気休めよね」


「何事も気の持ちようよ!ありがたく頂戴するわ。さ、そろそろお行きなさい。早朝に起きたからには、いつまでも出かけるのを渋ってはいけなくてよ」


 と、ヒルダは私から目を逸らし、熱心に髪を梳き始めた。私は半ば露わになっている彼女の白い肩にじっと目を注いだ。彼女が鏡越しに私を見ているような気がしたけれど、私は彼女の肩とそこから蔓のように伸びるほっそりとした腕、その一部を優しく覆う葉のような衣から目を離せなかった。簡単に押し潰されてしまいそうに見えるのに、彼女は吹き荒ぶ風さえものともせずに咲く一輪の花なのであった。彼女の前であったら、赤薔薇姫などという名も蔑称にはならなかっただろうに。


「そうね、もう行くわ」


 私が諦め悪くも声をかけたのを、ヒルダは聞こえなかったかのように無視をした。私は静かに部屋を出た。ヒルダの存在は、天上のものが私を比べてこき下ろすために遣わした特別なものなのだ、と私はうっすら考える。そうでなければ、何だか不公平な気がして。


 すべてが停滞しているように思われた。夢から覚めようともがいているときの気分に似ていた。あるいは、それは朝焼けのもたらす儚い倦怠感に過ぎないのかもしれない。けれど、今の私にとってはすべてが漠としていて、かつ物悲しかった。この屋敷は抜け殻なのだ。住んでいたのは糸で吊られた人形ばかりで、生きた魂などただの一つもありはしなかった。彼らの囁きは風が吹き抜ける音に等しく、なお一層この場所の寒々しさを引き立たせるのだ。


 だから、この廃墟には何の未練もなかった。そのはずなのに、一体何のためか、私はここを出ていくことを酷く恐れていた。今更引き返すことなどできず、行くべきところも決まっていたのにもかかわらずである。終わりの予感が全身を揺さぶり、鈍い頭痛が駆け抜けた。名前のない後悔のために私は懺悔したかった。けれど、懺悔すべきことを明確に見つけることができないのだ。


 そうして、私は彷徨うように、これだけはしないと決めていたことを実行した。時間はあまりなかった。私は物音を気にもせずに廊下を足早に進み、躊躇いが生じる前にその扉を開いた。最初に目についたのは床に転がった酒瓶だった。少し目を上げれば、明らかに酔い潰れ、だらしなく椅子の上で眠っているヨハンの姿がある。まだ酒の匂いがしていた。私に背を向けた後、きっと夜明けまで――ともすると、つい先ほどまでかもしれない――酒を浴びていたに違いなかった。


 彼が起きる心配が少ないとわかり、私は心底安堵した。のこのこと部屋を訪ねておいて奇妙なことだが、私は意識のあるヨハンと相対するほどの勇気を持ち合わせていなかった。彼が私に言いたいことは山ほどあっただろうし、私が彼に言いたいことは一つもなかったからだ。


 ヨハンの座る椅子の横には、彼の剣が立てかけてあった。私はそれを手に取り、鞘から刀身を覗かせた。薔薇の紋様……それが意味するものという謎を解こうと意気込んでいたのが懐かしかった。ほんの数週間前のことだ。何と平和だったことだろう。あのとき、私は間違いなく幸せだった。穏やかで、安全で、静かで、破壊とは無縁の世界にいた。私は無自覚だったけれど、あの場所こそが世の楽園だったのだ。しかし、もう二度と同じ日々を送ることはできない。似た何かはあっても、同じものはもう……。


 私は深いため息と共に、剣を鞘に納めた。それを元通りの位置に戻そうとしたとき、ヨハンが掠れた声で呻いた。はっとして彼の顔を見たとき、その鈍い刃物のような視線が私に突き立てられた。私の身体は硬直し、静止画のように私たちは見つめ合った。


