比翼、悔いなきこと
「失礼する!」
食堂が休みの日の真っ昼間。家の外で響いた朗々たる声を出迎えたシエラは、その場で驚きに固まった。堂々とした姿は騎士を想起させるが、深緑の外套は魔法師の正装に違いない。見慣れぬ、端正な顔立ちの女性が背筋を伸ばし立っている。
ところが立ち尽くしたのはシエラだけではなかった。来訪者の側も口を覆い硬直する。
「か……かっ、かわ、……」
言葉にならない声と共に顔は赤く。
「あいつめ、こんなかわいい子をいつの間に……いや家を間違えたか……?」
ぶつぶつと何事かを呟く様子に困惑していると、家の奥からもう一人の魔法師が出てくる。
「どうかしたか」
「うわっアーレイン!」
「自分の家に居て何が悪い」
ばばっ、と素早く身構える姿を見て、これまた美しいシエラの夫は客人を不機嫌そうにねめつけた。
「どうして此処がわかった」
「ラダン様にお聞きしたんだ」
「あのジジイ……」
毒づく声はほとんど唸りに近い。
「い、いや、それより! そちらの方は?」
「俺の妻だが」
どうやら彼らは知り合いであるらしい。急に話の矛先が向き、シエラは緊張に縮こまる。アーレインは嫌々といった風情で女性を示した。
「シエラ。魔法師の同僚だ」
「ヴェルレッティという。よろしく頼む、シエラ殿!」
「は、はい! よろしくお願いします、ヴェルレッティ様。あの、いつもアーレインがお世話になっています」
慌ててお辞儀をする。ヴェルレッティという魔法師が何やら呻いた気がしたが、それよりも気恥ずかしさが勝り意味もなく手をいじるなどする。
「別に世話になってなどいない」
不服そうに青年が口に出したところで、客人はようやく我に返ったように声を上げた。差し出して……というより、突き付けてきたのは手提げの紙袋。
「先日の詫びだ」
アーレインはちらとシエラを気にする素振りを見せるが。
「大した怪我じゃない」
「私の気が済まないんだ。いいから受け取れっ」
加減もなく押し付けられる袋。何度か問答を経て、最終的にアーレインは根負けした。嘆息しながらも品を受け取る。
「……義理堅いことだ」
あの傷はすっかり治っている。森を抜ければ問題なく魔法を使えたため、予想より早く処置を受けられたのも大きい。
ほんのりと甘い香りが漂う。その袋に押してある判にシエラは見覚えがあった。
「あら、これ王都で有名なお菓子屋さんの……」
食堂の客から土産にもらったことがある。確か、バターケーキが有名だったはず。
思わず呟くと二組の視線が向いたため、シエラは顔を熱くしながらも、わたわたと両手を振って見せるしかなかった。
「あ、あのっ、前に食べておいしかったので嬉しくて……ありがとうございます」
すると何をしたわけでもないというのに、またしてもヴェルレッティは顔を覆ってしまった。
「貴様こんなかわいい嫁をもらってう、うら……」
「あ?」
「なっなな、なんでもない!」
心底不機嫌そうな様子は一瞬のこと。シエラを呼んだ彼の声音はどこか困惑気味で。
「それならそうと俺に言えば良いものを」
「だって、食いしん坊みたいで恥ずかしいじゃない……」
仕事で赴いているに過ぎないというのに、わざわざ土産をねだるのは恥ずかしいのだと。そう返せばアーレインもまた何を思ってか額を押さえる。
やり取りを黙って見守っていたヴェルレッティは、やはりアーレインのことを指差して。
「私は貴様のことなんてこれッぽっちも好きじゃないがな、貴様のような無愛想な男とシエラ殿のように可愛らしい女性が共に並ぶ画は、なんというか……興奮する!」
「……気色が悪いな」
「少しは言い方に気を遣えよ貴様ッ!」
「こっちの台詞だ」
威厳ある見た目にそぐわない騒がしい会話に、シエラはようやく少しだけ緊張を解くことができたのだが。
「用はそれだけか?」
呆れたようにため息と共に吐き出せば、返されるのは正直な逡巡。呼びかけに頷き、少女は部屋の奥へと戻る。
その様子を確認し、一息。再度アーレインを見た瞳には平素の力強さがある。
「……あの土地。やはり非合法的な実験が行われていたようだ」
「……そうか」
先日の討伐で赴いた国境の森。魔素の絶対量が極めて少なく、残滓は異様なほど淀み歪んでいた。土地が穢れていなければきっと魔獣が生まれることはなかった。
あくまで噂程度の情報しかないが、粗方の想像はつく。自浄能力すら効かないほどの穢れだ、それなりの規模の実験だったのだろう。
「この立場では真実に辿り着くことは儘ならない。悔しいが……また大魔法師を目指す理由が増えた」
都合の悪い事実なら上層部が隠蔽しているのは間違いない。恐らく大魔法師ともなれば国家の中枢へと近付くことはできる。少なくとも今よりは。
「貴様に期待するのは私の勝手になる。だが……」
言葉を切り。
「……いや、すまない。一応は耳に入れておこうと思っただけだ。……失礼する」
去っていく背を黙したまま見送る。
全ての魔法を修得したと証明できれば大魔法師を名乗るに不足はないだろう。だが残りの試験を先送りにしているのは半ば故意のこと。他部門と揃えて代替わりした方がいいと引き留められている事情はあるが、自身で後継という立場を遠ざけてきたのも事実。
詰まるところ、アーレインは国の行く末に興味などないのだ。面倒事は御免だった。
