小さな矜持 後編
さすがのレビも異変に気付いた。魔法師と同じ方向を見――催した吐き気を飲み下す。
「うッ……!」
そこにいたのは本当に『化物』であった。陽光降る中にありながらあれだけ深い闇を示すモノが、正気であるはずはないのだ。
黒い毛むくじゃらの塊。ギョロギョロと好き勝手に動き回る目は二つ、血のような赤に爛々と輝いている。よく見れば体毛の一房一房は蛇の如く蠢き、左右に伸びた腕は枯れ枝のように奇妙に細い。
そのくせ迫り来る様は蜘蛛のように素早く、だが大量の毛に見え隠れする足は八本どころの数ではない。
如何なる獣でもないその姿。魔獣ではなかった。そしてもちろん、悪魔でもない。
「諦めろ写本師。恐らくこれを始末するまで出られない」
「そ、そんな――ヒッ!」
肉薄せんとする化物に対し、アーレインは表情一つ変えず片手のひらを突き出す。開く青の魔方陣。見えない壁に突進を阻まれ、激しい音と煙が上がった。床を疾る風。
弾き飛ばされた巨大な怪物は怒りに全身を震わせる。びちゃりと音を立て飛び散った黒い毛の正体など知りたくもない。
「……ジジイに習っておくんだったな」
ぼやき、今度は建物へと強化魔法をかける。いわば結界だ。わざと雷撃を飛ばし、弾かれることを確認。既に薙ぎ倒された数々の長椅子は勘弁してもらうしかない。
部屋を出られないにしても写本師は結界の外に置く。すると知ってか知らずか彼は恐怖に震えながらも扉の前に立つのだった。
「アーレイン様、ボク、絶対にここを退きませんから……!」
その境を突破されれば先に居るのは子供達だ。化物のことは結界の外へすら出してやる気など微塵もないが、きっぱりと言い切られた言葉に薄く笑みを溢す。
「後ろは任せたぞ、写本師」
気分が高揚しているのは否定できなかった。普段相手をしている魔獣に比べればこの程度は恐るるに足りない。一つ、懸念はあるものの……
「リリィ!」
その獣は空気ある場所に自在に顕現する。渦巻く灰白の風から霧の犬が躍り出るや、主人の呼び声に応じ黒い塊へと飛び掛かる。
吼える化物は邪魔な獣を捕らえようと暴れるが、霧の体を引きちぎることなど叶わない。翻弄する間にアーレインは魔力を編み終える。握り締めるのは魔力を凝縮した『雷』そのもの。槍の如く掴んだ光の刃が激しく弾ける音を立てる。
またしても転移魔法で跳ぶ。難度の高い魔法だ、短時間に連発することなど普通の魔法師には不可能。敵へ斬りかかるために使えるのは彼やあの『戦女神』など一部くらいだろう。
レビはそこかしこに咲く火花だけ辛うじて捉えることができた。……いや、火花などと生易しいものではなかった。小さな爆発と銃のような破裂音。
激昂した咆哮と共にようやく影は動きを止める。その身を縛り付けているのは白く輝く雷の綱。
青い光を散らしながら距離を取った魔法師が軍人の気質というのは明らかだった。少なくとも並の環境で育ちこれだけの立ち回りができるはずもない。
「さすがに無理か」
あれだけの質量では化物自体に転移魔法を使うことは叶わない。問題は吸い込まれたという子供達のことだった。滅ぼすだけならば容易いが、どうにか破壊せずに壺へ戻す方法は――
突風を伴い傍らにリリィが現れる。全身の毛を逆立て唸る姿にアーレインは小さく息を呑んだ。
「……試す価値はあるな。上出来だ、リリィ」
身体中に青い光を纏わせたまま再度の魔方陣を展開する。衣の裾と青鈍の髪が風にぶわりと膨らむ。
「《霜払う燕よ》――」
アーレインが魔法を放ったのは化物ではなく壺の方。逆巻く風が巻き起こり、宙に浮いた壺が身悶えるように震えた。
どろりと黒い影が吐き出される。それと共に……二人の子供の姿も。触れれば感じる仄かな熱は命絶えていないことの証左。アーレインは投げ出された小さな体を両脇に抱き抱え、囚われの化物を目掛け空中から叫ぶ。
「《白鴉の時を踏め》!」
吸出しの反対は。
凄まじい風が壺へと吹き込む。おどろおどろしい苦悶の声を上げながら抵抗を試みた化物は、ついに元の壺へと吸い込まれたのだった。
壺は魔道具の研究を扱う《紫の蛇》へと引き渡すこととなった。これだけの危険物が管理されていなかったことに疑問はあるが。昔、戦の最中にでも紛れ込んだのかもしれない。
アーレインはあくまで予想だと言い置いて。
「あの化物は禁術の失敗作だろう。他者の魔力を奪うために生まれ、飢えていたところに俺が現れた」
「禁術……」
「ヒトの身で命を造ろうなどと烏滸がましい」
魔法に頼らずとも生み出す能力がある癖に、傲慢なことだと元悪魔は思う。
眠りから醒めた化物にとって、ヒトならぬ量の魔力を身に宿すアーレインの気配は垂涎物だったに違いない。調べればわかることだが、被害に遇った二人も魔素を感じ取ることのできる性質か何かだったのだろう。
吸い込まれていた子供達は弱ってこそいたが体に変調もなく、町医者の見立てではすぐに回復するとのことだ。まだまともに話せる状態ではないが、当人達は事件から数刻しか経っていないと信じ込んでいたらしい。
夕刻。予定より早く片が付き、泊まる理由ももはや無い。謝礼も辞した魔法師は見送りの少年を振り返る。
「俺はこれで」
「はい……あのっ本当に、どうお礼を言ったらいいか……」
「借りを返すだけだと言ったろう。お前はガキど……子供達の心を守ってやれ。暗闇に閉じ込められるのは、あまり気持ちがいいものではないからな」
ヒトとなるために受けた罰を思い出す。
神妙に頷いた写本師は、次にふっと悪戯っぽく笑った。
「アーレイン様。どうしてボクがこの務めを続けているか気になりますか?」
否定のために口を開きかけ、代わりに嘆息。きらきらと輝く眼差しは幼い頃そのままで、これは恐らく頷くまで圧されるのだろう。褒められるのを待つリリィにもそっくりだ。
「……何故」
「『いい先生』に出会ったからです」
案の定だ。満足げな声が返る。
しかし以前、少年は学校に通っていないと言わなかったか。はたと一つの可能性に思い至る。戸惑い瞠目する魔法師に、レビはにこりと笑ってみせた。
「魔法は、相変わらず使えませんけどね!」




