どことも知らぬこの場所で
ご辛抱くださいませ
解けた意識を撚り合わせ、私は目を覚ました。鈍い灰色の天井……私の知らないものである。けれど、何を知っているかと聞かれたなら、私には答えることができないだろう。まるで、背後を振り返ろうとする度に、目隠しをされているかのようだ。眠る前まで何をしていたのか、私には思い出せない。
一体何なら覚えているのだろうかと、私は記憶の中の足元を探った。指先に当たったのは、名前だった。リタ。そう、私はリタである。今のところ、ただのリタらしい。家名は落ちていなかった。
この名を思い出すのが限界だとわかると、私の意識は周囲の様子に吸い寄せられた。この天井を見たことがなかったのだから、部屋を知らぬのも当然である。身を起こして見てみると、そこはよく整えられた一室だった。豪奢な家具が品良く佇んでいる。金の装飾が施された小さな時計は、二時を指していた。帳の向こうが明るいから、昼間なのだろう。さて、ここは私の部屋だろうか。否、とても馴染みがあるとは言えない。
そうしてしばらく頭を上げていると、頭痛に苛まれた。手を当てると、額に包帯が巻かれていることがわかった。傷があるらしい。だからだろうか、私の記憶がないのは。それならば、徐々に思い出すこともあろうが。
奇妙な忍耐力で起きていると、部屋の扉が静かに開いた。入ってきたのは誰かの侍女らしい。私と目が合うと、ぱっと微笑を咲かせ、急いで、しかし実にしめやかな所作で、こちらに歩み寄ってきた。
「お目覚めになられましたか!お加減はいかがですか?」
「頭が少し痛むくらいですわ。あの、ところで、ここは一体どちらなのでしょう?」
私が尋ねると、侍女は誇らしげに胸を張り、自信に満ちた口調で言った。
「こちらはゲルトガ辺境伯のお屋敷でございます、お客様」
その名にも、やはり聞き覚えはなかった。私が小首を傾げるのを見て、侍女もまた頭を軽く横に倒した。
「ご存知ありませんか?」
「実は、記憶をなくしているようで……わかるのは、自分の名だけなのです」
「なんと……」
侍女は片手を口元に添え、憐憫の情を私に向けた。それから、気を取り直したように私の傍に跪いた。
「あなた様のことは、旦那様が偶然発見なさって、お屋敷にお運びになったのです。森の中で倒れていらっしゃったと聞いております」
「それはいつ頃のことでしょう?」
「二日前のことでございます」
なるほど、私は丸二日眠っていたということか。私は考え込もうとしたが、上手くいかなかった。頭はやはり痛んだし、ない記憶はかき集めて復元することもできない。私の困惑を察してか、侍女はまた優しい顔つきになって、やおら立ち上がった。
「あなた様がお目覚めになったことを、旦那様にお伝えして参りますね。それから、お客様、お腹は空いていらっしゃいますか?」
そう尋ねられて、私は初めて空腹を意識した。ずっと眠っていて何も食べていないのだから、何か口にする必要があるのも当然であった。けれど、事情はどうあれ、ただ拾われた身で、図々しくも食事を要求してもいいものだろうか。私が躊躇っていると、それを見かねたように、腹が大袈裟なほどの音を立てた。頬が熱くなり、私は咄嗟に腹に手を当てた。侍女は大きくは笑わず、かといって白けた態度を取るでもなく、扉から恭しく頭を下げた。
「ご用意いたします。どうぞお休みになってお待ちくださいまし」
侍女は風のように去った。見ていなければ出ていったとわからなかっただろう。私は彼女の言葉の通り、もう一度寝そべった。この頭を支えるには、私の首はあまりに貧弱であるような気がした。陰気な天井を眺めつつ、私は侍女の名を尋ねれば良かったと思った。また機会はあるだろうけれど。
私はいつの間にか重くのしかかっていた瞼を開けた。自分で理解していた以上に疲弊しているようだ。しかし、時計の針は半時間ほどしか進んでいなかった。時の流れに置いていかれていないことに私は安堵した。
それから、私は侍女が屋敷の主人に私の容態を伝えにいったことを思い出した。私が眠ってしまった間に、その主人はここへ来ただろうか。そうだとしたら、悪いことをした。