「……君なのか?」


 寝ぼけた声が言った。私は喉を締め付けられたかのような気分で、言葉一つ漏らすことができなかった。ヨハンは泥に纏わりつかれているかのような動きで手を伸ばす。


「どこに……?行くな……行かないでくれ」


 その指先に触れられるよりも早く、私は素早く後退った。彼の腕は再び力なく垂れ、瞼も閉じられていた。私は剣を持ったまま慌てて踵を返し、獣にでも追われているかのように扉を閉めた。けれど、その間際、彼が口の中で呟いたことははっきりと私の耳に届いていた。私はそれを聞かなかったふりをした。


 勢いのまま屋敷を飛び出すと、私は近くの村を目指して歩き出した。そこでハンスと落ち合う約束をしていたのだ。さして遠くはないはずだけれど、歩いて楽に行ける場所でもない。それでも、馬を盗む気にはとてもなれなかった。


 さらに悪いことに、夜の間に雨が降ったらしい。地面はぬかるみ、空気はじめじめとして陰鬱だった。服の裾をたくし上げたかったが、持ってきてしまった剣が邪魔で上手くいかなかった。どうして置いてこなかったのだろう、と私は自分に辟易した。しかし、その辺りに捨ててしまうのは憚られた。彼の大切なものを勝手に持ち出しておいて泥の中に埋めるほど、私は悪辣ではない。けれど、そう、そそっかしく、間抜けなリタ。


 しばらく歩いていると、前方から商人らしい男が荷馬車に乗ってやってきた。彼は遠くからでもわかるほど、私に不審げな目を向けていた。私はその視線に気付かないふりをして、俯きながら早足に荷馬車とすれ違おうとした。けれど、その間際、商人は馬車の速度を緩め、十二分にはっきりと私に声をかけた。


「お嬢ちゃん、こんな早くから歩いてどこに行くんだい?随分物騒なもん持ってるねえ」


 と、顎で剣を示す。何か訳がありそうだと思っているのなら、どうして放っておいてくれないのか。事情も知らずにする心配こそ、路頭で悩む女には最も無用なものだというのに。私は答えあぐねて黙り込んだけれど、商人はますます訝るばかりで、とても見逃してくれそうには見えなかった。わざわざ馬車を止めるなどということもないではないか。


「……魔女狩りに行くのです」


 私は苦りきった色を何とか出さないように苦労しながら言った。物狂いだと思われれば、この男も私の相手を諦めるかもしれないと思って。商人の反応というのはまったく予想通りのもので、彼は頬を引きつらせて愛想笑いをしながら、私の頭から爪先までに欠陥がないか確かめるかのように、ゆっくりと目線を動かした。


「魔女、ねえ……今日は随分縁があるもんだ」


「どこかで話を?」


「ああ、この先の村にな、そういう類の奴が来たってんで……と言っても、女じゃなくて男なんだとよ。眼帯をした奴で、片目を儀式に使ったに違いないとか何とか。まったく、そういう信仰をしてるのは、あの森に近いほうの村だけだと思ってたんだがね……っと、あんたに言うことじゃなかったかな」


 男は媚びるように付け加えた。私が怒り出したり講釈を垂れ始めたりすると思ったのだろう。私は面倒だったので何も答えず、彼の言ったことを考えた。この先の村というのは、私が目指しているところのことであるはずだ。そこに、眼帯をした男が来た……まさか、ユーリなのだろうか。そうだとすれば、何故眼帯をしているのか。ふと、アンナの顔が頭に浮かんだ。よもや――。


「まあ、何だ、急いだほうがいいんじゃないか?悪かったね、引き留めて。こう泥塗れの日だ、お嬢ちゃんを送っていってやりたい気持ちはやまやまなんだが、生憎忙しくてね」


 そう言って、商人は頬を掻いた。彼が気弱であれ善良な人間なのは猿でもわかるというものだ。彼が声をかけてきたことで不満を覚えた自分が恥ずかしくなり、情けなさをひしひしと感じながら、私は挨拶もそこそこに歩き出した。しばらく商人の視線を感じたけれど、やがて背後で馬車が重たげに動き出す音が聞こえた。前方には誰もいないのに、私は顔を上げて歩くことができなかった。すでに泥で汚れた白い服の裾が一層惨めさを引き立てた。今すぐに引き返して、ヨハンに許しを請うたほうがいいかもしれないという考えが繰り返し立ちはだかった。それでも、私はある種の意地で前に進んだ。


