汽車
私は、汽車に乗っていた。
どこへ行くという当てもない。ただ、書斎の、あの息の詰まるような静寂から逃れたい一心で、最初に発車する列車の、一番安い切符を買って飛び乗ったのだ。
ごとり、ごとん。ごとり、ごとん。鉄の車輪が継ぎ目を叩く、単調で、それでいて暴力的なまでのリズムが、車両の床を通して、私の骨の髄まで響いてくる。それは、巨大な鉄の獣が、時間を無慈悲に喰らい、そして吐き捨ててゆく音のようだった。
車窓の外では、夏の日本の、ありふれた景色が、猛烈な速さで後方へと流れ去ってゆく。青々とした稲田、茅葺屋根の農家、遠くに霞む山の稜線。それらのひとつひとつは、私の網膜に映るか映らないかの瞬間に、すでに過去の幻影と化している。私は、その流れては消える風景を、ただ、感情もなく眺めていた。それは、まるで私自身の人生のようだ。何ひとつ掴むこともできず、ただ、過ぎ去ってゆくのを、見ているしかない。
石炭の燃える匂いと、人々の汗の匂いが混じり合った、むっとするような熱気が車内に満ちている。私は、この鉄の箱に閉じ込められ、自分の意思とは関係なく、ただ前へ、前へと運ばれてゆく。この線路が、どこへ向かっているのか、私には分からない。いや、もしかしたら、私以外の誰もが、それぞれの明確な目的地を持っているのかもしれない。そう考えると、私という存在の、寄る辺なさと、途方もない孤独感が、ひたひたと胸に押し寄せてくる。
ごとり、ごとん。ごとり、ごとん。その執拗な反復音は、やがて私の思考と共鳴し始める。「どこへも行かぬ、どこへも行かぬ」と、鉄の獣が、私を嘲笑っているかのようだ。このまま、この汽車に揺られて、世界の果てまで行ってしまったらどうなるだろう。いや、世界の果てなどというものは、ありはしないのだ。この線路は、ただ、始まりも終わりもなく、永遠に続いているのではないか。その、鉄でできた、冷たい無限の観念が、私をぞっとさせた。
私は、ふと横にある窓ガラスを見た。汗と煤で薄汚れ、疲れきった、見知らぬ男の顔がそこにあった。その男の背後では、緑の野が、相変わらず猛烈な速さで流れ去っている。私は、この男から、逃げ出したかった。この、どうしようもない自分自身から。
その時、汽車は、甲高い汽笛を、空に向かって吐き出した。
長い、長い、叫び声のような汽笛。それが合図であったかのように、鉄の獣は、少しずつ、その速度を緩め始めた。ごとり、ごとん、というリズムの間隔が、徐々に長くなってゆく。
やがて、名も知らぬ、小さな駅の古びたプラットホームが、車窓に現れた。ペンキの剥げた木造の駅舎。手入れもされていない、鉢植えの花。そこには、私が今まで見てきた、流れ去る景色にはなかった、確かな「静止」があった。
私は、何かに憑かれたように、席を立った。
そして、汽車が完全に止まるか止まらないかのうちに、重い扉を開け、そのプラットホームへと、転がり落ちるように降り立った。
背後で、再び、鉄の獣が、深く息を吸い込むような音を立てる。そして、私が置き去りにされたことなど、まるで意に介さないように、再び、あのごとり、ごとん、という無慈悲なリズムを刻み始めた。
汽車は、私を通り過ぎ、駅を通り過ぎ、やがて、黒い煙の塊となって、陽炎の揺れる線路の向こうへと、小さく、小さくなって、消えていった。
後に残されたのは、圧倒的なまでの、静寂だった。
耳の奥で、まだ、あの鉄の音が鳴り響いている。しかし、私の周りでは、ただ、じりじりと肌を焼く夏の陽光と、狂ったような蝉時雨だけがあった。
私は、その、名も知らぬ駅の真ん中に、ぽつんと、一人で立ち尽くしていた。
鉄の牢獄からは、逃れた。しかし、今、私は、この広大で、どこへ行けばよいのかも分からぬ、自由という名の、別の牢獄へと放り込まれたのだ。
私は、空を見上げた。そこには、ただ、青く、そしてどこまでも高く、残酷なまでに美しい、夏の空が広がっているだけだった。