夕方のすみっこ
夕暮れの時間になると、風はゆっくりと角を曲がるようにして町を抜けていった。音を立てるでもなく、誰かに挨拶するわけでもなく、ただ静かに、何かを攫っていくようだった。誰もそれに気づかないまま、空は橙色から深い群青へと滲んでいき、空の端っこに残された薄明かりだけが、しがみつくようにしてそこにあった。
郊外の小さな団地の屋上に、一人の少年がいた。まだ中学生になるかならないか、その中途半端な時期の声変わりもまばらな年齢。リュウと呼ばれていたその少年は、夕方になると決まってこの場所に来ていた。
理由はなかった。誰にも言わずに、なんとなく歩き出して、気づいたらここに座っている。小さな身体を金属のフェンスに預けて、足をぶらぶらさせながら、空を見上げている。
屋上から見える空は、思っていたよりも広かった。誰かの家の煙突から細い煙が立ち上っていて、遠くの高速道路には車の列が緩やかに進んでいるのが見えた。目を凝らせば、飛行機雲も見える。でもリュウは、それらには興味を持たなかった。ただひとつ、空のすみに浮かんでいる小さな点に、彼は目を奪われていた。
それは鳥だった。
たった一羽だけで飛んでいる、小さな影だった。群れの中にいるわけでもなく、母鳥が近くにいるわけでもない。どこから来て、どこへ向かうのかもわからない。ただ必死に羽ばたき、時折ふらつきながら、風に流されながらも、確かに空を進んでいた。
その姿を見ていると、リュウの胸の奥に何かがゆっくり沈んでいった。言葉にできないもの。誰にも話せないこと。昨日、家で怒鳴られたこと。学校で笑われたこと。名前も知らない誰かに無視されたこと。全部、どうでもいいふりをしていたけれど、本当はずっと刺さっていた。
あの鳥は、どこまで飛んでいくんだろう。誰かのところに行けるんだろうか。自分と同じように、ただひとりで、空の端を探してるんだろうか。
ふいに、風が鳴った。遠くの空で、かすかな音が響いたような気がした。耳を澄ましても、すぐに掻き消されてしまうような、頼りない声だった。それが鳥の鳴き声だったのか、空の裂け目から洩れた音だったのか、それとも自分の心が鳴ったのか、リュウにはわからなかった。
でも、その音を聞いたとき、なぜか涙が出そうになった。
理由なんてなかった。悲しいのか、寂しいのか、ただ疲れているだけなのか、誰にもわからないし、自分でもわからなかった。ただ、目の奥がじんわりと熱くなって、視界が滲んでいくのを止められなかった。
そのとき、空にいた鳥が大きく羽ばたいた。夕空の中で、その小さな体はまるで光の粒みたいに見えた。どこにも届かないようで、だけど確かに何かに向かっていた。その姿は、どうしようもなく美しかった。言葉にならないほどに。
リュウはその場で立ち上がった。手すりを握って、目を細めて、鳥が見えなくなるまでずっと見送っていた。そして、小さく息を吐いた。
「……負けんなよ」
自分に言ったのか、鳥に言ったのか、それすらも曖昧だった。
空はもう暗くなり始めていて、町の明かりが一つ、また一つと灯りはじめていた。遠くから母親の呼ぶ声が聞こえてくるような気がした。リュウはもう一度だけ空を見上げてから、ゆっくりと階段を降りはじめた。
屋上の扉が閉まる音が、どこか小さな決意のように響いた。世界は、何も変わっていないように見えて、少しだけ違っていた。そんなふうにして、夜が始まっていった。