 ひたすら歩き続けて数時間、ようやく村が見えてきた。足の疲れが限界に達していたけれど、私は歓喜に跳ねるような足取りで村まで駆けていった。外にいた何人かが不審げな眼差しをこちらに向けてきたけれど、私は少しも気にしなかった。ユーリたちの居場所を探そうと辺りを見回すと、すぐにそれらしい痕跡が目に付いた。この村には不似合いなほど立派な馬車が停まっていたのだ。あれでは目立ちすぎると苦笑しながら、私はそちらに向かった。


 馬車の停まっている小さな家の扉を叩くと、中で物音がした。当然誰かが出てくるものと思って待ってみたけれど、結局応答はなかった。もう一度扉を叩いても、やはり戸口は静かなままだった。無視をすることもないだろうと思いつつ、私は諦めて扉に背を向けた。この家ではないのかもしれない。しかし、他にそれらしく不自然なものはなかった。


 ともすると、何かすれ違いがあって、彼らはこの村にいないのではないか。ハンスが説得に失敗したということもあり得る。突然私は不安に駆られた。私ばかりが動き回って、世界は平静と惰眠を貪っているかのような、その不一致の感が胃を締め上げるようだった。計画は上手くいかなかった。そう考えるには早すぎたかもしれないけれど、私の脳はそのように結論付けることを躊躇しなかった。突拍子もない打開策が弾けるように頭に浮かんでは、豪速で姿を眩ませた。少ししゃしゃり出ればいつもこうなるのに、どうして大人しくしておかなかったのだろう。


「何だ、もう来てたんです?」


 その声に、私は今にも開花しようとしていた自己嫌悪の念を振り払い、慌てて背後を顧みた。両手で紙袋を抱えたハンスがそこに平然と立っていた。私の顔が真っ青だったからだろう、彼は微かに浮かべていたはにかみを掻き消し、及び腰で私ににじり寄った。


「どうしました?」


「ああ……えっと、ハンスね。何でもないの、おはよう」


 私は片手で忙しなく髪を梳き、自分の異常を誤魔化そうとした。ハンスはじっくりと私を眺めた後で、半歩下がって元通りに立った。あまり私に干渉するつもりはないらしい。


「ええ、どうも。随分早くいらしたんですね」


「色々あったの。彼は?」


「あなたの後ろの家の中です。その剣は何です?」


 彼は私の背後に顎をしゃくりながら言った。その動きに釣られるように私は振り返り、直前にされた質問を聞き逃した。


「無事なのね?」


「なんというか……お変わりないとは言えませんね」


 曖昧な言い方に、私は再び身体の向きを変えた。ハンスは睨まれても困ると言いたげに肩をすくめると、私の横をすり抜けて扉の前に立った。


「見ればわかると思います」


 そう言って扉の把手に手をかけた彼は、しばし考えてから、頭を少しだけこちらに向けて私に穏やかな視線を投げた。


「……旦那様はあなたに再会するのを心待ちにしておられましたよ」


 私は何も答えず、抱えていた剣をより強く胸に押し付けた。ハンスは長く細いため息をつくと、扉を開け、私が入れるように脇に退いた。私は逸る心を何とか鎮めて、それでも軽い足取りに自分で驚きながら中に入った。寒々しい家の中、ぽつんと置かれた椅子の上にユーリは座っていた。彼は私を見てさっと立ち上がったけれど、どう振舞うべきか決めかねて立ち尽くした。逃げ出した身の私には、なおさら正しい言動を見出すことができなかった。眼帯をしている男というのはやはり彼のことだった。どこかやつれた雰囲気も相まって、その痛ましさが私の浮かれた心を深海に沈めた。