私はしばらく天井を注視した。起き上がる気には到底なれなかったし、他にすることもないのだ。あの灰色を眺めるのに力を入れる必要はないので、代わりに私は耳を澄ませた。随分静かなものだった。けれど、やがて、廊下をかたかたと進んでくる音が聞こえてきた。待っていると、その音は部屋の前で止まった。扉を几帳面に叩く音がしたけれど、私に答える気力はなかった。扉が開き、あの侍女が顔を覗かせた。
私が起きていることに気が付くと、彼女は母親がするようなやり方で目を細めた。扉を大胆に開けて、台車を丁寧に引き入れる。そこには軽い食事が乗っていた。茶器があるところを見るに、温かいお茶を淹れてくれたのだろう。私はそれが欲しくて堪らなかった。
不躾であることは承知で、私は彼女がお茶を注ぐや否や茶碗を手に取り、口元で傾けた。生命の息吹が身体の中に吹き込んでくる心地がした。勢い余って半分ほどお茶を飲んでしまってから、私はできるだけ静かに茶碗を置いた。品性に欠ける振舞など、初めからしていないかのような顔をして。それから、私はまだ礼も言っていなかったことに気付き、すぐに感謝の言葉を放った。それはあまりに早口で、慌てていることを隠すのには役立たなかった。
けれど、侍女は私の戸惑いを、さもありなんといった顔つきで受け止めてくれた。彼女は寝台の横に椅子を置き、そこに腰掛けて、粥を匙に取った。それが程好く冷めていることを目で確かめてから、匙を私の顔に近づける。そこまでしてもらうのは忍びなく、私は遠慮しようとした。しかし、そんな素振りを見せようとするが早いか、彼女は穏やかに微笑むではないか。
「あなた様をよくお世話するようにと、旦那様より仰せつかっております。私といたしましても、あなた様から目を離してお一人にするのは大変心苦しいのです。もちろん、あなた様がどうしてもと仰るならば、退出いたしますが」
「いいえ、お忙しいのではないかと思って。お言葉に甘えることが許されるのなら……」
そうして頼りきりになるのは、どうにも酷く恥じ入るべきことであるように思われた。だから、私の言葉は尻すぼみになったけれど、侍女はすべて理解しているかのように、落ち着いて頷いた。私は改めて差し出された匙を口に含んだ。その粥は格別に美味であった。私は全身が震えるような空腹を思い出し、忍び寄ってくる粥を夢中で貪った。所作を気にしている余裕は、飢えた私にはなかったのだ。
私たちはこの儀式を無言でやり通した。粥を完食した私を、侍女はある種誇らしげに見つめた。皿を片付け、早々に出ていこうとする彼女を、私は急ぎ引き留めた。
「お名前を伺っても?」
「アンナと申します。以後お見知りおきを、お客様」
彼女は慇懃に会釈をした。その動きは実に正確であるように思われた。少なくとも私は知らぬ規範から、少しも外れていないかのような、自信に満ちた優雅な仕草であった。私は彼女に魅せられ、彼女が客と召使との間に盤石に作り上げた壁を、何としても取り払いたい欲求に駆られた。
「リタ……リタとお呼びになってください。この名こそ、私の記憶するすべてです」
私の場違いな熱心を、アンナは拒絶しなかった。受け入れたかどうかもわからなかったけれど。彼女は右に小首を傾げた。
「もう少し、お眠りになりますか?それとも、旦那様をお呼びしてもよろしいでしょうか?」
「どうぞ、そうなさって。もしや、その方は一度こちらにいらっしゃいましたの?」
「さようでございます。あなた様が眠っていらっしゃるのをご覧になり、旦那様は半時間後に間に合うようお食事をご用意するよう私に命じられました。そして、あなた様はちょうどお目覚めになりました……そうしたことをぴたりと言い当てることに関しましては、旦那様に敵う方を見たことがございません」
アンナは少々いたずらっぽく笑った。なるほど、摩訶不思議な予言である。私の胸は期待に躍った。この屋敷の主人は、きっと何かしら興味をそそるような人間であるような気がしたのだ。私はつられて微笑みながらアンナを見送った。
しかし、一人になると、言いようのない不安がこの心を覆い尽くした。この部屋において、私のものであるのはこの身体ただ一つ。不可侵であるはずの記憶でさえ、ほとんど私のものとは言えないのだ。寒気がするのは、身体が弱っているせいだろうか。それとも、私があまりに孤独に気付かずにいるから、奇妙な霊感が働いたとでもいうのか。
