72:新たな日々(ジャズ視点)
「あれっ……ここは────?」
不思議なことに、目が覚めるとあの世界とは別の世界にいた。自分に都合の良い夢でも見ているんじゃないかと、思わず頬を抓ったくらいにふわふわとした不思議な気分だった。
なにせ、“そこ”での俺は全く違う人間として生きていたのだ。慌てて妹を探してみたがこの世界には存在しないようで、それはつまり……もう“妹”を殺され続けなくてもよいということでもあった。
妹が死なない世界。それだけで俺は浮足立っていたのだ。
そして気が付くと、自然とまた絵を描く仕事をしていたけれど……もう二度と“妹”の絵は描かないと決めていた。それに、自分の描きたい時だけ絵を描いて養父の仕事を手伝う今の生活は嫌いじゃない。俺を拾ってくれた養父には感謝しかなかった。
それでも画家として仕事をもらうことは何度かあったが、俺の絵はあの頃のように持て囃されはしなかった。なぜかそれがホッとするなんて本当に不思議だ。だからといって画風を変える気もないし、不評ならそれはそれで構わない。自分の描いた絵が不評で喜ぶ画家なんて俺くらいだろうな。なんて思ったらなぜか心は軽くなって笑みが込み上げてきた。
だんだんと、ここがどこだかはわからないままだがそれでもいいと思えるようになっていた。それが自然なのだと、受け入れられたのだ。
そして数年が経った頃……この新しい世界で偶然にも、あの“悪役令嬢”に出会ってしまった。その時の雷に打たれたような……それでいて静かな衝撃は永遠に忘れられないだろう。
ただ、まるで妹が生きているような錯覚に陥った。“妹”が、この世界に……生きているのだと。
俺の描いたイラストそのままの“悪役令嬢”が目に見える所に居て……「あぁ、ここは俺が作った“あの世界”なのだ」と漠然と思った。そして涙を堪えた。例え夢でもいい……なにせ、奇跡が起きたのだから。
でも、だからこそ。自分が“絵”を描いたらそのせいで“妹”が辛かった過去を思い出してしまうような気がして絵を描くのをやめた。後悔なんてない。妹が好きだと言ってくれた絵だからこそ、これ以上あの子をこの絵のせいで不幸にはしたくない。
別に願掛けというわけではないが、“妹”が……セリィナお嬢さんがもしも俺と同じだったら……。そうであってもなくても、思い出さないで欲しいのだ。ツラい過去など忘れたまま、これからを幸せに生きて欲しい。
今の“セリィナお嬢さん”は“俺の妹”ではないけれど……それでも、ライルさんと手を取り合って笑っているその姿を見ていたかったから。
それでも、我慢出来なくて一度だけ“セリィナお嬢さん”の絵を描いたが……これを世に出す気はなかった。まぁ、旦那さんに没収されたけどな。
***
「ジャズったら、呆けてどうしたの?」
なんとなく空を見ていたら最愛の妻が首を傾げながら声をかけてきた。その可愛らしい仕草に思わず笑みがこぼれそうになる……が、感情を出すのが苦手な俺は「ああ……」と呟くだけになってしまった。過去のトラウマのせいか、誰かと対峙するのは苦手だと感じてしまう。愛想笑いをしながら握手をしていた自分を思い出してしまうからだ。
しかしサーシャは無愛想な俺を見てクスッと笑みをこぼす。
「また考え事してたのかしら」
そう言ったサーシャの笑顔がやけに眩しく感じて俺は目を細めた。
あの日、もしも彼女が俺の所へこなかったら俺は今の幸せを手に入れてはいなかっただろうと思う。そう考えたら愛おしさが溢れてきた。なにせ、俺に新たな居場所を与えてくれて家族になってくれた人だ。感謝を伝えたいといつも思っているのにそれが上手く言えなくて、俺はそっと目を伏せた。
「……いや、なんでもない。セリィナお嬢さんはどうだった?」
「ふふっ、2週間ぶりにライルさんに会えるってはしゃいでいらっしゃったわ。正式に婚約者になったのに旦那様がデートさせてくれないって拗ねておられたけどやっとお許しが出たみたい。旦那様も往生際が悪いわよね」