 困惑する私たちの横で、ハンスは何も意に介さない様子で荷物を机の上に広げ、袋から出した林檎をかつての主人に差し出した。ユーリは私から目を逸らす理由ができたことに安堵した様子でそれを受け取ると、腰を下ろし、ものぐさに食事を始めた。程度はわからぬが、私に怒りを抱いている部分があることは否めないのか。私はほとほと困り果て、立ったまま彼の様子を眺めることしかできなかった。ハンスは私にも林檎を差し出したけれど、私が断ったので、代わりに椅子を持ってきて座るように勧めた。私はそれには従い、剣を膝の上に置いた。


 半分ほど林檎を齧った頃、ようやくユーリは腕を下ろし、控えめな目線を私に投げた。どうやら、ずっと見られていたとは思っていなかったらしい。即座に目が合うと、彼はわずかに目を見開き、それから物憂げに首を傾げた。


「お元気そうで――」


「ごめんなさ――」


 私たちは同時に話し出し、同時に黙り込んだ。気詰まりする静寂が訪れ、また振り出しに戻ったような気がした。すると、眠たげに壁にもたれていたハンスが口を開いた。


「当たり障りないことから話すのが礼儀ってものですよ。つまり、旦那様から」


 ユーリは渋い顔をして彼に目をやり、呆れた表情を返された。私は変わらずユーリばかりを見つめていた。ため息を原動力にするように彼は私に向き直り、気まずい挨拶を再開した。


「お元気そうで何よりです」


「ええ。あなたは、何と言うか……」


 元気そうだと言うのはほとんど侮辱的であるように思われた。私が言葉の代わりに微笑むと、ユーリはほとんどわからないあの微笑を返してくれた。間違いなく、私の目の前にいるのはあの恩人だった。


「見た目ほど酷くありません。これも自業自得なのです」


「それは彼女が……?」


 私の問いに彼は答えなかったけれど、その沈黙は諾ったのと同じであった。会話が尽きたので、私は口を噤んだ。彼もそうした。ハンスがため息をついたのでそちらを見てみると、彼は私に目で何かを促していた。今度は私が話す番だというわけである。私は先ほど口から飛び出した謝罪をもう一度引っ張り出すべきか悩んだ。今謝れば、ヨハンを悪者に定めることになる。それは私が一度ユーリにしてしまったことで、衝動的で確かな過ちだった。とはいえ、実際には選択肢はないのである。


「……ごめんなさい、黙って出ていってしまって」


「仕方のないことです。あの騎士が迎えに来たのでしょう?」


「最初からあなたたちが知り合いだったなんて思わなかったの」


「私がそれをひた隠しにしたからですよ。本当なら、あなたが目覚めた時点で状況をすべて明らかにし、あなたを預かるのは彼が支度を整えて国境を越えてくるのを待つ間だけでした。しかし、あなたの記憶がないとわかり……魔が差した、というのはどうにも無責任に聞こえますね。あなたの地位があれば、私の将来の展望も明るくなるかもしれないと、他でもない私が愚かな策を講じたのがすべての始まりですから」


「ええ、聞きました」


 私は滲んだ落胆が相手に嗅ぎ取られていないよう願ったけれど、きっと無理な相談であった。片目のユーリは余計に感情が見えなくなっていて、時間的かつ空間的な溝の深さを無視することはできなかった。私が来たことを本当に喜んでいるのだろうか。


「……自業自得なのです、何もかも。あなたの不幸に付け込み、その清らかさを、優しさを、私は裏切っていた。あなたが去ってからそのことに気付き、そしてこの傷を負ってから完全に目が覚めました。謝って許されることだとは思いません。ですが、せめてどうかこの謝罪を受け入れていただきたいのです。本当に申し訳ありませんでした」


 そのまっすぐな眼差しを撥ね退けることができる人間だったなら、私が自分の選択を疑い続けることもなかっただろう。例えばヒルダならそうしたかもしれない。けれど、おそらく、私はそちら側の人間にはなれないし、どう自分に言い聞かせたとしても、そうなりたいわけではないということを私の心が知っているのであった。私に彼の誠意を切り捨てる理由はない。