突如として、私は屋敷の主人に会うのが恐ろしくなった。私がこの部屋を所有していないどころか、この部屋、ひいては屋敷こそ、私を所有してなどいないのだ。水の中に油を落としても馴染まぬ。それならば、どうしてその油を掬って捨ててしまわないのか。顔を合わせれば最後、屋敷の主人に追い出されてもおかしくあるまい。
アンナの話から抱いた期待と自ら見つけ出した恐懼の間で、私は哀れにも揺れた。未知とは服の裾や髪を執拗に引っ張るものであり、また、振り返れば笑い声をこの顔にぶつけようとするものである。けれど、私は振り返りはせず、しかし歩みもせず、寝台の上で芋虫のようにまごついていた。そこへ、遠くから、こちらへ向かってくる行列の足音がした。
私が行列と言ったそれは、間違いなくアンナとその主のものであった。他に誰かがいるにせよ、せいぜい一人か二人である。しかし、迫り来る音の気迫は何十人にも勝るものだった。私はなおのこと恐れ戦いた。邪魔な客人を追い出してやろうという、確固たる決意の表れである気がしたのだ。
行く当てもない私は、寝台の上に留まってじっと扉を見守ることしかできない。そう主張するかのように、私はその通り釘付けになっていた。やがて、行進は扉の前で止まり、それまでの物音と裏腹に控えめなアンナの手によって、来訪が知らされた。私が待つまでもなく、扉が開いた。
先を立って入ってきたのは、若い男性であった。すっきりとした身なりだが、髪だけは気ままに伸びて、乱雑に結わえられていた。彼は私を見て、どこか満悦したようであった。医者だろうかと、私は訝った。
彼に続き、アンナが部屋に入った。彼女はさっさと扉を閉めてしまうと、門番よろしくそこに佇んだ。他に入ってくる者はいないのだ。私は困惑して二人の顔にそれぞれ目線を投げた。知らぬほうには刹那、知るほうには永劫と思われるほど。そうしようと思ったわけではなかったけれど、自然と目が泳いだのだ。
「峠は越しましたか」
彼は言った。最初に立った場所から、足先すら動かそうとしない。私は変わらず呆れてじっとしていた。彼が質問したのか、独り言ちただけなのかわからなかった。互いにぼんやりと見つめ合ううちに、彼は私の当惑に気付いたようであった。
「これは失礼を。私はゲルトガ家当主、名をユーリと申します」
「当主……?」
私はますます呆気に取られた。当主を名乗るには、彼は少々若すぎる。せいぜい私より一つ二つ上であるほどだろう。彼がそうした私の反応など見飽きたと言いたげな顔をしたので、私は礼を失したのだと気付いた。目覚めてからずっと、愚かしい行動ばかり取っている。
「あの――」
私が慌てて口を開いたのを、ゲルトガ辺境伯は素早く片手を上げて制した。
「いえ、お構いなく。何はともあれ、あなたが目を覚まして良かった。記憶を失ったと聞きましたが」
「ええ、記憶しているのは名前だけ……リタと申しますの。けれど、どこのリタとも存じ上げません」
「それだけわかれば十分です。あなたが救いを必要としていたことは変わりません」
彼は必要以上の淡白さと素早さで切り返した。その言葉が親切から来るものなのか、はたまた事実の羅列であるだけなのか、私は判断しなかった。まだ救いを必要としているということを訴えねばならないという考えに支配されて。そこで、私は寝台から飛び出さん勢いで――この足で立つ力があったなら、実際にそうしていただろう――彼のほうに身体を傾けた。
「寛大なる辺境伯、どうかそのお慈悲に縋らせてくださいまし。私はこの地上において孤独にございます。よすがとならん人々の顔や声色さえ思い出せず、忘恩の罪に身を焼かれないとも限りませんが、それ故に一層、あなた様に情け深いご対応をお願いするのでございますわ。ほんの数日でも構いません、何卒、今しばらく私をこちらに置いていただきたいのです。そうでなければ、私はどこから来たリタであるのかさえ思い出せぬままに散りゆくことになりましょう」