その様子を思い出してクスクスと笑うと、サーシャは愛おしそうに目を細めた。セリィナお嬢さんが幸せなのが嬉しくて堪らないそうだが、子爵家に嫁入りしてしまったらもう今までのようにお世話が出来なくなるのが寂しいらしい。
それにしてもライルさんがセリィナお嬢さんと婚約するとは思わなかった。なぜなら、ライルさんが本当にシークレットキャラならば……俺はそこまでプログラムしていないからだ。悪役令嬢を助けて欲しいとは思ったが、恋愛の対象にするつもりはなかったのである。まさかあんな相思相愛……いや、徹底的に溺愛されているセリィナお嬢さんを見ることになるとは思わなかった。
……もしかしたら、あんなプログラムを作ったっていうのはただの俺の妄想なんじゃないか?ここには悪役令嬢もシークレットキャラもいない……普通の世界で、あの乙女ゲームの世界でも俺の復讐の為の世界でも無いのではないか……時々そんな事を思ってしまう。
この世界は……セリィナと言う少女が最愛の人と幸せになる為の世界なのだ。と。
それにしても、と。セリィナお嬢さんと旦那さんのやり取りが手に取るようにわかるなと思った。旦那さんはセリィナお嬢さんの事となると羨ましいくらいに感情が豊かだ。
「……あのふたりのデートなんて今更だろ?ライルさんなら門限に間に合うように帰してくれるだろうに旦那さんは心配性だね」
「そうよね。それに、ウォーグくんなら3日かかる道のりも1日で往復するだろうし……あの馬車、高速で移動してるのに中は全然揺れないものだから毎回セリィナお嬢様が驚かれているのよ。ふふっ、可愛らしいわよね」
妻であるサーシャもそうだが、この屋敷に住む使用人たちは全員がなにかと秀でている。しかもみんなセリィナお嬢さんが大好きなのだ。セリィナお嬢さんの為なら不可能も可能にしてしまうのだからすごいとしか言いようがない。
「……ああ、公爵家の使用人はみんなすごいな」
するとサーシャが「……みんな、ねぇ。自分のことはわかってるのかしら?」とため息混じりに呟いた。
「ん?何か言った?」
「いいえ、なにも。それより開発の方は進んでるの?」
「それなら面白いものが出来てるよ。あの男爵くんから相談されて……。あ、そう言えば、この仕事って今後は全部ライルさんが引き継ぐらしいね。男爵くんがライルさんとの商談は緊張するって言ってたよ。今作ってる新しい商品もライルさんの提案らしいし」
「旦那様はライルさんを少しでも忙しくさせたいのよ。今の売り上げを倍にしないと結婚式はお預けだとかなんとか言って意地悪してらしたわ。たぶん、おふたりがイチャつくのを阻止したいんじゃないかしら?まぁ、そのついでにディアルド子爵家の名前を有名にしたいみたいね。セリィナお嬢様の婚約者が馬鹿にされないように手を打つおつもりなのよ」
「売り上げを倍にねぇ……ライルさんならなんなくこなしそうだけどな」
「それに、どんなに忙しくてもセリィナお嬢様との時間だけは絶対に確保すると思うわ」
ライルさんと旦那さんの攻防戦も容易に想像できてしまい、思わず「確かに」と呟いた。
「ところで、さ……。その仕事のことで相談というか……その、旦那さんから言われたんだけど……」
「どうしたの?」
「……えーと、ディアルド子爵家で使用人の募集をしてるって言われて……。事業の手伝いが出来る奴と掃除が上手な侍女がいいらしいんだけど、どうだって……」
「それって……!」
目を輝かせたサーシャの返事が否なわけがなく、俺たちはセリィナお嬢さんの輿入れより少し早く子爵家の一員となった。そしてライルさんが新たに広げた新事業は大成功を収め、思惑通りディアルド子爵家の名を轟かせた。悔しがる旦那さんを尻目にサーシャは誰よりも近くでセリィナお嬢さんのウェディングドレス姿を見ることが出来たのだ。
この物語の結末はまだわからない。けれど、みんなが幸せな日々が続く……それだけを願っていた。