「もういいの。皆が嘘をついて、皆が間違った道を選んでしまった、それだけだわ。だから、せめて私たちはこれから、間違いではない場所を目指しましょうよ。誰かさんが引き起こそうとしている争いも放っておいて、遠くで静かに暮らせるわ。何もかも元通りというわけには、いかないでしょうけれど」


 私は早口に言った。屋敷で覚えた寂漠がまた込み上げてきた。私の言葉はユーリには意外であったと見える。危険を知らせてまで、私が彼に説教をすると思っていたのだろうか。私は腕を伸ばし、彼の手を優しく握った。彼は黙ってもう一方の手を重ねた。彼が愛でるように私の手を撫でると、安全な毛布の中で眠りに就くときのような心地良さを感じた。


「……本当に私でいいのですか」


 ユーリは心許ない声で尋ねた。私は咄嗟に手に力を込めた。それに応じて、私の手の甲を撫でる彼の手も止まった。私の頭の中にはいくつかはっきりしたことがあって、そのうちの一つは今の質問の答えになり得るものだった。しかし、私は自分でもこの意志と呼ぶべきものを読み上げたり認めたりするつもりはなく、語るのはなおさらあり得なかった。


「あなたでなくてはならないのよ。ねえ、私も一つ聞いてもいいかしら?」


「どうぞ、何なりと。包み隠さず答えると約束しましょう」


「馬鹿みたいなことよ」


「それがあなたの一面なら、もちろん受け入れます」


 その物言いはあまりに恭順で、私は自身の恨みがましい問いを引っ込めようかと束の間考えた。しかし、思い直す。あの日々がまったくの偽りであったか否かを知らないことには、あらゆる疑念を打ち消すこともできないとわかっていた。


「私を少しも愛していなかったの?」


 落ち着き払ってそう尋ねてはみたが、やはりその間抜けた響きは残った。私は彼が笑い出すのではないかと思ったけれど、彼は黙って私の哀願を吟味していた。やがて、彼は真摯に私の手を握り直した。


「そうではない、というのが率直な答えです。ですが、あなたの思うような意味ではないのかもしれません。私はあの屋敷にいた皆を、血以上のもので繋がれた存在だと常々思っていました。あなたが来てから、その認識は大きく変わった……もう一人、心から気にかける人ができるとは想像もしていなかったからです。子どもじみて聞こえるでしょうが、あの場所は、あそこにいた人々は、私にとっては宝石以上の価値がありました。あなたはその中で、異彩を放っていたと言うべき人でした。喩えるなら、幼い頃に夢見た幻の宝物、実際に目にするまでは存在も怪しい特別な何かだったのです……今更こう言っても、信じていただけないでしょうね」


 彼らしからぬ熱心さがその言葉にこもっていたので、私はつい呆然として閉口した。それらが不愉快だったとか、怖気をもよおしたとか、そういうわけでは決してない。しかし、私が願う以上のものが提供されるとは想像だにしていなかったのである。私が答えないのを不安に思ったのか、ユーリもまた言葉を発さず、私たちはただ互いの手の温もりを確かめ合った。横で、ハンスが居づらそうに咳払いをする。


「酷い口説き文句ですね」


 と、聞こえないことを祈るかのように小声で呟いている。ユーリはぎょっとして彼を見上げ、使用人は年長者らしくからかうような笑みを浮かべた。


「俺の尻が痒くなります。さて、あなた方の邪魔をしないよう、俺はアンナでも起こしてきますよ」


「アンナ?彼女がいるの?」


 私は思わず眉をひそめて尋ねた。二人は困ったように顔を見合わせ、ばらばらに頷いた。


「どうして?だって、彼女は……」


「仲違いは案外短く終わったそうですよ、リタさん。結局のところ、あいつに大切な旦那様の命を奪う度胸はなかったんです。目玉はさておきね。善行はいずれ身を救うってことが証明されたわけだ」