一息に言い切って、私はぴたりと黙り込んだ。我ながら、よく口が回ったものだ。私が突然壊れたからくり人形のように口を動かしたものだから、辺境伯もアンナも面食らったようであった。私の言葉が途切れたとわかると、辺境伯は鼻から深く息を吐き出した。よもや、私の願いを図々しいと思ったのではあるまいか。
私は今度は彼からほとんど仰け反るように身を引いた。彼は初めて立ち位置から動き出し、先ほどアンナがしていたように、寝台の横に跪いた。彼が下から見上げてくるので、私もいつまでも顎を上げているわけにはいかなかった。改めて目を合わせると、彼は美しい瞳をしていた。言葉で飾り立てるのもおこがましいほど、美しい瞳を。
「あなたは何とも大袈裟な方らしい。ですが、それも私の容貌のためなのでしょう。私がよく笑う性質ではないということを、初めにあなたにお断りしておく必要があります。私が笑わないのは、不満や怒りを抱えているからではないのです。話せば長くなるでしょうか……ひとまず、あなたを追い出すつもりはないと、ここで明言しましょう。あなたの傷が癒え、また、記憶がその頭と心の奥底から蘇るまで」
彼は随分ゆっくりと話した。その間に、私は彼の声色が、この部屋に入ってきて最初の一言からずっと穏やかだったのだと気付いた。彼はその言葉の効果のほどを確かめるように、不動のまま私にまっすぐな眼差しを送り続けた。私はたじろいだ。
「しかし、辺境伯……」
「そのように私を呼ぶ必要はありません。私はユーリです。あなたがリタであるのと同じように。そう呼んでも構わないでしょう?」
と、彼は笑おうとするかのように片目を細めた。彼なりの茶目なのか、ただ顔をしかめただけなのかはわからない。おそらく後者だろう。彼は私を叩き出すほど不親切ではないらしいけれど、だからと言って、別段私を好いているわけではないのだ。私は用心深く頷いた。すると、彼はさっさと立ち上がってしまった。
「では、あまりあなたを疲弊させるわけにはいかないので、私は失礼します。何かあれば、アンナに」
ユーリ――そう呼ばねばならないらしい――は私に背を向けて言い、アンナが開いた扉の向こうへ飲み込まれた。私は指一本動かせなかった。それだけ気を張り詰めていたし、その褒賞となるほどには、自身の置かれた状況を解していなかった。アンナが傍に近寄ってくるのにも気付かなかったほどだ。
「リタ様、どうぞお休みになってくださいまし。いまだ万全ではいらっしゃらないのですから、あまり長く起きていてはお身体に障りましょう」
そう言って、彼女が優しく私の頭を枕に乗せようとしたので、私はされるがままにした。アンナが出ていく音を聞きながら、私は目を閉じた。そして、考える。
とにもかくにも、しばらくはここに置いてもらえることになったのである。何を怯える必要があろうか。頭ではわかっていたものの、妙な胸騒ぎは止まなかった。帳と窓の向こうから微かに聞こえる嵐の音を聞いているような気分であった。絶対に外に出てはならないと、霊魂の類が告げているとさえ思われた。
思い巡らすうちに、嫌な考えが背をなぞった。私は誰かから逃げているのではなかろうか。この頭の傷も、ただ転んでできたものとはとても思えぬ。誰かに追われ、傷を負い、倒れ、拾われた……ありえない話ではない。曖昧だが簡潔な筋書きに私は身震いして、より強く目を閉ざした。そうすれば、恐ろしい想像と恐怖を閉め出すことができるかのように。
それから数日経ってもなお、ゲルトガ邸は一向に私を受け入れる気配を見せなかった。私がこの部屋から出ることは稀であり、かつアンナ以外の人に会うこともなかったからだろう。アンナは懇ろに私を世話してくれた。他にも使用人はいるようだのに、彼女ばかりがやってくるのはいささか奇妙だ。けれど、私は気にしなかった。彼女は私の安寧と静謐だったからである。
アンナのおかげで、衰弱していた私はすっかり快復した。そろそろ寝台を離れることもできようか。そう思い、私はアンナに、散歩へ行きたいと告げてみた。彼女は大層喜んだ。まるで、愛娘が初めて自分の足で立ったところを目撃したかのように。この数日のうちに随分仲良くなったこともあるだろうけれど、それにしても、その母性は一体どこから生まれ出ているのやら。彼女もまた大きく歳が離れているわけではないというのに。