「儘ならんものだな」
こればかりは望む者に譲り与えられるものでもない。ヒトとして生きるのはやはり難しい。
だが、自分より光魔法が得意な魔法師に出会えたのは僥倖だ。目指し求めるものは過去と同等の力とはいえ、全てのニンゲンがまるで相手にならないようなら危うく退屈するところだった。
「……仕方ない」
せめてラダンに訊ねるくらいならしてやってもいいか、とは思う。
寝室は一つだ。しかし寝台は二つ。隣に横たわる影にシエラはそっと声をかける。
「アーレイン?」
影は背を向けたまま微動だにしなかった。自身の心臓の音だけが耳元で響いている。数日ぶりの帰宅だ、きっと疲れているに違いない。僅かに後悔しながら気恥ずかしさに毛布を口元へ引き上げる。
「……眠れないのか」
音もなく息を呑む。聞き間違いかと思えど、次いで身動ぎするのが闇にぼんやりと見えた。
「あの、お願いがあるのだけど」
無意識にぎゅっと手を握り締める。
「そっちへ行ってもいい……?」
「……好きにしろ」
一向に体を向けることはなかったが、眠たいのかどこか億劫そうな動作で場所を空けてくれる。服の裾を持ち上げながら潜り込めば、寝具からほんのりと名残の熱を感じる。
悪魔というのは眠らないのだそうだ。だからタニアだった頃も、こうして共に寝床に入る経験などなかった。どうせ限られた命だったのに、そして言えば絶対に彼は叶えてくれたはずなのに、どうしてもそれは興味本位では口に出せなかった。
「……ヴェルレッティ様、きれいだったわ」
背が高く自信に溢れていて。アーレインの横に居ても釣り合いがとれていたと思う。……そんな余計なことを考えてしまう自分にも少しだけうんざりする。
「……誰に何を言われたか知らんが」
大きなため息が聞こえた。背を向けたまま。
「お前は世界に唯ひとり、俺の妻だ。堂々として居ればいい」
何かを周囲から言われたのではない。シエラ自身が勝手に引け目を感じているだけだ。彼はこうして伝えようとしてくれているのに。
「それとも俺は信用がないか?」
「そんなこと……ない」
勇気を出して。背中に体を寄せると、ぴくりと身を強張らせたのがわかった。
抱き着いたことは何度かあるのに、いつもより熱く感じるのは毛布のせいだろうか。大きな背は余計な肉のない分、見た目よりもがっしりと固い。布の下には無数の傷があるはず。……彼の全てを知りたい。
「俺は……お前が思っているほど紳士じゃない」
嘆息と共にどこか怒ったような声。額を擦り付けるように頷く。
「それならわたしは、子供じゃないって返すわ」
「途中で泣き喚いても聞かないぞ」
ぐるりと返され糸屑が舞う。距離が、近い。
押し倒される格好になれば闇の中でも表情はわかる。眉間に皺を寄せて見下ろす姿に昏い熱と葛藤を捉え、シエラは小さく身震いした。
「この先お前を失うのが怖い。……二度目だから」
婚姻を結び同じ屋根の下で暮らすようになっても、彼はシエラに強いることも迫ることもしなかった。ヒトの身となったからには欲望を知ってしまったはずなのに。
「……わたしね、自分でも他の人でも……死ぬのが怖いのは今が幸せな証拠だと思うの」
直接的な言葉にわずかに身を固くする。大きな手へ指を絡ませた。ほんの少しの恐怖と好奇心と。この先を察することができないほど幼くもない。
思わず目を逸らしたが、不思議と羞恥よりは温かい気持ちが勝っていた。
「わたしも本当は怖い。任務に出掛ける時はいつも、もしかしたら、帰って来ないんじゃないかって……」
「……」
「あなたが想ってくれることが、泣きたいくらい嬉しいの。後悔しないように何度でも言うわ。あなたが悪魔でも人間でもよ」
名を呼んだ声はほぼ吐息だった。意を決してもう一度見上げると、目が合った途端に彼はとても微かながら安堵に似た表情を見せた。金眼が細められる。
「……情けない。こうも弱くなっては」
「弱くなんかないわ。昔も今も」
胸が苦しくなる。頰に触れるこんなにも優しい手が、元は悪魔のものだと誰が信じるだろう。
だが、この温もりを知るのはシエラだけでいい。誰にも渡したくない。
「……いいのか」
囁くような確認に、小さく頷く。どんな言葉で伝えれば足りるのかわからなかった。もどかしさも躊躇いも、唇を塞がれれば熱に溶け消えてしまうようで。
「もう俺の前から居なくなるな。絶対に」
いつもこうして困ったような顔をするところも。大好きだ、溢れるほどの愛情を抱える彼のことが。
「そんなの――頼まれたって離れてあげないわ」
そうして初めて結ばれた日のことをシエラは今でもはっきりと覚えている。幸福感に身を浸しながら呟いた言葉も。
「もし恵まれるなら……あなたに似た子供が良いわ。強くて優しいもの」
「俺はお前に似てくれた方が嬉しいんだが」
隣からぼそりと返されたのは呻き声ではあったが珍しく前向きで。微睡みながらも戯れにシエラの髪を長い指に巻き付ける。
どうやら感情が昂ると彼の瞳は夕陽のような色に変わるらしい。いや、暗い中で見えるはずもないし、そもそもまともに目を合わせることもできなかったから見間違いかもしれないが……とろりと穏やかなこの眼差しとは違った、と思う。
「じゃあ、二人ね?」
「よく恥ずかしげもなく……」
呆れに笑みが滲んでいたことだって、たぶん一生忘れることはないのだ。