 ハンスはひらひらと片手を振って奥の部屋に消えた。私は改めてユーリの眼帯を眺めた。その下がどれほど悲惨なことになっているかなど、考えたくもない。痛みはなおさらである。私の視線に気付き、ユーリは眼帯に手を添えた。


「これは私が払うべき代償に過ぎません。彼女の抱えていた重責に気付かずにいた私にも問題があります。何はともあれ、子孫が引き継いでいくことになる確執を私の代で消し去ることができたなら、私はそれで満足です」


「あなたの悪いところは、お人よしがすぎるところだわ」


 私が言うと、彼は小さく声を上げて笑った。その柔らかい表情が好ましい。その美しい瞳を眺めるにつけ、私はあるべき場所に帰ってきた喜びがゆっくりと広がっていくのを感じた。これでいいのである。背後の物音に目を向けると、熟睡していたらしく目を赤くしたアンナの懐かしい顔が目に飛び込んできた。膨れ上がって弾ける郷愁に私は思わず立ち上がった。アンナは固い表情で私を見つめ返している。


「また会えて嬉しいわ、アンナ」


 そう言ってみると、彼女は訝しげに目を細めた。私が何も知らないのではないかと疑っているかのようだ。


「……ええ、ご無事で何よりでございます、リタ様」


 アンナの声は記憶していたよりも幾分か低かった。私は彼女に歩み寄り、すぐに堪らなくなって彼女を抱擁した。彼女はぎこちなく私の身体に腕を回した。けれど、私は彼女の与えてくれる安らぎをすぐに思い出した。彼女は確かに恐ろしいことをしたけれど、それが彼女の大地の如く大らかな心を消し飛ばしてしまうはずがなかった。


「ついてきたのはあなただけなの?」


「はい、ボーは屋敷を離れることを少しも考えず、レナは……少し前に出ていったので」


 その答えは歯切れ悪かったけれど、実際、私にとっては誰がどうしたかなど些事であった。アンナがここにいること、それだけが重要であるように思われた。私が一層強く彼女を抱きしめると、彼女は私の髪に指先で触れた。それはまさに琴線に触れるようで、私の心を酷く揺さぶるのだった。


「積もる話は後回しにして出発しませんか。村の連中は俺たちが長居するのを好ましく思ってませんよ」


 ハンスが言ったことで、私はアンナからそっと離れた。彼女は微笑んでいた。それは何も変わらないアンナであった。何一つとして、彼女が失ったものはなかった。ユーリが立ち上がり、ハンスに向かって頷く。


「ああ、そうしよう」


「当てはあるの?」


「ここから南下すると海に出るのです。海を渡ると、こちらとはほとんど交流のない国があるとか。その国でなら、ここでのしがらみも消えましょう。船の手配は済んでおりますわ」


 アンナは低くしっかりとした声で言った。ようやく落ち着いた生活が訪れるのだと思うと、安堵に膝から崩れ落ちそうになった。私の魂は長らく休息を求めていたのだ。おそらくは、記憶を失くすずっと前から。笑みと同時に涙が零れ、私は己の生をふと実感した。


「私たち、本当に静かに暮らせるのね?」


「そうなるよう、私が手を尽くします。我々の誰も、もう傷つかずに済むように」


 そう私に手を差し伸べるユーリが、私にどれほど美しく絵画的に見えたことか、とても筆舌には尽くし難い。新しい人生の予兆というのは想像よりもずっと凪いでいたけれど、まさにその安らかさが幸福を導いてくれるのだと、私にははっきりとわかった。たとえそれが誤魔化しだったとしても、偽りでは決してない。


 ユーリが扉を開けた。朝日が戸口から差し込み、私たちを見送ろうと煌めいていた。私は未来への確かな希望をその中に見出した――村に向かって歩いてくる一人の人物の姿を見止めるまでは。