アンナは私を手伝って真新しい服を着せた。外套でしっかり私を包み、襟巻を優しく私の首に回し、この髪を丹念に梳いて、ようやく彼女は満足した。それから、彼女は自らも素早く着込み、私を庭園へ連れ出した。
その庭園は、私の想像よりもはるかに広大だった。私が使っていた客間からは、そのほんの一部しか見えていなかったとはいえ、一体誰が湖と聞いて海を考えるというのだろう。花々は満ち足りて互いに噂話を楽しみ、低木も誇らしげに、よく整えられた葉を揺らしている。少し遠くにある高木は、ただでさえ広いこの庭園を、さらに広く見せようとしているかのようである。鳥は歌い、虫は喜び、空までもが清らかさを増していた。どこを見てもよく世話をされており、この楽園には欠点の一つもなかった。
私は固より病み上がりで遅い足取りを緩め、感嘆しながら緑の中を歩いた。アンナは辛抱強く私に付き合った。というよりも、彼女もまたこの場所を賛美していたのだろう。彼女は小鳥を見つけては私の注意を促し、花の横を通り過ぎる度にそれらに挨拶をした。何と長閑で幸福な昼下がりだろう。私たちは姉妹のように連れ添い、存分に庭園の隅々を堪能した。
そうしているうちに、向こうに、こじんまりとした園壇が見えてきた。晴天の空をささやかに泳ぐ雲よろしく真っ白で、計算高くさえ見えるほど自然に、その白を可愛らしい花と豊かな緑の蔓が彩っていた。まるで、御伽噺の中に夢想する景色のようであった。その小さな屋根の下に、彼の姿があった。
「旦那様は、よくあのように庭園でお過ごしになるのですよ」
私の目線に気付いてアンナは言った。園壇とユーリとでは、私の中で前列に来ていたのは彼のほうではなかったのだけれど、アンナは思い違いをしたようであった。彼女は忘れているのか、私が一度しか彼と顔を合わせていないということを。
「そうでしたの」
「ご挨拶に伺ってはいかがでしょう?あなた様が快復されたのをご覧になれば、旦那様も大層お喜びになると存じますわ」
アンナは親切に言った。私は考えた。もちろん、一宿一飯どころではない恩を受けておきながら、直接礼を述べる機会を見なかったことにするなど、不躾以外の何ものでもないけれど。それでも私は思うのだ、彼が記憶喪失の居候になど興味を示していないだろう、と。彼はあの日、熱心に無関心を否定したが、それはなおのこと私の疑惑を深めるばかりだった。
とはいえ、やはり黙って帰るわけにはいかないので、私はアンナに連れられるままに園壇に向かった。ユーリは私たちが十分に近づくまで顔も上げなかった。ああ、やはり私などは、と早々に後悔し始めたとき、彼はぱっと目を上げ、ぎょっとしたように私たちを見つめた。それから、膝に乗せていた本を閉じて傍の机に置き、立ち上がった。その動作は型でもあるかのように狂いがなかったが、それ以上に俊敏であった。
「失礼、あなたたちのいることに少しも気付かないとは」
彼はやはり笑わなかったけれど、私を突き放してやろうだとか、迷惑だと知らしめてやろうだとか、そういった意図を私に感じさせることはなかった。落ち着いていて、物腰柔らかで、そしておそらく理性的なのだろうと私は直感した。
「お邪魔してしまったようで、恐縮でございます」
「何を言います。あなたがあの寝台から降りて歩いている姿を見ることができ、これでも嬉しく思っているのですが。ここ最近で一番だと思えるほどには」
「まあ、心休まることのない日々を送っていらっしゃるのですね」
嫌味のつもりは毛頭なかったが、そのように聞こえたであろうことは容易に察しがついた。けれど、ユーリは鷹揚に頷いた。心なしか、口の端を持ち上げて。
「否定はしません。人が健やかである様子を喜ぶ心がこの私に残っているのもまた、確かでしょう。私はそのことも好ましく思っているのです」
完敗である。勝負をしていたわけではないけれど。身構えていた私の心はあっという間に脱力した。自然に浮かぶ微笑みを隠すのは愚かなことだと思ったので、私はそうしなかった。絶妙に沈黙の間を縫い、私の影にでもなってしまったのかと思われたアンナが進み出た。