 ヨハンだった。彼もまた、私に即座に気付いたようであった。私は戸口から中に戻り、このまま置いていってしまおうかと思っていた剣を慌てて抱えた。そうしたところで、状況が好転するわけではなかったけれど。


 皆が外に出たとき、彼は遠くからその様子を見守っているように見えた。表情は見えず、私は聖域のように感じられる家の中から出るのを拒みたくなった。しかし、ハンスが怪訝そうに急かすので、私は外に足を踏み出さざるを得なかった。


「あの……少し先に行っていてくれないかしら?」


 私は小声でユーリにそう尋ねた。彼はその隻眼でまじまじと私を見つめた。


「何か問題が?」


「いいえ……いえ、そうなの。問題が。すぐに追いつくわ。だから、皆で馬車に乗って、少し先で待っていてほしいの」


 私はさっとヨハンのいたほうに視線を走らせた。けれど、彼の姿はなかった。ともすると、私の気のせいだったのか。否、そうは思えぬ。とにかく、私はこの三人の目から逃れなければならないと確信した。けじめをつけるときが来たのである。そのようなことを知る由もなく、ハンスが合点がいかない様子で頬を掻く。


「それなら、ここで待ちますがね」


「ハンス!」


 私は咄嗟に不平を込めてきつく言った。きょとんとするハンスに、私は身振りで言う通りにするよう伝えた。というのも、上手く言葉が出てこなかったからである。何かを察してか、アンナが二人の男性を促して馬車に乗せてくれた。それでも、彼女も不思議そうに私を振り返ったけれど。


「じゃ、少し先で待ってますよ、ご所望通り」


 そう言って、ハンスは馬を動かした。馬車がすぐ近くで停車しないのを確かめてから、私は振り返ってヨハンの姿を探した。今度こそ、彼ははっきりと彼だとわかる場所に立っていた。私は馬車を追うようにして村を出た。もし言い争いになるのなら、人目のないところのほうがいいに決まっているし、ヨハンも言いたいことがあるなら追いかけてくるはずだ。しかし、どうしてここがわかったのやら。


 しばらく前だけを見据えて歩いていると、突然腕を掴まれた。暴力的なほどの勢いで引っ張られ、私は危うく転びそうになった。それだけで、ヨハンの機嫌が少しも良くないということはわかった。


「……行くのか?」


 当たり前だと言いたかったけれど、目すら上げられないのに強気に出られるはずがなかった。私は俯いたまま頷いた。ヨハンは私の腕から手を離した。


「それが君の選んだ道なら、そうすればいい。だが、剣は返してもらうぞ。君が持っているべきものじゃない」


 彼は冷静なふりをしていたけれど、吐く息に憤怒と憎悪を嗅ぎ取ることができた。私は意を決して顔を上げた。猛獣のような目が待っていた。とても忠義を尽くす人間には見えなかった。


「私のための剣でしょう?もういらないはずだわ」


「それは君が決めることじゃない!返せ、今すぐにだ」


 ヨハンが手を伸ばしてきたので、私はよろめくように数歩後退った。剣を力強く抱えると、不思議と彼に立ち向かう勇気が湧いてきた。彼のものだというのに、とんだ皮肉である。


「あなたが怒っているうちは駄目よ。これで何をするつもりかわかったものじゃないわ!」


「その剣は君に不幸をもたらすものを叩き斬るために存在しているんだ!現に今、血を流すべき人間が何人かいるようじゃないか!」


 と、ヨハンはぎらついた目を馬車の通った跡に向けた。なおさらこの剣を渡すわけにはいかなくなり、私はじりじりと近づいてくる男からもう一歩大きく離れた。


「あら、あの伯爵とか?あんな人、木剣で十分よ!」


「あの人は死んだ!」


 その絶望的な叫びは少しも私を揺るがさなかった。その死の予感はしていたし、まったく好いていなかったので、悲しくも何ともなかったのだ。頭が冴え渡り、私の手は冷たくなった。