「旦那様、お茶をご用意いたしましょうか?」
「ありがとう、アンナ。リタ、あなたもいかがですか?それとも、あまり外に長居はできないでしょうか。今日は少々冷える」
私は目を泳がせた。予想のできた誘いとはいえ、本当に彼がそうするとは思えなかったのだ。依然として、彼は私の中で堅牢な城なのであり、私は城に入ることはおろか、門の前に立つことすら許されていない気がしていた。その門がおもむろに開かれれば、誰しも戸惑い、警戒するだろう。
それでも、私に断る権利もまた、ないのである。そう明言する者がいないとしても、あるいはそのように考えている者がいないとしても、そうなのである。なので、私はありがたく申し出を受けることにした。彼は病後と言うけれど、結局この額の傷故に起き上がるのが困難であっただけなのだから、この身体にも何ら支障はないはずであった。
アンナは承知するなりその場を後にした。ユーリは私に手を貸して、彼の向かいの席に座らせてくれた。自分の席に戻ると、彼は机に置いた本を手に取った。が、すぐにそれを閉じたまま膝に乗せる。私の顔をさっと窺ったところを見るに、その動作に私が気付いたかどうかを気にしているのだとわかった。つまり、彼はほんの癖で、読書に戻ろうとしたのだ。私のことを一瞬のうちに忘れて。
「どうぞ、お読みになってくださいまし」
気詰まりする沈黙を味わうくらいなら、本の頁をめくる音を聞いているほうがずっとましである。私を冷たい人間だと思わないでほしい。私はとにかく私自身が場違いであるように思えてならないのであり、そう思わせてくる人物の見ている前で、のうのうとお茶を啜る自信など持ち合わせていないのだ。
けれど、ユーリは私がどう感じているのかなど知る由もないので、律儀に本を手放し、私の顔をじっと見つめた。ゆったりと背もたれに身を預けている様は、後景の洒脱な緑によく似合っていた。
「私を恐れていますか、リタ?」
唐突に彼は尋ねた。私は狼狽した。まるで、この頭の中をすっかり読まれているようではないか。それとも、彼は顔を読んだだけなのか。
「いいえ、滅相もございません、ユーリ様」
「無理もないでしょう。記憶はなく、頭に負った傷で碌々動けず、ようやく窮屈な部屋を抜け出してみれば、愛想のない男の茶の席に付き合わなければならないとすれば」
彼は私の言ったことなどてんで無視してしまって、無表情で言ってのけた。小首を傾げ、豊かな睫毛を穏やかに揺らしているところは、別段怒っているようには見えないけれど。私が彼は何も感じないのではないかと思うのも当然だろう。何にせよ、私もまた彼の言葉に返したくはなかった。
「素晴らしい庭園ですわね」
それは本心でありながら、彼から目を逸らす口実でもあった。私はアンナがいつ戻ってくるのかと気を揉んだ。
「父の趣味です。他界して随分になりますが、手を加えるのをやめようものなら、天罰でも下るのではないかと思って」
「間違いありませんわ」
私は庭園の維持を選んだことに対してそう言ったのだが、彼はどうも違う意味に捉えたようだった。
「ええ、雷の一つや二つ、平気で落とせそうな人間でしたから」
彼もまた、私ではなく緑に目を向けていた。その眼差しは優しく、かつての記憶を撫でているようであった。息子としてのユーリを想像することはできなかったけれど、この庭や屋敷の中で繰り広げられた日々は、彼にとって決して不幸の種ではなかったに違いない。
「仲はよろしかったのですか?」
「この頃のことを考えれば、良かったほうでしょう。……記憶をなくしているのなら、国の情勢もご存じないのでは?」
まったく彼の言う通りであった。私の知る世界は、今のところこのゲルトガ邸だけである。むしろ、この外にも世界が広がっていることが驚きであるほどだ。私は素直に頷いた。彼は肘掛けに肘を突き、手で頬を支えた。また遠い目をしているが、今度は、その色はひどく冷ややかだった。
「昨今は、とても平穏とは言えません。我が国ゴートルーは、長らく続く貴族同士の争いで疲弊していますから」
「貴族が?」