「手が早いことね」


「俺がやったと?違うね、君の友人が毒を盛ったのさ!姉弟揃って、奴らは父親の死体を見て笑っていたぞ!あんな外道たちを俺は見たことがない!もう二度と笑えないがな」


 そう言って、ヨハンは悍ましい笑みを浮かべた。想像したくない屋敷の有り様が頭に浮かび、気分が悪くなった。彼の友人でもあるはずの人を平気で殺せるほど、彼に血が通っていないとは思っていなかった。私は考える、目の前にいる男は誰なのだろう、と。終焉だ、終焉だった。本当に私たちの関係はとっくに終わりを告げられていたのだ。


「……それがあなたの本性だというわけだわ」


「君は何もわかっていない……何もだ」


「あなたは私の何もわかっていないわ、ヨハン。これ以上私に関わらないで。私があなたを許せなくなる前に去ってちょうだい」


 できるだけ毅然と放ったその言葉は、私の最後の良心だった。このまま何事もなく、私たちは互いに背を向けるべきなのだ。どれだけ互いを想っていようとも、否、互いを想うなら、そうしなければならなかった。それを何故ヨハンはわかってくれないのだろうか。


「何故だ?何故なんだ!俺が愛し、俺を愛してくれた君はどこに行った?すべてを捨てて国をひっくり返した、そのお礼がこれか!」


「そのうわ言ならもう聞いたわ!去りなさい、私を大切に思うなら!」


「嫌だ……リタ、俺を捨てていかないでくれ……君を失うくらいなら、ここで死にたい」


 彼は糸が切れたかのようにまづき、私に縋りついた。私は退かなかった。されど、私の我慢は限界に達していた。


「……それなら、死になさい」


 鞘を地面に落とし、私は扱い方も教えてもらったことがないその道具をがむしゃらに下ろした。肩から肉を貫かれ、彼は低く呻いた。血が飛んだ。剣を抜こうとしたけれど、まっすぐに抜けず、閊えた切先が余計に彼を苦しめた。やっと剣先が抜けると、もっと血が飛んだ。彼は叫ばなかった。意外だった。


 刀身に目をやると、薔薇の紋様が赤くぬめり輝いていた。私はまごうことなき赤薔薇姫だ。剣を捨て、後退ろうとしたとき、また彼は縋りついてきた。血が余計に私の白い服を汚した。掠れた声で私の名を呼ぶ彼が可哀想になって、私は地面に膝を突いて彼を抱きしめた。彼が愛を囁くのを聞きながら、私は頬についた血を拭いたいとぼんやり考えた。そう時間を置かず、彼の呼吸が止まった。私は重い彼の両腕を振り払って立ち上がった。ずるりと地面に倒れた彼の姿は醜かった。


 どうして涙が伝うのか。ああ、しかし、これは悔悛の涙ではない。離別のために涙を注ぐのは何もおかしなことではなかった。私はひとしきり泣いた。涙が涸れたとき、私は随分長いことユーリを待たせていることに気が付いた。もう先に進む時分だった。


「……私も愛しているわ、ヨハン」


 もう届かない言葉を餞にして、私は彼に背を向けた。しばらく進むと、馬車が見えた。彼らは赤く汚れた私の姿を見て絶句した。それでも、ユーリは私に静かに手を差し伸べた。


「これで良かったのですか」


 それはほとんど問いかけではなかった。私は頷き、彼の手を取らずにその胸に飛び込んだ。彼は汚れた私を受け入れた。たったのさっきまで、私は同じように別の人の首筋に頭を預けていたのだ。その人はもうこの世にはおらず、そしてユーリは生きて私を抱きしめていた。私に必要なのはそれだけだった。私たちは馬車に乗った。アンナは何も言わなかったけれど、ハンスは私をやけに澄んだ目で見つめた。


「そこまでする必要があったんです?」


 それは純粋な疑問で、非難も侮蔑も少しもこもっていなかった。ただ、道端で出くわした知人に近況を尋ねるような調子だった。だから、私は取り乱さなかった。


「棘があったら刺さるでしょう」

おわり!!!!!!!!!!!!!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