「ええ、何とも滑稽な話です。始まりは祖父の世代だそうで、何でも、世継ぎのいない王が崩御したのが火種になったとか。当時、八貴族と呼ばれていた家々のうちから、国王を選び出そうという話が出たのです。当然、彼らは激しく争いました。と言っても、武力を使わぬ、陰湿で醜い蹴落とし合いでしたが。それは父の代まで波及し、その頃には、八つあった家系は五つまでその数を減らした……そうして、この争いに終止符を打つべく、同盟という形で共和政が取られたのです」
そこまで言って、彼は深々とため息をついた。めでたしと言うにはまだ早いというわけである。私はくたびれて見える彼の言葉を継いだ。
「にもかかわらず、王政に戻し、冠を戴こうとしている貴族がいる……?」
「その通り。誰も認めはしないでしょうが、水面下で火種は燃え続けています。ですから、父は私に、どんな人間にも弱みを見せぬよう教えました。愛想をかなぐり捨ててでも、存続の道を選ぶように、と。喜びなどという感情は、自分で学ぶしかなかった。少しは言い訳になっているといいのですが」
と、彼は私を射抜くように眺めた。空気が張り詰めるように感じて、私は慎重に首を縦に振った。彼の言わんとしていることはわかる。しかし、目で見ようが耳で聞こうが、そのことが事前に得た印象を簡単に拭い去るということは稀である。目下、彼は私にとって、ただ悪い人間ではない何者かでしかない。
私はさながら彼の眼差しという糸に絡め捕られた虫であった。今にも狼狽が表に飛び出してこようとしたとき、向こうからアンナがやってくるのが見えた。私は安堵して彼女に熱心な目線を投げた。彼女はそれに気付いたに違いないけれど、足取りを速めることはなかった。それに、お茶の支度をするや否や、ほとんど口も利かずに去ってしまった。仕方がないので、私はお茶に救いを求め、茶器に見惚れてみたり、じっくりと香りを楽しんだりした。私よりひたむきに同じことをしていたユーリは、またふと口を開いた。
「その争いですが、近頃また動きを見せているのです。隣国の内乱に呼応してのことだとすれば、先日の革命を受けてさらに激化するでしょう」
「革命とおっしゃって?」
私は思わず聞き返した。革命などは、日常的に起きることでは決してない。だのに、彼はそよ風が吹いた程度にしか思っていないように見えた。
「王家の人間が軒並み処刑されたと聞いています。あちらは、この国とは違って武力行使が多いらしい」
「でしたら、そのうちにこちらでも剣を抜く輩が出てくるのではありませんこと?」
また、不安が身体の奥底から腕を伸ばしてきた。誰かから逃亡しているという仮説が起きてきて、頭の中をやかましく駆け巡り、背中にじっとりと手を置く。ユーリは敏感に私の感情の転覆を読み取ったようだった。
「ありえないとは言い切れません。私はあなたが、どちらの国のものかはさておき、内乱に巻き込まれて怪我を負ったのではないかと考えています。ですから、せめてあなたの記憶が戻るまでは、ここに引き留めたいのです」
「……けれど、それでは迷惑になるのでは」
「私がそのように思うなどとは、どうか考えないでください。内乱の影響で、目に見える以上に、そこここに危険が潜んでいます。そんな中に、記憶さえなくして無防備なあなたを放り出すようなことは、決してしません。これでも万人への愛というものを、私も持っています。そして、私は恩を売るような真似もしません。私が屋敷の主だからと、あなたを下に見ることもありません。対等な関係として、あるいは友人として、私の元に留まってほしい。わかっていただけますか?」
彼は相変わらずの無表情だったけれど、その真摯な口振りは、見事に私を傾かせた。意地を張るのは私の得意分野らしいことはすでに自覚しているが、これ以上その性質を遺憾なく発揮しては、かえってそれが迷惑になるだろう。何にせよ、記憶のないうちは、一人で立っていることなどできはしない。
「よくわかりました。ご厚意に感謝します……ユーリ」
私が態度を和らげたことに、彼は満足したようだった。私たちはそのままお茶を楽しんだ。特別な会話はなかったけれど、私の気はこの上なく安らいでいた。あらゆるものを敵と見做し、刃物の柄を握りしめ続けるのは、ひどく人を疲弊させるものである。
ありがとうございます




